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【第八話 狂奔―madness―】

 アメリカ合衆国の北東に位置し、全米で一番治安が良いと言われるニューハンプシャー州。

 そこの小さな町で暮らす十三歳の少年、エリック・ビンガムの前に彼女が現れたのは、寒いこの地もようやく夏を感じられるようになってきた、五月の終わりの事であった。

「ローラ・アルドリッジです、よろしくお願いします」

 栗色の髪をした小柄な転校生――ローラはそう名乗り、人に注目されるのは苦手なのか、照れ臭そうな笑みを浮かべた。

「彼女はこちらに引っ越してきたばかりで、左も右も分からんそうだ。皆親切にしてあげなさい」

 担任教師はそれだけ言うと、朝のHRを終えてサッサと教室から去っていった。

 それに続いて、生徒達も席を立つ。

 七年生、ジュニアハイスクールに上がってからは、皆が揃って同じ受業を受けるのではなく、一人一人が自分で受ける科目を決め、その受業が行われる教室に移動する方式になったからだ。

 エリックも立ち上がると、教室を出て行くクラスメート達を余所に、教壇で立ち尽くしていた転校生に声をかける。

「ローラは何を受けるの? よかったら案内するよ」

 優しく申し出ると、転校生はホッと安堵の息を吐いた。

「ありがとう、えーと……」

「俺はエリック、よろしく」

「よろしく」

 ローラは差し出された彼の手を握り、柔らかく微笑む。

 その可愛らしさに、エリックがつい見惚れていると、背後から刺々しい声が飛んできた。

「ちょっとエリック、そんな暗そうな子に構っていると遅刻するわよ」

 そう言ってローラを睨んだのは、この歳でもう化粧をしている派手な少女、ミランダ・ボネット。

 父親が金持ちの事業家で母親が元歌手と、恵まれた家で生まれたため、美人だが高慢な所があり、何かとからんでくる彼女の事がエリックは少々苦手だった。

「はいはい、分かってるよ」

 彼は適当に返事をすると、ローラに向かって苦笑を見せる。

「ごめんな、あいつ口が悪くてさ」

「大丈夫、気にしてないから」

「それで、一時間目は何を受けるの?」

「数学のレギュラークラスなんだけど……」

「なら俺と一緒だ、こっちだよ」

 遅れちゃまずいと、エリックは彼女の手を取って走り出す。

 ローラは照れ臭そうにしながらも、嬉しそうに連れられて行った。

 その様子を見て、クラスの男子達は肩を竦める。

「やれやれ、またエリックのお節介病が始まった」

「ミランダも可哀想にな」

 端から見れば、ミランダが彼を憎からず思っているのは一目瞭然。

 しかし、親切ではあるが人の機微に疎いエリックが、素直になれず高慢に振る舞ってしまう、少女の内心に気付くはずもない。

「何なのよ、あの子……っ!」

 忌々しそうに爪を噛むミランダを背に、エリックは可愛らしい転校生と共に数学の教室に駆け入る。

 日常の崩壊は、こんな日常の中から始まった事に、やはり気付くはずもなく。


             ◇


 朝日がまだ昇ったばかりの午前四時、ベッドの中で惰眠を貪っていたエリックの耳に、台所から母親の大声が届く。

「起きなさい、散歩の時間よ」

「……は~い」

 エリックは眠気に抗い渋々起きあがると、ベッドを降りて服を着替える。

 そして、玄関で待っていたシェパードにリードを着け、一緒に家を出た。

「行くぞ、レントン」

「ワンッ!」

 もう直ぐ夏といってもニューハンプシャーの早朝は寒く、気温は十℃あるかどうか。

 エリックは一度身震いすると、はしゃぐ飼い犬と共に、人気のない町をゆっくりと走り出す。

 いつもの散歩コースを十五分ほど進み、折り返し地点の小さな湖にさしかかった所で、それは風に乗って彼の耳に届いた。

「歌声?」

 小さくて聞き逃してしまいそうな、けれど気付いてしまえば、二度と無視出来ない美しい声。

 低く、高く、優しく、力強く。

 声は一つしかないのに、まるで合唱団のようなハーモニーを奏で、この世のものとは思えぬ完璧な音楽を紡ぎ上げる。

「凄い……」

 エリックは感動のあまり言葉を無くし、光に集まる虫のように、フラフラと歌声の元に向かって歩き出す。

 朝靄が漂う幻想的な湖の岸辺に座り込み、冷たい水を楽しそうに裸足で蹴りながら、小声で歌を口ずさむ少女。

 それは可愛らしい転校生、ローラ・アルドリッジだった。

「We have already come――誰っ!?」

 彼の足音に気付いたローラは、美しい歌声を悲鳴に変えて振り返る。

「エリック?」

 そこに居たのが親切なクラスメートだと知った彼女は、パッと顔を輝かせたが、直ぐ気まずそうに俯いてしまう。

 しかし、鈍感な少年はローラの表情に気付きもせず、ただ割れんばかりの拍手を送った。

「凄いよローラ。俺、歌でこんなに感動したの初めてだ!」

「ワンワンッ!」

 シェパードも飼い主と同意見だとばかりに吠え、尻尾を振ってローラに駆け寄る。

「テイラーやアヴリルと同じくらい――いや、どんな歌姫よりも最高だった!」

「大げさだよ……」

 プロのアーティストより凄いと誉められても、ローラの顔は晴れない。

 そこに至ってようやく、鈍いエリックも彼女の様子に気付く。

