【第八話 狂奔―madness―】
アメリカ合衆国の北東に位置し、全米で一番治安が良いと言われるニューハンプシャー州。
そこの小さな町で暮らす十三歳の少年、エリック・ビンガムの前に彼女が現れたのは、寒いこの地もようやく夏を感じられるようになってきた、五月の終わりの事であった。
「ローラ・アルドリッジです、よろしくお願いします」
栗色の髪をした小柄な転校生――ローラはそう名乗り、人に注目されるのは苦手なのか、照れ臭そうな笑みを浮かべた。
「彼女はこちらに引っ越してきたばかりで、左も右も分からんそうだ。皆親切にしてあげなさい」
担任教師はそれだけ言うと、朝のHRを終えてサッサと教室から去っていった。
それに続いて、生徒達も席を立つ。
七年生、ジュニアハイスクールに上がってからは、皆が揃って同じ受業を受けるのではなく、一人一人が自分で受ける科目を決め、その受業が行われる教室に移動する方式になったからだ。
エリックも立ち上がると、教室を出て行くクラスメート達を余所に、教壇で立ち尽くしていた転校生に声をかける。
「ローラは何を受けるの? よかったら案内するよ」
優しく申し出ると、転校生はホッと安堵の息を吐いた。
「ありがとう、えーと……」
「俺はエリック、よろしく」
「よろしく」
ローラは差し出された彼の手を握り、柔らかく微笑む。
その可愛らしさに、エリックがつい見惚れていると、背後から刺々しい声が飛んできた。
「ちょっとエリック、そんな暗そうな子に構っていると遅刻するわよ」
そう言ってローラを睨んだのは、この歳でもう化粧をしている派手な少女、ミランダ・ボネット。
父親が金持ちの事業家で母親が元歌手と、恵まれた家で生まれたため、美人だが高慢な所があり、何かとからんでくる彼女の事がエリックは少々苦手だった。
「はいはい、分かってるよ」
彼は適当に返事をすると、ローラに向かって苦笑を見せる。
「ごめんな、あいつ口が悪くてさ」
「大丈夫、気にしてないから」
「それで、一時間目は何を受けるの?」
「数学のレギュラークラスなんだけど……」
「なら俺と一緒だ、こっちだよ」
遅れちゃまずいと、エリックは彼女の手を取って走り出す。
ローラは照れ臭そうにしながらも、嬉しそうに連れられて行った。
その様子を見て、クラスの男子達は肩を竦める。
「やれやれ、またエリックのお節介病が始まった」
「ミランダも可哀想にな」
端から見れば、ミランダが彼を憎からず思っているのは一目瞭然。
しかし、親切ではあるが人の機微に疎いエリックが、素直になれず高慢に振る舞ってしまう、少女の内心に気付くはずもない。
「何なのよ、あの子……っ!」
忌々しそうに爪を噛むミランダを背に、エリックは可愛らしい転校生と共に数学の教室に駆け入る。
日常の崩壊は、こんな日常の中から始まった事に、やはり気付くはずもなく。
◇
朝日がまだ昇ったばかりの午前四時、ベッドの中で惰眠を貪っていたエリックの耳に、台所から母親の大声が届く。
「起きなさい、散歩の時間よ」
「……は~い」
エリックは眠気に抗い渋々起きあがると、ベッドを降りて服を着替える。
そして、玄関で待っていたシェパードにリードを着け、一緒に家を出た。
「行くぞ、レントン」
「ワンッ!」
もう直ぐ夏といってもニューハンプシャーの早朝は寒く、気温は十℃あるかどうか。
エリックは一度身震いすると、はしゃぐ飼い犬と共に、人気のない町をゆっくりと走り出す。
いつもの散歩コースを十五分ほど進み、折り返し地点の小さな湖にさしかかった所で、それは風に乗って彼の耳に届いた。
「歌声?」
小さくて聞き逃してしまいそうな、けれど気付いてしまえば、二度と無視出来ない美しい声。
低く、高く、優しく、力強く。
声は一つしかないのに、まるで合唱団のようなハーモニーを奏で、この世のものとは思えぬ完璧な音楽を紡ぎ上げる。
「凄い……」
エリックは感動のあまり言葉を無くし、光に集まる虫のように、フラフラと歌声の元に向かって歩き出す。
朝靄が漂う幻想的な湖の岸辺に座り込み、冷たい水を楽しそうに裸足で蹴りながら、小声で歌を口ずさむ少女。
それは可愛らしい転校生、ローラ・アルドリッジだった。
「We have already come――誰っ!?」
彼の足音に気付いたローラは、美しい歌声を悲鳴に変えて振り返る。
「エリック?」
そこに居たのが親切なクラスメートだと知った彼女は、パッと顔を輝かせたが、直ぐ気まずそうに俯いてしまう。
しかし、鈍感な少年はローラの表情に気付きもせず、ただ割れんばかりの拍手を送った。
「凄いよローラ。俺、歌でこんなに感動したの初めてだ!」
「ワンワンッ!」
シェパードも飼い主と同意見だとばかりに吠え、尻尾を振ってローラに駆け寄る。
「テイラーやアヴリルと同じくらい――いや、どんな歌姫よりも最高だった!」
「大げさだよ……」
プロのアーティストより凄いと誉められても、ローラの顔は晴れない。
そこに至ってようやく、鈍いエリックも彼女の様子に気付く。
「ごめん、歌の邪魔をしたから怒っているのかな?」
「そうじゃないの」
謝られたローラは、慌てて首を横に振る。
「お父さんに『人前で歌っちゃ駄目だ』って言われてるから……」
人気のないこんな早朝の湖で、しかも小声で歌っていたのはそれが理由だったのだ。
