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【第七話 昔日―past―】

挿絵(By みてみん)



 アメリカ合衆国の東側に位置するバージニア州は、五月を迎えて随分と温かくなり、バージニアビーチには気の早い海水浴客が集まり、泳ぎやサーフィンを堪能してる。

 そんな海岸からは少し離れた州都リッチモンド市の、とあるアパートの一室は、約十ヶ月ぶりに主人を迎え入れていた。

「泥棒には入られなかったようだが、酷いなこりゃあ」

 部屋の主――ジョン・ルーザーは、足跡が残るほど積もっていた玄関の埃に、早くもホテル暮らしが恋しくなって溜息を吐く。

 その横を通り、元物置部屋に入った修道服の少女――エル・イリム・ワンは、久しぶりに対面した自分のベッドを触り、不思議そうに首を傾げる。

「ジェイ、ベッドがジメジメしているうえに、変な臭いがするのだが」

「そりゃあ、湿気も取らずにこれだけ放置していれば、カビくらい生えるだろうよ」

 月に一回でも業者に掃除を頼んでおくべきだったかと後悔しつつ、ジェイは旧式でうるさい掃除機に手を伸ばした。

「まぁ、これも社会勉強だ、今日は掃除の仕方を教えてやる」

「分かった」

 頷くイリムにハンディモップを持たせ、彼らは早速掃除を始めた。

 棚やテーブルの埃を払い、それを掃除機で吸い集め、ベッドのシーツや毛布を剥ぎ取り、近所のコインランドリーで洗い、乾燥機にかけて持ち帰る。

 そうして、部屋がようやく綺麗になったのは、空が茜色に染まった頃だった。

「ご苦労さん、掃除を体験した感想は?」

「疲れるな」

「そうだろうよ」

 額にうっすらと汗をかいたイリムに、ジェイは洗濯のついでに買っておいた缶ジュースを投げてやる。

 毎日ホテルにこもってテレビばかり見ているからだ――という説教も浮かんだが、こちらは彼女の責任とも言い切れないので自重する。

「ジェイ、シャワーを使ってもいいか?」

 イリムはそう言い、そろそろ暑苦しくなってきた修道服を摘む。

 だが、彼女が長風呂である事を知る保護者は、首を横に振った。

「少し待て、もうじきあの怠け者が来るからよ」

 そう告げた途端、まるで見計らったかのようにチャイムが鳴った。

 ジェイが玄関扉を開けると、待っていた来客こと童顔の魔術師――ジル・アドキンスが立っていた。

「やあ久しぶり、元気にしていたかい?」

「おかげさまで、上司がふざけている事を除けば万事問題ねえよ」

「あはははっ、それは結構だねぇ」

 部下の嫌味にまるで動じず、ジルは大きなバッグを抱えて部屋に中に入っていった。

 そして、リビングで待っていた少女に手を振る。

「やあイリムちゃん、元気そうだね」

「こんにちは、ジル。元気そうだな」

 オウムのような返事に、童顔の魔術師は呆れたりせず微笑し、荷を下ろしてソファーに腰掛けた。

「とりあえず、何か飲み物をくれるかな? 久しぶりに外を歩いたから、喉がカラカラになっちゃったよ」

「お前もたまには運動しろ」

 イリムとは違い、自分の意志で部屋に引き籠もっている不健康な上司に、ジェイは冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを取って投げ付ける。

 そして、自分の分として缶ビールを掴むと、長い無駄話を始めないうちにと、素早く本題に入った。

「で、ご命令通り帰って来てやったが、いったい何の用だ?」

 悪魔の魅了によって、黒犬の隊員達に不和や騒動をもたらすとして、本部施設のあるこのリッチモンドには近付かぬように言われ、各地を点々としていたイリムとジェイ。

 そんな彼らがめでたく十ヶ月ぶりに帰還したのは、直属の上司であるジルが命じたからだったのだ。

「ホテル代を払う予算が無くなったから、なんて言うなよ」

「あははっ、僕等もそこまでケチ臭くはないよ」

「じゃあ、こいつに誑かされた奴らが、ようやく正気に戻ったのか?」

 隣に座るイリムを指さすと、ジルは深く頷いた。

「隊員達の方は概ね大丈夫かな。僕やアランに時々尋ねてはくるけれど、普通に子供の心配をしているだけで、君から奪い取ろうって気配はないねぇ」

「つまり、黒犬の隊員じゃない、何処かの才能なしが問題って事か?」

 ジェイの鋭い指摘に、魔術師はその童顔を苦笑で歪ませた。

「あんまり駄々をこねるんで、僕が直々に『(ギア)()』を掛けてやったから、お姫様を救い出す騎士ごっこはしないと思うけどねぇ」

「退治されるべき悪い魔法使いは、むしろあっちだろうが」

 愛しいイリムを自分のモノにするため、魔術まで使ってこのアパートに不法侵入してきた魔術師エドガー・スタントン。

 彼に随分恨まれているだろうジェイは、上司の処置を聞いて胸を撫で下ろした。

「内容は『イリムに近付くな』か?」

「その通りだよ。君だけ襲撃されたり、人を使ってイリムちゃんを誘拐される恐れが残るから、出来ればもうちょっと複雑な約束をさせたかったけど、仮にも相手は魔術師だからねぇ」