「ごめん、歌の邪魔をしたから怒っているのかな?」

「そうじゃないの」

 謝られたローラは、慌てて首を横に振る。

「お父さんに『人前で歌っちゃ駄目だ』って言われてるから……」

 人気のないこんな早朝の湖で、しかも小声で歌っていたのはそれが理由だったのだ。

「変なの、あんなに凄いのに」

 納得がいかず首を捻るエリックに、ローラは困った顔で告げる。

「この事、秘密にしてくれる?」

「歌が上手い事をかい? 勿体ないな、ローラならアメリカン・アイドルで一位にだってなれるだろうに」

 歌手を発掘する人気テレビ番組で優勝する。

 即ち、トップアイドルへの道を保証されるという事だ。

 そんなシンデレラ・ストーリーも不可能ではないほど、ローラの歌声は素晴らしかったというのに、本人は固くなに拒否を示す。

「お願い、私達だけの秘密にして」

「分かった、絶対に言わないよ」

 可愛らしい転校生に涙目でお願いされ、エリックは赤くなって頷いた。

「その代わり、また明日もここで歌を聴かせてくれないかな?」

「いいよ。だから秘密してね、約束よ」

 ローラはもう一度念を押し、小指を差し出す。

 ジャパンのアニメでやっていた約束の儀式だと察し、エリックは彼女の指に己の指を絡めた。

 けれども、十三歳になったばかりの少年が、約束を遵守する事はなかったのだ。


             ◇


 少女が転校してきてから一週間が経った、六月のある日、崩壊の序曲となる事件は起きた。

「一緒にランチを食べようと思ってたのに、何処に行ったんだろう?」

 昼休み、ローラを探して校舎を歩き回っていたエリックは、思わぬ光景を目にして立ち止まる。

 彼女が派手な化粧のミランダ・ボネットとその取り巻きに、廊下の隅で囲まれていたのだ。

「何やってんだっ!」

 正義感に溢れる彼は、怒声を上げて少女達の間に割って入る。

 思い人の登場に、ミランダは内心動揺しながらも、虚勢を張って言い放つ。

「この子が調子に乗ってるから、ちょっと注意してやってただけよ」

「注意? 嘘を吐くな!」

「エリック……」

 彼の腕にすがりつくローラの手は震え、瞳には涙が浮かんでいる。

 親切心による忠告ではなく、悪意による罵声が浴びせられていた事は、鈍い少年とて流石に分かった。

「虐めなんて下らない真似をするな、ローラが何をしたって言うんだ!」

「それは……」

 貴方がこの子にばかり構うから悔しくて――などと、女王様のように振る舞ってきたミランダに言えるはずもない。

 けれども、彼女はほんの少しだけ素直になって告げる。

「ねえエリック、こんな暗い子に構うのは止めなさいよ」

「何っ?」

「貴方、数学以外は勉強が出来るし、ベースボールではスラッガーとして大活躍してるじゃない。そんな人にこんなつまらない子は似合わないわ」

 暗に自分の方が相応しいと言っているのだが、鈍い少年にはやはり伝わらない。

「馬鹿にするな、ローラはお前達なんて比べ物にならないくらい凄いんだぞ!」

 恋敵を目の前で庇われて、ミランダの目はさらに険しくなる。

「どこが? その歳でくわえた男の数とか?」

「きゃははっ、不潔~!」

 下品な罵声に追従し、取り巻きの少女達がせせら笑う。

 それで堪忍袋の緒が切れたエリックは、約束を忘れ叫んだ。

「ローラの歌は最高なんだ、プロだって裸足で逃げ出すくらいなんだぞ!」

「エリック!?」

 本人が驚いて止めようとしても、コップから零れたミルクが戻らないように、吐きだした言葉も消えはしない。

「……へー、なら聞かせて貰おうじゃない」

 母親が元歌手で、自分もその道を目指していたミランダは、怒りのあまりむしろ冷静になり、刺すような目でローラを睨む。

「歌いなさいよ。これだけ言って酷かったら、あんた一生私のパシリね」

「私は……」

「大丈夫だって。ほら、歌ってこいつらを見返してやろう」

「でも……」

 ミランダに脅され、エリックに背中を押されても、彼女は父親との約束が頭を過ぎって躊躇する。

 それでも、長い葛藤の末にローラは大きく息を吸い込む。

 虐めから逃れるためであり、強制されたせいでもあった。

 けれども、一番の動機は別にある。

 たった一人の大切な家族である、父親に命じられても抑えきれなかった、『歌いたい』という純粋な衝動。

「Amazing Grace, how sweet the sound――」

 奴隷商人として成り上がった男が、己の罪を悔い、神に捧げた賛美歌。

 数多のアーティストが歌ってきたその曲を、ローラは誰よりも見事に奏でる。

 彼女の美声を耳にした者達が、教室から、中庭から、次々と集まってきては、魂を震わせるその音色に、黙って耳を傾けた。

「――Than when we've first begun」

 歌い終わった時、人集りで埋まった廊下は、一瞬静まり返る。

 そして、校舎を揺るがすほどの拍手と歓声が鳴り響いた。

「最高……最高だわっ!」

「アンビリーバブルとしか言いようがないよ!」

 誰もが、彼女を虐めていた者達さえもが、思い付くかぎりの賞賛を送ってローラに握手をねだる。

 ただ一人、ミランダを除いて。

「…………」

 無言で立ち尽くす彼女の頬は、感動の涙で濡れていた。