「変なの、あんなに凄いのに」
納得がいかず首を捻るエリックに、ローラは困った顔で告げる。
「この事、秘密にしてくれる?」
「歌が上手い事をかい? 勿体ないな、ローラならアメリカン・アイドルで一位にだってなれるだろうに」
歌手を発掘する人気テレビ番組で優勝する。
即ち、トップアイドルへの道を保証されるという事だ。
そんなシンデレラ・ストーリーも不可能ではないほど、ローラの歌声は素晴らしかったというのに、本人は固くなに拒否を示す。
「お願い、私達だけの秘密にして」
「分かった、絶対に言わないよ」
可愛らしい転校生に涙目でお願いされ、エリックは赤くなって頷いた。
「その代わり、また明日もここで歌を聴かせてくれないかな?」
「いいよ。だから秘密してね、約束よ」
ローラはもう一度念を押し、小指を差し出す。
ジャパンのアニメでやっていた約束の儀式だと察し、エリックは彼女の指に己の指を絡めた。
けれども、十三歳になったばかりの少年が、約束を遵守する事はなかったのだ。
◇
少女が転校してきてから一週間が経った、六月のある日、崩壊の序曲となる事件は起きた。
「一緒にランチを食べようと思ってたのに、何処に行ったんだろう?」
昼休み、ローラを探して校舎を歩き回っていたエリックは、思わぬ光景を目にして立ち止まる。
彼女が派手な化粧のミランダ・ボネットとその取り巻きに、廊下の隅で囲まれていたのだ。
「何やってんだっ!」
正義感に溢れる彼は、怒声を上げて少女達の間に割って入る。
思い人の登場に、ミランダは内心動揺しながらも、虚勢を張って言い放つ。
「この子が調子に乗ってるから、ちょっと注意してやってただけよ」
「注意? 嘘を吐くな!」
「エリック……」
彼の腕にすがりつくローラの手は震え、瞳には涙が浮かんでいる。
親切心による忠告ではなく、悪意による罵声が浴びせられていた事は、鈍い少年とて流石に分かった。
「虐めなんて下らない真似をするな、ローラが何をしたって言うんだ!」
「それは……」
貴方がこの子にばかり構うから悔しくて――などと、女王様のように振る舞ってきたミランダに言えるはずもない。
けれども、彼女はほんの少しだけ素直になって告げる。
「ねえエリック、こんな暗い子に構うのは止めなさいよ」
「何っ?」
「貴方、数学以外は勉強が出来るし、ベースボールではスラッガーとして大活躍してるじゃない。そんな人にこんなつまらない子は似合わないわ」
暗に自分の方が相応しいと言っているのだが、鈍い少年にはやはり伝わらない。
「馬鹿にするな、ローラはお前達なんて比べ物にならないくらい凄いんだぞ!」
恋敵を目の前で庇われて、ミランダの目はさらに険しくなる。
「どこが? その歳でくわえた男の数とか?」
「きゃははっ、不潔~!」
下品な罵声に追従し、取り巻きの少女達がせせら笑う。
それで堪忍袋の緒が切れたエリックは、約束を忘れ叫んだ。
「ローラの歌は最高なんだ、プロだって裸足で逃げ出すくらいなんだぞ!」
「エリック!?」
本人が驚いて止めようとしても、コップから零れたミルクが戻らないように、吐きだした言葉も消えはしない。
「……へー、なら聞かせて貰おうじゃない」
母親が元歌手で、自分もその道を目指していたミランダは、怒りのあまりむしろ冷静になり、刺すような目でローラを睨む。
「歌いなさいよ。これだけ言って酷かったら、あんた一生私のパシリね」
「私は……」
「大丈夫だって。ほら、歌ってこいつらを見返してやろう」
「でも……」
ミランダに脅され、エリックに背中を押されても、彼女は父親との約束が頭を過ぎって躊躇する。
それでも、長い葛藤の末にローラは大きく息を吸い込む。
虐めから逃れるためであり、強制されたせいでもあった。
けれども、一番の動機は別にある。
たった一人の大切な家族である、父親に命じられても抑えきれなかった、『歌いたい』という純粋な衝動。
「Amazing Grace, how sweet the sound――」
奴隷商人として成り上がった男が、己の罪を悔い、神に捧げた賛美歌。
数多のアーティストが歌ってきたその曲を、ローラは誰よりも見事に奏でる。
彼女の美声を耳にした者達が、教室から、中庭から、次々と集まってきては、魂を震わせるその音色に、黙って耳を傾けた。
「――Than when we've first begun」
歌い終わった時、人集りで埋まった廊下は、一瞬静まり返る。
そして、校舎を揺るがすほどの拍手と歓声が鳴り響いた。
「最高……最高だわっ!」
「アンビリーバブルとしか言いようがないよ!」
誰もが、彼女を虐めていた者達さえもが、思い付くかぎりの賞賛を送ってローラに握手をねだる。
ただ一人、ミランダを除いて。
「…………」
無言で立ち尽くす彼女の頬は、感動の涙で濡れていた。
元歌手の母親に鍛えられ、生まれた時から音楽を学んできたミランダこそが、今の歌がどれほど素晴らしいモノか、誰よりも深く理解していたから。
しかし、だからこそ、彼女はローラに背を向け、沸き立つ人の波を掻き分けて逃げる。
「何で、何で、何でっ!?」
どうして神様は、自分がどれだけ努力しても絶対に勝てない、あんな天才をこの地に送り込んだのか。
どうして、あの天才を自分の恋する男と巡り会わせたのか。
