7. 婚約者のキス
その時、事務所の外で大きな音がした。
「やべっ、軍の奴らか?」
マークが飛び上がって、ウェンディとルシウスを背に庇うように立った。
「ウェンディ様、こちらにいらっしゃいますか!?」
マギーの声だった。
「あ、マギーだ……」
ウェンディはハッとして手を口元に当てた。
「ああ、そうか、もうこんな時間だから、家の者が心配して……」
「確かに。俺からも口添えしてやる」
マークはすっと立ち上がった。
そして、ルシウスに、おまえは別の部屋に隠れろ、決してバレるな、と目配せした。
そしてマークが事務所の扉を開けると、そこにはマギーと、そして何故かスコットが、険しい顔で立っていた。
スコットは相変わらず見目麗しく、こんな夜更け、上品とは言えないこの港の界隈でも、きちっとした身なりで現れていた。
「マギー? えっと、こっちは……?」
マークは見知らぬ貴族の姿に戸惑った。
「あ、マーク、それ、私の婚約者候補の方なの!」
ウェンディは思わず叫んだ。
マークは一瞬固まった。
「あなたは誰ですか? こんな時間に、私の婚約者をたぶらかそうというならタダでは済みませんよ」
スコットはきつい口調で言った。
マークは、スコットの言葉に眉を顰めた。
ウェンディは、初めて見るこんなスコットの様子に驚いた。
え、怒ってる?
怒ることもあるんだ……?
ウェンディは呆気に取られたが、すぐに我に返ると、
「スコット様、こちらは違うんです! むしろ、私が海軍兵に絡まれていたところを助けていただいて……!」
と慌てて二人の間に割って入り、必死で説明した。
「ああ、そうですか。というか、今、海軍兵と言いました?」
スコットは眉を釣り上げた。
「すぐ処分してもらいましょう。……おい」
スコットは外にいる誰かを呼びつけ、何かを言いつけた。
その誰かは「はっ」と承り、闇夜に消えた。
「あ、あの……、スコット様はなぜここに?」
ウェンディはすっかり気圧されて、おずおずと尋ねた。
「ウェンディ様がこんな時間でも帰ってないので、クレイトンの家から問い合わせがあったんです」
スコットの表情は固かった。
「それでー、すぐスコット様も一緒に探してくださることになってー」
とマギーはその後をゆっっっくりと続けた。
その微妙な口調で、マギーが本当は断ったのだけど、スコットが強引についてきたのだということが、ウェンディには分かった。
それはそうだろう、マギーはウェンディの行く場所に心当たりがあったし、そこにはマークのような用心棒がいることも分かっていたはずだから。
スコット様が来たら余計なことがバレて、めんどくさいことになるだけだ、と。
「あーそれは、大変申し訳ありませんでした。私の不徳の致すところでした。すぐ家に戻ります。心配してくださりありがとうございました」
ウェンディはすぐに言った。
「なんですか、ウェンディ様、その口先だけの謝罪は。そんなに私がここにいては迷惑ですか? この者と顔を合わせることも?」
スコットは丁寧な言葉の縁に、不快感を滲ませながら言った。
ウェンディはグッと詰まった。
こ、怖いよぅっ!
「いえ、そんなことは……。あ、スコット様、こちらはマーク・ブラウンです。この港で商売をしている者です。そして、ここは私が港で好きな物を売り買いするのに使っている事務所です」
ウェンディは、ビクビクしながら説明した。
「そうですか。やっとこの事務所のことを話していただけましたね」
とスコットは頷いた。
やっとこの事務所のことを? 知ってたんだ、知ってて言わなかったんだ、この人っ! 怖っ! 何考えてるの!? っていうか、どこまで知ってるの?
ウェンディは背筋が寒くなった。
「あんた、ちょっと、そんなにウェンディに強く当たらなくてもいいんじゃないか?」
横からマークが口を挟んだ。
「マーク、言葉遣い!」
とウェンディがマークを嗜める。
「強く当たる? あなたこそ、私がウェンディ様のことをどんなに心配したか分かってないんですか? 婚約者なのに」
スコットは苛立ちを隠さずに言った。
「ウェンディ様、帰りましょう。私のことはまぁどうでもいいですが、クレイトン伯爵が心配していることは本当ですから」
「は、はい!」
ウェンディはコクコクコクと首を縦に振った。
そしてマークに「日を改めよう、こいつがいたらメンドイ」と目配せした。
しかし、マークはふいっと顔を背けた。
ええっ、マーク? なんで無視するの!?
ウェンディは愕然とした。
えっ、えっ、えっ。
ウェンディが戸惑っているうちに、スコットはくるりと向きを変えて、ウェンディの肩を抱き、事務所から連れ出した。
ウェンディは事務所の外に出て驚いた。十数人の警備兵が事務所を取り囲むように立っていたからだ。
やばい、大事になってしまった。もしかして誘拐とかそんなことになってたり?
というか、私一人にこんなに……? もしかして、本当にスコットは私のことを大事に思ってくれているってこと?