 元歌手の母親に鍛えられ、生まれた時から音楽を学んできたミランダこそが、今の歌がどれほど素晴らしいモノか、誰よりも深く理解していたから。

 しかし、だからこそ、彼女はローラに背を向け、沸き立つ人の波を掻き分けて逃げる。

「何で、何で、何でっ!?」

 どうして神様は、自分がどれだけ努力しても絶対に勝てない、あんな天才をこの地に送り込んだのか。

 どうして、あの天才を自分の恋する男と巡り会わせたのか。

 どうして、私だけがこんなにも唐突に、全てを奪われなければならないのか。

 嫉妬、怒り、憎悪、悲しみ、絶望。

 あらゆる負の感情に苛まれ、年相応の子供に戻って泣きじゃくる少女の事を、鈍い少年はおろか他の誰一人として、気を払う事はなかった。

「やったね、ローラの歌はやっぱり最高だよ!」

「う、うん……」

 父親との約束を破った事が後ろめたく、素直に喜べずにいたローラも、エリックに強く抱き締められて、ようやく満開の笑顔を浮かべる。

 穏やかな日常も、輝ける青春も、今この時をもって終止符が打たれたというのに。


             ◇


 奇跡の歌姫として、ローラが一躍学校のアイドルとなってから二週間後。

 夏休みを目前に迎えたその日、欠席を重ねていたミランダが、ようやく教室に姿を現した。

 しかし、クラスメートの誰も、取り巻きをしていた女子達さえも、彼女になど目もくれずローラを囲んで騒ぎ続ける。

「ねぇねぇ、休みに入ったらオーディションを受けよう? ローラなら絶対に受かるって!」

「シャツにサインしてよ、デビューした後で皆に自慢してやるんだ」

「私、プロになりたい訳じゃ……」

「こらみんな、ローラが困ってるだろ」

「何だよエリック、恋人だからってマネージャー気取りはやめろよ」

「お、俺とローラは別に、まだそういう仲じゃ……っ!」

「照れるな照れるな」

 赤くなる二人をからかい、クラスメート達は陽気な笑い声を上げる。

 それがまるで、自分を嘲笑っているように聞こえて、ミランダは鬼のような形相を浮かべると、人垣を掻き分けてローラの前に立った。

「……っ、ミランダ、さん?」

 怯える彼女に、まるで悪魔のような笑みを浮かべ、夢も恋も奪われた少女は叫ぶ。

「サッサとこの町から去りなさいよ、化け物がっ!」

「――っ!?」

 ぶつけられた悪意よりも、その単語にこそ衝撃を受け、ローラは背を震わせる。

 エリックはそれに気付く事なく、ただ怒声を張り上げた。

「ミランダ、何て酷い事を言うんだ!」

「そうよ、謝りなさいよ!」

 彼に続いて、クラスメート達も次々とミランダを非難する。

 しかし、彼女の歪んだ笑みは全く崩れない。

「こいつの正体を知らないから、そんな事が言えるのよ」

「正体?」

 いきなり何を言い出すのかと、子供達は一様に首を傾げる。

 しかし、当人たるローラだけは、顔を強ばらせ震え続けていた。

 それで確信を深め、ミランダは崩壊の引き金となる言葉を紡ぐ。

「こいつは人間じゃなく、化け物――(マーメ)(イド)なのよ」

 人魚――人の上半身と魚の下半身を併せ持つ、伝説上の乙女。

 歌姫の正体がそれだと言われ、はいそうですかと信じるほど、彼らも子供ではなかったし、常識が欠けてもいなかった。

「何言ってるんだ、お前?」

「ローラに人気を取られて妬む気持ちは分かるけど、もうちょっとマシな嘘を吐いたら?」

 呆れ果てるクラスメート達に、ミランダは噛み付くように叫ぶ。

「本当よ、こいつは人魚なんだから。パパが調べ上げてくれたからんだから間違いないわ!」

 成功した事業家であり、溢れるほど金を持った父親。

 家族を愛する彼は、娘が登校拒否になった理由を知ると、その原因となった転校生の事を、人を使って洗いざらい調べ出したのだ。

「こいつ、この町に来る前も、何度も引越を繰り返していたの」

 父親が人でも殺して、逃げ回っているのだろうか。

 そう訝しみ、追求の果てに辿り着いた場所は、東端のニューハンプシャーからはアメリカ大陸の真反対にあたる、西海岸はオレゴン州。

「そこの漁師さん達が暗い顔で言ったんだって、『あいつは人魚に誑かされたんだ』って」

 妻も恋人も居ない男が、ある時から妙に浮かれた素振りを見せ、そして何処からか赤子を連れてきた。

 それがローラ、人間の父と人魚の母親から生まれた混血児。

「だからこいつは化け物なの、人間じゃないのよっ!」

「……お前、本気でそれを信じてるのか?」

 興奮してまくし立てるミランダに、皆は嫌悪と憐れみの目を向ける。

 ローラに母親が居ないのは知っていたが、離婚したか亡くなったか、何か理由があるのだろう。

 何度も引越を繰り返してきたのだって、仕事の都合なら仕方のない話だ。

 一人よりもずっと苦労してきただろう、彼女やその父親に向けて、人魚だ化け物だなどと罵るのは、それこそ人間のする事ではない。

 そう思うのが『当たり前』であったし、『常識的』であろう。

 けれども、狂気に片足を突っ込んでいた少女は、どんなに怪しく眉唾でも、憎い相手の汚点を信じた。

「本当よ、こいつは災いを呼ぶ化け物なの! みんなだって聞いた事があるでしょ、人魚は綺麗だけど、歌で船を沈める恐ろしい存在でもあるんだって。こいつの歌を聴いていたら、みんな不幸になっちゃうんだから!」

