幼女を拾いました
今日は朝から捕まった。
「刑事さん、一つ質問していいですか?」
「私は刑事ではない、婦警さんだ。何だ? 私のスリーサイズは下から80・58・75……ってなに言わせてんだお前はッ!!」
「いや知らねぇよ! 誰もあんたの数字になんて興味ねぇよ! 自意識過剰過ぎやしませんか、これだから三十路は……」
「誰が行き遅れじゃぁ!!」
「そこまで言ってねぶぇッッ」
顔面をグーで殴られた。激痛が顔面全体に走る。俺じゃなかったら確実に鼻骨いってんじゃねぇの。あんたロッキーかよ。
六月十六日、午前九時。只今俺は学校近くの交番に強制連行され、取り調べを受けているところだ。ちなみに今日は月曜日、一週間の始まり、憂鬱な曜日であり、つまり登校日。故に完全に遅刻である。
同居人が珍しく俺より早く起床してくれたおかげもあり、本日はたっぷり時間的余裕を持って登校を開始することができた。遅刻する要素なぞ何処にもありはしなかった。そう、過去形である。
災厄というのは唐突に、何の前触れもなく降りかかってくるものだ。
目の前の災厄を見つめながら陰鬱な気分に浸っていると、三十路の婦警さんこと黒武者育がスッキリした机を挟んで椅子に座り、スカスカの胸の前で腕組みしながら、ギロリと睨めつけてきた。なまじ美人なぶん、眼力が半端ではない。
「九条、その汚れた目で私は見つめないでくれるかな。お前に見られた場所から瞬く間に壊死してしまいそうだ。私のメリハリボディが傷んだらどうしてくれる。まあ、そうなった場合は責任をとって富士の樹海で人知れず自殺してくれ」
「拒否権を行使します。そん時は衆人環視の中で『黒武者婦警、あんたは一生独身だ』と叫んで爆死してやる。第一、黒武者婦警のどこにメリやらハリやらがあるんですか?」
俺は主にそのベルリンの壁並みに真っ平な胸部を注視しながら覇気のない声でそう告げる。
すると、黒武者婦警は額に青筋を立てながらドスのきいた声で言い返してきた。目が据わってらっしゃる。
「なにか言ったか。ちぎるぞ」
「どの部位をだよ。怖ぇーよ」
恐ろしい婦警だ。こんな女を警察官にするとは日本の警察は無能だな。対超能力者の機動隊を編成する暇があったら、採用試験を徹底しろよ。
高圧的な吊り目、への字に曲がった口許が印象的なこの婦警さんとは顔なじみだ。これが小洒落たカフェのマスター辺りだったら嬉しい限りだが、生憎のところ相手は警察だ。
少なくとも顔なじみなんてものにはなりたくない、と思っていた時期が俺にもありました。
「俺はなんで、こんなところにいるんでしょうか……?」
諦念を滲ませた声音でそう呟くと、対面の黒武者婦警(三十路独身)はフンと鼻息を吹き、さも当然とばかりに芯の通った声で応答した。
「それはお前が道行く女子中学生の胸を背後から鷲掴みしたからだろう」
「俺は女の子に『駅はどちらですか』って尋ねられたから親切に道を教えただけです。脚色ってレベルじゃねぇぞ! ただの捏造じゃねぇか」
「似たようなものだろう」
公然わいせつと道案内の相違点を小一時間かけてこの婦警さんに説いてやろう、と思ったが面倒くさいのでやめた。言ったところで聞きやしないだろうしな。
俺のげんなりした顔つきに気付いた黒武者婦警は、さすがに思うところがあったのか、俺を真っ直ぐに見つめて真摯さをアピールしてきた。その態度がひどく珍しかったので、俺も居住まいを正して傾聴の態勢に移行した。
場の空気が一変した。往来を行く人々や自動車の走行音などの諸々の雑音騒音が響いてくる中、この派出所内にだけ静寂が充満する。
黒武者婦警は充分な間を空けると、ついに口火をきった。
「初めに言っておく。これは八割がたお前の自業自得だと思う。だってそうだろう? こんな目の腐れ死んだ幸の薄そうな非モテ男が朝っぱらから年下の女の子と会話してたら、誰だってお前がついにヤケを起こしてナンパに走ったと思うぞ」
「よしわかった。言いたいことは山ほどあるが、とりあえずまず俺に謝れ」 きっかり十秒間を空けて出てきた台詞が罵詈雑言である。これは怒っても許されるだろ。俺が許す。
自然と声に苛つきが混じっていた。こんな理由で連行されていたら商売上がったりだ。いや別に女子中学生と接点を持つみたいな商売をしているわけではなくて、これは言葉の綾というやつだ。
内心で相手不在の言い訳をしていると、俺の心の機微を察したのか黒武者婦警(あと二ヶ月で三十路・独身)は、申し訳なさそうに眉を八の字にして目を伏せた。
「その、あれだ。お前が視界に入るとどうしても自分の感情をコントロールできなくなるんだ。お、お前だけだからな。こんなことするの……」
頬をぽっと赤らめて恥ずかしそうに上目遣いでこちらを見つめてくる。