どうして、私だけがこんなにも唐突に、全てを奪われなければならないのか。
嫉妬、怒り、憎悪、悲しみ、絶望。
あらゆる負の感情に苛まれ、年相応の子供に戻って泣きじゃくる少女の事を、鈍い少年はおろか他の誰一人として、気を払う事はなかった。
「やったね、ローラの歌はやっぱり最高だよ!」
「う、うん……」
父親との約束を破った事が後ろめたく、素直に喜べずにいたローラも、エリックに強く抱き締められて、ようやく満開の笑顔を浮かべる。
穏やかな日常も、輝ける青春も、今この時をもって終止符が打たれたというのに。
◇
奇跡の歌姫として、ローラが一躍学校のアイドルとなってから二週間後。
夏休みを目前に迎えたその日、欠席を重ねていたミランダが、ようやく教室に姿を現した。
しかし、クラスメートの誰も、取り巻きをしていた女子達さえも、彼女になど目もくれずローラを囲んで騒ぎ続ける。
「ねぇねぇ、休みに入ったらオーディションを受けよう? ローラなら絶対に受かるって!」
「シャツにサインしてよ、デビューした後で皆に自慢してやるんだ」
「私、プロになりたい訳じゃ……」
「こらみんな、ローラが困ってるだろ」
「何だよエリック、恋人だからってマネージャー気取りはやめろよ」
「お、俺とローラは別に、まだそういう仲じゃ……っ!」
「照れるな照れるな」
赤くなる二人をからかい、クラスメート達は陽気な笑い声を上げる。
それがまるで、自分を嘲笑っているように聞こえて、ミランダは鬼のような形相を浮かべると、人垣を掻き分けてローラの前に立った。
「……っ、ミランダ、さん?」
怯える彼女に、まるで悪魔のような笑みを浮かべ、夢も恋も奪われた少女は叫ぶ。
「サッサとこの町から去りなさいよ、化け物がっ!」
「――っ!?」
ぶつけられた悪意よりも、その単語にこそ衝撃を受け、ローラは背を震わせる。
エリックはそれに気付く事なく、ただ怒声を張り上げた。
「ミランダ、何て酷い事を言うんだ!」
「そうよ、謝りなさいよ!」
彼に続いて、クラスメート達も次々とミランダを非難する。
しかし、彼女の歪んだ笑みは全く崩れない。
「こいつの正体を知らないから、そんな事が言えるのよ」
「正体?」
いきなり何を言い出すのかと、子供達は一様に首を傾げる。
しかし、当人たるローラだけは、顔を強ばらせ震え続けていた。
それで確信を深め、ミランダは崩壊の引き金となる言葉を紡ぐ。
「こいつは人間じゃなく、化け物――人魚なのよ」
人魚――人の上半身と魚の下半身を併せ持つ、伝説上の乙女。
歌姫の正体がそれだと言われ、はいそうですかと信じるほど、彼らも子供ではなかったし、常識が欠けてもいなかった。
「何言ってるんだ、お前?」
「ローラに人気を取られて妬む気持ちは分かるけど、もうちょっとマシな嘘を吐いたら?」
呆れ果てるクラスメート達に、ミランダは噛み付くように叫ぶ。
「本当よ、こいつは人魚なんだから。パパが調べ上げてくれたからんだから間違いないわ!」
成功した事業家であり、溢れるほど金を持った父親。
家族を愛する彼は、娘が登校拒否になった理由を知ると、その原因となった転校生の事を、人を使って洗いざらい調べ出したのだ。
「こいつ、この町に来る前も、何度も引越を繰り返していたの」
父親が人でも殺して、逃げ回っているのだろうか。
そう訝しみ、追求の果てに辿り着いた場所は、東端のニューハンプシャーからはアメリカ大陸の真反対にあたる、西海岸はオレゴン州。
「そこの漁師さん達が暗い顔で言ったんだって、『あいつは人魚に誑かされたんだ』って」
妻も恋人も居ない男が、ある時から妙に浮かれた素振りを見せ、そして何処からか赤子を連れてきた。
それがローラ、人間の父と人魚の母親から生まれた混血児。
「だからこいつは化け物なの、人間じゃないのよっ!」
「……お前、本気でそれを信じてるのか?」
興奮してまくし立てるミランダに、皆は嫌悪と憐れみの目を向ける。
ローラに母親が居ないのは知っていたが、離婚したか亡くなったか、何か理由があるのだろう。
何度も引越を繰り返してきたのだって、仕事の都合なら仕方のない話だ。
一人よりもずっと苦労してきただろう、彼女やその父親に向けて、人魚だ化け物だなどと罵るのは、それこそ人間のする事ではない。
そう思うのが『当たり前』であったし、『常識的』であろう。
けれども、狂気に片足を突っ込んでいた少女は、どんなに怪しく眉唾でも、憎い相手の汚点を信じた。
「本当よ、こいつは災いを呼ぶ化け物なの! みんなだって聞いた事があるでしょ、人魚は綺麗だけど、歌で船を沈める恐ろしい存在でもあるんだって。こいつの歌を聴いていたら、みんな不幸になっちゃうんだから!」
少なくとも、そう叫ぶミランダが自尊心と惚れた男を奪われ、不幸になったのは事実だろう。
だから、クラスメート達は気の毒そうな顔をしたが、彼女に同意する事はなかった。
「分かった分かった、話を聞いてやるから、まずは保健室に行こう」
「信じて! こいつは人魚なの、化け物なのよぉぉぉ―――っ!」
二人の男子に両脇を抱えられ、ミランダは教室の外に連れ出されながらも、甲高い声で叫び続けた。
「何あれ、ヤバくない?」
「女の嫉妬は怖いね~」
「ローラ、気にしちゃ駄目だよ」
「う、うん……」
エリックだけでなく、クラスメートの皆からも励まされ、ローラはまだ震えながらも頷き返した。
