【第三話 遊戯―play―】
アメリカ合衆国に存在する五大湖のうち、四つに囲まれたミシガン州。
その中で最大の人口を誇り、犯罪都市として悪名も誇るデトロイト市であるが、ダウンタウンの裏道など、明らかに危険な所へ踏み込まなければ、そうそう犯罪に巻き込まれるものでもない。
さらに、ビルの密集したデトロイトから少し離れ、豊かな自然の広がる郊外まで行けば、車で一時間とかからぬ同じ州かと疑うほど、目に見えて治安は良くなる。
そんなノバイ市にある公園を、犬を連れたご婦人が散歩していた。
クリスマスから始まり年明けまで続いたどんちゃん騒ぎも一段落し、ほっと一息吐いた休日の事である。
雪遊びする子供達の姿に目を細め、知り合いのブリーダーと談笑し、そろそろ引き上げようとした時、飼い犬がふと首を動かし一声吠えた。
何かとそちらを見れば、公園の端にある木の影に、一人の少女が座り込んでいる。
「お嬢ちゃん、お腹でも痛いの?」
友達と遊びもせず、座り込む子供を心配した婦人は、そう優しく声をかける。
だが、少女は無言で返事をしない。
「それとも、お母さんとはぐれちゃった? オバさんが一緒に探してあげましょうか?」
重ねて声をかけるが、少女はやはり何も言わない。
警察を呼んで保護して貰うべきかしらと、婦人が考え始めた時、リードに繋がれた犬が動いた。
「ワン、ワンッ!」
普段は大人しい子なのに、妙に激しく吠えたてながら、座り込む少女を前足で叩く。
「こら、ダメでしょ!」
慌てて叱る婦人の前に、ゴロンと何が転がった。
それは、サッカーボールくらいの大きさで、毛糸の帽子を被り、綺麗な金髪が生えて、瞳孔が開いたまま固まった――
「きゃあああぁぁぁ―――っ!」
婦人が甲高い悲鳴を上げても、胴体と別れて転がった少女の首は、もちろん返事はしなかったのだった。
◇
事件の詳細を知るため、ノバイ市の警察署を訪れたジェイは、何とも気まずそうに顔を歪めた。
何故ならそこに、偽物の彼らとは違う、本物が既に到着していたからだ。
「はじめまして、同じFBI捜査官のアラン・クロフォードです」
ドラマの俳優が抜け出してきたような、若くハンサムな捜査官――アランは、全て了解しているという含みのある微笑と共に、右手を差し出してきた。
「ご丁寧にどうも、ジェイと呼んでくれ」
「エル・イリム・ワン。イリムでいい」
「よろしく、イリムさん。私もアランでいいですよ」
魔術師やそれを狩る組織を、事前に知っていた若い捜査官は、子供といえども見下す事なく、礼儀正しく握手を交わした。
「さて、ここでは何ですから、場所を移しましょうか」
現れた牧師風の男と修道女姿の少女に、年明けから大事件が起きて殺気立っていた地元警官達は、如何にも胡散臭く邪魔だという視線を向けている。
それを察したアランは、取り調べ等に使う小部屋を一つ借りて、そこへイリム達を通した。
「礼を言っておく。毎回あんたみたいのが居ると、こっちも仕事がしやすいんだがな」
自分達がFBI捜査官だと納得させ、地元警官から情報を引き出すのに、毎度少なからぬ苦労をしているジェイは、そう素直に礼を告げる。
すると、アランは笑って首を振った。
「こちらも時に、貴方達の手を借りていますからね。お気になさらず」
FBIが捜査に超能力者の手を借りている。
そんな噂話が実は半分当たっていて、魔術師なんて連中と繋がっている事は、一部の人間にとっては公然の秘密だった。
「それで、この事件は貴方達側の者が犯人だと?」
「そうでない方が、俺としては楽なんだがな……」
アランの単刀直入な問いに、ジェイはまた素直に溜息で応える。
ノバイ市の公園で、少女の惨殺死体が発見された事件。
被害者の名前はミレイユ・オクレール、十三歳の少女だが、小柄でかなり幼く見える。
それが全身、十個のパーツにまでバラバラに切り裂かれたうえで、再び服を着せられて公園に遺棄されていたのを、散歩中の婦人が発見した。
この残酷極まる事件に、ノバイ市警は署の全員を動員し、FBIの手まで借りて犯人を捜しているのが今である。
「現状では、ただの異常者による猟奇的な事件で、魔術師は関係ないという気がするが、俺の上司が行けとうるさいんでね」
「確かに、明らかに不可解という点は見付かっていませんね」
愚痴の混じったジェイの感想に、アランも頷き返してから、事件の詳細を語り出す。
「被害者が『友達と遊んでくる』と家を出たのが当日の十時頃、公園で遺体が発見されたのが十六時十分頃、死亡時刻は十三時前後だと思われます」
現場に血痕が残っていなかった事から考えても、別の場所で殺害、さらに解体され、公園に運び込まれたのは間違いない。
家を出て誘拐されてから殺害、死体を解体して公園に遺棄するまで、使えたのは約六時間。
綿密に用意されていた計画だったとしても、遺体の切断には手間が掛かるから、移動に使えたのはせいぜい二時間、片道一時間といったところか。
殺害現場はそう遠くない所だろう。
だが、分かっているのはここまでだった。
「発見されたご婦人を含め、散歩されていた方や遊んでいた親子連れ等、少なくない人が公園に居ましたが、不審な人物は目撃されていません」
つまり、犯人を示すヒントは何もない。
「今は被害者の動向を含め、目撃証言を洗っているところですが……ひょっとして、犯人が透明人間だとでも?」
「それを言ったら、軍の開発した最新鋭の光学迷彩でもOKだな」
アランの推理を馬鹿にする訳ではないが、ジェイはそう付け加える。
「運良く誰にも見付からなかった。そう言われたらお終いだ、魔術の魔の字も関係ない」
「そういう偶然が、時として起こるから困りものです」
「そうなのか?」