 少なくとも、そう叫ぶミランダが自尊心と惚れた男を奪われ、不幸になったのは事実だろう。

 だから、クラスメート達は気の毒そうな顔をしたが、彼女に同意する事はなかった。

「分かった分かった、話を聞いてやるから、まずは保健室に行こう」

「信じて! こいつは人魚なの、化け物なのよぉぉぉ―――っ!」

 二人の男子に両脇を抱えられ、ミランダは教室の外に連れ出されながらも、甲高い声で叫び続けた。

「何あれ、ヤバくない?」

「女の嫉妬は怖いね~」

「ローラ、気にしちゃ駄目だよ」

「う、うん……」

 エリックだけでなく、クラスメートの皆からも励まされ、ローラはまだ震えながらも頷き返した。

 そこで、一人の女子がふと呟く。

「でも、ローラなら人魚でも納得かな。美人だし、何よりあんな凄い歌を聴かせられたらね」

「あははっ、確かにな」

「よっ、人魚姫っ!」

 ミランダのせいで濁った空気を吹き飛ばすように、皆は揃ってはやし立てた。

 ローラもそれに、何とかぎこちない笑みを返す。

「ありがとう、みんな」

「大変だ!? ローラが人魚姫なら、王子様のエリックを殺しておかないと、泡になって消えちゃうじゃないか!」

「怖い事を言うなよ」

「おっ、ついにローラの王子様だって認めたか?」

 子供達の悪ふざけは、担任が来て朝のHRが始まるまで続いた。

 もしも本当に、彼女が人魚の血を引いているとしたら、いったい何が起きるのかなど、想像さえする事なく。


             ◇


 精神を病んだという理由で、ミランダが遠くの病院に運び込まれたが、子供というものは時として残酷で、その悲報に感心をはらう者は居なかった。

 なにせ、待ち望んでいた夏休みがついに始まったのだから。

 何時までも惰眠を貪れるようになったその日も、エリックは自らの意志で朝四時に飛び起きる。

「母さん、散歩に行ってくるね!」

「行ってらっしゃい、朝ご飯には遅れないでね」

 最近、愚痴も言わず早起きしてくれる息子を、母親はごきげんで送り出すが、その理由が『大好きな女の子と会うから』であるのはまだ知らない。

「行くぞ、レントン」

「ワンッ!」

 飼い犬も早く彼女の歌が聞きたいと、尻尾を振って走り出す。

 初めてあの素晴らしい歌を耳にした、小さな湖の畔。

 あれから毎日、ローラと密会していた場所に、その日は余計な人影があった。

「誰だ?」

 濃い朝靄が漂っていたため、ハッキリとは見えなかったが、ローラの前に見覚えのない人物が二人立っていたのだ。

「グルルル……ッ」

「レントン、静かにしろ」

 唸りだした飼い犬を小声で叱ると、エリックは屈んで朝靄に身を隠す。

 誰かは知らないが、もしローラによからぬ事を企んでいるなら、ベースボールで鍛えた腕で、殴り倒してやろうと思ったからだ。

 ヒーローを気取りながら忍び足で近付いていった彼は、人影の全貌が見えてくると、思わず息を呑んで立ち止まった。

 一人は牧師のような真っ黒い服を着た、二十代中盤くらいの男。

 そしてもう一人は、彼と同じか一つ年上くらいの、恐ろしいほど美しい少女だった。

 鮮やかな赤い髪とは対照的な、濃い紺色のワンピースを身に付け、怪我でもしているか左腕は厳重に包帯が巻かれている。

 横顔だけでもそれと分かる、整った顔立ちだけを比較するならば、ローラとて劣ってはいない。

 なのに、一度気付いたらもう二度と目を離せない、まるでローラの歌と同じような魔性の魅力が、少女の全身から香っていたのだ。

「……バカ、そんな場合じゃないだろ」

 見惚れていた自分に気付いたエリックは、浮気めいた罪悪感も相まって、慌てて首を振った。

 そんな事をしている間に、謎の少女が喋り出す。

「貴方がローラ・アルドリッジか?」

「はい、そうですけど……」

「歌ってくれないか」

「えっ?」

「貴方の歌を、聴かせて欲しい」

「…………」

 馬鹿丁寧だが感情に乏しい声で頼まれ、ローラは困惑して黙り込む。

 それを見て、後ろに控えていた黒服の男が口を開く。

「安心してくれ、君に危害をくわえる気はないし、アイドルのスカウトマンって訳でもない。ちょっと噂を耳にして、君の歌を聴いてみたくなった物好きのミーハーさ」

「はぁ……」

 学校での一件を耳にし、彼女の歌に興味を持ったとしても、こんな早朝の湖――エリック以外は知らない秘密の場所に現れた時点で、警戒するなというのは無理である。

 ただ、男の方はともかく、少女からはまるで悪意が感じられなかったので、ローラは戸惑いながらも一番好きで得意な曲、『アメイジング・グレイス』を歌い出す。

「Amazing Grace, how sweet the sound――」

 響き渡るその声を、謎の二人組は黙って聴き入る。

 そして歌が終わった時、男の方は自然と拍手を送っていた。

「凄いな、俺はロックしか好きじゃないんだが、賛美歌で魂が震えたのなんてこれが初めてだ。君のCDなら千ドル出しても惜しくない」

「あ、ありがとうございます……」

 大人でしかもハンサムな男に絶賛され、照れるローラの姿を見て、朝靄に隠れたエリックはムッと頬を膨らませる。

 そんな少年の嫉妬を余所に、赤髪の少女は首を傾げていた。

「不思議だ、エーテルが激しく動いているのに、黒く濁るどころか、どんどん綺麗に輝いていく」

「エーテ……何っ?」