そこで、一人の女子がふと呟く。
「でも、ローラなら人魚でも納得かな。美人だし、何よりあんな凄い歌を聴かせられたらね」
「あははっ、確かにな」
「よっ、人魚姫っ!」
ミランダのせいで濁った空気を吹き飛ばすように、皆は揃ってはやし立てた。
ローラもそれに、何とかぎこちない笑みを返す。
「ありがとう、みんな」
「大変だ!? ローラが人魚姫なら、王子様のエリックを殺しておかないと、泡になって消えちゃうじゃないか!」
「怖い事を言うなよ」
「おっ、ついにローラの王子様だって認めたか?」
子供達の悪ふざけは、担任が来て朝のHRが始まるまで続いた。
もしも本当に、彼女が人魚の血を引いているとしたら、いったい何が起きるのかなど、想像さえする事なく。
◇
精神を病んだという理由で、ミランダが遠くの病院に運び込まれたが、子供というものは時として残酷で、その悲報に感心をはらう者は居なかった。
なにせ、待ち望んでいた夏休みがついに始まったのだから。
何時までも惰眠を貪れるようになったその日も、エリックは自らの意志で朝四時に飛び起きる。
「母さん、散歩に行ってくるね!」
「行ってらっしゃい、朝ご飯には遅れないでね」
最近、愚痴も言わず早起きしてくれる息子を、母親はごきげんで送り出すが、その理由が『大好きな女の子と会うから』であるのはまだ知らない。
「行くぞ、レントン」
「ワンッ!」
飼い犬も早く彼女の歌が聞きたいと、尻尾を振って走り出す。
初めてあの素晴らしい歌を耳にした、小さな湖の畔。
あれから毎日、ローラと密会していた場所に、その日は余計な人影があった。
「誰だ?」
濃い朝靄が漂っていたため、ハッキリとは見えなかったが、ローラの前に見覚えのない人物が二人立っていたのだ。
「グルルル……ッ」
「レントン、静かにしろ」
唸りだした飼い犬を小声で叱ると、エリックは屈んで朝靄に身を隠す。
誰かは知らないが、もしローラによからぬ事を企んでいるなら、ベースボールで鍛えた腕で、殴り倒してやろうと思ったからだ。
ヒーローを気取りながら忍び足で近付いていった彼は、人影の全貌が見えてくると、思わず息を呑んで立ち止まった。
一人は牧師のような真っ黒い服を着た、二十代中盤くらいの男。
そしてもう一人は、彼と同じか一つ年上くらいの、恐ろしいほど美しい少女だった。
鮮やかな赤い髪とは対照的な、濃い紺色のワンピースを身に付け、怪我でもしているか左腕は厳重に包帯が巻かれている。
横顔だけでもそれと分かる、整った顔立ちだけを比較するならば、ローラとて劣ってはいない。
なのに、一度気付いたらもう二度と目を離せない、まるでローラの歌と同じような魔性の魅力が、少女の全身から香っていたのだ。
「……バカ、そんな場合じゃないだろ」
見惚れていた自分に気付いたエリックは、浮気めいた罪悪感も相まって、慌てて首を振った。
そんな事をしている間に、謎の少女が喋り出す。
「貴方がローラ・アルドリッジか?」
「はい、そうですけど……」
「歌ってくれないか」
「えっ?」
「貴方の歌を、聴かせて欲しい」
「…………」
馬鹿丁寧だが感情に乏しい声で頼まれ、ローラは困惑して黙り込む。
それを見て、後ろに控えていた黒服の男が口を開く。
「安心してくれ、君に危害をくわえる気はないし、アイドルのスカウトマンって訳でもない。ちょっと噂を耳にして、君の歌を聴いてみたくなった物好きのミーハーさ」
「はぁ……」
学校での一件を耳にし、彼女の歌に興味を持ったとしても、こんな早朝の湖――エリック以外は知らない秘密の場所に現れた時点で、警戒するなというのは無理である。
ただ、男の方はともかく、少女からはまるで悪意が感じられなかったので、ローラは戸惑いながらも一番好きで得意な曲、『アメイジング・グレイス』を歌い出す。
「Amazing Grace, how sweet the sound――」
響き渡るその声を、謎の二人組は黙って聴き入る。
そして歌が終わった時、男の方は自然と拍手を送っていた。
「凄いな、俺はロックしか好きじゃないんだが、賛美歌で魂が震えたのなんてこれが初めてだ。君のCDなら千ドル出しても惜しくない」
「あ、ありがとうございます……」
大人でしかもハンサムな男に絶賛され、照れるローラの姿を見て、朝靄に隠れたエリックはムッと頬を膨らませる。
そんな少年の嫉妬を余所に、赤髪の少女は首を傾げていた。
「不思議だ、エーテルが激しく動いているのに、黒く濁るどころか、どんどん綺麗に輝いていく」
「エーテ……何っ?」
良く分からない事を言われて尋ねるローラに、少女は説明する事もなく、連れの男を振り返る。
「ジェイ、この子の歌はエーテルを振動させている。けれど、魔術とは何かが違う、不思議だ」
再び首を傾げる少女は無表情だったが、どことなく嬉しそうで、黒衣の男は苦笑を浮かべた。
「魔術ではない、だが比喩表現ではなく、物理的に『魂』を揺さぶる声ね……」
彼は吟味するように呟き、戸惑い続けるローラに向けて、不意に冷たい視線を送る。
「お前、本当に人間か?」
「――っ!?」
ミランダの時と同様、悪意よりもその単語に衝撃を受け、ローラは身を震わせた。
それを見て、様子を窺っていたエリックがついに飛び出す。
「ローラを虐めるなっ!」
叫び、背後から手加減などせず殴りかかる。