「何も無いよりはマシさ」

 珍しく申し訳なさそうな顔をするジルを、ジェイも責めたりはせずビールをあおる。

 (ギア)()――ある約束を定め、それを破ろうとすれば心身に多大な苦痛を与える、絶対遵守の契約魔術。

 高圧電流の流れる犬の首輪、というと分かり易いか。

 遥か格上の魔術師であるジルにそれを掛けられては、エドガーもイリムからは手を引くしかない。

「まぁ、すっかり拗ねてバーモント州の実家に引き籠もっちゃったし、心配しなくていいと思うよ」

「ありがたいね、これでようやくグッスリと眠れる」

「そういえば、君のトラウマ直撃だったっけ? よく撃たなかったよねぇ」

「タイミングからして、身内だろうと察しがついたからな。それでも、イリムの方じゃなく俺の部屋に入っていたら、躊躇いなく撃ち殺していただろうよ」

 そう言って笑う大人二人を見て、イリムは首を傾げる。

 同じ部屋で寝泊まりしている彼女の知る限り、ジェイが不眠症を患っている様子はなかったし、トラウマとやらが何の事か分からなかったからだ。

 聞いてみようかと口を開きかけたイリムだが、それよりも先に童顔の魔術師が本題を話し始める。

「君達を呼び戻したのは、今の話を伝えるためと、あとはこれを渡したくてねぇ」

 言いつつ、持ってきた大きなバッグを開き、中身をテーブルの上に並べる。

 それは少女向けのワンピースやニーソックスという、普段着の一式が二組と、目立たないよう同色の糸を使いながらも、複雑な模様が織り込まれた包帯だった。

「イリムちゃん用の夏服だよ。その修道服だと暑いだろうし、一着だけだと洗濯とか大変そうだしねぇ」

「遅えよ、俺がどれだけ苦労したと思ってやがる!」

「苦労していたのか?」

 驚いたと首を傾げるイリムに、ジェイは軽く拳骨をかましつつ、並べられた衣服を手に取る。

「これも女の髪で出来ているのか?」

「そうだよ。最初の修道服でストックが切れちゃったから、集めて着色して服まで仕上げるのに、随分時間が掛かっちゃったよ」

 一枚の布に織り上げられるほど、長い髪を持った女性。

 しかも、染めたりパーマで痛めたりせず、さらに欲を言えば汚れの無い乙女。

 そんな希少人物を捜し出し、大切に伸ばしてきた髪を譲って貰うのがどれほど困難かは、言うまでもない。

 といっても、ジルは金を出しただけで、実際に奔走したのは普段諜報活動に従事している黒犬の隊員達だったが。

「肌を覆う面積が減った分、どうしても効果は少し落ちるけど、それでも『可愛い子が居るな』と思われる程度だよ」

「なら問題ない」

 悪魔の魅了など関係なく、元から整った容姿のイリムである。

 そんな視線は修道服を着ていた時も浴びていたので大差ない。

 まさかあの魔術師共は、顔でこいつを選んだのだろうか――と、もう確認しようもない疑問を浮かべつつ、ジェイは服を置き模様の入った包帯を手に取る。

「これは左腕に巻けばいいんだな」

「うん、でも小手と違ってワンタッチで着脱とはいかないから、巻き方を教えるねぇ」

 そのために珍しく外出したのだと、童顔の魔術師はジェイの手から包帯を受け取り、修道服の少女を手招きする。

「ほらイリムちゃん、左手を出して」

「分かった」

 素直に頷き、小手を取ろうとしたイリムを見て、ジェイは慌てて席を立つ。

 小手と修道服、その片方が欠けただけでも、微量ながら悪魔の魅力が解放されてしまうのだから、当然の反応であった。

「俺は部屋に居るから、終わったら呼んでくれ」

「イリムちゃんの柔肌を観察するチャンスだよ? それとも、もう見飽きてるかい?」

 ふざけた事をぬかす魔術師に、ジェイは近くにあったテレビのリモコンを投げ付けると、自室に入って扉に鍵をかけてしまう。

 イリムはそれに首を傾げつつ、小手を取って裸の左腕をジルの前に差し出した。

「よく見ててよ、まずは人差し指にかけて――」

 童顔の魔術師は少女の隣に座り、指先から手首、前腕へとゆっくり包帯を巻いていく。

 終わったら一度解き、今度は自分の腕で実演しながら、片手で巻く方法を教えてやった。

 イリムは彼の真似をし、悪魔の宿る左腕を白い包帯で覆っていく。

 慣れぬ作業に悪戦苦闘しつつも、練習を続けること数十分、彼女は目を瞑っても巻けるほど習熟した所で、ようやく納得して手を止めた。

「いやいや、優秀な生徒だねぇ。これならジェイも楽チンだ」

 ジルに頭を撫でて褒められ、イリムは照れるように首を傾げつつ、包帯の巻かれた左腕を見る。

 そこに居る、自分であった、自分ではないモノ。

「……ジル・アドキンス」

「何だい?」

 いきなりフルネームで呼ばれ、意外そうに聞き返してきた童顔の魔術師に、イリムは躊躇うように一瞬沈黙してから、その問いを口にした。

「ジルは自分の名前を、どうやって付けたんだ?」

「えっ?」

 それを聞き、常にふざけている魔術師から、一瞬笑顔が消える。

 だが、少女に悪意はなく、彼が危惧したような意図はないと悟り、直ぐに笑みを取り戻した。

「イリムちゃん、名前っていうのは普通、両親とか自分以外の人間が付けてくれるものだよ」

「そうだったな」

 最初の呼び名Lilim・Oneも、今の名前エル・イリム・ワンも、人が付けてくれたものだったと思い出し、彼女は勘違いを反省するように頷いた。

 それに微笑みながら、ジルは前言を撤回する。

「といっても、僕の名前は自分で付けたんだけどね。本名じゃなくてペンネームみたいなものだけど」

 自分の名前を知られた悪魔が、人間の下僕になってしまうという逸話があるように、名前はそれだけで強い力を持つ。

 魔術に限らずとも、人は名前の持つ力を知っている。

 騒がしい人混みの中でも、自分の名前だけは聞き分けられる事など、最も身近な例だろう。

 人は名前によって『自分』を認識する。

 故に、名前と共に魔術を掛けられれば、それを『自分に向けられたもの』と認めてしまい、術を跳ね返せなくなる。

 そういった事態を避けるため、一流の魔術師は本来の名前を隠し、普段は偽の名前を使うのだ。

 例え『ジル・アドキンス』に術をかけられても、それは『本当の自分』ではないから意味が無いと、己の身を守るために。

「それで、イリムちゃんは誰かに名前を付けたいのかな?」

 複雑な魔術の話はせず、そして本来の名前を明かす事もせず、そう尋ね返してきたジルに、イリムは素直に頷いた。

「名前を付けたい。でも、良い考えが浮かばない」

 だから、参考としてジルに尋ねてみた訳である。

「ふ~ん、名前ねぇ」

 それが何に付けられるのか、そこに至った経緯、その結果として何が変わるのか。

 全てを察した童顔の魔術師は、興味深そうに口の端を上げながら、話をこの場に居ない者へと逸らした。

「ちなみに、ジェイの名前は結構訳ありなんだけど……聞きたいかい?」

「聞きたい」

 躊躇なく頷いたイリムを見て、ジルはますます笑みを深めつつ、まだ二十世紀だった頃の事を語り始めた。

「ここからずっと西にある、コロラド州での事件が始まりでね――」


             ◇


 アメリカ合衆国西部、コロラド州。

 州を東と西に両断するようにロッキー山脈がそびえ、深い渓谷とそれを彩る森林、雄大な川や湖、砂丘や奇怪な岩山までと、あらゆる自然が一つに詰まった山岳地帯。

 といっても、都市部に住む人々の暮らしは、他の州と大差ない。

 そして、常識から外れた力に手を染め、己の欲望を満たそうとする犯罪者のやる事も。

「た、頼む、見逃してくれ。あと少しで長年の研究が叶うんだ!」

 州都デンバーに続いて大きな都市、コロラドスプリングスのとある一軒家で、一人の老人が無様に這いつくばり命乞いをしていた。

 彼の前に立つのは真っ黒い特殊部隊のスーツを着た者達――黒犬が三名。

 その隊長である大柄な女――ヒルダ・エヴァーツは、『弾避けの護符』なんてチャチな物では逸らしようもない、巨大な杭打ち機を老人の頭に突き付けながら、不愉快そうに唇を歪めた。

「この状況で、何を話したら許して貰えると思ったんだい?」

 ヒルダは老いた魔術師から意識を逸らす事なく、彼の背後を一瞬窺う。

 そこには、赤い血で描かれた魔法陣と、その塗料となって枯れ死んだ赤ん坊が転がっていた。

「ほら、話してごらんよ殺人鬼?」

 隠す気もなく殺気を撒き散らす女隊長に、赤子を攫い殺した老魔術師は、よくぞ聞いてくれたとばかりに目を輝かせて叫んだ。

「若返りの秘術だっ! これが完成すれば、人類は老いの恐怖から解放され――」

 ドゴンッ!

 言い終わる前に、炸裂音と共に巨大な杭が打ち出され、老人の薄汚い口を頭ごと粉砕した。

「良かったね、これでもう老いぼれる心配はないよ」

 古きは去り、新しき者達へと道を譲る。

 そんな自然の摂理も守れず、赤子を犠牲にしてまで生き永らえようとした老魔術師に、ヒルダは躊躇いなく唾を吐き捨てた。

「引き上げるよ、袋を持ってきな」

「はい」

 部下の一人に死体袋を取りに行かせ、ヒルダは床に深く食い込んだ杭を掴む。

 力尽くで杭を引き抜いたその時、微かな声が彼女の鼓膜を震わせた。

「聞こえたかい?」

「はい、キッチンの方からでしょうか」

 残ったもう一人の部下も幻聴ではないと頷き、女隊長は警戒しながら声のした方へ向かう。

 老人の一人暮らしにしては、随分と広い台所。

 その足下から、声は響いているようだった。

「これだ、ワインセラーかね」

 台所の隅にあった引き上げ戸を開けると、地下へと続く階段が現れる。

「魔術師って奴らは、どうしてこうジメジメした所を好むんだか」

 ヒルダは愚痴りつつも、マグライトを点け階段を下りていく。

 ワインが置かれる事もなく、埃ばかりが積もった狭い部屋。

 そこに、生後半年ほどの赤ん坊が布に包まれ放置されていた。

「うぅ、だぁ~」

 お腹が空いているのだろうか、ぐずるその赤ん坊を、女隊長は杭打ち機を捨てて抱き上げる。

「あんただけでも、救えて良かったよ」

 一歩遅ければ、この子も老人の愚かな野望に捧げられていたのだろう。

 自分達の仕事は決して無駄ではなかったのだという実感が、赤ん坊の小さな掌から感じられて、逆に救われた気分になりながら、ヒルダは部下と共に引き上げていった。

 死者一名、救助者一名、遺体が発見さなかったため確証はないが、犠牲になったと思われる行方不明者が四名。

 そんな幼児誘拐殺人事件も、犯人の魔術師がその場で処分された事により解決をみた。

 一つだけ、小さな問題を残して。

『子供の親が見付からないって?』

「あぁ、身元が分かる物は持っていなかったから、被害者の親達に直接確認して貰ったんだが、全員がうちの子じゃないと言うんだよ」

 コロラドスプリングスのホテルに残り、事後処理を済ませていたヒルダは、問題の赤子を膝の上で寝かしつけながら、上司に電話でそう報告した。

「顔やら性別が違うと言われてね。念のため血液型なんかも調べてみたが、やっぱり誘拐されたと被害届を出していた連中の子ではないらしい」

『じゃあ何処の子なの?』

「知らないよ。育児費に困った貧乏人か、不法移民からでも攫ったんだろう」

 コロラドから一つ州をまたいで南下すれば、そこはもう別の国――メキシコがある。

 柵で区切られただけの国境を越え、巡視隊の目をかいくぐり、険しい山岳地帯や砂漠地帯を越えてでも、年間百万以上と言われる人間が、メキシコからアメリカ合衆国へと不法入国を繰り返している。