「きついジョークだ。こんな醜悪なツンデレは流石の俺も初めてだ。こんな特別待遇は溝に今すぐ捨てるぜ」
「今度余計なことを言うと口を縫い合わすぞ、ガキ」
怒気の込められた声に黙殺され、鋭い視線に射殺された。これが通じるとは……年齢がバレるぞ、婦警さん。
心底俺をビビらせた黒武者婦警は憤怒の気配を滲ませた顔を途端に弛緩させ、満足そうに溜め息を吐いた。人をビビらして悦に浸るとかサドヒストだな、まあたぶん本人は呆れて溜め息吐いたんだろうけど。
「まあ、何にせよ勘違いしたのは悪かった。……もう行っていいぞ、私もストレス発散できたし。今度からは私の見てる前で女子と会話をしないように……あっ……すまない、酷なことを言ってしまったな。……悪かった」
聞き捨てならない本音を混ぜつつ素っ気なく言い放った黒武者婦警は、途端に声のトーンを下げて憐れむような視線を送ってきた。なぜだろう、やっと謝罪してもらったのに全然嬉しくない。
気分が急降下を開始したので、憐憫を滲ませる視線を断ち切るのと気を紛らわせるのを含めて勢いよく立ち上がる。壁に掛かっている時計を見るとちょうど一限目が終わる時間に差し掛かっていた。走れば余裕で二限目には間に合いそうだ。
リノリウムの床に置いていた鞄を肩に引っ掛けて交番から出る。見送りがあるのかと肩越しに振り返れば、黒武者婦警はPSPを楽しげにプレイしていた。
どのくらい楽しげかと言うと鼻歌混じりに「久しぶりにガンランス使おっかな~」と呟くぐらいには楽しそうにしている。目が完全に少年のそれだった。そんなんだから婚期を逃すのだと悪態でもつこうかと思ったが、余りにも嬉々とした表情をしていたので実行には移さなかった。良心の呵責というやつだ。
時間も差し迫っているのでいざ脚部の回転数を上げようとした、まさにその時。
「およ?」
ピーンと俺のアホ毛が天を衝かんばかりに垂直に直立した。幼女レーダーが反応を示した。距離は少し遠いがかなり大きい反応である。そう認識したその時には、俺は無意識の内に学校とは反対方向に向けて走りだしていた――――。
直感に従い、疾走した俺は通りの向こうに人集りが出来ていることに気付き、思わず足を止めた。そのまま素通りしても良かったのだが、嫌な予感がして立ち竦んでしまったのだ。
直後、地の底から響くような怒声が耳朶を打った。半ば無意識的に人垣の方へ足を向け、そして愕然とした。人垣の隙間から見えたのは、大勢の大人たちに取り押さえられている女の子の姿だった。
そして、驚愕した。何故なら女の子の瞳が自分と同じく真っ赤に輝いていたからだ。
俺は血相を変えて人の輪に駆け寄り、無理矢理割って入ろうとした寸前に踏み止まり、慌ててポケットから取り出した真っ黒なサングラスを掛けて、赤目を隠した。
そして近付いてやっと気付いたが、観衆の発散する雰囲気が息を呑むほど殺気に満ちていた。只ならぬ空気に野次馬が徐々に集まりだしている。女の子を地面に押さえ付ける男たちは、少女を口汚く罵った。
「泥棒め、こんな時間に盗みを働くたぁいい度胸だなオイ! この人殺しがァ!」「ざまあみやがれ、赤目野郎」「貴様らのせいで俺の親戚は全員死んだんだよ、骨も残らずになぁ!」「くたばれ、赤鬼ィ!」
アスファルトを舐めさせられた少女は、男たちを憎々しく睨み上げている。その視線が気に障ったのか、少女の背中に手を掛けている男たちがさらに荒々しく押し潰した。途端、骨が軋む陰惨な音がこちらにまで聞こえてきて、少女は歯を剝いて苦痛の表情を浮かべた。
胸糞悪い光景に眉根を顰めつつ、平静を装って近くで傍観している男の肩を叩いた。
「すみません、こりゃ一体……」
振り向いた男は憤怒で顔を赤く染めつつ、吐き捨てるように答えを寄越してきた。
「どうしたもこうしたもねぇよッ!! この女が盗みをやらかして、しかも声をかけた店の警備員を殴り飛ばして半殺しにしやがったんだよ!!」
よく見れば少女の側に柑橘系の果物がいくらか散乱していた。盗みを働いたのは事実のようだ。
その時、通報を聞いて駆け付けたのだろう警察官が人の輪を割って入ってきた。ひょろりともやしのような体格の眼鏡男と、ガタイの良い大柄の角刈り男の二名が事態の収拾にとりかかった。
普通ならこの集団リンチじみた所業が終焉を迎えると思い、胸を撫で下ろすところだろう。しかし俺はそうはならず、根拠のない不安が胸に積もっていく。
その予感は的中した。警察官は水を打ったように静まり返った周囲の観衆と組み伏せられた少女を睥睨して、悟ったように冷たく「ああ」と呟きを漏らす。そしてあろうことか、少女を無理矢理立たせて周りの人間からロクに事情も聞かずに、手錠を少女の両手に嵌めたのだ。