「はい、偶然の要素ほど、綿密な捜査を狂わせてくれるものはありませんよ」
経験があるのか、尋ねてきたイリムにアランは苦い顔を返す。
「ともかく、目撃情報がないからといって、犯人が魔術師である可能性は低い……ったく、本当に何で俺達を寄こしたんだが」
舌打ちしたところで、ここに居ない上司には届かない。
ジェイはさっさと頭を切り換え、建設的な方へ話を向ける。
「被害者の遺体は検死局に?」
「えぇ、衣服から犯人の頭髪でも検出されれば良いのですが」
仮にそれが見付かれば、前科持ちなら警察のデーターベースから一発で分かり、初犯でも頭髪の色や人種、性別等がかなり判明するだろう。
そういった科学捜査とは別の件で、ジェイは遺体に用事があった。
この事件に魔術が関わっているかどうか、手っ取り早く判断する方法。
つまり、イリムの目による検分である。
「マスコミが見張ってそうで嫌なんだがな……」
先のハイスクールで起きた自殺事件のように、街の地方新聞記者くらいなら、見られたところで気にはしない。
だが今回は、年明けに起きた残酷な事件という事で、テレビでアメリカ全土に放映されている。
知る人は知るとはいえ、世を忍ぶ身分である黒犬達の姿を、間違って全土に放送されるような事態は控えたいのだ。
「俺はともかくこいつがな……」
「何だ?」
ジェイに見られ、首を傾げるイリムは、自分がどれだけ人目を引く容姿をしているか知らない。
そんな二人のやり取りを見て、アランがポケットから車のキーを取り出す。
「私が送りましょう。窓をフルスモークにしていますから、車外からは見られませんし、検死局でまた身分を証明するのも面倒でしょう?」
「助かるよ」
どこまでも親切な本物のFBI捜査官に、ジェイは珍しく微笑みを返した。
そうして、警察署の駐車場に向かいながら、アランは最初から抱いていた疑問を告げる。
「しかし、誤解されたり注目されるのが嫌なら、イリムさんの格好を変えられた方が良いのでは?」
「言っておくが、俺の趣味じゃねえぞ」
奇抜なシスター服の事を指摘されたジェイは、不機嫌な顔で即答する。
そんな二人のやり取りを聞き、イリムは小さく首を傾げた。
「アラン、私の格好は変なのか?」
「とても可愛らしいと思いますよ」
「そうか」
変じゃない、とは言っていなかったのだが、褒められたイリムは満足そうに頷く。
その横で、ジェイは再び不機嫌な顔をしていたが。
「お前のような趣味の奴が居るから、俺が苦労しているんだがな」
また上司の顔を思い浮かべつつ、彼はアランの車に乗って検死局へと向かう。
しかし、そこで十個に分割された少女の死体を見たイリムは、あっさりと首を横に振ったのだった。
◇
「まいりましたね」
三日後、再び警察署の小部屋で顔を合わせたアランは、困った様子でそう告げた。
差し出されたファイルに目を通し、ジェイも渋い顔をする。
あれから大々的な捜査が続いているというのに、大きな進展がなかったからだ。
「遺体から犯人の毛髪や体液は発見されなかったか」
「性的暴行が目的ではなかったのでしょう。解剖で判明したのは、無理矢理薬物を飲まされ、眠った後で首を切られ出血死したという事です。苦しまなかったのが唯一の救いでしょうね」
苦い表情をするアランに、ジェイも同じ様な顔を返しつつ、判明した被害者の行動記録に目を移す。
事件当日、被害者の少女ミレイユ・オクレールは、十時半に友人キャサリン・ジョンソン宅を訪れるが、十一時には「昼は外で食べるから」と二人で外出。
友人の証言によれば、市内の方にあるファーストフード店で昼食を取ったらしく、店員も二人らしき姿を覚えている。
その後、被害者は「用事があるから」と言って、友人と別れたらしい。
素直に彼氏とのデートだと言ったら、過保護な親がうるさいから、自分をダシに使ったのだろう。
そう思った友人は黙って彼女を見送り、自分は途中で会った他の友達と一緒に、お喋りやショッピングを楽しんでから帰宅したという。
これ以降の被害者を目撃した証言は、今のところ上がってきていない。
「十三歳のガキが彼氏とデートね」
「ジュニアハイスクールの友人に話を聞いてみましたが、それらしい相手を見た事はないそうです。秘密の恋だったのでしょう」
マセてるなと呆れるジェイを余所に、アランは至極真面目にそう言った。
「目下、警察はその恋人を探していますが……痴情のもつれで、遺体を十個に分割しますかね?」
「猟奇殺人鬼が社交的なプレイボーイだったなんて話は、珍しくもないけどな」
デッド・バンディの例を出すまでもなく、それを良く知っていたアランは、馬鹿な質問をしたと自嘲する。
「ハンサムな若い男で、遺体を解体し運んでいる点からして、一人暮らしで車を所持している――こんなところですかね?」
「プロファイリングとしては妥当じゃないか」
同意しつつも、ジェイの顔は晴れない。
犯人がアランや警察の推測通りならば、余計に彼らの出番ではないからだ。
「これ、本当に魔術師絡みか?」
遺体が捨てられていた公園やその周辺を、イリムを伴い巡回してみたが、色違いの目が魔術の痕跡を発見する事はなかった。
誰にも目撃されず、公園まで遺体を持ってきたという、偶然や幸運でも片づけられる一点を除けば、常識外の力を臭わせるモノがない。
捜査の進行によって得られた情報は、ジェイが当初から抱いていた疑惑を膨らませるだけだった。
「手を引かれますか?」
「…………」
アランの質問に、ジェイは黙り込む。
犯人がどれだけ残酷で危険な人物であろうと、常識外の力など持たぬ普通の人間ならば、対魔術師要員である黒犬が、これ以上関わるのは憚られる。
邪魔をしたり手柄を横取りしたと、一般の警察官や正規のFBI捜査官に恨まれては、この後の捜査協力が得難くなってしまうからだ。