だが、コソコソと隠れていた少年の気配に、男はとっくの昔に気付いており、振り返りもせず攻撃を避けると、足を引っかけ転ばした。
「うわっ!」
「エリックっ!?」
倒れ込むエリックに、ローラは悲鳴を上げて駆け寄る。
男はそんな二人に背を向けると、連れの肩を叩いた。
「ナイト様もご登場したし、俺達はお暇するぞ」
「分かった」
不思議な少女は素直に頷き、男と共に歩き去る。
そんな二人の背中を、ローラは呼び止める。
「ま、待って下さい、貴方達は……」
誰なのか――とまで言わなかったのは、正体をうっすらと感じ取っていたからだろう。
男は振り返り、笑って告げた。
「どうも俺達の仕事じゃないようだし、犯罪をおかした様子もないから、何もしないさ。俺達はな」
「…………」
「良い歌だって言ったのは本当だが、アイドルは目指さない方が懸命だろうよ」
男は一度引き返し、素晴らしい歌の礼と迷惑料だとばかりに、百ドル札をローラに握らせると、今度こそ振り返らずに去っていった。
「何なんだよ、あいつら」
「……知らない」
起き上がり土を払うエリックに、ローラは固い顔でそう言った。
その言葉に嘘はない。けれども、これから何が起きるのかは、彼女の身に流れる血が知っていた。
◇
不思議な二人組と出会った二日後、ローラは急に「海に行きたい」と言い出した。
エリックはその願いを聞き入れ、二人はバスに乗って海岸へと向かう。
まだ少し冷たい六月の海を、幼い恋人達は夢中で泳ぎ笑い合った。
少女はこれが最後なのだろうという予感を抱き、少年はやはり何も気付かぬまま。
「楽しかったー、また絶対に来ような!」
「……うん」
バスを降り、夕焼けで染まった町の中を、エリック達は並んで歩く。
そこへ、一台の自動車が走り寄ってきた。
「ここに居られましたか」
運転席から降りてきたのは、真っ白い祭服に身を包んだ中年の神父。
ただし、町の教会に勤める神父とは別の、初めて見る人物だった。
「神父様が俺達に何か用ですか?」
「はい、そちらのお嬢さんを探していたのです」
尋ねるエリックに答え、神父は柔和な笑みをローラに向ける。
「貴方のお父様が交通事故に見舞われたのです、直ぐ病院に向かって下さい」
「ローラのお父さんが!?」
「…………」
エリックは驚き目を見開くが、ローラは動揺や心配ではなく、何故か恐怖を浮かべ彼の背に隠れてしまう。
それを見ても神父は笑みを崩さず、優しげに手を差し出した。
「さあ、病院までご案内しますから、車に乗って下さい」
「ローラ、急ごう!」
そろそろ反抗期を迎える十三歳の少年でも、教師や聖職者の言葉は正しく聞こえてしまうもの。
エリックは神父の言葉を信じ込み、ローラの手を引く。
けれども、彼女は足を踏ん張って抵抗し、首を激しく振った。
「……駄目っ!」
「駄目って、何が?」
「いいから、逃げてっ!」
ローラは叫ぶと、神父に背を向け走り出す。
「ちょっと、どうしたの!?」
エリックは訳が分からず戸惑いながらも、手を繋いでいたため仕方なく、彼女に並んで走った。
冷静に考えれば、ローラの判断が正しい。
本当に父親が事故に遭ったのなら、まずは彼女の持つ携帯電話に連絡が届くだろう。
なのに、神父の格好をした見知らぬ男が迎えに来て、車に乗るよう勧めてくるなど、誘拐を企んでいるとしか思えない。
そして、本物の神父だったとしても、嘘を吐かないという保証も、無害だという保証もないのだから。
「どうしよう……」
エリックは走りながら一度振り返り、神父の様子を窺う。
彼は困ったような笑みを浮かべながら、携帯電話でどこかに連絡をしていた。
「申し訳ありません……では、町の皆さんにお願いして……えぇ、よろしくお願い致します」
微かに聞こえた神父の声に、悪意は欠片もない。
けれど、少年は知らない。
人は己を正義と信じるとき、罪悪感もなく他者を刺せるのだと。
「はぁはぁはぁ……」
息が切れて立ち止まった時、二人はいつの間にか小さな湖の元に辿り着いていた。
「ローラ、本当にどうしたの?」
膝に手を付き尋ねてくるエリックに、疲れて座り込んだローラは、僅かな沈黙の後に答えた。
「……私、ミランダさんの言ったとおり、化け物なの」
「はぁ?」
「私のお母さんは本当に人魚だって、お父さんが言ってた……だから私も、人魚の血を引いた化け物だって」
「何を言ってるの?」
まだあんな悪口を気にしていたのかと、エリックは彼女の告白を笑い飛ばす。
今日、海でローラの水着姿を見たけれども、鱗や水掻きのような、人魚を思わせる不審な点は何もなかった。
まるでローレライのような美しい歌声を持つ事以外、彼女は紛れもなく人間だった。
「変な事を言ってないでさ、早く病院に行こう」
「…………」
神父の言葉は鵜呑みにしながら、自分の言葉は信じてくれない彼に、ローラはもう言い返す気力をなくしてしまう。
項垂れ沈黙する彼女に、エリックが困惑して立ち尽くしていると、遠くから大勢の足音が近付いてくる。
「居ました、あっちです!」
「本当だ、おーい!」
声を上げ駆け寄ってきたのは、皆顔に見覚えのある町の大人達。
その中には、エリックの母親も含まれていた。
「エリック、無事だったかい!?」
「ちょっと母さん、何だよいきなり」
走り寄り、強く抱き締めてきた母親を、エリックは照れて押し退ける。