 パスポートも持たない、そういった後ろ暗い身の者達ならば、大切な我が子を攫われたとしても、警察に訴える事はしないだろう。

「真相はどうか知らないがね、ともかくこの子は親も名前も分からないんだよ」

 そう結論を告げると、電話の向こうで上司は笑った。

『あははっ、なら君が育ててみるかい?』

「笑えないジョークだね。こんな人殺しに育てられたら子供が可哀想だよ」

 ヒルダは迷いもせず、その提案を却下した。

 仕事で人を殺したからといって、親の資格がないとは彼女も思わない。

 そんな潔癖性の倫理観を振りかざす者が居たら、警察も軍人も居ない無法地帯に放り込んでやりたいとすら思う。

 ただ、アメリカ全土を駆け回って殆ど家に帰れず、いつ死ぬとも分からない黒犬の女に、子育ては向いていないというだけの話だ。

「孤児院にでも預けさせて貰うよ、それでいいね」

『まぁ、それが妥当だよねぇ』

 ヒルダの決定に、上司は手続が面倒くさいと文句を呟きつつも、反対する事はなかった。

 そうして彼は電話を切ろうとしたが、ふと気付いて一つ付け足す。

『子供の名前だけど、何か要望あるかい?』

「名前?」

『そう、戸籍は作らないとでしょ』

 孤児院に預けるといっても、いきなり建物の前に捨ててくる訳にもいかないし、魔術師が関わっていただけに、真実を説明する訳にもいかない。

 両親が交通事故で死亡したとか、暴力的で育児の資格がない等と、適当なバックグラウンドをでっち上げてから預けた方が、後々波風が立たずに済む。

 そんな工作の一環として、戸籍を作っておくならば、最低でも名前は必要だからと告げると、女隊長は一瞬考え込んだものの、直ぐ首を横に振った、

「いや、私は止めておくよ。二度と会う事もない子供に、変な情を抱きたくないからね」

『そうかい、じゃあ僕が決めさせて貰おうかな♪』

 ヒルダが断ると、上司は新しい玩具でも与えられたように、若々しい声を弾ませる。

 それを聞き、思い切り顔をしかめた彼女の予想どおり、ろくでもない答えが電話口から返ってきた。

『名前の無い子供だから、ジョン・スミスでどうかな?』

「この子はまだ死んでないんだがね」

 それは身元不明の男性死体が見付かった時に、警察が仮につける名前だ。

 子供時代にその事をからかわれ、やさぐれる未来しか見えない。

「もっと真面目に考えな、でないと頭に大穴を空けるよ」

『え~、名付け親である僕と頭文字が一緒だし、良いネーミングだと思ったんだけどねぇ』

 女隊長が低い声で脅すと、上司は渋々ながら考え直す。

『なら、ジョン・コンスタンティンでどうだい?』

「ファミリーネームを変えただけじゃないかい……まぁ、死体よりはマシか」

 代案を出す気はなかったので、ヒルダもそれ以上は文句を言わなかった。

 もっとも、それがとあるコミックのキャラクターから取ったものだと知っていたら、今直ぐ飛行機を手配して本部に戻り、上司の頭に杭打ち機を突き付けただろうけれども。

 サブカルチャーに興味のない彼女は、上司のおふざけに気付かず電話を切り、自分の境遇など何も知らず、穏やかに眠り続ける赤子を撫でた。

「せっかく生き延びたんだ、何があっても死ぬんじゃないよ、ジョン」

 その二十四時間後、面倒臭がりなくせに仕事の早い上司によって、全ての手筈が整えられた赤子は、州都デンバーの児童擁護施設に預けられたのだった。



「その子供がジェイなのか?」

「そうだよ、あの頃はあんなに可愛かったのにねぇ」

「お前は見てもいないだろうが」

 話が一区切りついた所で、童顔の魔術師が昔を懐かしんでいると、自室に籠もっていた筈のご本人が、いつの間にか背後に立っていた。

「ったく、何の話をしているかと思えば、また下らない事をベラベラと」

 特に防音処理もされていない安アパートである、話は丸聞こえだったのだ。

 実に不愉快そうな顔をし、握り潰したビールの空き缶を投げてくるジェイに、名付け親である上司様は、ふざけた笑い声を上げながらソファーの後ろに隠る。

「あははっ、別に隠すような話でもないでしょ。それに、イリムちゃんが興味津々だったからさ、ねぇ?」

 話を振ると、イリムは深く頷いてみせた。

「ジェイはどうして、コンスタンティンではなくルーザーになったんだ? どうしてジョンではなく、ジェイと呼ばせているんだ?」

「そんな事を気にする暇があったら、テレビでも見てろっての」

「…………」

 下らない事を聞くなと遮ると、イリムは残念そうに目蓋を伏せながらも、黙って彼の目を見上げ続ける。

「お前、本当は分かってやってるだろ?」

「何がだ?」

 タチの悪い上目遣いに苦情を告げると、何時ものように首を傾げられる。

 そのやり取りに、ソファーの後ろで童顔が笑っているのを感じ、ジェイはより不愉快になりながらも、仕方なく口を開いた。

「俺が黒犬になる時、色々と不都合だから変えたんだよ」

「そうか」

 簡素な説明に、イリムは頷き返す。

 だが直ぐに、さらなる疑問を告げた。

「ジェイはどうして、黒犬になったんだ?」

「今日はやけにしつこいな」

 何処かの上司様のように、ジェイは面倒臭いと溜息を吐いたものの、内心では別の事を考えていた。

 今まで、分からない事は質問しても、他人の過去は詮索しなかった――他人に興味が無いようにも見えた少女。

 それが彼の名前や素性に興味を持ち、知りたいと好奇心を示したのは、より『普通の人間』に近付いた証なのではないだろうか。

(歓迎するべきなんだろうが……)

 何か形にならない不安が過ぎり、顔を曇らすジェイを見て、イリムは勘違いして頭を下げる。

「聞かれたくなかったのか? すまない」

「……いや、別に構わねえよ」

 ジェイは見えない不安を払うように頭を振ると、一度キッチンに向かい追加の缶ビールを何本も持ってきて、イリムの向かいに腰を下ろす。

 そして早速一本飲み干すと、ふざけた上司に任せて変な脚色をされるよりはと、自ら口を開く。

「下らないうえに長い話だが、それでもいいんだな?」

「構わない」

「なら、途中で寝たりせずちゃんと聞けよ」

 そう前置きし、ジェイは語り出す。

 悪しき魔術師の手から救い出され、常識の世界に戻った筈の子供が、再び闇に足を踏み入れる事となった、血にまみれた惨劇を。


             ◇


 デンバーの児童擁護施設に預けられたジョン・コンスタンティンは、十歳までそこで育てられた後、地元に住む老夫婦に引き取られた。

 里親に虐待を受ける事もなく、孤児であった己の境遇を悲観して非行に走るような事もなく、順調に成長を重ねていく。

 そうして、ハイスクールに通う青年となった彼は、学校の食堂で友人からある誘いを受ける事となる。

「よおジェイ、夏休みが始まったら皆でキャンプに行かないか?」

 陽気に笑いかけてきた友人――マシュー・ウェバリーに対して、ジェイは掴んでいたハンバーガーを一度置き、冷めた顔で返事をする。

「わざわざ虫に刺されるために、山や森に入る趣味はないんだが」

「ノリの悪い事を言うなって。お前がどこの部活にも入らず暇してんのは分かってるんだからさ、たまには付き合えよ」

 馴れ馴れしく肩に手を回してくる友人を少々ウザったく思い、ジェイは軽く溜息を吐く。

「どうせお前の事だ、目的は大自然じゃなくて、そこで押し倒すカワイ子ちゃんなんだろ?」

「当たり前だ、夜空の下だと女も開放的になって最高なんだぜ!」

 恥も外聞もなく言い切るマシューに、ジェイは再び溜息を吐きつつ、断るのも億劫なので頷いた。

「分かったよ、好きにしてくれ」

「そう腐るなって、お前好みの子も呼んでおくからよ。だが、ポーラちゃんに手を出したらぶっ殺す」

「はいはい、分かった分かった」

 しつこい友人を手で払い、ジェイはハンバーガーに齧りつく。

 生まれ育ちのせいか、歳の割に冷めた所があると評される彼は、友人達と行く夏休みのキャンプを、特別楽しみには思わなかったが、だからといって嫌とも思わなかった。

 そして、こんな日常のありふれた選択が、人生の大きな分岐点になるなどとは、当然ながら予想していなかったのだった。



 デンバーから北西へ六十㎞ほど行くと、豊かな自然の広がるロッキーマウンテン国立公園に到着する。

 遠くでへラ鹿が草をついばむ姿も見える、のどかな山の蛇行した道を、ジェイは養父から借りた車で走っていた。

「見て、あそこに子鹿が居るよ」

「本当だ、チョー可愛いっ♪」

 後部座席ではキャンプの企画者であるマシューが、お目当ての派手な女ことポーラと上機嫌に騒いでいる。

「山の天気は変わりやすいって聞くけど、大丈夫かしら」

 助手席では少し大人しめの少女ことモニカが、しきりに天候を気にしていた。

 さらに彼らの後ろを走るキャンピングカーには、ブレットとソフィアという恋人達が乗っている。

 これに運転手のジェイを加えた六人が、今回のキャンプ参加者だった。

「で、お前の言う穴場とやらは、本当にこの道でいいのか?」

「大丈夫だって、直ぐに着くよ」

 シーズン真っ最中という事もあり、ビッシリと埋まったキャンプ場を通り過ぎ、舗装された道路を外れて脇の林道に入ったジェイは、多少不安を覚えて後部座席の友人を窺うが、彼は隣の女を口説くのに忙しいらしく、いい加減な返事をするのみ。