 良く分からない事を言われて尋ねるローラに、少女は説明する事もなく、連れの男を振り返る。

「ジェイ、この子の歌はエーテルを振動させている。けれど、魔術とは何かが違う、不思議だ」

 再び首を傾げる少女は無表情だったが、どことなく嬉しそうで、黒衣の男は苦笑を浮かべた。

「魔術ではない、だが比喩表現ではなく、物理的に『魂』を揺さぶる声ね……」

 彼は吟味するように呟き、戸惑い続けるローラに向けて、不意に冷たい視線を送る。

「お前、本当に人間か?」

「――っ!?」

 ミランダの時と同様、悪意よりもその単語に衝撃を受け、ローラは身を震わせた。

 それを見て、様子を窺っていたエリックがついに飛び出す。

「ローラを虐めるなっ!」

 叫び、背後から手加減などせず殴りかかる。

 だが、コソコソと隠れていた少年の気配に、男はとっくの昔に気付いており、振り返りもせず攻撃を避けると、足を引っかけ転ばした。

「うわっ!」

「エリックっ!?」

 倒れ込むエリックに、ローラは悲鳴を上げて駆け寄る。

 男はそんな二人に背を向けると、連れの肩を叩いた。

「ナイト様もご登場したし、俺達はお暇するぞ」

「分かった」

 不思議な少女は素直に頷き、男と共に歩き去る。

 そんな二人の背中を、ローラは呼び止める。

「ま、待って下さい、貴方達は……」

 誰なのか――とまで言わなかったのは、正体をうっすらと感じ取っていたからだろう。

 男は振り返り、笑って告げた。

「どうも俺達の仕事じゃないようだし、犯罪をおかした様子もないから、何もしないさ。()()()な」

「…………」

「良い歌だって言ったのは本当だが、アイドルは目指さない方が懸命だろうよ」

 男は一度引き返し、素晴らしい歌の礼と迷惑料だとばかりに、百ドル札をローラに握らせると、今度こそ振り返らずに去っていった。

「何なんだよ、あいつら」

「……知らない」

 起き上がり土を払うエリックに、ローラは固い顔でそう言った。

 その言葉に嘘はない。けれども、これから何が起きるのかは、彼女の身に流れる血が知っていた。


             ◇


 不思議な二人組と出会った二日後、ローラは急に「海に行きたい」と言い出した。

 エリックはその願いを聞き入れ、二人はバスに乗って海岸へと向かう。

 まだ少し冷たい六月の海を、幼い恋人達は夢中で泳ぎ笑い合った。

 少女はこれが最後なのだろうという予感を抱き、少年はやはり何も気付かぬまま。

「楽しかったー、また絶対に来ような!」

「……うん」

 バスを降り、夕焼けで染まった町の中を、エリック達は並んで歩く。

 そこへ、一台の自動車が走り寄ってきた。

「ここに居られましたか」

 運転席から降りてきたのは、真っ白い祭服に身を包んだ中年の神父。

 ただし、町の教会に勤める神父とは別の、初めて見る人物だった。

「神父様が俺達に何か用ですか?」

「はい、そちらのお嬢さんを探していたのです」

 尋ねるエリックに答え、神父は柔和な笑みをローラに向ける。

「貴方のお父様が交通事故に見舞われたのです、直ぐ病院に向かって下さい」

「ローラのお父さんが!?」

「…………」

 エリックは驚き目を見開くが、ローラは動揺や心配ではなく、何故か恐怖を浮かべ彼の背に隠れてしまう。

 それを見ても神父は笑みを崩さず、優しげに手を差し出した。

「さあ、病院までご案内しますから、車に乗って下さい」

「ローラ、急ごう!」

 そろそろ反抗期を迎える十三歳の少年でも、教師や聖職者の言葉は正しく聞こえてしまうもの。

 エリックは神父の言葉を信じ込み、ローラの手を引く。

 けれども、彼女は足を踏ん張って抵抗し、首を激しく振った。

「……駄目っ!」

「駄目って、何が?」

「いいから、逃げてっ!」

 ローラは叫ぶと、神父に背を向け走り出す。

「ちょっと、どうしたの!?」

 エリックは訳が分からず戸惑いながらも、手を繋いでいたため仕方なく、彼女に並んで走った。

 冷静に考えれば、ローラの判断が正しい。

 本当に父親が事故に遭ったのなら、まずは彼女の持つ携帯電話に連絡が届くだろう。

 なのに、神父の格好をした見知らぬ男が迎えに来て、車に乗るよう勧めてくるなど、誘拐を企んでいるとしか思えない。

 そして、本物の神父だったとしても、嘘を吐かないという保証も、無害だという保証もないのだから。

「どうしよう……」

 エリックは走りながら一度振り返り、神父の様子を窺う。

 彼は困ったような笑みを浮かべながら、携帯電話でどこかに連絡をしていた。

「申し訳ありません……では、町の皆さんにお願いして……えぇ、よろしくお願い致します」

 微かに聞こえた神父の声に、悪意は欠片もない。

 けれど、少年は知らない。

 人は己を正義と信じるとき、罪悪感もなく他者を刺せるのだと。

「はぁはぁはぁ……」

 息が切れて立ち止まった時、二人はいつの間にか小さな湖の元に辿り着いていた。

「ローラ、本当にどうしたの?」

 膝に手を付き尋ねてくるエリックに、疲れて座り込んだローラは、僅かな沈黙の後に答えた。

「……私、ミランダさんの言ったとおり、化け物なの」

「はぁ?」

「私のお母さんは本当に人魚だって、お父さんが言ってた……だから私も、人魚の血を引いた化け物だって」

「何を言ってるの?」

 まだあんな悪口を気にしていたのかと、エリックは彼女の告白を笑い飛ばす。