「……このファイル、少し借りていいか?」
「はい、紛失さえしなければ結構です」
悩んだ末に告げたジェイの申し出に、アランは全て了解した笑みを向ける。
それを有難く思いつつ、彼はイリムを伴い警察署を後にした。
宿泊中のホテルに戻ったジェイは、ベッドに腰掛けテレビに釘付けとなっているイリムを余所に、借りたファイルを読み返し、もう一度考えを整理した後で携帯電話を手に取った。
軍用の暗号化技術が使用されている物で、少なくとも一般人には盗聴されず、解析する技術を持っているような者は、元から魔術師や黒犬の存在を知っているので、今更隠す必要もない。
そんな携帯電話の短縮番号から呼び出したのは、彼らをこの事件に向かわせた直属の上司。
『ハロー、調子はどうだい?』
いつ聞いても少年としか思えない、若々しいふざけた声に、ジェイは目眩を覚えつつも用件を告げる。
「今回の事件だが、ハズレである可能性が高い」
『ふ~ん、詳細を聞かせてくれない?』
「そう思って、捜査ファイルを借りてきた」
魔術師は関係ないと言われ、疑う声を出した上司に、ジェイは今まで入手した情報を逐一報告した。
「――という訳だが、これは本当に俺達の仕事か?」
『確かに、ちょっと怪しいかもねぇ』
話を聞き終えた上司は、ジェイの言い分に理解を示す。
だが、その上で反論する。
『でも、魔術師の犯行だと思うよ。だって僕、犯人分かったし』
「はぁ!?」
思わず素っ頓狂な声を出してしまったジェイの耳に、素早い補足が飛ぶ。
『正確に言うと、死体遺棄の方法と、その実行犯に察しが付いただけなんだけど』
「……説明してくれ」
たった今、話を聞いただけなのに、警察が血眼になって挑んでいる謎を、どうやって解いたというのか。
安楽椅子探偵でもあるまいし――と一蹴したいところだが、生憎と電話の相手は普通の人間ではないので、ジェイは笑い飛ばせず先を促した。
『確認するよ。公園に遺体が遺棄されたであろう時刻、犯人と思わしき怪しい人物は目撃されなかった』
「警察の調べではそうなっているな」
『じゃあ聞くけど、公園を歩いていて怪しいと思われる人物って、どんな奴だと思う?』
「お前のような根暗のオタク野郎だろ」
『あははっ、全く否定出来ないねぇ』
部下の悪口を軽く笑い飛ばしてから、上司の声はふと真剣になる。
『逆に聞くと、公園に居て怪しくないのってどんな奴だい?』
「そりゃあ、第一発見者みたいに散歩していた中年女性とか、後は――」
答えていたジェイの声が途中で詰まる。
上司が何を言おうとしているのか、理解してしまったからだ。
「おい、まさか……」
『女の子の死体なんて、大きなケースやバックにしか入らないから、一人で運んでいたら誰かの目に止まるだろう。けど、遺体は十個に分割されていた。これならあら不思議、小さな鞄に分けて運べるねぇ』
「…………」
『でも、大人が何人も揃って公園の端で何かやっていたら、それこそあっさり通報されるねぇ。さて、公園に大勢で集まっても怪しまれないのは誰でしょう?』
「……子供か」
『ピンポーン、大正解だっ!』
重苦しいジェイの答えに、上司は不謹慎極まる拍手を送る。
『公園に集まった子供達が、木陰でパズルを組み立てていたとして、怪しいと疑う大人は居るのかなぁ?』
居ないだろう。雪だるまでも作っていると思うのがオチだ。
「……ガキ共が揃って、同じガキを殺し解体したと?」
子供は天使と信じる大人達が聞いたら、卒倒してそのまま天国に行ってしまいそうな話だ。
そんな脳味噌お花畑ではないが、ジェイとて顔をしかめる話を、上司は軽く笑い飛ばす。
『被害者の子は十三歳でしょ。犯人も同年代、ジュニアハイスクールの生徒と仮定して、いったい何を驚く事があるんだい? 中東じゃもっと小さい子達がAKで大人を殺し回ってるよ』
「そういう話じゃねえだろ……」
『いや、そういう話だよ』
深い溜息を吐くジェイに、上司は懇切丁寧に説明する。
『そこから近いデトロイトの裏道じゃ、今まさに少年少女が手を血で染めているかもしれない。だからって、同じアメリカで同じ州とはいえ、治安の良いノバイ市に住む子達が、いきなり猟奇的な殺人を犯すのが普通だなんて言わないさ』
例え子供であろうとも、人を殺すにはそれなりの訳がある。
金や薬欲しさであったり、怒りや憎しみであったり――誰かに命令されたり。
『恐るべき未成年の猟期殺人鬼集団と、子供達を洗脳して使う悪い魔法使いと、さてどちらの方が居る可能性が高いだろうねぇ、常識的に考えて』
どちらも常識から外れた狂気の沙汰だ。
だが、まだ後者の方が救いはある。
『もちろん、天才の子供魔術師が、同じ子供を操ったという可能性もあるけど?』
「……二番目でいい。分かった、俺が悪かったよ」
どこまでもふざけた上司に、ジェイは観念し白旗を上げる。
「ったく、そんな出来の良い頭を持ってるなら、お前が現場に出て犯人を捕まえろよ」
せめてもの仕返しと、つい呟いた文句に返ってきたのは、実に単純な回答だった。
『嫌だよ、面倒くさい』
「……左様ですか」
ずぼらな台詞に、ジェイは馬鹿な事を聞いたと後悔する。
魔術師なんて連中は、『正当』だろうと『不法』だろうと、自分勝手で己の事しか考えていない連中だなんて、今更確認するまでもなかったのだから。
「とりあえず、子供を操った魔術師が居るという方向で調べ直す。だが、そいつをどうやって探す?」
遺体を捨てた方法については、一応の仮説がたった。
けれど、それで真犯人への糸口が掴めた訳ではないのだ。
『子供を掴まえて拷問したら?』
「警察に突き出すぞ」
『あははっ、面白いジョークだねぇ』