その後ろで、ローラは小刻みに震えていた。
「嫌……っ」
「ローラ、どうし――」
「駄目よっ!」
少女に近付こうとしたエリックを、母親が信じられないほど強い力で引っ張る。
「母さん?」
さっきからどうしたのかと、見上げた彼の瞳に映ったのは、母親が今まで一度も見せた事のなかった、恐怖と嫌悪で歪んだ顔。
「駄目よ。あの子は魔女なの、神様の教えに背く化け物なの、関わっては駄目!」
「母さんまで何を馬鹿な――」
「そいつは本物の化け物だっ!」
エリックの声を遮ったのは、集まった大人達の中で最も険しい顔をした初老の男性。
彼こそが精神を病んだ少女、ミランダ・ボネットの父親だった。
「怪しい歌で子供達を誑かし、私の娘を虐め抜いた悪魔の使いだっ!」
「あれはミランダが悪い――」
「化け物め、魔女めっ!」
ミランダの父親に続いて、他の者達までもがローラを睨み罵倒する。
鬼気迫る大人達の様子に、エリックは気圧されながらも必死に言い返す。
「みんなおかしいよ、変だよ! ローラは化け物なんかじゃない、人魚なんか居る訳ないだろ!?」
「魔女め、汚らわしい怪物めっ!」
少年の訴えは、またしても大人達の声に掻き消されてしまう。
「エリック、あの子を庇っては駄目、あれは人間じゃないのよ!」
「母さん……」
十三年間、離れる事なく共に過ごした優しい母親までもが、皆と口を揃えて恐ろしい叫びを上げる光景に、エリックは足下が崩れていくような感覚に襲われ、何も言えなくなってしまう。
親切で正義感に溢れ、けれど自分の事しか見ていなかった、鈍く愚かな少年は知らない。
集まった大人達の中で、本当にローラを化け物――神の教えに背く存在などと信じている、敬虔で狂信的な信徒など極一部にすぎない。
殆どはミランダの父親――事業家として財を成し、町の発展に貢献した有力者が、愛する娘を不幸にした余所者を許すまじと叫ぶのに、ただ同調しているだけだと。
そして、手を回し人々を操っているのが、自らを正義と信じ、化け物の抹殺を至上の目的とした、神の使徒達である事を。
「皆さん、その子を責めてはなりません」
ふと響いた穏やかな声が、狂乱する大人達を鎮める。
声の主は、変わらず柔和な笑みをたたえて車から降り立った、白い祭服の神父。
「子は親を選べぬのです。化け物の母親から生まれたのは、この子のせいではありません」
「しかし、こいつは私の娘を――」
憤るミランダの父親を、神父は手で優しく制す。
「貴方の言うとおり、この子は罪を犯しました。自身に責任がないとはいえ、汚れた血が流れているのもまた罪。だからこそ、私が預かりに来たのです」
神父はそう言って人々を下がらせ、座り込むローラに再び手を差し出す。
「さあ、私と共に主の御許で、その罪を償いましょう」
微笑む聖職者の瞳は、どこまでも優しく純粋だった。
まるで、虫の足をもいで喜ぶ赤子のように、悪意のない残酷さを秘めて。
「嫌っ……嫌あぁぁぁ―――っ!」
鈍い少年とは違い、感受性の鋭い少女は、神父の奥底にあるものを見抜いたのだろう。
悲鳴を上げ逃げようとするが、それを大人達が押さえ付ける。
「暴れるな、神父様の元で罪を償うんだ!」
「そうよ、貴方にとってもそれが一番なの」
「放して! 嫌なの、やだよぉぉぉ―――っ!」
「やれやれ、仕方のない子ですね」
激しく暴れるローラを見て、神父は肩を竦めると、隣の青年に視線を送った。
町の大人達と混ざるように普通の格好をしていたが、おそらく神父の部下なのだろう。
彼はローラに近寄ると、他の者達には見えないよう巧みに、鳩尾に拳をめり込ませた。
「かはっ……!」
「さあ、大人しく車に乗りなさい」
激痛のあまり悲鳴も出せなくなった少女を、青年は見た目だけ優しく抱きかかえ、神父の車へと運ぶ。
その横で、神父は協力してくれた町の大人達に深々と礼をする。
「皆様、ご協力ありがとうございました。御陰でまた一人、哀れな子羊を救う事が出来ました」
「いいえ、主に仕える者として当然の行いをしたまでです」
「…………」
敬虔な信者は迷いのない目で、有力者の圧力に負けた者達は気まずく目を逸らしながら、神父の行いを容認する。
一人、ミランダの父親だけが納得のいかぬ表情を浮かべていたが、ローラを車に運び縛り上げていた青年とは別の、神父の部下らしき女性が何かを耳打ちすると、顔を輝かせ邪悪に笑った。
それを見て、大人達の空気に呑まれ、黙っているしかなかった少年も、ようやく少女の行く末に気付く。
「待って、ローラを返せよっ!」
「エリック、止めなさい!」
母親の制止も振り切り駆け出すが、彼女を乗せた神父の車は無慈悲に走り出す。
「止めろ、ローラを殺すなぁぁぁ―――っ!」
夕焼けの空に響いた悲痛なその叫びを、集まった大人達は確かに聞きながら、誰もが目と耳を逸らすのだった。
◇
手足を縛られたうえに猿轡までかまされ、後部座席に寝かされたローラに、神父は車の運転を続けながら優しく告げる。
「何も怖がる事はありません。貴方もお父様と同じ所へ行くだけなのですから」
神の教えに背き、人魚などという汚らわしい化け物と密通した男を、狂信者達が生かしておくはずもない。
「――っ!?」
父親がもうこの世に居ない事を悟り、ローラは声を出せずに咽び泣く。
けれども、敬虔な神の使徒は、人間ではないモノの涙に動かす心臓を持ち合わせていない。
