第三十五話 解き放たれたおもい
怪我の手当てをしてもらった後。
東山に「ゲストハウスなのだから一晩くらい自由に使ってもいい」と言われたのだが、誰にも連絡しないまま外泊するわけにもいかないので予定通り車で送ってもらうことになった。
今、その車は俺の家がある小路に入るべく、国道を進んでいるところだ。
車の数は東山の家へ向かった時とそう変わらなかったが、やけに信号に引っかかった。
信号が青に変わった後も赤い光の残像が尾を引いていて、それが眩しくて鬱陶しい。
確かな疲労感を認めていたのに、その残像は意識がうとうとするのを邪魔してくる。
「……七瀬様に信頼されているのですね」
突然、何の前触れもなくそんな話題。
御堂さんの声は低く、抑揚のないものだったので、その言葉だけは耳に心地よく入ってきた。
「え?」
でもそれはただ響きとして心地よかっただけでその中身がすっと入ってくるわけではなかった。
「七瀬様がご学友とこのように深い関係になられたのは初めてだと……」
「深い関係……ですか」
御堂さんが言った言葉が引っかかって、俺はそれに続いて呟くように言葉を繰り返した。瞼を閉じて、いろいろと思い返してみる。
まだあいつの事、なんにも知らない。
そんな感想を覚えて、その言葉は全然正しくないと思った。
「この道で会っていますか?」
「ああ。その信号を右です」
「分かりました」
そんな数言だけの会話は、まるで霧が立ち込めるようにうやむやになった。
東山家の豪邸から俺の家までは十五分ほどですぐに着いた。
「では」
「はい。ありがとうございました」
ほんの最小限の挨拶だけを残して、御堂さんの運転する車はすぐに去っていった。
家の明かりはついていなくて、母さんはまだ帰ってきていないようだ。
傷や怪我について問いただされなくて済むと思ったら少し肩の荷が下りた気がした。
今が何時なのか確認する手段は無かったが、非常に長い夜だったと思えば、ため息も出た。
自宅へと歩を進めようとしたら、俺のアパートの隣の一軒家、その玄関の段差に一人の少女が腰かけていたのが目に入った。
その少女はすでに俺に気付いていたようで、もうその場から立ち上がろうとしていた。
その佇まいからは俺が帰ってくるまでじっと待っていたような、そんな印象を受けた。
軽く自分のお尻をはたいた後、少女は俺の方へと歩いてきた。
「おかえり」
たった一人の幼馴染、大橋さやかが一言、俺に声をかけた。
さやかがどのような気持ちでそんな優しい言葉をかけてくれたのか、俺は理解できなくて戸惑った。
「足、大丈夫なのか?」
「うん。そんなに腫れてないから、骨は大丈夫じゃないかな。明日病院行くつもりだけど。ゆうくんこそ、それどうしたの?」
なんとか会話をしようとして怪我の心配をしみたけれど、自分の方へと同じ質問が帰ってきた。
さやかの声音はいやにやさしげで、罪悪感が蘇ったような心持ちになった。
謝らなければいけない。
そんなことはあの場から走り去ったときからすでに分かりきっていることだが、さやかのそんな様子を見せられると、呆れられて関心を無くされてしまったのではないかと感じる。
「……ちょっと喧嘩して」
「そっか。で、七瀬ちゃんは大丈夫だった?」
さやかはその詳細について何も聞き返してこない。
「ああ。そっちは解決した……と思う」
まだすべて解決したわけではない。二人の間のバリアを取っ払ってやっただけで、根本的には何も変わっていない。
むしろ俺からすれば状況を悪くしたとさえ言える。
「そう。それは良かった。じゃあ、今からは私と喧嘩だね」
柔らかかった口調が、ほんの少しだけ固くなった気がした。
でも、その変化は本当に米粒一粒にも満たない程度の変化で、さやかの声音はずっと一定と言って差し支えないほどだ。
約束を破ってしまったことに対して怒っているのか、どう思っているのか、言葉では表せないけど、「喧嘩」という言葉が全てを表しているのだろう。
しかし、さやかの表情はずっと柔らかく、優しく、怖いくらいに微笑んでいた。
「…………」
そう宣言されて、俺の口からは何も出てこなかった。
「スマホ」
「え?」
「私のスマホ返して」
「ああ……悪い。忘れてた」
ポケットから借りていたスマホを取り出す。
すでに電源は切れていて、着信があったかどうかも確認できなかった。
さやかは無言でそれを受け取ってから、電源のつかない画面を見つめながら呟いた。
「ちゃんと充電しておけばよかったね。そしたら、電話繋がってたかも」
「……」
わざわざなんかあったら電話をかけてくれと言ってさやかからスマホを借りたのに、俺は目の前のことしか見えなくて着信があったかどうかすら気づいていなかったのだと思い知らされた。
そんなことを言われて、罪の意識がどんどん大きくなっていく。
それなのに犯した罪がどの程度なのか測りかねる、そんな気持ちになった。
「可憐は――」
「そんなこと……今更聞くんだね」
「っ」
俺の言葉はさやかに遮られる。
その声は今までとはまるで違う、太い針金の通ったような明確に低い声になった。目線も表情も全て、温度が急激に下がって水が氷になるように凝固した。