 それに溜息を吐くジェイだったが、心配は杞憂だったらしく、二十分も荒れた道を走り続けると、鬱蒼と茂った森が開けて、小さな広場が見えてくるのだった。

「へー、確かにこいつは穴場だ」

 車が十台も停まれば埋まるような狭い場所だったが、少し先には小さな湖が見えて景色は良好。

 水場やトイレが設置されていないせいか、そもそも場所が知られていないからか、他のキャンプ客は一人も居なく、静かで空気も透き通っている。

 なかなかのロケーションに、そこまで乗り気じゃなかったジェイも目を輝かせて車を降りた。

「親父から教えて貰ったんだ、夜になると星も凄く綺麗なんだよ」

「へ~、早く見たいな~」

 マシューが自慢しながらポーラの腰に手を回している間に、遅れていたキャンピングカーも到着する。

「良い所じゃないか、早速飯の用意をするか」

「もぉ、あんたはそればっかりね」

 腹を撫でる食い意地が張ったブレットを、ソフィアは窘めるように叩きつつ、甲斐甲斐しくバーベキューセットの準備を始める。

「私達も手伝いましょうか」

「そうだな」

 数合わせ要員の自覚があるモニカとジェイは、周りのお熱い空気に当てられはしないが、別段険悪になる事もなく、せっかくのキャンプを楽しむために動き出す。

 人里離れた大自然の中で、飲み、食い、歌い、騒ぐ彼らは、何処にでもある青春を謳歌するのに忙しく、気付く余裕はなかった。

 今の自分達はまるで、ホラー映画に出てくるような、陸の孤島に居るのだと。

 そして現実とは、CMやポスターによる告知も、怪しい影や演出による前フリも、愛憎が絡んだ複雑な事情もなく、ただ唐突かつ理不尽で残酷に、罪無き子羊の血を欲するのだと。


             ◇


 日が暮れた後も焚き火を囲み、飲み騒ぎ続けた六人だったが、ふとその輪から外れる者が現れる。

「酔っちゃった、少し涼んでくるね」

 そう言って席を立ったソフィアは、隣の恋人に流し目を送りながら、小さな湖の方へと歩き出した。

 ブレットもその意味を察し、直ぐに彼女の後を追う。

「熊が出ると危ないから、俺もついていくよ」

「危ない獣はお前だろ」

 冷やかすマシューに笑みを返し、恋人達は闇の中へ消えていった。

 彼らがこれから何をするか想像し、真面目なモニカが頬を染めるなか、ポーラが心細そうに呟く。

「ここって熊が出るの?」

「さあ、ピューマを見たって噂は聞いた覚えがあるが」

 山に詳しくないジェイはそう言い、主催者であるマシューの方を窺う。

 すると彼は、待っていましたとばかりに傍らの鞄に手を突っ込んだ。

「熊だろうとピューマだろうと、俺がこれで君を守ってやるさっ!」

 取り出したるは回転式拳銃、スタームルガー・スーパーレッドホーク。

 ライフルが壊れたり弾切れした時のサイドアームとして、狩猟者達に根強い人気を誇る強力な拳銃である。

「親父さんの銃を勝手に持ってきたのか? 捕まっても知らんぞ」

 十八歳未満の彼が銃の所持免許を持っている訳もなく、警察に見付かれば不法所持で逮捕されるだろう。

 ジェイは真面目に忠告するが、マシューは気にした様子もなく、銃に弾を込め始める。

「固いこと言うなって、明日お前にも撃たせてやるからさ」

 銃と一緒に持ってきた西部劇風のガンベルトまで腰につけ、「BANG!」と撃つ真似をする友人の姿に、ジェイは白けた顔を向けるが、ポーラの方は無邪気に目を輝かせた。

「素敵ね、昔のガンマンみたい!」

「狙った獲物は逃さないってね。俺のマグナムをくらってみるかい?」

「やだ、変なもの押し付けないでよ~」

 下品なジョークを飛ばし腰を密着させてくるマシューに、ポーラは口だけは嫌がりながらも離れようとしない。

 そうして、人の前で濃厚なキスを始めた二人に、ジェイは馬鹿馬鹿しくなって立ち上がり、これ幸いとモニカも彼に続く。

 友人達の邪魔にならぬよう、キャンピングカーの中に入った二人は、揃って苦笑しながら椅子に座った。

「ったく、最初から四人で行けっての」

「こういう時、独り身は辛いわね」

 酔い覚ましにミネラルウォーターで乾杯しつつ、暇潰しにとりとめもない話題を口にする。

「口説くつもりはないが、あんた割と顔も良いのに、男を作る気はないのか?」

「実はレズなの、って言ったら信じる?」

「お目当てはポーラとソフィアのどっちだ」

「冗談よ。アブノーマルな趣味はないけど、今直ぐボーイフレンドが欲しいとも思わないだけ」

「冷めてるな」

「貴方も同じ様なものでしょ? 女を抱いた事はあっても、恋をした事はないって顔をしてるわよ」

「プロファイリングを学んでFBIでも目指す気か? 怖い女だな」

「FBIか、それもいいかな。貴方は何か夢とかあるの?」

「無いな。適当に生きて適当に死ねれば、それで十分だね」

「冷めてるわね」

 恋人にする気はないが、友人にはなれそうだと感じ合った二人は、そのままダラダラと下らないお喋りを続けた。

 そうして一時間も経った頃、不意に形容しがたい悪寒がジェイの身を走る。

「――っ!?」

「どうかしたの?」

 いきなり凄い顔で立ち上がった彼を見て、モニカが驚いて尋ねてくるが、本人とて訳が分からないものは説明しようもない。

 だから彼は、感じたままを素直に告げた。

「今外から、変な気配がしなかったか?」

「熊やピューマが本当に出たって事?」

「いや、動物とは違うような……」

 彼が感じたのは、敏感な赤子の時に刻みつけられた、常識を超えた力への恐怖だったのだろう。

 けれども、物心が付く以前の経験であり、それが何か明確には知らないため、ジェイはもどかしげに黙り込むしかなかった。

 モニカはその様子を不審に思いつつも、時計の針が真上を過ぎていた事に気付いて、席を立ちキャンピングカーの出入り口に手を掛けた。

「ポーラ、マシュー、今日はそろそろ寝ましょう」

 声を掛け、少し待ってから外に出ると、消えかかった焚き火の前に座っていた二人は、乱れた服を直しながら、名残惜しそうに唇を合わせていた。

「夜はこれからだってのに、ジェイが早すぎて物足りなかったのか?」

「いいからチャックを閉めて、その粗末なモノを仕舞えよ」

 自分達と同様、お楽しみだったと邪推して笑うマシューに、ジェイは辛辣に言い返しキャンピングカーから出るが、その顔は晴れないままだった。

「ソフィア達も呼び戻しましょう。風邪でも引いたら馬鹿馬鹿しいわ」

 いつの間にか厚い雲が漂い始めた夜空を見上げ、モニカは湖の方に歩き出す。

 ジェイは車からハンドライトを取り出して後を追い、マシュー達もそれに続く。

「みんな静かにしろよ。脅かすついでに、ブレット達のプレイを見学させて貰おうぜ」

「趣味が悪いぞ」

 堂々と覗きを宣言するマシューに、ジェイはそう言い返しながらも、声を上げて姿の見えぬ恋人達を呼ぼうとはしなかった。

 勿論、友人と同じ事を目論んでいた訳ではない。

 少しでも大きな音を立てたら、暗い森の木々が動き出して襲いかかってくるような、言いようのない不安が拭えなかったからだ。

 マシューの提案でライトを消し、月明かりだけを頼りに進んだ四人だが、辿り着いた湖畔に人の影は見当たらない。

 ただ、近くの木陰から、草の擦れ合う微かな音が響いていた。

(静かに、見付かるなよ?)