ウェンディは胸がずきっと痛み、少し殊勝な気持ちになった。
ただ、それでもマークのことが気になり、事務所を離れる時にマギーを呼ぶと、耳元に近付いて小声で、
「マギー、マークのこと、ちょっと、よろしく」
と念を押して頼んだ。
ウェンディはスコットに促されるまま帰路についていたが、スコットの乗りつけてきた馬車を見て大分驚いた。
設えが落ち着いていたからだった。
思わずウェンディがスコットを見上げると、スコットはにっこり笑った。
「こういう馬車の方が、ウェンディ様が落ち着くかと思いまして」
「はあ……」
「なんですか、その気のない返事は。私はね、少しでもあなたに居心地よく居てもらいたいんですよ」
「あ、すみません……」
ウェンディはスコットの一生懸命さに居た堪れなくなって、下を向いた。
「ほらその顔、やめて下さい、ウェンディ様。私が好きでやってるんですから。さ、どうぞ」
スコットは苦笑して、すっと手を差し出すと、ウェンディに馬車を勧めた。
ウェンディは大人しく乗り込んだ。
ウェンディの後からスコットが乗り込んでくる。しかし、もうウェンディは、「近すぎ! 緊張!」とは思わなかった。
「ウェンディ様。あなたが港で珍しいものを売り買いしていると言う噂は、もう聞いていたんですよ」
スコットは言い訳するように言った。
「そうですか」
とウェンディは、心の中で、もうどーでもいーわ、と思った。
「港であなたを見かけたら、あなたはとても楽しそうで、生き生きとしていらっしゃった。反して社交界では、つまらなさそうに、居心地悪そうに、佇んでいる。私はその姿を見て、すっかり面白くなってしまいました」
とスコットは微笑んだ。
「はあっ?」
ウェンディは思わず変な声が出て、慌てて口を押さえた。
それからツンとすると、
「じゃあ、さぞかし先日の劇場では、面白いものが見れたでしょうね」
「あっ、あれは、本当に悪いことをしました! つい……」
スコットは焦って謝った。
そこは謝るんだ……?
ウェンディはじとっとスコットを眺めた。
でも違う違う、言ってやらなければ気が済まない。
「それはもういいです、スコット様」
そして、ウェンディはスコットの目をまっすぐに見た。
「あなたが、私が港で売り買いしていることを知ってて、私に興味を持った理由を聞かせてもらえませんか」
「え?」
スコットは聞き返した。
「じゃあ、こう聞いたらいいですか。あなたは、私に、港で何を探してもらいたいんですか」
「探してって、な、なぜ?」
スコットは動揺した。
やっぱりそうなのね、とウェンディは思った。さっきマギーに耳打ちしたときに、マギーがとっさにウェンディに教えてくれたのだ。『スコット様は港に探し物がある』と。
「なぜ私なんです? なんであんなに港にはたくさんの人がいるのに、なぜ私なんですか。しかも婚約を偽装してまで」
ウェンディは冷たい声で言った。
「は? 偽装? 偽装なんかじゃありませんけど……」
「嘘は結構です、スコット様。こっちはそうとう拗らせてますから」
「は?」
スコットは怪訝そうな顔をする。
「だって、イケメンが私を好きになるなんて、天地をひっくり返してもあり得ませんもの!」
ウェンディは凄むように睨んだ。
「はあ……?」
スコットは今度こそポカンとした。
「ウェンディ様、さっきから何をおっしゃってるんですか?」
「まだしらばっくれるんですか? 私はね、あなたが、『結婚詐欺師』だと申し上げているんです!」
ウェンディはビシッと言い放った。
「……!」
スコットは頭を抱えた。
ウェンディは怖い形相で睨みつけてくる。
そのうちスコットは笑いが込み上げてきた。
なんだこのお嬢さん。なんかものすごい勘違いをしている……。
スコットはじっとウェンディを見つめた。
「結婚詐欺師のわけないでしょう、全く。こっちはこのまま、馬車をクレイトン家ではなく、うちの方へ向かわせようかと悶々と考えているくらいでしたのに」
「え……?」
ウェンディは頭が真っ白になった。
この人、今なんて言った?
「いいでしょう。結婚するんですから、うちにお泊まりくらい」
とスコットは言った。
「えええ、ダメダメ、ダメダメ……!」
ウェンディは胸の前で大きくバッテンを作った。
「あなたが悪いんですよ。結婚詐欺師? とんでもないこと言ってくれますね!」
スコットは強い口調で言った。
「だってあなたには、お医者の恋人がっ!」
「ああ、いました。でも彼女は貴族じゃなかったんで、お互い期限付きで、納得の上付き合ってました。もうとっくに別れてます」
「でも、そんな素敵な女性の後に、なんでこんな地味妖怪を」
「地味妖怪……? だから、ポルトロー港で生き生きしているあなたを見かけて、すっかり気に入ったと言ったでしょう」
スコットは呆れて言う。
ウェンディは頭がぐるぐるした。
「嘘だーっ! スコット様の嘘つき!」
「嘘じゃありません」
「でもっ」
「まだ言いますか?」
スコットはウェンディの手首を掴んで引き寄せた。
「え……?」
「馬車ですからね、逃げ場はありませんよ」
スコットはそのまま、流れるようにウェンディに口付けた。
「ん……い、や……」
ウェンディは逃げようと身体を捩ったが、スコットの力は強くて思い通りにはならない。
ウェンディはあまりのことに頭が真っ白になって、何も考えられなくなった。
スコットはなかなかウェンディの唇を離してくれない。
「帰したくないな」
とスコットは言った。
ウェンディはキスされながら、身体からすっかり力が抜けてしまった。
こんなファーストキス、あり? もっと、ロマンティックなものかと思ってたわ……。
スコットは、ウェンディが抜け殻みたいになってしまったのに気付いた。
そして、ウェンディが全く動かないので、強引なことをしてしまったことを悟ったようだった。
それで、
「すみません」
と言ってウェンディの身体を放してくれた。
しかし、ウェンディは魂がどこかに飛んでいってしまって今にも倒れそうだったので、スコットは腕の中にウェンディをかき寄せ、結局クレイトン家に着くまで、ウェンディを大事に抱きかかえていた。