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【第十三話 亡霊―phantom―・後編】

 アメリカ合衆国の西部に位置するネバダ州。

 カジノで有名なラスベガスがあると言われれば、華やかなイメージを抱くだろう。

 しかし、そのラスベガスから車で数時間も走れば、無味乾燥した死の砂漠が広がっている。

 水源が乏しく、緑が少ないため生命を感じられない、という理由だけではない。

 地下核実験によって放射線物質、死の灰が降り注いだ、真の意味で死に汚染された大地。

 誰もが好んで立ち入ろうとはしない、そんなネバダの核実験場に、悪魔を失った少女、エル・イリム・ワンは立ち尽くしていた。

「…………」

 空はどんよりと曇り、今にも雪が降り出しそうなほど冷え込んでいる。

 普通の子供達は新年のパーティーを楽しんでいる頃だというのに、彼女は一人で核実験の残した巨大なクレーターを眺めていた。

 それを不幸だとは思わない、全ては自分で選んだ事なのだから。

「……来たか」

 身じろぎ一つせず佇んでいたイリムは、地平線の彼方に浮かんだ土煙を見て、待ち人の到着を悟る。

 黄土色の乾いた大地を走ってきたのは、毒々しいまでに赤い高級スポーツカー、ACコブラのレプリカ。

 その運転席に座っていたのは、車体に負けない派手な赤いドレスとコートを着た少女、リリー・エム・トゥエルブ。

 小柄な体格でも運転出来るよう、わざわざシートとペダルを改造させたのか。

 リリーは無駄にドリフトターンなど決めて、イリムの前に降り立った。

「ごきげんよう、お姉様。なかなか洒落たアクセサリーね」

 自分が切り落とした左腕に、小手を嵌めた義手がつけられているのを見て、皮肉っぽい賛辞を贈る。

 しかし、イリムは気分を害した様子もなく、場違いな指摘を口にした。

「車を運転するには、免許が必要と聞いたが、持っているのか?」

「ある訳ないでしょう、お姉様ったら馬鹿ね」

「そうか」

 鼻で笑われても、イリムはやはり眉一つ動かさない。

 それが不満で、リリーはコートを脱ぎ捨て、自らの物となった左腕を見せつけた。

「これ、ありがたく使わせて頂いてるわ」

「……そうか」

 失われた半身を目にして、イリムはようやく表情を動かす。

 ただ、そこに驚きはなく、痛ましい手術跡に対する憐憫の方が大きかった。

「リリー、もう一度だけ聞く」

 自分の物であった左腕、そして自分と同じ色の違う瞳を見詰めて問う。

「人を滅ぼす、それを止めるつもりはないか?」

「寝言は寝てから言うものよ、お姉様?」

「そうか」

 予想通りの答えが返ってきて、イリムはただ頷いた。

 今のリリーに、自分の言葉が届かないのは分かっていたから。

 彼女自身が憎しみに捕らわれ暴走した時、ジェイの声が届いたのは、彼が長い時を共に過ごし、絆を結んだ相手だからだ。

 イリムとリリーの間には、残念ながらそれが無い。

 だから、取るべき手段は一つ。

「力づくで、止める」

 右の拳を固く握り、左の小手を前に突き出し、イリムは体中から闘気を放つ。

「えぇ、言葉なんて無粋なもの、私達には必要ないわ」

 そのために来たのだと、リリーは歓喜の笑みを浮かべ、両腕の力を解放する。

 赤い天使の右翼、青い悪魔の左翼。

 聖と魔の光は共に大地を喰らい、実体を得て冬の空に羽ばたいた。

「今度は頭をもいであげるわ、お姉様」

 リリーの両手から生えた翼が、首を挟み斬ろうと伸びてくる。

 しかし、イリムも迷い塞ぎ込んでいたあの時とは違う。

 素早く屈んで翼のハサミを避けながら、懐に隠していたスイッチを押す。

 瞬間、二人の周囲で連続して爆発が起き、舞い上がった砂煙が視界を黄土色に染め上げた。

「見えないなら、全部斬ってしまうわね」

 砂塵で姿を見失っても、リリーはまるで動じず、両手を広げて踊るようにクルリと回る。

 腕から伸びた二枚の翼が、巨大な草刈機となって唸り、大地に立つものを全て薙ぎ払う。

 しかし、砂煙の中から響いてきたのは、ACコブラが両断された金属音だけで、鮮血と臓物の撒き散る音は無し。

 ではイリムが何処に居るかと言えば、考えるまでもない。

「はっ!」