 マシューは視線で皆に合図を送り、忍び足で木陰に入っていく。

 その後を追いながら、ジェイの額には冷や汗が浮かび、不吉な疑問が幾つも過ぎる。

 恋人達が交わっているなら、どうしてその嬌声が聞こえてこないのか。

 どうして、こんなに鉄臭い空気が漂ってくるのか。

(あそこだ、みんな止まれ)

 先頭を歩いていたマシューが、手振りで数m先を指差す。

 そこは森の木々に月光を遮られて暗く、ぼんやりとした輪郭しか窺えない。

 ただ、横たわった人物にもう一人が覆い被さっているのは分かった。

 今ならまだ引き返せる――そんな強い警告がジェイの頭に響いたが、彼がそれを口にするよりも早く、マシューがライトを点けながら叫んでいた。

「GROWLLL―――ッ! 何てな、驚い……」

 熊の声真似をしながら飛び出た彼は、ライトで照らし出されたものが理解出来ず固まった。

 半裸で地面に横たわった金髪の女性――ソフィアに跨っていたのは、夏なのに暑苦しいローブを着て目深にフードを被り、顔も体も隠した人物だった。

 それは当然、彼女の恋人――ブレットではない。

 彼なら少し離れた血溜まりの中で、物言わぬ死体となっていたから。

 これでローブの人物がソフィアを犯していたなら、彼らは衝撃を受けながらも事態を理解し、怒りにまかせ友の仇を討っただろう。

 だが、目の前に居るそれは、強姦なんて分かり易い事はしていなったのだ。

 目の焦点を失ったソフィアの首に齧り付き、湧き出る血を美味そうに飲み干す。

 そして、現れた彼らを見上げ、フードで隠された顔から唯一覗く、真っ赤に染まった口を吊り上げて笑ったのだ。

 お代わりが来たと、とても嬉しそうに。

「うわあぁぁぁ―――っ!」

「いやあぁぁぁ―――っ!」

「「…………っ」」

 揃って悲鳴を上げるマシューとポーラ、驚愕と恐怖のあまり声さえ出せないジェイとモニカ。

 そんな四人の前で、不意にローブの人物が消える。

 素早く木陰に隠れた訳でも、闇に溶け込んだ訳でもなく。

 まるで透明人間にでもなったように、その姿が見えなくなったのだ。

「――っ、逃げろ!」

 異常としか言えないこの状況で、即座に撤退を選べたジェイは、優れた兵士の素質があるといえよう。

 もっとも、この場を生き延びられなければ、どんな賞賛も墓前の花でしかないのだが。

 キャンプ場の方へと走り出した彼を見て、マシューとポーラも弾かれたようにその後を追う。

 けれども、真面目で常識的だからこそ、異常に対する耐性の低かったモニカは、動けず立ち尽くしていた。

「モニカッ!」 

 早く逃げろと叫んだジェイの方に、彼女がゆっくりと顔を向けた瞬間、その首が裂けて赤い血が飛び散る。

「えっ……?」

 見えない刃物で切り裂かれたモニカは、最後まで何が起きているのか理解出来ていない顔で崩れ落ち、二度と動かなくなった。

「いやーっ! モニカ、モニカっ!」

「駄目だポーラ!」

「逃げろ、逃げるんだっ!」

 まだ助かる筈だと、倒れた友人に駆け寄ろうとするポーラを、マシューとジェイは両脇から掴んで必死に走る。

 森を抜け、元居た狭いキャンプ場まで走り着いた彼らは、息を切らせながら車の中に駆け込む。

 そうして運転席に座ったジェイは、仲間を見捨てた罪悪感を抱く余裕もなく、アクセルを全力で踏み込んだ。

「ちくしょう……何だよ、何なんだよっ!」

 ようやくその存在を思い出し、腰のベルトから引き抜いた拳銃を握り締め、後部座席でガタガタと震えるマシューの台詞が、彼らの心情を全て表していた。

 ローブの人物は何者なのか?

 どうやって姿を消しているのか?

 何故、自分達を襲うのか?