非道な方法に、ジェイが低い声を返すと、上司は笑いながらも意見を引っ込める。
『拷問と言うのは冗談だ。僕は子供が大好きだからね、酷い事はしたくない』
「ロリコンが」
『勘違いしないでよ、僕が好きなのは男の子だけさ』
「はいはい、いいから話を進めろ」
与太話に付き合っていると頭が痛くなるだけなので、ジェイは無視して先を促し、上司も渋々それに応じた。
『無理強いしなくても、普通に接触すればいいんだよ。被害者の友人、キャサリンだっけ? あれが怪しい』
「メシを食った後に別れた、っていうのが嘘って事か」
相手は十三歳の子供だ、警察もあまり強引な事情聴取は出来ていまい。
もちろん、明らかに怪しい態度を見せていたら、両親や人権屋を無視して問い詰めただろうが――
『魔術による洗脳を受けて、嘘を吐くよう仕込まれていたり、記憶を書き換えられていたら、一般人じゃ見分け付かないねぇ』
一欠片の動揺もない嘘、嘘と思っていない嘘。
そういった、機械にかけても見出せない欺瞞こそ、魔術の最も得意とする技だった。
「だから、お前ら魔術師は迫害されてきたんだよ」
『だから、迫害されないように頑張っているんだよ?』
つい事実という悪口を告げるジェイに、上司は声色を真似て言い返す。
『外れかもしれないが、あたってみて損はないと思うよ。上手くいけば黒幕へ一直線かもしれない』
「そうだな、しかし……」
同意したうえで言葉を濁したのは、接触方法が思い浮かばなかったからだ。
普通に聞き込んでも、警察に言ったのと同じ言葉しか返ってこないだろう。
だが、事件への関与をちらつかせ、それこそ拷問をしたとしても、上手くいく保証はない。
「下手をすれば、自殺するよう暗示を仕込まれている可能性もあるか……」
『口封じの手法としては下の下だね。それだと、魔術師だと叫んでいるも同じさ』
魔術はバレないように使うのが一番難しく――と、ズレた事を言う上司は無視し、ジェイは頭を抱える。
「ったく、死体をそこらに捨てさせた馬鹿かと思えば、面倒な仕掛けを施しているかもしれないとは、実に鬱陶しい」
そんな愚痴を聞いて、上司の声色がふと変わる。
『子供なんだろうね』
「はぁ?」
『肉体の話じゃなく、精神年齢って意味でね、犯人は子供なんだよ』
何が原因かは知らないが、子供を殺した。
それを玩具のようにバラバラにしたくせに、自分で捨てに行く勇気はない。
だから手下の子供達に命じて、目立つ公園に捨てさせた。
犯人だとバレぬよう隠れているくせに、己の所行を自慢したくて堪らないから。
『今頃、テレビを見ては警官を無能だと嘲笑い、手下の子供達に自分を絶賛させ、まるで世界の王にでもなったようにふんぞり返っているだろうねぇ』
「見てきたようにものを言う」
感心と呆れの混じった溜息を漏らすジェイに、上司は笑って応じた。
『あははっ、よく居るタイプだからね。というか、魔術師なんてみんな子供だよ。現実から空想に逃れて、力と自意識を肥大化させた怪物さ』
己もそうである事を全く否定しない、自嘲に満ちた言葉を、大人であるジェイは聞かなかったふりをして流す。
「で、どうすればいい。お前の事だ、もう策を考え付いているんだろう?」
『たまには君も頭を使いなよ~。何のために高い給料を払っていると思っているんだい?』
「なら、ベビーシッター代も払え」
微動だにせずテレビを見続けるイリムを横目で伺い、ついそんな愚痴を漏らと、上司は電話の向こうで肩を竦めた。
『やれやれ、それを言われたら仕方ない。答えは簡単で、例の怪しい友達とやらを、イリムちゃんで懐柔すればいい』
「おいっ!」
その提案を聞いた瞬間、ジェイの声には怒気がこもる。
「正気か?」
『狂ってるよ、でも本気さ。洗脳されているなら、もっと強い力で洗脳し返してやればいい。小手はともかく、シスター服を外せば楽勝だろう?』
人形のように整った外見だけではなく、イリムには人の目を引き寄せる力がある。
それこそ、魔性と言ってよい力が。
「いや、そうだがな……」
妙案であると分かりつつも、ジェイの口は重くなる。
事件は解決するかもしれないが、それとは別の問題が発生するかもしれないからだ。
とはいえ、代案も思い付かず、迷っている間に第二の犠牲者が出ては堪らない。
「もし大事になったら、お前が責任を取って隠蔽作業に奔走しろよ」
『えぇ~、嫌だよ面倒臭い!』
上司の悲鳴に少しだけ溜飲を下げ、ジェイは電話を切る。
そして、先程から全く変わらず、テレビを見ている少女の頭に手を置いた。
「お前は素直で有能だが、時々馬鹿だから心配なんだがな」
「ジェイ、あれは凄いな」
無表情なくせに興奮しているのか、溜息も聞こえなかった様子で、イリムはテレビの画面を指差す。
「車は巨人に変身出来たのだな、知らなかった」
「……本当に心配だよ」
映画を現実と信じ込む少女に、ジェイは再び溜息を漏らす。
そして、修道服しか持ち歩いていない連れに、普通の服を買い与えなくてはいけないと気付いて、三度目の溜息を吐いた。
◇
ミレイユ・オクレールが遺体となって発見されてから、既に一週間以上が経とうとしていた。
検死を終え返ってきた遺体は、既に家族や友人の手によって埋葬を終えている、
その葬儀にも参加し、故人を最後に目撃した友人、キャサリン・ジョンソンはもう事件を忘れたかのように、日常へと戻っていた。
「はぁ、最近つまんないわね」
まだ犯人が捕まっていないというのに、不用心にも学校から一人で帰宅していたキャサリンは、人前では絶対に見せないような顔でそう呟く。
事件の影響で、元から心配性でうるさかった両親は、彼女の自由を奪い尽くしてしまった。
帰りが遅くなるからと、所属していたバスケ部を辞めさせられ、友達の家へ遊びに行くのも禁止、登下校も両親の車による送迎だ。