急な変化に驚いてしまったが、その声が本来俺が聞きたかった声だった。
心のどこかで、またさやかに「怒ってもらえる」と安堵したのだ。あの時と同じように最後には面倒を見てくれるという甘い計算があったのだ。
そのようなくだらない自分の幼稚な我儘も、さやかの顔をもう一度見れば新たな罪であると認識させられる。
「七瀬ちゃんを助けに行って、連絡もつかないまま日付が変わってから帰ってきて、丁寧に怪我の手当てまで受けてきて、私の足の怪我を先に心配して、可憐ちゃんはその次。一番最後」
自分の周りだけ水に囲まれてしまったかのように言葉が出ない。
さやかの氷の刃のような視線がかすり傷や捻挫なんかよりもよほど痛かった。
「でもいいの。私それでちょっとうれしいと思っちゃったんだもん」
「それはどういう――」
さやかの声は少しだけ勢いを弱くした。
俺が聞き返そうとしても、独白するように続ける。
「……私、悪い子なの。人の不幸は蜜の味。考えないようにしてても、胸の奥は制御が利かない」
その視線は冷ややかで、怒っていて、軽蔑していて、それなのに、諦めていた。
そんな目を、俺ははじめて見た。
いや、俺がそんな目にしてしまったのだ。
「ゆうくんはさ、可憐ちゃんとの約束も、私との約束も、どっちも破ったの。俺に任せとけって、かっこいい笑顔で約束するって言ってくれたのに、破っちゃったの」
表情は寒々としたものなのに、口調は小さい子供に言い聞かせるようなものだった。
それがより一層、恐れを感じさせた。
さやかの言葉は独白などでは全く無く、それは単に俺の犯した事実なのだ。
最も身近な人物から悲痛な声として聞くと、自分が何をしたのか簡単に理解できた。
「でもね。私が許せないのはね、それじゃないの。ゆうくん言ったよね。『可憐を優先する』って」
そう。俺は可憐にもさやかにも東山にさえ言って。自分に言い聞かせるように言った。
「自分にも嘘ついたんだもんね。ゆうくん」
「っ!!」
現実がくっと心臓を握りつぶして、体の機能が全て止まったような感覚。
握りつぶしていた手が離されると、濁った血が胸を中心にじわっと広まっていく。徐々に悪い血が全身に巡っていく。
それは誰との約束でもない、自分自身との約束だったのだ。
自分が自分の約束を破った。
ただそれだけが最低だと思った。
「だから……ゆうくんも悪い子。嘘つき」
涙なんか出なくて良かったと思えた。さやかの言葉がダイレクトに来るから。
俺のしでかしたことが寸分の狂いもなくしっかりと伝わってくるから。
そして、さやかが優しくなるのを止められるから。
俺にハンカチなんて貸してくれた日にはもう、彼女たちと関わる資格など無いと実感してしまうから。
「私、ずっと自分だけには嘘をつかないと思ってた。優君はそういう人だって信じてた」
瞳が緩むとともに、声が震えている。ずっと我慢していたのが分かった。
「でも…… でも…… 何度も信じたのに、私を信じさせてくれない!!!」
突として声が大きくなって、涙がぽろりと一筋、頬を伝って落ちた。
張り上がった声。涙に塗れた氷の瞳。戦慄く口元。
裏切られたという顔。
それらすべてを見ても、俺は一言も発することができなかった。
「だから、私ももういいかなって」
突然、右腕を掴まれて体を引っ張られた。お互いの身体が近くなる。
潤んだ瞳に見つめられてから再度囁かれる。
「もう、諦める」
間を置かずに、掬い上げるように俺の息を奪った。
口が口に塞がれる。
溺れそうになる。
息が吐けなくて苦しい。
それでもさやかは離してくれない。
途中から頭の後ろに手を回して、強烈な力で俺を支配して動けないようにしてくる。
そのままどんどん俺の酸素を奪っていく。
そして、さやかは掴んだ俺の手をそのまま自分の胸へと押し当てた。
「……!」
それがきっかけで俺は無理やりさやかを押し出して、なんとか体を引き剥がした。
これは違うのだと。
それだけは判断できたから。
「っ……!!! はぁ…… はぁ……」
漸くそれが離されて、失った酸素を取り入れようと呼吸が荒くなった。
息を吸い込むと、涙のしょっぱい後味が舌に残った。
「私は……ゆうくんみたいに自分に嘘はつかないようにする」
俺に突き放されたさやかは俺を蔑むような目で見て、そんな宣言をした。
自分は間違ってないのだと言っているかのような態度で。
「ゆうくんとはたくさん喧嘩してきたけど、この喧嘩は私たち史上、一番大きな喧嘩だよ。覚悟してね」
「喧嘩……」
さやかがどういうつもりで喧嘩という言葉を使ったのか、俺はもう分かっていたのかもしれない。ずっと我慢させてしまっていたことに。
「私が勝ったら……」
言いかけて辞めて、さやかは俺の元から去った。
「……」
俺の呼びかけには決して振り向かないという、決然たる意思が背中には漂っていた。
結局、最後まで俺は何も言えなかった。
鈴虫すら鳴いていない、閑かな夜に取り残される。
明かりがついている家は一つも見当たらなかった。
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