 分からない、分からない、分からない。

 未知という名の恐怖に震える子羊達が、いくら手を組み祈ったところで、天上の神は答えてくれない。

 ただ無言で、残酷な現実を突き付けるだけだった。

「――っ!?」

 木々に囲まれた細い道を一分と走らぬうちに、前方にヘッドライトをはね返す何かが見えて、ジェイは咄嗟にブレーキを踏む。

 だが間に合わず、金属の裂ける甲高い音と共に、激しい衝撃が車を揺らした。

「きゃあぁーっ!」

「ぐっ……」

 後部座席からポーラの悲鳴が響くなか、ジェイはハンドルから飛び出したエアバッグに挟まれ、一瞬の窒息を味わう。

「くそっ……」

 エアバッグから逃れるように外へ出た彼は、何があったのか確認しようと、ハンドライトで前方を照らし、再び息が止まるほど凍り付く。

 道の両端に生えた木を使って、幾重にも張り巡らされたピアノ線が、車の前面にめり込んでいた。

 もしブレーキを踏まなければ、彼の首まで跳ね飛ばされていたかもしれない。

 その残酷な罠は、一人として逃がさないという、殺人鬼の意思表明に違いなかった。

「……もう車は駄目だ、歩くしかない」

 それでも心を折られず、後部座席で縮こまる二人を引っ張り出し、ピアノ線を迂回し歩き出したジェイの強さは、いったい何処から出るものだったのか。

 彼自身も疑問を覚えながら、今はただ理解不能の殺人鬼から逃れるために、息の続く限り走り続けた。

 けれども、懸命に努力する人間にさえ、神は救いの手など差し伸べはしない。

 時に疲れて歩きながらも、必死に進み続けた彼らの前に現れたのは、背後に捨てた筈の壊れた自動車だった。

「どうなってやがる……」

 穴場のキャンプ場と舗装された山道を繋ぐのは、この細い一本道のみ。

 迷いようも間違いようもないのに、ジェイ達は元の場所へ戻って来てしまったのだ。

 もしも、空から全てを窺っていたなら、彼らがある場所に――鳥の血で複雑な模様の描かれた木の前に到達した途端、自ら反転し道を戻って行ったのが分かっただろう。

 その瞬間、記憶を曖昧にされていた彼らは、心身共に憔悴しきっていた事と、ほんの数m先しか見えない夜の林道であった事も合わさり、全く気付かなかったのだ。

 まして、人を惑わせる『幻惑の魔術』なんてモノがあるとは思いもよらない。

 何度となく突き付けられる理不尽な絶望に、感情を爆発させる以外に、出来る事など何もなかった。

「ふざけんな……ふざけんなよ、ちくしょうっ!」

「もう嫌よ、助けてパパ、ママ……っ!」

 いつの間にか降り始めた小雨の中で、マシューは怒鳴り散らして木を殴り、ポーラは泣き崩れる。

 そんな友人達を、ジェイはどこか人ごとのような、冷めた視点で眺めていた。

 恐怖のあまり感情が凍り付いてしまったのか、これもまた彼の才能だったのかは分からない。

 ただ、周りを見ていた彼だけが、ハンドライトの光に浮かび上がった、不自然なそれに気付く。

 透明な傘でも差したように、泣きじゃくるポーラに降り注いでいた雨が、不意に途切れるのを。

「逃げ――」

 叫ぼうとした時にはもう、モニカの悲劇を繰り返すように、ポーラの首は切り裂かれ、吹き出した血が雨と共に大地を汚していた。

「ポーラァァァ―――ッ!」

 ほんの数十分前まで愛し合っていた女を目の前で殺され、マシューは怒り狂い、恐怖も忘れて拳銃を乱射する。

 けれども、ろくに射撃経験もない彼が、スパーレッドホークの強力な44マグナム弾を制御出来る筈も、まして透明な相手に狙いを定められる筈もない。

 六発の銃弾は全てあらぬ方向に飛び、木々や地面を吹き飛ばすだけに終わった。

 もっとも、運良く透明な殺人鬼の方へ発射されても、不可視の力によって逸らされただろうが。

「くそっ、くそっ、くそっ!」

 マシューは弾切れにも気付かず、何度も引き金を引いた後、ようやく腰のガンベルトに着けていた予備の弾丸に手を伸ばす。

 しかし、左手が弾を掴んだ時にはもう、見えない刃物が彼の首を切り裂いていた。

「あっ、がぁ……!」

 ゴポゴポと溢れ出した血を止めようと、マシューは銃も弾丸も捨てて、自らの首を両手で押さえるが、それは何の意味もなさない。

 溺れた金魚のように口を開閉しながら、彼も地面に倒れ、そして動かなくなった。

 二人の友人が瞬く間に殺害された間、ジェイは一歩も動けず立ち尽くしていた。

 だが、返り血を浴びてうっすらと姿を現した殺人鬼が、こちらを向いたのを感じた瞬間、凍り付いた本人の意志とは無関係に、体は弾けるように動き出した。

 敵から逃れるため、真っ暗な森の中へと。

「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ!」

 ハンドライトの微かな明かりだけを頼りに、木々を避けて走り続けるジェイの頭に、『逃げずに戦え』なんて薄っぺらい根性論やヒーロー願望は欠片も浮かばない。

 ただ命の危機から脱するため、全力で逃げ続ける彼だが、その足が不意に空を切る。

「えっ……?」

 何が起きたのか理解する暇もなく、彼の体は重力に引かれ、急に現れた斜面を転げ落ちていった。

「はっ、がぁ、げほっ!」

 背中を強く打ち、口の中には泥が入り、ジェイは倒れたまま激しく咳き込む。

 転げ落ちた拍子に手放してしまったらしく、ライトは何処かにいってしまい、周囲は完全な暗闇と化す。

 仮に相手が透明でなくとも、見付ける事など不可能となった黒一色に包まれ、咽せ続けていた彼の声は、何時しか笑い声に変わっていった。

「は、あは、あははっ!」

 大声を出せば殺人鬼に見付かるなんて、常識的な判断をする理性は、とっくに擦り切れ無くなっている。

 死から縁遠い平和な世界で生きてきた彼が、こんなにも不可解で理不尽な死の嵐に見舞われて、今まで正気であった事のほうが奇跡なのだ。

 今直ぐこの悪夢を終わらせてくれと、ジェイは祈るように狂った笑い声を森に響かせる。

 だが、何時の間にか豪雨へと変わった雨粒が、その声を掻き消してしまったからなのか。

 自分が追わずとも遭難するか、熊に食われるとでも思ったのか。

 男の血には用がなく、森の中まで追いかけるのが面倒だったのか。

 いくら待っても、透明な刃が振り下ろされる事はなかった。

「…………」

 無言で倒れ続けるジェイの体から、夏とはいえ冷たい山の雨が体温を奪っていく。

 このままのたれ死ぬのも悪くないか。

 そんな考えが冷えた頭に浮かぶ。

 けれども、気が付けば彼は立ち上がっていた。

 そして周囲を見回し、遠くの草むらで瞬いていたライトを拾うと、転げ落ちてきた斜面を登り始める。

「何やってんだか……」

 自分自身に呆れ果てながらも、ジェイはぬかるむ土に手を突っ込み、草を掴んで斜面を登り切り、元来た方へと歩き出す。

 疲れ果てた体に鞭打ち、せっかく見逃された幸運を捨ててまで、殺人鬼の待つ場所へと戻る。

 その道を選んだのは、絶望から生まれた自殺願望などでは断じてない。

 むしろ逆、生きるためだった。

「寝覚めが悪いよな……」

 例えここで山を下り生き延びても、彼は一生今日の悪夢に怯え続けるだろう。

 養父母と食事をしている時も、恋人とベッドに入る時も、歳を取り子供が生まれた後も、何時また透明な殺人鬼が現れて、自分や大切な者達を殺さないかと。

 そんな恐怖に支配された生は、死よりも辛い拷問だ。

 だからこそ彼は、真の意味で生きるために死地へと向かう。

 惨劇を生み出した恐怖の原因を、自らの手で消し去るために。

 そしてもう一つ、付け加えるとするならば――

「人の友達を殺してくれたんだ、殺されても文句は言えねえよな?」

 生への執着と、生を簒奪した者への憤怒。

 世の中には、肉食獣を蹴り殺す草食獣も居るのだと示すために、ジェイは闇の森を掻き分けて行った。


             ◇


 幾度も迷いそうになりながら、何とか細い林道へと戻ったジェイは、まず壊れた車の元へと向かう。

 ピアノ線に食い込んだ車も、首を押さえたまま死んだマシューも、逃げ出した時のままだったが、ポーラの遺体だけが消えており、キャンプ場の方へ引きずった跡が残されていた。

 殺人鬼が今どこで何をしているのか想像が付き、ジェイは吐き気を覚えながら友人の遺体に近寄る。

 その足下には、自分達の仇を討ってくれと叫ぶように、回転式拳銃とその弾丸が豪雨の中で光っていた。

「借りるぞ」

 返事はこないと分かっていながら、冷たくなった友人にそう断り、ジェイは拳銃を取り弾丸を込める。

 続いて壊れた車のトランクを開き、パンク修理用の工具から、手頃な鈍器としてスパナを掴んだ。

 そうして武装を終えてから、キャンプ場へと向かう。

 ほんの数時間前、楽しく笑い合っていたその場所に、キャンピングカーは変わらず佇んでいた。

 窓からは明かりが漏れ、側面にある出入り口の周辺には、何かを引きずった泥の跡が残っている。

 殺人鬼が車内に女達の死体を運び込み、その血をすすっている最中だという事は、窓から覗くまでもなく窺えた。

「…………」

 激しい雨音が響く中、ジェイは無言で拳銃を構え、ハンマーを指で起こし、しっかりと狙いを定めてから引き金を引く。

 キャンピングカーの中央下部、ガソリンタンクをめがけて。

 ズダンッ!

 轟音と共に発射された鉛玉が、車の鋼板を容易く貫く。

 だが引火はしなかったようで、ジェイは銃のハンマーを起こし、もう一度良く狙いを定める。

 その間、キャンピングカーの中に居た者は、当然ながら異音と衝撃に気付き、外を見ようと出口へ向かった。

 ジェイはそれを感じ取りながらも、雨で冷え切った頭は焦る事なく、ただ静かに引き金を引く。

 ズダンッ!

 車の側面扉が開かれるのと、44マグナム弾がタンクを貫き火花を散らせ、ガソリンに火がついたのは同時だった。

 銃声の何倍も大きな爆音が上がり、キャンピングカーは跳ね上がって横倒しになると、雨にも負けぬ勢いで燃え上がる。

 その盛大なキャンプファイアーに照らされ、ローブをまとった殺人鬼が姿を表す。

「……っ!?」

 爆発の勢いで車から投げ飛ばされたその人物は、フードで隠れた顔をジェイの方に向けて、無言のまま全身で驚愕を現す。

 何故ここに居る、何故逃げなかったと。

 そんな疑問に答えてやる義理はないと、ジェイは銃の引き金を引く。

 だが、弾はマシューの時と同様に、殺人鬼の横に逸れて大地を抉るだけだった。

「そうそう当たらねえよな」

 弾避けの護符など知らぬジェイは、ただ己の技量が足りないのだと勘違いしたまま、銃をズボンのベルトに仕舞い、代わりにスパナを構える。

 その間に、殺人鬼は平静を取り戻したのか、また姿を透明に変えていた。

 しかし、不幸の中の僅かな幸運が、ジェイに味方する。

 降りしきる激しい雨が、弾ける雨粒の軌跡によって、ぬかるむ大地に残る足跡によって、透明な姿を見えるモノへと変えていたのだ。

 それに気付いていないのか、小賢しくも背後に回り込もうとしてきた殺人鬼に向けて、ジェイは咆吼を上げて襲いかかる。

「うおおおぉぉぉ―――っ!」

 例え相打ちになってでも、絶対に相手を殺す。

 そんな決死の男に、姿を隠さねば人も殺せない臆病者が勝てる筈はない。

 繰り出された見えぬナイフで横腹を切られながらも、ジェイは全体重を乗せてスパナを振り下ろす。

 渾身の一撃は見事に頭を捉えたのか、鈍い感触と共に絶叫が上がった。

「ぎゃあぁぁぁ―――っ!」

 殺人鬼は初めて声を上げ、倒れて泥を撒き散らす。

 ジェイはその上にのし掛かり、スパナを投げ捨てて、友人の遺品であるスーパーレッドホークの銃口を透明な体に押し付ける。

 やはり弾避けの護符など知らぬまま、ただこの距離ならば外さないと確信し。

「ま、待て――」

 ズダンッ! ズダンッ!

 残っていた二発の銃弾が、か細い命乞いを掻き消し、透明な体に穴を空ける。

「人を撃ったのに撃たれる覚悟もなかったのか? チャンドラーの小説くらい読んでおけよ」

 ジェイの皮肉は、おそらく殺人鬼の耳に届いていなかっただろう。

 それを証明するように、透明だった姿は赤い血と共に現れて、もう二度と消えも動きもしなかった。

「…………」

 ジェイは切られた横腹を押さえながら、殺人鬼の頭を蹴る。

 フードが外れ現れたのは、死への恐怖で歪んだまま固まった、シワだらけの老いた男の顔だった。

「老いぼれが、地獄に行きたきゃ一人で行けよ」

 そう吐き捨てたのを最後に、ジェイは膝から崩れ落ちる。

 復讐を終えて怒りの熱が消えた今、雨の中走り回った疲労と、友人を次々と殺された心労に、もう体が耐えきれなかったのだ。

 今度こそ、このまま死ぬのだろうか――そう思いながらも、重くなっていく目蓋に逆らえず、ジェイは意識を失う。

 しかし、彼が永遠の眠りにつく事はなかった。

 雨の中で燃え上がるキャンピングカーの光に気付いた者が、雷による山火事かと消防局に連絡を入れ、それを聞き及んだ者達――元から透明な殺人鬼を追っていた黒い犬が、天の御使いよりも早く駆け付けたために。