 今日、海でローラの水着姿を見たけれども、鱗や水掻きのような、人魚を思わせる不審な点は何もなかった。

 まるでローレライのような美しい歌声を持つ事以外、彼女は紛れもなく人間だった。

「変な事を言ってないでさ、早く病院に行こう」

「…………」

 神父の言葉は鵜呑みにしながら、自分の言葉は信じてくれない彼に、ローラはもう言い返す気力をなくしてしまう。

 項垂れ沈黙する彼女に、エリックが困惑して立ち尽くしていると、遠くから大勢の足音が近付いてくる。

「居ました、あっちです!」

「本当だ、おーい!」

 声を上げ駆け寄ってきたのは、皆顔に見覚えのある町の大人達。

 その中には、エリックの母親も含まれていた。

「エリック、無事だったかい!?」

「ちょっと母さん、何だよいきなり」

 走り寄り、強く抱き締めてきた母親を、エリックは照れて押し退ける。

 その後ろで、ローラは小刻みに震えていた。

「嫌……っ」

「ローラ、どうし――」

「駄目よっ!」

 少女に近付こうとしたエリックを、母親が信じられないほど強い力で引っ張る。

「母さん?」

 さっきからどうしたのかと、見上げた彼の瞳に映ったのは、母親が今まで一度も見せた事のなかった、恐怖と嫌悪で歪んだ顔。

「駄目よ。あの子は魔女なの、神様の教えに背く化け物なの、関わっては駄目!」

「母さんまで何を馬鹿な――」

「そいつは本物の化け物だっ!」

 エリックの声を遮ったのは、集まった大人達の中で最も険しい顔をした初老の男性。

 彼こそが精神を病んだ少女、ミランダ・ボネットの父親だった。

「怪しい歌で子供達を誑かし、私の娘を虐め抜いた悪魔の使いだっ!」

「あれはミランダが悪い――」

「化け物め、魔女めっ!」

 ミランダの父親に続いて、他の者達までもがローラを睨み罵倒する。

 鬼気迫る大人達の様子に、エリックは気圧されながらも必死に言い返す。

「みんなおかしいよ、変だよ! ローラは化け物なんかじゃない、人魚なんか居る訳ないだろ!?」

「魔女め、汚らわしい怪物めっ!」

 少年の訴えは、またしても大人達の声に掻き消されてしまう。

「エリック、あの子を庇っては駄目、あれは人間じゃないのよ!」

「母さん……」

 十三年間、離れる事なく共に過ごした優しい母親までもが、皆と口を揃えて恐ろしい叫びを上げる光景に、エリックは足下が崩れていくような感覚に襲われ、何も言えなくなってしまう。

 親切で正義感に溢れ、けれど自分の事しか見ていなかった、鈍く愚かな少年は知らない。

 集まった大人達の中で、本当にローラを化け物――神の教えに背く存在などと信じている、敬虔で狂信的な信徒など極一部にすぎない。

 殆どはミランダの父親――事業家として財を成し、町の発展に貢献した有力者が、愛する娘を不幸にした余所者を許すまじと叫ぶのに、ただ同調しているだけだと。

 そして、手を回し人々を操っているのが、自らを正義と信じ、化け物の抹殺を至上の目的とした、神の使徒達である事を。

「皆さん、その子を責めてはなりません」

 ふと響いた穏やかな声が、狂乱する大人達を鎮める。

 声の主は、変わらず柔和な笑みをたたえて車から降り立った、白い祭服の神父。

「子は親を選べぬのです。化け物の母親から生まれたのは、この子のせいではありません」

「しかし、こいつは私の娘を――」

 憤るミランダの父親を、神父は手で優しく制す。

「貴方の言うとおり、この子は罪を犯しました。自身に責任がないとはいえ、汚れた血が流れているのもまた罪。だからこそ、私が預かりに来たのです」

 神父はそう言って人々を下がらせ、座り込むローラに再び手を差し出す。

「さあ、私と共に主の御許で、その罪を償いましょう」

 微笑む聖職者の瞳は、どこまでも優しく純粋だった。

 まるで、虫の足をもいで喜ぶ赤子のように、悪意のない残酷さを秘めて。

「嫌っ……嫌あぁぁぁ―――っ!」

 鈍い少年とは違い、感受性の鋭い少女は、神父の奥底にあるものを見抜いたのだろう。

 悲鳴を上げ逃げようとするが、それを大人達が押さえ付ける。

「暴れるな、神父様の元で罪を償うんだ!」

「そうよ、貴方にとってもそれが一番なの」

「放して! 嫌なの、やだよぉぉぉ―――っ!」

「やれやれ、仕方のない子ですね」

 激しく暴れるローラを見て、神父は肩を竦めると、隣の青年に視線を送った。

 町の大人達と混ざるように普通の格好をしていたが、おそらく神父の部下なのだろう。

 彼はローラに近寄ると、他の者達には見えないよう巧みに、鳩尾に拳をめり込ませた。

「かはっ……!」

「さあ、大人しく車に乗りなさい」

 激痛のあまり悲鳴も出せなくなった少女を、青年は見た目だけ優しく抱きかかえ、神父の車へと運ぶ。

 その横で、神父は協力してくれた町の大人達に深々と礼をする。

「皆様、ご協力ありがとうございました。御陰でまた一人、哀れな子羊を救う事が出来ました」

「いいえ、主に仕える者として当然の行いをしたまでです」

「…………」

 敬虔な信者は迷いのない目で、有力者の圧力に負けた者達は気まずく目を逸らしながら、神父の行いを容認する。

 一人、ミランダの父親だけが納得のいかぬ表情を浮かべていたが、ローラを車に運び縛り上げていた青年とは別の、神父の部下らしき女性が何かを耳打ちすると、顔を輝かせ邪悪に笑った。