「汚れた貴方達の魂が、主の下に行く事はないでしょう。けれども、少しでも安らかな眠りが訪れるよう祈っておりますよ」
口調だけは優しい死の宣告。
逃れられぬ最期を前に、口を塞がれた少女はただ泣き続けるしかない。
だが、町を出て人気のない林道に入った所で、救いの手は唐突に現れる。
パンッ――と破裂音が響いたかと思うと、車が激しく揺れ出したのだ。
タイヤがパンクしたと悟った神父は、慌ててブレーキを踏む。
制限速度を守っていた事もあり、車は道路からはみ出したものの、何とか木に衝突せず止まった。
「これは……やはり、そういう事ですか」
冷や汗を拭って窓の外を見た神父は、タイヤが突如パンクした理由を知り溜息を吐く。
衝撃で後部座席から転げ落ちていたローラも、縛られた体で何とか這い起き、車外に目を向ける。
夕日で染まった道路を悠然と歩き、近付いてくる二人組。
それは先日、彼女の元を訪れた不思議な少女と黒衣の男――エル・イリム・ワンとジョン・ルーザーだった。
「魔術師の猟犬が、いったい何のご用でしょうか?」
車を降りた神父は、狙撃銃――レミントン・MSRを持った黒犬の隊員に、全く動じる事なく問い掛ける。
彼の胆力に感心しながら、ジェイは素っ気なく答える。
「上司の命令でな、ちょっとしたボランティア活動をしに来た」
彼らの職務は不法な魔術師を狩る事。
だからこれは仕事ではなく、子供好きな童顔の魔術師が起こした気まぐれ。
「ローラ・アルドリッジはこちらで保護する、引き渡してくれ」
そのためなら武力行使も辞さない覚悟は、タイヤを射抜いた事で示している。
しかし、敬虔な神の使徒が、主の言葉以外には従わない。
「人外の相手は我々『白騎士団』の勤めです、どうかお帰り下さい」
人並みの体術を心得ているだけで、武器もなく、まして魔術や超常の力など持たぬのに、神父は決して退かない。
己の死すら全く恐れていない瞳と向き合い、ジェイは僅かに鼻白む。
「ったく、これだから狂人は……」
この場で神父を殺し、哀れな少女を救うのは容易い。
だがそれは、全世界に二十億と居る神の信徒、全てを敵に回すのと同義。
故に、ジェイは銃弾ではなく、詭弁を持って立ち向かう。
「悪いが、そもそも前提が間違っていてな」
「と言いますと?」
「ローラ・アルドリッジは、お前らが滅ぼしたくて堪らない、人外の化け物じゃない」
「――っ!?」
その言葉に、神父だけでなく、車の中で話を聞いてたローラ本人も目を見開く。
「彼女が人魚の子供ではなく、ただの人間だと?」
「その通りだ」
「では、子供達を誘惑したという、邪悪な歌はどう説明するのですか?」
当然上がるその疑問に、ジェイも当然答えを用意してある。
「魔術だよ、『呪歌』ってやつだ」
呪歌――ただ呪文を読み上げるのではなく、旋律をつけ奏でる事で、力を増幅させる魔術の一種。
「ローラ・アルドリッジは魔術師だが、人間である。つまり化け物ではない」
イリムに検分させ、自ら否定したその可能性を、ジェイはぬけぬけと口にした。
もっとも、全くの嘘という訳ではない。
世の中には何の修練も積まず、持って生まれた才能だけで、そうとは知らず魔の力を操る者が居る。
才能と言うのは語弊があるが、イリムもその一人だ。
そして、母親の胎内に居ながら人を殺すような、超能力の持ち主とて存在するのだ。
ローラがそういった異質な力を持つ、だが人間にすぎない可能性は十分にある。
「だいたい、お前らは人魚だって確証を取ったのか? その子にエラでもあったか? 血が青色だったか? 水に浸けたら足が尾に変わったか?」
「…………」
神父は答えられない。確認などしていなかったし、必要もなかったからだ。
灰色は黒、疑わしきは罰する。
汚れなき完璧な白しか許さない、それが彼の仕える白騎士団であったから。
「川に重しをつけて放り込み、溺れたら無罪、浮かんできたら有罪とでもする気だったか?」
「魔女や魔術師も、私達から見れば怪物と変わらぬ邪悪ですが?」
中世ヨーロッパの魔女狩りを引き合いに出した嘲笑にも、神父はやはり動揺しない。
「それを言われると辛いな……」
ジェイは大した困った様子もなく、頭を掻いて反論する。
「だが、邪悪であろうと人間だ。お前らの信じる神様が作った、魂を持つ生命だ。それに贖罪のチャンスも与えず命を奪う事を、お前らの主は望んでいるのか?」
「…………」
神の慈悲を引き合いに出されては、狂っていても敬虔な信徒は黙るしかない。
「……いいでしょう。ローラ・アルドリッジもまた迷える子羊の一人であるならば、悔い改める機会は与えられねばなりません」
「分かってくれて嬉しいよ」
ジェイは心にもない礼を告げ、隣の連れを顎で促す。
イリムは頷き、車に歩み寄り後部扉を開けると、縛られていた少女を解放した。
「立てるか?」
「は、はい……」
ローラは急な事態にまだ混乱していたが、命が助かった事だけは理解し、安堵の涙を零してイリムの手を取った。
その姿を横目で窺った後、神父は最後の問いを告げる。
「しかし、貴方達のような黒き者の元に、迷える子羊を預ける訳にはいかないのですが?」
「それなら心配無用だ、この子は遠い外国の教会に預ける」
どこかの童顔がお気に入りの、宗教に対して緩いため、人外であろうと容易く受け入れる東の島国。