今日はたまたま、急に外せない用事が入ったとかで、両親が来られないので渋々ながら、一人での帰宅が認められたのだ。
「子供扱いしてっ!」
もう私はジュニアスクールに通うガキとは違うのだと、キャサリンは足下の雪を蹴飛ばす。
こんな事になったのはミレイユのせいだと、酷い八つ当たりをしながら歩いていた彼女は、もう直ぐ自宅という所で足を止めた。
ただ民家が連なる閑静な住宅街。
その歩道に、目の覚めるような美しい少女が立っていたのだ。
「うわぁ……」
同姓であるキャサリンですら、つい見惚れてしまうほど、その少女はともかく魅力的だった。
真っ白いロングコートに同色の帽子を被っていて、見えるのは赤い髪と目鼻だけ。
横顔だけでも可愛らしいのは分かったが、何かそれだけでは説明出来ない、何とも言えない力が目を引き寄せる。
(大女優に会ったら、こんな感じなのかな……)
一部のカリスマが放つオーラ。
それはきっと、このような輝きなのだろう。
人形のように表情がなく、寒空のなか微動だにしない様子も、幻想的な雰囲気を醸し出している。
(天使みたい……)
信心深い両親への反抗で、むしろ聖書など馬鹿にしているキャサリンの目にすら、少女は神々しく映る。
実際には、それと全く反対の存在であろうとも。
「――っ!?」
少女が不意にこちらを向き、目があったキャサリンは呼吸を忘れるほど息を呑む。
右の青と左の緑、神秘的なオッド・アイに見詰められ、彫像のように固まった彼女の元に、天使のような少女は歩み寄ってくる。
「エル・イリム・ワン」
「…………」
「イリムでいい。貴方は?」
「……えっ、あっ、名前!? キャ、キャサリンよ!」
見惚れて言葉を無くしていた彼女も、ようやく我に返って名乗った。
すると、少女は頷き右手を差し出してくる。
「はじめまして、キャサリン」
「……キャシーでいいわ」
「分かった、キャシー」
白く細い手を握り返し、何とかそう告げると、少女は素直に彼女を愛称で呼んだ。
それだけで、天にも昇るような気持ちになってしまったキャサリンを前に、少女はこの先何をしたらいいのか分からない様子で動きを止める。
だが、耳元で誰かの指示が聞こえたように、言葉を紡ぎ始めた。
「よかったら、今度一緒に遊んで貰えないか?」
「う、うん、もちろんOKよ!」
「では明日の土曜日、十一時頃、貴方の家に伺う」
「分かった、パーティーの準備をして待っているわ!」
完全に舞い上がっていたキャサリンは、少女がどうして自分の家を知っているのかという疑問も、出会ったばかりの相手にここまで入れ込む事が、どれほど異常なのかも気付いていない。
ただ、まるで魔法でもかけられたかのように、少女の言葉を受け入れる。
「二人だけでは寂しい、キャシーの友達も呼んでくれると嬉しい」
「うん、友達も誘っていっぱい楽しみましょう!」
「では、また明日」
「待ってるから、絶対、絶対に来てね!」
背を向け歩き出した少女の姿が、角を曲がり見えなくなるまで、キャサリンは何時までも手を振り見送った。
そうして、仕事を終えた少女ことイリムは、道端に停まっていた黒い自動車の後部座席に乗り込んだ。
「ジェイ、ちゃんと言うとおりにしてきたぞ」
「途中で台詞を忘れてただろうが」
運転席に座った牧師服の男ことジェイは、ことさら後部座席を見ないようにしながら、手にしていた小型マイクをダッシュボードに投げる。
その後ろで、イリムは赤い髪を掻き上げ、耳からイヤホンを外し、白い衣装を脱いでいつものシスター服に着替え出す。
羞恥心の欠片もない衣擦れの音に、ジェイはまた顔をしかめながらも、これで賽は振られたと覚悟を決める。
「あれこれ面倒な手回しまでしたんだ、外れてくれるなよ」
唯一にして最大の問題は、この大根役者だが――と、ついバックミラーで後ろを伺いそうになって、ジェイは慌てて窓の外に目を逸らした。
土曜日、時間通り家を尋ねてきたイリムを、キャサリンとその友達は大歓迎で迎えた。
「うわっ、本当にスゲー綺麗な子じゃん!」
「お、俺はリック、よ、よろしく!」
「なに緊張してるのよ。私の事はスージーって呼んでね」
「もうみんな、イリムは私の親友なのよ!」
一目で魅了されて群がる友人達を、キャサリンは手で掻き分けて、早くも親友と決めた少女に抱き付く。
「今日はうるさい両親も居ないから、いっぱい楽しみましょう!」
昨日と同じく、重要な用事とかで両親が出掛けたのを、何者かの企みだと疑ってすらいない。
「何をして遊ぶ? ゲーム? 街に出て映画館やクラブを回りましょうか?」
目を輝かせた問いに、イリムは戸惑うように小首を傾げる。
友達と遊ぶという経験のなかった彼女は、どう返答すれば良いか分からなかったのだ。
今日はコートに盗聴器と発信器は仕込ませていたものの、見付かりやすい耳のイヤホンは外しており、ジェイからの指示は貰えない。
生涯で初めてというほど長く考え込んだ末に、イリムの頭に浮かんだのは、旅をした街々で幾度も見かけた光景であった。
「雪遊び、というものをしてみたい」
「えっ、雪遊び?」
「駄目だったか?」
「いいえ、とっても素敵だと思うわ!」
大人ぶりたい年頃のキャサリン達は、一瞬嫌そうな顔をしたものの、イリムの願いを断りたくなくて、直ぐに笑顔を浮かべて彼女の手を引いた。
皆で家を出て、事件が起きたのとは別の公園に向かう。
雪景色が広がるそこは、散歩をする大人の姿はチラホラ見かけるが、どこの両親も心配性らしく、子供達の姿は全く見当たらない。
「あはっ、私達の貸し切りねっ!」
軽い独占欲と、まるで悪い事をしている気分も相まって、キャサリン達は顔を輝かせて綺麗な白雪に足跡をつけていく。
