聞こえてきた噂
「ねえ、『ムゲンさん』って知ってるー?」
ある夏の日。友人の蛭川湊介と一緒に下校していた日下部透の耳に、楽しげな声が届いてきた。
会話をしているのは、透たちの前を歩いている小学生の女の子二人組だ。
「知ってる! 六弦駅に出る女の人のお化けでしょ?」
赤い服の女の子の問いかけに、ポニーテールの女の子が、はしゃいだ声を出す。『六弦駅』という言葉に、透は少しどきりとした。
「『ムゲンさん』に会うと、同じ所をぐるぐる回る止まらない電車に乗せられて、『ムゲンさん』の世界に連れていかれちゃうんだよね」
「そうそう。ずっと昔、学校でいじめられて電車の飛び込み自殺をした人の霊が、駅に住み着いちゃったんだって。『ムゲンさん』は電車で学校に通っていたから、電車が止まらなかったら、ずっと学校に行かなくてすむのに、って考えたのかな?」
「何だか怖いなあ。もしその電車に乗っちゃたらどうしよう……」
「心配しないで。いい方法があるから。あのね……」
女の子たちは角を曲がっていったので、それ以上は聞き取る事ができなかった。だが、何となく気になった透は、湊介に質問してみる。
「六弦駅って、俺たちがいつも使ってる駅の事かな?」
透と湊介は、電車で虹原学園という学校に通学していた。その際に使用する、学校の最寄り駅が六弦駅なのだ。
「多分」
民家の塀から飛び出た木の影の下を歩いていた湊介は、葉の隙間から漏れ出る強烈な日差しに目を眇めながら、ぶっきらぼうな返事をした。
そして、今度は逆に、「透……まさか、あんな都市伝説みたいな話、信じたんじゃないだろうな?」と尋ねてくる。その聞き方があんまりにも驚いているように感じた透は、思わず「湊介は信じないの?」と聞き返した。
「当り前だろ」
湊介は断言した。そう言えば、彼はオカルトめいた話は好きではなかったか、と思い出す。
「まあ、確かに『都市伝説』って言う程の『都市』じゃないけどね、この辺は」
湊介が不機嫌にならないように、透は遠くの山々を見ながら、わざとおどけた風に言った。彼が少し笑ったので、もうちょっとふざけてみる事にする。
「でもさー、ムゲンさんって、ちょっと会ってみたくない? もしかしたら、すっごい美人かもしれないし!」
「美人ってお前……幽霊だぞ」
信じていないはずの『幽霊』なんて言葉を持ち出すくらいには、湊介の気分も和んだらしい。「えー、いいじゃん、そのくらい!」と言いながら、透はワイシャツの袖で額の汗を拭った。
だが、和やかな雰囲気もそこまでだった。透は「あっ」と大声を出した。
人間、いつ何時何を思い浮かべるのか分からない。今だって、一体何のきっかけがあってこんな事を考え付いたのか、さっぱり分からなかった。だが、透は思い出してしまったのだ。自分が、あるとんでもない約束をすっぽぬかしていた事を。
「どうした?」
隣からの大声に、湊介は目を丸くしていた。不審がる友人に、透は「今日の放課後……数学の補習授業があったんだ……」と掠れた声で答えた。
「ま、まずい……。サボったなんて思われたら、小島先生、絶対にキレる……」
数学を教えている小島教諭は、髪の薄さと厳格な性格で虹原学園一番の異名をとる教師だ。彼が説教をする光景は、そのまっさらな頭皮に室内灯の光が反射して後光の如く見えるので、余計に恐怖を煽られると評判である。
補習を忘れていたなどという事がバレたら、夏の日差しに負けないくらいの頭からの直射日光を浴びながらのお説教が待っている事は目に見えていた。
「湊介! 悪いけど、先に帰ってて……!」
こんな炎天下の中、さらに直火焼きにされてはたまらない。透は湊介に詫びを入れると、そのまま学校へと引き返した。