そこならば、人魚の娘であろうとも、今日のような迫害を受ける事はないだろう。
「分かりました、それならば結構です」
例え遠い異国であろうとも、教会であれば彼らの組織とパイプは繋がっており、少女の動向を窺う事など容易い。
なので、神父はようやく納得した顔を見せ、ジェイもホッとして肩の力を抜く。
その横で、自分の行く末を勝手に決められたローラは、大人しくイリムに手を引かれ、木陰に隠されていた彼らの自動車に乗り込んだ。
「……あの」
僅かな逡巡の後、ローラは世間知らずそうな少女ではなく、運転席に座った黒衣の男に問い掛ける。
「何だ?」
「私のお父さんは……」
僅かな希望に縋り付く彼女に、ジェイは勤めて平淡に告げる。
「遺体は引き渡すよう交渉する」
「……はい」
神父の言葉が事実だったと知らされ、ローラは全身の力が抜け、亡骸のように項垂れた。
父親はもうこの世に居ない。人魚だと言われる母親は、そもそも顔さえ知らず、仮に生きていたとしても会う事は一生ないだろう。
人魚と子を成した時に、厄介事を嫌った親類縁者から絶縁されたと聞いている。
つまり、彼女はたった一人の肉親を失い、天涯孤独の身になったのだ。
「外国でも何処でも、好きに連れて行って下さい……」
もう失うモノはなく、何処に行こうとも変わらない。
捨て鉢に告げる少女の元に、たった一つ、最後に失うモノが届く。
「ローラァァァ―――ッ!」
三人が乗り込み、木陰から出た車の後ろから、少年の叫び声が響いてくる。
「エリック……」
湖からずっと走って追ってきたらしく、汗まみれになり膝は震えながら、彼は愛しい少女の元に辿り着く。
「ローラ、一緒に逃げよう!」
車の窓にしがみつき、開口一番そう叫んできたエリックに、ローラはほんの刹那顔を輝かせ、直ぐに氷のように固まった。
「逃げるって、何処へ?」
「何処だっていいよ、俺達が幸せに暮らせる所なら」
「だから、そこは何処なの? そこでどうやって暮らしていくの? お金はどうするの?」
「それは……何とかする、絶対に何とかするから!」
自分に向けてくれる少年の情熱を、ローラは今でも好ましく思う。
けれども、平穏な日常という夢から覚めた今の彼女には、幼稚で我が侭な子供にしか映らないのも事実だった。
「無理よ、貴方も私も子供で、何の力もないもの」
「なら強くなるよ。そして君を守るから!」
現実の見えていない、どこまでも鈍い少年の言葉に、大人しかった少女の顔に憤怒が宿る。
「守る? 貴方が? 私がこんな目に遭ったのは、貴方が約束を破ったからじゃないっ!」
「――っ!?」
ハッキリと口にされた事で、エリックもようやく理解した。
彼女の歌を秘密にする、その約束を守ってさえいれば、こんな事にはならなかったのを。
「でも、あれは、虐められていたローラを助けようとして……それに結局、歌ったのは君じゃないかっ!?」
彼の言うとおり、結局はローラの自業自得。
歌いたいという欲望に負けたから、エリックに知られ、大勢の生徒が居る学校で披露し、そして父親を死なせてしまった。
それが違えようのない事実。
だからといって、少年の幼く醜い自己保身の言葉を許すには、彼女もまた子供すぎた。
「……車、出して下さい」
ローラは別れの言葉すら口にせず、少年から顔を逸らす。
ジェイは無言でその願いを聞き入れ、アクセルを踏み込んだ。
「ローラ……ローラァァァ―――ッ!」
追いかける体力と気力を失っても、エリックは最後まで彼女の名を呼び続けたが、人魚の娘が振り返る事はなかった。
そんな彼らを余所に、神父が携帯電話で車の修理を依頼していたのが、酷く滑稽だった。
「大人だな」
ジェイの呟いた言葉は、賞賛だったのか憐れみだったのか。
それを尋ねる事はせず、ただ顔を背け続けるローラに、ずっと沈黙を守っていたイリムが声をかける。
「歌ってくれないか」
「えっ?」
「貴方の歌は、とても心地よかった。だから、もう一度聴かせて欲しい」
「…………」
「お前はもうちょっと空気を読めよ……」
その歌が原因で全てを失ったというのに、悪気もなく頼み込んでくる彼女に、ローラは驚いて目を丸くし、ジェイは呆れ果てて溜息を吐く。
「駄目か?」
彼女の心情も知らず、ただ無邪気に首を傾げるイリムを見て、ローラは不意におかしくなって吹き出した。
「ぷっ……ふふ、あはははっ!」
「ジェイ、私は何か変な事を言っただろうか?」
「お前は存在自体が変なんだよ」
どうして笑われたのか分からず、また首を傾げるイリムに、ジェイは説明する気も失せてタバコをくわえた。
そんな二人のやり取りがまたおかしくて、ローラは涙が出るほど笑ったあと、ゆっくりと息を整えた。
「一回だけですよ」
「分かった、ありがとう」
頷き耳を澄ませるイリムに向けて、ローラは歌い出す。
これが最後のコンサート、人を不幸にする人魚の歌は、もう二度と奏でられる事はない。
そう決意したからこそ、喉を壊すほどの想いを込めて、少女は歌声を響かせる。
魔術や人魚など関係なく、心を持った『人』だけが紡げるその音楽を、二人の観客と夕日だけが聴いていた。
後日、ある町の少年が何事もなかったかように、日常生活に戻る姿が目撃されたが、大人達の恐ろしい側面を知ってしまった彼が、本当に平穏を取り戻せたのか、幸せになれたのか、それはまた別の物語。