             ◇


「用救助者が一名、目標は既に死亡していた」

 そんな声が鼓膜をくすぐり、ジェイは泥のような眠りから目を覚ます。

 雨は晴れ夜も明けたのか、空はうっすらと青白い。

 その下で、彼は担架に乗せられ、軍用のヘリらしき物に運び込まれようとしていた。

 横を見れば、特殊部隊らしき黒いスーツに身を包んだ男達が、殺人鬼の死体や焼け焦げたキャンピングカーを調べている。

「あんた、達は……くっ」

 起き上がろうとしたジェイは、腹部に鋭い痛みを覚えて呻き、彼をヘリに運んでいた男に肩を押さえられた。

「無茶せず寝ているんだ。傷は浅く出血も少なかったが、体温が下がりすぎて危険な状態だったんだ」

 そう言って、男は鎮静剤の入った注射器を取り出す。

 ただ、それを打つ前に一つだけ尋ねてきた。

「ローブを着た老人、あれを殺したのは君か?」

「……あぁ、俺が殺した」

「そうか」

 素直に認めると、男はただ頷いて彼の腕に注射器の針を刺した。

 再び眠りにつくまでの短い間、ジェイはまた一つ疑問を覚える。

 この男はどうして、人殺しの罪を責めたりはせず、憐れむような目で自分を見たのだろうかと。


 二度目の目覚めを迎えた時、ジェイが居たのは何処とも知れぬ病室で、彼の寝るベッドの横には、何が楽しいのか笑みを浮かべた童顔の男が座っていた。

「おはよう、ジョン・コンスタンティン君。僕は運命なんて信じないタチなんだけど、今度ばかりは神の計らいを感じてしまったねぇ」

「……ここは何処で、あんたは何者だ?」

 とても医者には見えないこの男が、どうして自分の病室に居て目覚めを待っていたのか。

 訳が分からず問い掛けるジェイに、童顔の男はふざけた笑みを浮かべながら答えた。

「僕はジル・アドキンス。そしてここはバージニア州のとある病院だよ」

「バージニア!? なんでそんな遠くまで」

「それは僕が面倒臭がりで、遠出するのが嫌だったからなんだけど、それより他に聞くべき事があるんじゃないかな?」

 どこまで本当なのか、自堕落な台詞を吐く男に呆れを覚えつつ、ジェイは促されるまま尋ねた。

「あの殺人鬼は、いったい何だったんだ?」

 突然彼らを襲い、訳を白状させる余裕などないまま、殺すしかなかった老人。

「どうやって姿を透明にしていた? どうして俺達を襲った? どうして――」

 何の罪もない友人達が、殺されねばならなかったのか。

 生き延び考える余裕が出来た今だからこそ、失われた者達の重さが胸にのし掛かり、ジェイは涙腺が緩みそうになるのを必死に堪える。

 そんな彼に、男は笑顔のまま驚くべき事実を告げる。

「あの老人は魔術師だよ、いわゆる『(イン)(ビジ)(ブル)』の魔術を使って姿を消していたんだ」

「魔術……?」

「その目で見たんだから信じられると思うけど、サービスで実演してあげるねぇ」

 童顔の男はポケットからハンカチを取り出すと、それをジェイの手に乗せる。

 そして何かを呟いたと思った瞬間、ハンカチと共に彼の手が透明になって消えた。

「……魔術か、おとぎ話の中だけだと思っていたがな」

「もうちょっと驚いてくれないと、見せた甲斐がないんだけど?」

「驚いているさ、これでも」

 一応年上のようだが、妙に気安い童顔の男に、ジェイも砕けた口調で応じながら、透明になった――正確に言うと、手の下にあったシーツを写し、透明なように見せていたハンカチを退かす。

「カラクリ自体は軍が研究している物と同じか」

「いわゆる光学迷彩ってやつだねぇ。科学だろうと魔術だろうと、それを使う人間の発想力までは変わらないものだよ」

 発達しすぎた科学は魔法と区別がつかない、人間の想像できるモノは全て実現できる。

 そういった有名な台詞が頭に浮かんだせいでもないが、ジェイは驚かず魔術の存在を受け入れる。

 彼にとって重要な点は、そこではなかったから。

「で、その魔術師とやらが、何で俺達を殺そうとしたんだ?」

 魔術なんてモノを使ってまで、人殺しをした動機。

 自分達の平和な日常が、あんな無惨に壊されなければならなかった理由。

 どうしても知られば済まされないその疑問に、童顔の男は初めて笑みを消して答えた。

「目的は若い女の生き血を啜るためだよ。そうする事で、まるで吸血鬼の如く不老不死になれると『信じた』から、あの魔術師は次々と人を襲っていた。だけど僕達に気付かれて、コロラドの山奥に逃げ込んでいたんだ」

「じゃあ、俺達が襲われたのは……」

「不幸な偶然、それだけだよ」

 シーツを握り締め震えるジェイに、童顔の男は素っ気なく言い放つ。

「誰かを虐めた復讐とか、森を荒らした罪とか、そんな理由はないよ。ただ人殺しが逃げ込んだ場所に、たまたま君達が居た、それだけの話」

 自分達に非があったのなら、それがどんなに些細なものでも、ジェイは降りかかった惨劇に納得出来ただろう。

 けれど現実は、そんな心の置き所すら与えてくれぬほど、ひたすら理不尽でしかなかったのだ。

「ふざけるなよ……マシューが、ブレットが、ポーラがソフィアがモニカが殺されたのも、ただ不幸だからで済ませろって言うのかっ!」

「人類の誕生以来、納得のいく理由で殺された人の方が、数えるほどしか居ないと思うけどねぇ」

 災難に巻き込まれた大半の人間は、そうやって死んでいくのだ。

 どうして自分がこんな所で死なねばならないのだと、天を呪いながら。

 それは今も世界中でありふれた出来事であり、彼らが特別な訳ではない。

「納得いかなくても、文句を言うべき相手はもう死んでいるからねぇ、過去よりも未来に目を向けようか」

 ぶつけようのない怒りに苦悶するジェイに、童顔の男はそう言って話を切り替える。

「これから君はどうしたい?」

「どうって……」

「その一、今までの日常に帰る。その二、悲観して自殺する。その三、僕達の仲間になって君達を襲ったような不法魔術師を狩り殺す」

 ある程度予感はしていたが、改めてその選択を突き付けられ、ジェイは溜息と共に肩を落とす。

「最後以外、選ばせる気はねえんだろ」

 そう言うと、童顔の男は心外だと大げさに首を振った。

「いやいや、元の生活に戻りたいなら止めないし、口封じのために殺したりもしないよ。君が体験した事実を喋ったところで、周りが耳を貸す訳ないからねぇ」

 魔術で姿を消した老人が、キャンプをしていたハイスクールの生徒を五名も殺した。

 当事者でなければ、ジェイとて笑い捨てた事だろう。

「なんなら『(ギア)()』の魔術で口外出来なくしてもいいし、いっそ事件の記憶を全部消してもいいよ。強烈な体験を消すのは難しいから、うっかり他の思い出ごと消えるかもしれないけど、試してみるかい?」

「遠慮しておく」

 その提案を、ジェイは一瞬の迷いもなく断る。

 例え悪夢その物な記憶であろうとも、忘れて無かった事にするなんて、死んだ友人達への冒涜にしか思えなかったから。

 律儀な彼の心情を読み取り、童顔の男は微笑しながらも、直ぐに険しい現実を突き付ける。

「僕達はこれ以上、君の生活を壊す気はないよ。でも、『一般人』が許してくれるかな?」

「それはどういう――」

 問おうとした途中で、ジェイは気付き口を噤んでしまう。

 そんな彼の聡明さを憐れみつつも、童顔の男は口を止めない。

「こちらの都合で魔術の関与は隠匿させて頂いたけれど、それ以外はありのまま世間に公表したよ。どこぞの老人が五名の学生をナイフで殺害し、さらに一人が行方不明とね。全部隠そうとすると不自然になって、逆に世間の感心を呼んじゃうからさ」

 行方不明者とは勿論ジェイの事。

 彼が寝込んでいたため、事件から既に三日が経っていたのだが、その間山で遭難していたとでも言えば、彼はお咎め無しで養父母の元に戻れるし、その情報工作に童顔の男達も手を貸すだろう。

 しかしそこまで。一般大衆という娯楽に飢えた残酷なハイエナが、腐肉を食い荒らそうとするのを止める術はない。

「老人が一人で五名もの学生を殺せる訳がない、しかも一人は親の拳銃を持ち出していたというのに、きっと共犯者が居た筈だ――そんな推理をした探偵気取り共は、さて誰に目を付けるかな?」