「イリム、いくわよ!」
スージーと名乗った少女が、雪玉を作り投げ付ける。
それを右手で軽く受け止めた後、イリムは小首を傾げた。
「これを投げ合えばいいのか?」
「いえ、ぶつけるのよ。こうやって!」
「うわっ、冷てえっ!」
顔面に雪玉を受けたリックという少年は、もう一人のロイドという少年と共闘し、少女達に雪玉をお返しする。
「きゃっ、よくもやったわね。許さないわよ!」
「ほら、イリムも手伝って」
「分かった」
イリムは頷き、手にした雪玉を少年達に放る。
本気で投げれば怪我をさせると判断し、手加減は忘れなかったが。
「あらリック、私と違ってイリムには随分と優しいのね?」
「イリムが速すぎるんだよ、全然当たらねえ」
「流石は私の親友ね、イリムならバスケだって大活躍出来るわよ!」
怪しい小手を隠すため、包帯を何重にも巻かれた左手が使えないのに、八面六臂の活躍を見せたイリムを、少年少女達は揃って褒め称えた。
「あー、こんなに雪遊びしたの凄い久しぶりだな」
「そうね、たまにはこんなのも悪くないわ」
汗を掻くほど遊んだ後で、彼らは手を止め微笑み合う。
その顔は、イリムという異質な存在とは関係なく、純粋かつ年相応な輝きを放っていた。
「腹も減ったし、一度帰ろうぜ」
リックが火照った顔を扇ぎならがそう言うと、皆も揃って同意する。
だが直ぐに、キャサリンが何かを思い付いた様子で提案した。
「どうせなら、みんなであそこに行かない?」
彼女が示しているのが何処か、察した三人の顔色が一瞬で豹変する。
無邪気な子供のモノから、貪欲で浅ましい大人のモノへと。
「ねえイリム、雪遊びよりもとっても楽しい遊びがあるの」
イリムの手を握ってくるキャサリンの目は、暗く怪しい光を放っていた。
◇
市内のハンバーガーショップ――おそらくは、故ミレイユ・オクレールとも寄った店で食事をした後、キャサリンは再び住宅街の方へとイリムを連れて行った。
途中、電話でさらに友達を呼び、十人を越える大人数となりながら、目的地に辿り着く。
そこは、庭の芝も綺麗に整えられた、怪しげな所など何一つない、普通の一軒家だった。
チャイムを押して現れたのも、怪しさなどまるでない、真面目そうな青年。
ハンサムで背が高く体格も良い、理想的な好青年を絵にしたような彼に、子供達は一斉に挨拶を告げる。
「「「先生、こんには!」」」
「えぇ、こんにちは皆さん」
好青年――子供達の通うジュニアハイスクールの若き教師は、休日に現れた教え子達を、嫌な顔一つせず迎えた。
「おや、その子は……」
教え子達の中に見知らぬ顔を発見し、教師は僅かに眉をひそめる。
だが、人形のように美しいその顔と、彼だからこそ気付く、内面から滲み出る光を見て、即座に満面の笑顔を浮かべた。
「こちらの素敵なお嬢さんは?」
「私の親友イリムよ。ねえ先生、イリムも私達の仲間に入れていいでしょ?」
「もちろん、大歓迎ですよ」
「やったあ! 良かったわね、イリム」
「……そうか」
大喜びして抱き付いてくるキャサリンを余所に、イリムは色違いの瞳で教教師を見詰め続けていた。
「ほらみんな、中に入りなさい」
「「「お邪魔します」」」
教師の招きに応じ、生徒達は勝手知ったる家と玄関をくぐり、リビングに上がり込む。
そこは広く、立派な暖炉では薪が燃え、高そうな絨毯が敷かれていた。
唯一おかしな点があるとすれば、まだ昼間だというのに、分厚いカーテンが閉められていた事。
「では早速、始めましょうか」
教師は皆が部屋に入ると、扉に鍵をかけて明かりを落とし、暖炉の火に何かを投げ入れた。
薄暗くなり、妙に甘い香りが充満したリビングの中で、子供達は揃って服に手をかける。
「ほら、イリムも早く脱いで」
コートもシャツもスカートも、下着も脱ぎ捨て生まれたままの姿となって、キャサリンは友達となった少女を誘う。
「寒くないのか?」
「とぼけちゃって、それとも初めてなの? うふふっ、可愛いわ」
どうして服を脱ぐのか不思議がるイリムに、キャサリンは妖艶に笑って裸の四肢をからませてくる。
「ああすれば、とっても気持ちよくなれるのよ」
見回したリビングの中では、既に他の少年少女達が絡み合い、淫らな声を上げていた。
掴み、吸い、交わり、悶えるそれを前に、イリムは全く表情を動かさずに小首を傾げる。
「これはセックスというものか?」
「そうよ、セックス。最高に気持ちが良いんだから!」
そう言って近付いてきたキャサリンの唇を、イリムは一歩退いて避ける。
物知らずな彼女は、倫理や道徳というものを分かっていない。
ただ、ジェイの多大な苦労によって、知識としては理解していた。
「こういう事は大人になるまでしてはいけない、そう教わったが?」
「そんな嘘を気にしてはいけません」
また不思議がるイリムに、この中で唯一の大人である教師が穏やかに告げる。
「貴方達はもう立派な大人ですよ。つまらない両親や世間の言葉なんかに、耳を貸してはいけません」
「そうよ、私達はもう大人なの」
イリムから離れたキャサリンは、教師に抱き付き唇を重ねる。
「パパもママも、私を子供だって馬鹿にするわ。でも先生は違う、ここのみんなは違う。だから一緒に大人の遊びを楽しみましょう?」
子供扱いは嫌だと、セックスをすれば大人だと、そういった幼稚な思考こそが子供の証だと、惚けた顔のキャサリンは気付かない。
気付かないように、心地よい言葉と、常識外の力で誘惑されてきたから。
「ほら、キャシーもこう言っています。他の皆も楽しそうでしょう? だから貴方も、欲望を解放しその身を委ねなさい」
色違いの瞳を覗き込み、教師の目が赤く光る。
瞳術――ギリシャ神話のメデューサを始め、太古から続く伝統的な魔の力。