 それを見て、大人達の空気に呑まれ、黙っているしかなかった少年も、ようやく少女の行く末に気付く。

「待って、ローラを返せよっ!」

「エリック、止めなさい!」

 母親の制止も振り切り駆け出すが、彼女を乗せた神父の車は無慈悲に走り出す。

「止めろ、ローラを殺すなぁぁぁ―――っ!」

 夕焼けの空に響いた悲痛なその叫びを、集まった大人達は確かに聞きながら、誰もが目と耳を逸らすのだった。


             ◇


 手足を縛られたうえに猿轡までかまされ、後部座席に寝かされたローラに、神父は車の運転を続けながら優しく告げる。

「何も怖がる事はありません。貴方もお父様と同じ所へ行くだけなのですから」

 神の教えに背き、人魚などという汚らわしい化け物と密通した男を、狂信者達が生かしておくはずもない。

「――っ!?」

 父親がもうこの世に居ない事を悟り、ローラは声を出せずに咽び泣く。

 けれども、敬虔な神の使徒は、人間ではないモノの涙に動かす心臓を持ち合わせていない。

「汚れた貴方達の魂が、主の下に行く事はないでしょう。けれども、少しでも安らかな眠りが訪れるよう祈っておりますよ」

 口調だけは優しい死の宣告。

 逃れられぬ最期を前に、口を塞がれた少女はただ泣き続けるしかない。

 だが、町を出て人気のない林道に入った所で、救いの手は唐突に現れる。

 パンッ――と破裂音が響いたかと思うと、車が激しく揺れ出したのだ。

 タイヤがパンクしたと悟った神父は、慌ててブレーキを踏む。

 制限速度を守っていた事もあり、車は道路からはみ出したものの、何とか木に衝突せず止まった。

「これは……やはり、そういう事ですか」

 冷や汗を拭って窓の外を見た神父は、タイヤが突如パンクした理由を知り溜息を吐く。

 衝撃で後部座席から転げ落ちていたローラも、縛られた体で何とか這い起き、車外に目を向ける。

 夕日で染まった道路を悠然と歩き、近付いてくる二人組。

 それは先日、彼女の元を訪れた不思議な少女と黒衣の男――エル・イリム・ワンとジョン・ルーザーだった。

「魔術師の猟犬が、いったい何のご用でしょうか?」

 車を降りた神父は、狙撃銃――レミントン・MSRを持った黒犬の隊員に、全く動じる事なく問い掛ける。

 彼の胆力に感心しながら、ジェイは素っ気なく答える。

「上司の命令でな、ちょっとしたボランティア活動をしに来た」

 彼らの職務は不法な魔術師を狩る事。

 だからこれは仕事ではなく、子供好きな童顔の魔術師が起こした気まぐれ。

「ローラ・アルドリッジはこちらで保護する、引き渡してくれ」

 そのためなら武力行使も辞さない覚悟は、タイヤを射抜いた事で示している。

 しかし、敬虔な神の使徒が、主の言葉以外には従わない。

「人外の相手は我々『(ホワ)(イト)(・オー)(ダー)』の勤めです、どうかお帰り下さい」

 人並みの体術を心得ているだけで、武器もなく、まして魔術や超常の力など持たぬのに、神父は決して退かない。

 己の死すら全く恐れていない瞳と向き合い、ジェイは僅かに鼻白む。

「ったく、これだから狂人は……」

 この場で神父を殺し、哀れな少女を救うのは容易い。

 だがそれは、全世界に二十億と居る神の信徒、全てを敵に回すのと同義。

 故に、ジェイは銃弾ではなく、詭弁を持って立ち向かう。

「悪いが、そもそも前提が間違っていてな」

「と言いますと?」

「ローラ・アルドリッジは、お前らが滅ぼしたくて堪らない、人外の化け物じゃない」

「――っ!?」

 その言葉に、神父だけでなく、車の中で話を聞いてたローラ本人も目を見開く。

「彼女が人魚の子供ではなく、ただの人間だと?」

「その通りだ」

「では、子供達を誘惑したという、邪悪な歌はどう説明するのですか?」

 当然上がるその疑問に、ジェイも当然答えを用意してある。

「魔術だよ、『(カース・)(ソング)』ってやつだ」

 呪歌――ただ呪文を読み上げるのではなく、旋律をつけ奏でる事で、力を増幅させる魔術の一種。

「ローラ・アルドリッジは魔術師だが、人間である。つまり化け物ではない」

 イリムに検分させ、自ら否定したその可能性を、ジェイはぬけぬけと口にした。

 もっとも、全くの嘘という訳ではない。

 世の中には何の修練も積まず、持って生まれた才能だけで、そうとは知らず魔の力を操る者が居る。

 才能と言うのは語弊があるが、イリムもその一人だ。

 そして、母親の胎内に居ながら人を殺すような、超能力の持ち主とて存在するのだ。

 ローラがそういった異質な力を持つ、だが人間にすぎない可能性は十分にある。

「だいたい、お前らは人魚だって確証を取ったのか? その子にエラでもあったか? 血が青色だったか? 水に浸けたら足が尾に変わったか?」

「…………」

 神父は答えられない。確認などしていなかったし、必要もなかったからだ。

 灰色は黒、疑わしきは罰する。

 汚れなき完璧な白しか許さない、それが彼の仕える白騎士団であったから。

「川に重しをつけて放り込み、溺れたら無罪、浮かんできたら有罪とでもする気だったか?」

「魔女や魔術師も、私達から見れば怪物と変わらぬ邪悪ですが?」

 中世ヨーロッパの魔女狩りを引き合いに出した嘲笑にも、神父はやはり動揺しない。

「それを言われると辛いな……」

 ジェイは大した困った様子もなく、頭を掻いて反論する。

「だが、邪悪であろうと人間だ。お前らの信じる神様が作った、魂を持つ生命だ。それに贖罪のチャンスも与えず命を奪う事を、お前らの主は望んでいるのか?」

「…………」

 神の慈悲を引き合いに出されては、狂っていても敬虔な信徒は黙るしかない。

「……いいでしょう。ローラ・アルドリッジもまた迷える子羊の一人であるならば、悔い改める機会は与えられねばなりません」

「分かってくれて嬉しいよ」

 ジェイは心にもない礼を告げ、隣の連れを顎で促す。

 イリムは頷き、車に歩み寄り後部扉を開けると、縛られていた少女を解放した。

「立てるか?」

「は、はい……」