「…………」

 それが自分の事だと分かり切っていて、ジェイは何も言えずシーツを握り締めた。

 キャンプに行った六人グループの内、たった一人の生き残り。

 これが推理小説なら、誰がどう見ても真犯人だろう。

「現実に君を襲ったのは、魔術師というファンタジーな殺人鬼による、血みどろなスプラッタホラーなのにねぇ。残念ながら誰も信じちゃくれないよ」

 童顔の男に言われるまでもなく、ジェイも分かっていた。

 彼とて事件の前ならば、そんな戯言には耳を貸さず、人殺しの言い訳だと責め立てただろうから。

 それほどに『常識』とは厚く強固なのだ。

 真実よりも嘘で美味しくデコレートされた餌を望む、盲目の羊達が作り出すそれは。

「そこまで酷くなくとも、事件の被害者って事でマスコミに追い立てられるだろうし、仲間を見捨てて逃げたって、学友や遺族からは責められるだろう。世間の風は北極よりも冷たいからねぇ」

「……負け犬街道まっしぐらか」

 せっかく生き延びたというのに、社会的にはとっくに死んでいたのだ。

 自虐的に笑うしかないジェイに、童顔の男は改めて選択を迫る。

「好奇の目に耐えられるなら、今直ぐ家に戻るといい。それが嫌なら全てを捨てて、新天地でやり直すという選択もある。戸籍くらい何個でも用意してあげるけど、どうする?」

「妙に親切だな」

「本来僕達の仕事である、不法魔術師の退治を君がしてくれたからね、お礼としては安いくらいさ」

「…………」

 裏はないと知らされても、ジェイは即決出来ず考え込む。

 しかし、いくら悩もうとも、答えは一つしか出なかった。

「今更、普通の生活に戻る気なんてねえよ」

「いいのかい?」

 後戻りは出来ないのだと念を押されても、ジェイは迷わず頷いた。

「俺は人を殺したんだ。例え相手が畜生以下のクズだろうと、仕方なかったからと法で許されても、自分の意志で殺したんだよ」

 誰が何と言おうと、それは決して揺るがない事実。

「警察や兵士のように、仕事や義務でも、家族や国を守るためでもない。あの殺人鬼が怖くて憎くて堪らないから、殺したくて殺したんだ」

 自分のために他者を殺害した。その一点において、彼もあの殺人鬼と変わらない。

「そんな俺が、ノコノコと普通の生活に戻ろうなんて、虫の良い話だと思わないか?」

 殺された友人達に対する、自責の念もあったのだろう。

 また同じ様な事件に巻き込み、身近な人達を死なせるのが怖くもあったのだろう。

 ジェイは人を撃った者の責任として、銃弾の飛び交う世界を選ぶ。

「……真面目だねぇ」

 己の不幸にただ泣き喚く事だって許される歳なのに、冷静に自分を罰するジェイの姿に、童顔の男は悲しみを覚えながら結論を問う。

「じゃあ、僕達の仲間――(ブラック)(・ドッグ)になるんだね?」

「首輪を着けるなり何なり、好きにするがいいさ」

 そう毒づきながらも、ジェイは差し出された手を握り替えす。

 不法な魔術師を狩り殺し、さらなる犠牲を減らす事だけが、救えなかった者達への贖罪になると思いたくて。

「これからよろしくね、ジョン・コンスタンティン君」

「ジェイと呼んでくれ、アドキンスさんよ」

「なら僕も、ジルと呼んで欲しいね」

「了解だ、ジル」

 改めて名乗り合い、童顔の男ことジルは席を立つ。

「疲れているだろうし、細かい説明はまた今度にしよう」

 そう言って病室を去ろうとしたが、ふと思い出した様子で振り返る。

「暇だったら、新しい名前を考えておいてね」

「名前?」

「行方不明のままじゃマスコミが探し回ってうるさいだろうし、ご両親も心の落ち着け所がないからねぇ。偽の死体を用意して、君は死んだ事にしておくけど、その後も死人と同じ名前を使い続けるのは不都合でしょ?」

「確かにそうだが……」

 もっともな理由であったが、急に慣れ親しんだ名前を変えろと言われると、ジェイも戸惑ってしまう。

「嫌ならファミリーネームだけでもいいよ。ジョンなんて名前は石を投げれば当たるくらいありふれてるしねぇ」

「平凡な名で悪かったな」

 その名付け親が目の前の童顔だとは露知らず、考え込んだジェイの頭に一つのアイディアが浮かぶ。

 不幸な事件に巻き込まれ、社会的にも表向きにも死んだ負け犬。

「ルーザー……ジョン・ルーザーでいい」

「あはははっ、自虐的でナイスなネーミングだね!」

 思いもよらないふざけた名前に、ジルは腹を抱えて笑い出す。

「名無しの死体から悪魔祓いの探偵、そして負け犬か。うん、気に入ったよ」

「何の話だ?」

「今度教えてあげるよ、君の命を救った怖いオバさんも交えてねぇ」

「だから何の話だよ?」

 質問には答えず、ジルは意味深な台詞だけを残して病室から去っていった。

 取り残されたジェイは溜息を吐き、仕方ないからベッドに横たわり目蓋を閉じた。

 生き延びたからには、例え魔術なんて世界に足を突っ込もうとも、必死に生き続けてやろうと心に誓って。


             ◇


「それから一年の間、現場を退いて訓練教官になってたヒルダの婆さんにしごかれ、その後はアレク隊長のデルタチームに配属され、今はお前の子守って訳だ」

 そう長い話を締め括り、ジェイは新しいビールの缶を開けた。

 聞き終えたイリムは、嫌な事を思い出させたのだろうと悟り、頭を下げて詫びようとしたが、きっと「ガキが下らん気を使うな」とまた頭を叩かれるのだと察し、どうすればいいか分からず首を傾げる。

 そんな少女の葛藤を全て見抜いているのか、童顔の魔術師はニヤニヤと笑いながら、重箱の隅を突きにいった。

「いやいや、何度聞いても壮絶な半生だけよねぇ。でもジェイ、まだ肝心の部分を話していないよ?」

「……何の事だ」

「とぼけても無駄だよ。君が『ジョンなのにジェイと呼ばせている』って謎を説明していないじゃないか」

 元々この話は、彼が黒犬になった経緯ではなく、名前の由来を聞かせるというものなのだ。

 そこを誤魔化して貰っては困ると、ジルは嫌らしい笑みを浮かべて少女を焚き付ける。

「イリムちゃんも知りたいよねぇ?」

「うん、ジェイはどうして、ジョンなのにジェイと呼ばれているんだ?」

「ちっ、余計な真似を……っ!」

 ジェイは盛大に舌打ちして、ふざけた名付け親を睨む。

 その答えも、彼が隠そうとした理由も知っているくせに、この童顔はどうしてこう、人を玩具にしておちょくろうとするのか。

 最近、面倒な仕事を何度も押し付けた仕返しか――頭を抱えつつ、餌をねだる小鳥のような色違いの瞳には逆らえず、溜息と共に答えを告げた。

「俺が預けられた孤児院に、でかいピレネー犬が居てな、そいつの名前がジョンだったんだ」

「犬の名前?」

「で、『ジョン、ジョン』って呼ぶと、俺と犬が一緒に集まってきて紛らわしいからって、俺は頭文字の(ジェイ)で呼ばれるようになったんだよ」

 言い捨て、恥じるように顔を背けたジェイの前で、童顔の魔術師はかつてと同じように腹を抱えて爆笑する。

「あはははっ、犬に負けて呼び名を変えられるなんて、本当に(ルー)()()だよねぇ!」

「うるせえ。言葉の分からない犬に『今日から名前を変えるから』なんて通じないから、仕方なかったんだよ!」

 怒って空き缶を投げ付けてくるジェイから、ジルはわざとらしい悲鳴を上げて逃げまどう。

 それを横目で見ながら、イリムはまた首を傾げる。

 彼はどうして、『ジェイ』という呼び名を変えなかったのだろうと。

 ただ、その疑問を口にする事はなかった。

 上手く言葉には出来なくとも、その答えを感じ取っていたのだろう。

 ジェイという名で呼んでくれた人々――孤児院の仲間達、年老いた養父母、そして亡くした友人達。

 もう二度と会えなくとも、彼らとの思い出を忘れたくなくて。

 例え魔術師を殺す猟犬になろうとも、自分が自分である事を忘れない証として、彼はその名で呼ばれ続ける事を願ったのだろう。

「ジェイ……素敵な名前だな」

「ったく、ついにお前まで嫌味を言うようになりやがったか」

 本心から告げたのだが、彼女の内心を知らぬジェイは、嫌そうに顔を歪めて缶ビールをあおった。

 それを見て、イリムは不思議そうに首を傾げてから、包帯の巻かれた左腕を撫でる。

「少し遅くなってもいいか?」

 ずっと呼び続ける大切なモノだから、安易に決めてしまいたくなくて、そう問い掛ける。

 勿論、左腕の中で眠る意志も感情もない悪魔は、何も答えてはくれない。

 だが気のせいか、ほんの少し腕が温かくなったように感じて、イリムは目尻を緩めるのだった。



 後日、悪魔憑きの少女は訓練教官の老女とも顔を合わせ、連れの受けた地獄の特訓も聞かせられるのだが、それはまた別の物語。

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