それを真っ向から受け止め、イリムは答える。
「断る。ジェイの教えを破る気はない」
「……そうですか、とても残念です」
自分の瞳術が退けられたと知り、教師の顔から笑みが消える。
そして気が付けば、絡み合っていた子供達が、一斉にイリムを取り囲んでいた。
「残念よイリム、貴方もミレイユと同じ事を言うのね」
キャサリンも心から惜しみながら、彼女の体に手を回す。
他の子供達もそれに続いて、肉の枷となってイリムの動きを封じた。
「お前が、ミレイユ・オクレールを殺したのか?」
「そうですよ、彼女も私達の考えを理解してくれませんでしたから」
生きて帰す気のない教師は、素直に犯した罪を認める。
おそらく、故ミレイユ・オクレールは魔術師の才能があったのだろう。
そのせいで、教師の瞳術に抵抗してしまい、口封じのために殺された。
「お前が、キャシーを、リックを、スージーを、ロイドを、こんな風にしたのか?」
自分を掴まえる子供達を目で指すと、教師は笑って首を振る。
「とんでもない、哀れな大人達から解放してあげただけです」
自分は悪くない、全ては子供達の自由意志だと。
ぬけぬけとした言葉は、どこまでが責任逃れの嘘で、どこまでが真実だったのか。
最早、魔術をかけられた本人達すら分かるまい。
教師の片棒を担いだ生徒達は、ただ黒い笑みを浮かべて騒ぎ出す。
「ねえ先生、今度はどこに捨てればいいの?」
「あら、イリムを捨てるなんてもったいないわ。私がずっと可愛がってあげる」
「お前だけズルいぞ、俺も欲しい!」
「じゃあ、またみんなで分けましょう」
「賛成、俺は右足がいいな」
「頭は駄目よ、親友の私が毎日キスしてあげるんだから」
瞳を暗い欲望で濁らせた子供達の手が、イリムの体から白いコートを脱がせ、そして左腕に巻かれた包帯を剥ぎ取った。
「何だこれ、スゲーッ!」
現れた金属製の小手を見て、少年の一人が声を上げる。
だが、そこに刻まれた紋様を見て、教師の方は眉をしかめた。
「それは……」
十字架に蛇が巻き付いた意匠。
ギリシャ神話の名医・アスクレピオスの杖として、医療機関に採用されているマークに似ているが、僅かに雰囲気が違う。
小手に刻まれた物はむしろ、神聖な十字架を、悪しき蛇が犯しているように見えた。
「お前は、コーヒーのような奴だ」
紋様に気を取られていた教師に、イリムの静かな声が飛ぶ。
「黒くて、不味くて、不愉快だ」
子供を誘惑して貪り、好きに操り、そして殺した、子供のように勝手な大人を、イリムは少ない語彙で罵倒する。
それは、彼女が初めて抱く『怒り』という感情だったのかもしれない。
「――解放」
一言呟いただけで、小手が勝手に外れて床に転がる。
現れた白い左腕、それは内側に青い光を宿していた。
そして、少女の意志によって、肉の枷から解放される。
「――受肉・スタート」
透き通った、幻想のように美しい青い光。
腕から放たれたそれは、壁を浸蝕し、木の板を引き剥がし喰らう。
捕食、分解、再結合。
物質を組み替え実体を得た青い光は、イリムの左腕に根付き、産声を上げるように広がった。
剥き出しの骨と、薄い飛膜を連想させるそれは、まるで――
「悪魔……」
誰ともない呟きが、少女の左手に宿ったモノの正体を、何よりも正確に言い当てていた。
「…………」
イリムが無言で左腕を下ろすと、悪魔の翼は床に突き刺さり、絨毯や床板を喰らいながら複数に分裂し、子供達に巻き付いて、彼女の体から引き剥がす。
「ひい……っ!」
悪魔の翼はとても優しく、彼らの体に傷一つ付けなかったが、得体の知れないモノに拘束された子供達は、享楽の熱も吹き飛んで恐怖に凍える。
その中で、唯一捕まっていなかった教師は、自分が魔術師である事など忘れた様子で、壁に掛けられていた猟銃を掴む。
「ば、化け物め!」
銃口が向けられ、引き金が引かれるよりも早く、左手の翼が大きく広がる。
盾となったそれは、放たれた散弾を全て受け止め喰らい、イリムはもちろん、背後の子供達にも掠り傷一つ付けさせなかった。
「くそ、くそ……っ!」
弾切れになったのも気付かぬほど動揺し、引き金を引き続ける教師に、イリムは巨大な翼の重さなど感じさせない、軽い足取りで近付いていく。
そして、魔の宿った左腕ではなく、年相応に細い右腕を振り上げた。
「ぐわっ!」
思い切り頬を殴られた教師は、壁にぶつかりズルズルと崩れ落ちる。
それを変わらぬ無表情で見下ろすイリムの頭に、ポンっと大きな手が乗った。
「よくやった」
現れたのは、コートに仕掛けた盗聴器で様子を知り、慌てて駆け付けてきたジェイ。
褒め言葉は、悪しき魔術師を掴まえた事か、それとも殺さなかった事に対するものか。
それは言及せぬまま、彼は撫でていたイリムの頭に、今度は軽い拳骨を落とす。
「だが、やりすぎだ。早く解除しろ」
「分かった」
イリムが頷いたのと同時に、悪魔の翼に奔っていた青い光が、左腕の中へと戻っていく。
すると、子供達を拘束していたモノを含め、全ての翼は灰のような粉となって崩れ落ちた。
「まったく、心配通りやらかしやがって」
「何がだ?」
不思議そうに首を傾げるイリムに、ジェイは再び拳骨をかます。
そして、裸で震える子供達の方は見ないようにしながら、気絶した教師に近付き、一本の注射を打った。
◇
閑静な住宅街の一角は、何台ものパトカーと野次馬、早くも駆け付けた報道陣に囲まれて、異様な大騒ぎとなっていた。
件の少女殺害犯がジュニアハイスクールの教師で、教え子達と淫行に耽っていたという、ショッキングな事実が判明したのだから、仕方のない事ではあったのだが。
救助された子供達が毛布にくるまれ、パトカーで連れられていくのを、少し離れた所から見ていたジェイに、FBI捜査官が歩み寄って声をかける。