 ローラは急な事態にまだ混乱していたが、命が助かった事だけは理解し、安堵の涙を零してイリムの手を取った。

 その姿を横目で窺った後、神父は最後の問いを告げる。

「しかし、貴方達のような黒き者の元に、迷える子羊を預ける訳にはいかないのですが?」

「それなら心配無用だ、この子は遠い外国の教会に預ける」

 どこかの童顔がお気に入りの、宗教に対して緩いため、人外であろうと容易く受け入れる東の島国。

 そこならば、人魚の娘であろうとも、今日のような迫害を受ける事はないだろう。

「分かりました、それならば結構です」

 例え遠い異国であろうとも、教会であれば彼らの組織とパイプは繋がっており、少女の動向を窺う事など容易い。

 なので、神父はようやく納得した顔を見せ、ジェイもホッとして肩の力を抜く。

 その横で、自分の行く末を勝手に決められたローラは、大人しくイリムに手を引かれ、木陰に隠されていた彼らの自動車に乗り込んだ。

「……あの」

 僅かな逡巡の後、ローラは世間知らずそうな少女ではなく、運転席に座った黒衣の男に問い掛ける。

「何だ?」

「私のお父さんは……」

 僅かな希望に縋り付く彼女に、ジェイは勤めて平淡に告げる。

「遺体は引き渡すよう交渉する」

「……はい」

 神父の言葉が事実だったと知らされ、ローラは全身の力が抜け、亡骸のように項垂れた。

 父親はもうこの世に居ない。人魚だと言われる母親は、そもそも顔さえ知らず、仮に生きていたとしても会う事は一生ないだろう。

 人魚と子を成した時に、厄介事を嫌った親類縁者から絶縁されたと聞いている。

 つまり、彼女はたった一人の肉親を失い、天涯孤独の身になったのだ。

「外国でも何処でも、好きに連れて行って下さい……」

 もう失うモノはなく、何処に行こうとも変わらない。

 捨て鉢に告げる少女の元に、たった一つ、最後に失うモノが届く。

「ローラァァァ―――ッ!」

 三人が乗り込み、木陰から出た車の後ろから、少年の叫び声が響いてくる。

「エリック……」

 湖からずっと走って追ってきたらしく、汗まみれになり膝は震えながら、彼は愛しい少女の元に辿り着く。

「ローラ、一緒に逃げよう!」

 車の窓にしがみつき、開口一番そう叫んできたエリックに、ローラはほんの刹那顔を輝かせ、直ぐに氷のように固まった。

「逃げるって、何処へ?」

「何処だっていいよ、俺達が幸せに暮らせる所なら」

「だから、そこは何処なの? そこでどうやって暮らしていくの? お金はどうするの?」

「それは……何とかする、絶対に何とかするから!」

 自分に向けてくれる少年の情熱を、ローラは今でも好ましく思う。

 けれども、平穏な日常という夢から覚めた今の彼女には、幼稚で我が侭な子供にしか映らないのも事実だった。

「無理よ、貴方も私も子供で、何の力もないもの」

「なら強くなるよ。そして君を守るから!」

 現実の見えていない、どこまでも鈍い少年の言葉に、大人しかった少女の顔に憤怒が宿る。

「守る? 貴方が? 私がこんな目に遭ったのは、貴方が約束を破ったからじゃないっ!」

「――っ!?」

 ハッキリと口にされた事で、エリックもようやく理解した。

 彼女の歌を秘密にする、その約束を守ってさえいれば、こんな事にはならなかったのを。

「でも、あれは、虐められていたローラを助けようとして……それに結局、歌ったのは君じゃないかっ!?」

 彼の言うとおり、結局はローラの自業自得。

 歌いたいという欲望に負けたから、エリックに知られ、大勢の生徒が居る学校で披露し、そして父親を死なせてしまった。

 それが違えようのない事実。

 だからといって、少年の幼く醜い自己保身の言葉を許すには、彼女もまた子供すぎた。

「……車、出して下さい」

 ローラは別れの言葉すら口にせず、少年から顔を逸らす。

 ジェイは無言でその願いを聞き入れ、アクセルを踏み込んだ。

「ローラ……ローラァァァ―――ッ!」

 追いかける体力と気力を失っても、エリックは最後まで彼女の名を呼び続けたが、人魚の娘が振り返る事はなかった。

 そんな彼らを余所に、神父が携帯電話で車の修理を依頼していたのが、酷く滑稽だった。

「大人だな」

 ジェイの呟いた言葉は、賞賛だったのか憐れみだったのか。

 それを尋ねる事はせず、ただ顔を背け続けるローラに、ずっと沈黙を守っていたイリムが声をかける。

「歌ってくれないか」

「えっ?」

「貴方の歌は、とても心地よかった。だから、もう一度聴かせて欲しい」

「…………」

「お前はもうちょっと空気を読めよ……」

 その歌が原因で全てを失ったというのに、悪気もなく頼み込んでくる彼女に、ローラは驚いて目を丸くし、ジェイは呆れ果てて溜息を吐く。

「駄目か?」

 彼女の心情も知らず、ただ無邪気に首を傾げるイリムを見て、ローラは不意におかしくなって吹き出した。

「ぷっ……ふふ、あはははっ!」

「ジェイ、私は何か変な事を言っただろうか?」

「お前は存在自体が変なんだよ」

 どうして笑われたのか分からず、また首を傾げるイリムに、ジェイは説明する気も失せてタバコをくわえた。

 そんな二人のやり取りがまたおかしくて、ローラは涙が出るほど笑ったあと、ゆっくりと息を整えた。

「一回だけですよ」

「分かった、ありがとう」

 頷き耳を澄ませるイリムに向けて、ローラは歌い出す。

 これが最後のコンサート、人を不幸にする人魚の歌は、もう二度と奏でられる事はない。

 そう決意したからこそ、喉を壊すほどの想いを込めて、少女は歌声を響かせる。

 魔術や人魚など関係なく、心を持った『人』だけが紡げるその音楽を、二人の観客と夕日だけが聴いていた。



 後日、ある町の少年が何事もなかったかように、日常生活に戻る姿が目撃されたが、大人達の恐ろしい側面を知ってしまった彼が、本当に平穏を取り戻せたのか、幸せになれたのか、それはまた別の物語。



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