「この度はありがとうございました。特に、犯人を生かしたまま捕らえてくれたのは助かります」
「最終的には始末するがな」
今は薬物で昏倒させたうえで、魔術を使えないよう幾重にも拘束されている教師は、黒犬の職員が監視する中、余罪を全て吐かせてから、結局は殺す事になる。
公式には、猟奇殺人犯が獄中で首を吊ったという事になり、世間はまた大騒ぎするだろうが、真実に辿り着く事はないだろう。
そう言って、タバコに火を点けるジェイに、FBI捜査官ことアランはニッコリと微笑を向ける。
「ですが、その余罪が大切ですから。色々出て来そうですよ」
その根拠は、教師が一人で暮らしていた一軒家。
家具も上等な物が揃っており、若い教師の安い給料だけで、買えたとは思えない。
「あの教師、ここに赴任してきたのは去年の事とか。さて、いったいどんな副業をしていたのでしょう?」
言葉巧みに誘惑し、洗脳して手駒とした少年少女達を、自分の趣味だけではなく、金儲けのためにも利用していたのだろう。
「ちっ、さっさと脳味噌を撃ち抜いておくんだったか」
「余罪や関係者の名前を吐かせたらご自由に。これでまた一つ、デトロイトから膿を搾り取れそうです」
舌打ちにそんな台詞が返ってきて、ジェイは驚いた様子で眉を動かす。
「まさか、最初からそっちが本命か?」
その問いに、アランは丁寧で親切な、そして能を隠した鷹の笑みで応じる。
「子供を使った売春組織、利用する肥え太った金持ち、それを見逃す汚職警官……さて、どこまで名前を引き出せますかね」
「食えない奴だ」
呆れと賞賛の混じった笑みを浮かべ、ジェイはタバコの煙を吐く。
世間で大騒ぎとなった猟奇殺人とはいえ、子供が一人死んだだけの事件に、こうも早くFBI捜査官が動くものかと疑問に思っていたが、そこには裏があったのだ。
元から探っていた犯罪組織、それが関与しているのではないかと。
「犯人の死も、組織が口封じのためにしたって事で、誤魔化せて丁度良いじゃないですか」
「お前、FBIよりCIAとかの方が向いているんじゃないか?」
ダーティーな手段をあっさり認める連邦捜査官様の姿に、ジェイはつい笑い出してしまう。
そうしてから、ふと真面目な顔になり、パトカーで運ばれていく子供達を見詰めた。
「あの子達、どうなる?」
「無罪放免とはいかないでしょうね……」
話を振られたアランの方も、笑みが消え暗い顔となる。
「主犯は教師であり、子供は被害者だと訴えても、全ての国民は納得しないでしょう」
魔術による洗脳なんて話を、表沙汰に出来ないという理由だけではない。
事実として、彼らにも責任があるからだ。
例え魔術をかけられていたにしても、日常生活を普通に送っていた事から考えて、自由意志が完全に消えた操り人形ではなかった。
淫行に溺れたのも、死体を運んだのも、全て教師のせいだとしよう。
だが、自分達と同じ暗い欲望の世界に、大切な友達を引きずり込んだのは、己の意志であったろうから。
「最低でも更生施設送り、悪ければ実刑か」
「出来るだけ手は回しますが、世論がどう動くか……」
子供でも犯罪者は厳しく罰するべきだと、そういう流れが出来てしまったら、もう一介のFBI捜査官にはお手上げだ。
そう肩を竦めてから、アランは話を変える。
「ところで、リビングが妙に荒れていましたが――詮索は無用にしておきましょう」
ジェイの眉が嫌そうに動いたのを見て、アランは素早く質問を取り下げた。
「助かる。子供達が何か言っても、薬で幻覚を見たという事にしてくれ」
「実際、薬物の類が発見されたようですし、誰も戯れ言と耳を貸さないでしょう」
魔術で操られていた影響で、記憶が曖昧になっていた可能性もある。
(だから、口封じはする必要ない)
苦しい言い訳だと自覚しつつも、また子供達を洗脳したり、命を奪うような真似はしたくなくて、ジェイはそう問題から目を逸らした。
「じゃあな、あとは任せた」
「えぇ、任されました」
この先は本職の仕事だと、バトンタッチするように手を合わせ、ジェイは若きFBI捜査官に背を向けた。
事件現場からは随分離れた所に停めておいた、黒い自動車のもとに戻ると、いつもの修道女姿に戻ったイリムが車外に立ち、暗く曇った空を眺めていた。
「行くぞ」
車に乗るよう声をかけるが、彼女は何故か動かない。
「どうした?」
不思議に思って再び声をかけると、イリムはようやく視線を空から外し、色違いの瞳をジェイに向けた。
「今日、雪遊びというものをした」
「楽しかったか?」
複雑な気持ちを見せぬよう、出来るだけ素っ気ない声で尋ねると、イリムは頷くでも首を傾げるのでもない、何とも中途半端に頭を動かした。
「……楽しかった、のだと思う」
初めて、同年代の子供達とした遊び。
それが、悪魔の放つ魅了による、歪な友情によるものだったとしても。
「楽しかった、のだと思う」
同じ言葉を繰り返したのは、それがもう二度と得られない事を、惜しんだからだろうか。
例え更生施設から出てきても、キャサリン達とイリムが再び顔を合わせる機会はない。
そして、例え再会したとしても、彼女達はもう二度と、あの時のような笑顔を向けてはくれないのだ。
イリムが恐ろしい、悪魔を宿した子供だから。
「…………」
泣くという行為を知らぬ少女を憐れんだように、舞い降りてきた白い結晶が、彼女の頬に落ちて溶け、一粒の雫となって流れる。
「行くぞ」
「分かった」
繰り返したジェイの言葉に、イリムも今度は頷いて、車の助手席に乗り込んだ。
後日、獄中である犯罪者が死に、それを切っ掛けとしたように、街の犯罪組織が幾つか検挙されたが、それはまた別の物語。