 裂帛の気合と共に、リリーの頭上で砂塵が裂け、金属の小手が迫る。

 しかし、天使の翼が素早く分裂しながら伸び、空中から奇襲をかけてきたイリムを撃ち落した。

「くっ……」

「素敵よお姉様、もっと私を楽しませて!」

 受け身を取って立ち上がるイリムに、こんなものでは満足出来ないと、リリーは更なる攻撃を見舞った。


 そんな少女二人の攻防を、一.五㎞ほど離れた小さな丘の影から、二人の男達が見守っていた。

「イリムさん、頑張って……あっ、危ない!」

 両の拳を握りしめ、ハラハラしながら見守っているのは、ジャージ姿の青年ことケン・カーライル。

 その横では、ジョン・ルーザーことジェイが、狙撃銃レミントン・MSRのスコープで、同じように相方の戦いを見詰めていた。

「まだ出るなよ、これはあいつの喧嘩だ」

 今にも飛び出しそうなケンを注意する事で、ジェイは自分の心にもブレーキをかける。

 敵を呼び出し、戦う場所も用意したが、その先はイリムの仕事。

 彼女自身の力で超えなければ意味がない。

 本当に最後の最後、殺される寸前まで手助けは出来ない。

「ったく、胃に穴が開いたらどうしてくれる」

 隣のケンに聞こえないよう小声で愚痴りながら、ジェイは右目でスコープを覗いたまま、左目で腕時計を確認する。

 この決闘は、あくまでイリムのワガママ。

 人類の敵を殲滅するという最大の目的にとっては、無駄でしかない行為。

 だから、許された時間はあまり残ってはいなかった。


 天使や悪魔の力がいかに強大でも、宿主は人間にすぎない。

 よって、煙幕や閃光弾で五感を塞ぎ、奇襲をかけるという戦術は、あながち間違ってはいなかった。

 ただ、宿主の意識とは無関係に、自動で展開される防御を貫くだけの、高い破壊力があればの話だが。

「これも駄目か」

 幾度も仕掛けた攻撃を全て防がれ、イリムは僅かに焦りを浮かべながら後ろに飛び退く。

 対するリリーは、始めの位置から一歩も動かぬまま、退屈そうに欠伸を噛み殺す。

「悪魔も無しで良くやった、そう褒めるべきなのでしょうね。けれど、おままごとには飽きてしまったわ」

 そう呟いた瞬間、イリムの足元が爆ぜ、湧き出た青い翼が彼女の体を締め上げた。

「がっ……!」

 分裂させた翼の一枚を、地下に忍ばせていたのだ。

 自らの物であった力で締め付けられ、苦悶の表情を浮かべる姉に、リリーは弾むような足取りで近づいていく。

「お姉様がくれたこの翼で、私はもう一段強くなれた。人間共の皆殺しに、また一歩近づけた。本当に感謝しているのよ」

 慈愛の笑みを浮かべ、奪った左手でイリムの頬を撫でる。

「だから、十人の姉妹と一緒に、私の中で永遠になってね」

 己を含めた十二の魂が一つとなって、初めてリリー・エム・トゥエルブは完成する。

 このためにこそ自分は創られたのだと、今ようやく確信し、リリーは右手の天使を振りかぶった。

 スコープで見守っていたジェイが、ついに引き金を引こうとしたその時、イリムが痛みに耐えて声を絞り出す。

「貴方は、どうなんだ」

「何が?」

 遺言代わりに聞いてやろうと、リリーは振りかぶっていた天使の翼を止める。

 しかし、イリムが語り掛けていたのは、彼女ではなかった。

「一緒に、見てきた筈だ」

 どうにか小手の中から義手を引き抜き、自分を締め付ける青い翼にそっと触れる。

「色んな悪い奴が居たな……」

 イジメられた復讐をするため、魔術に手を染めた少年が居た。

 恋人に捨てられ壊れた姉と、その原因を作った妹が居た。

 教え子を食い物にする教師が、麻薬を売りさばく犯罪者が、狂った儀式を行う悪魔崇拝者が。

 そして、化け物よりも黒くおぞましい者が居た。

「だが、それだけじゃない」

 FBIの捜査官として、犯罪と戦い続ける男が居た。

 愚かでも正義のために力を振るう青年が居た。

 産まれる前に父親を殺してしまった、ただ無垢で悲しい命があった。

 歌が好きな少女が居て、その子を好きな少年が居て。

 狂うほどに娘を愛していた母親が居て。

 親を亡くしたり捨てられても、元気に生きようとする子供達が居て。

 みんなに笑顔をくれた、大切な姉が居て。そして――

「私は、人間が好きだ」

 滅ぼしてしまいたいと絶望するほど、黒く醜い者達は確かに居る。

 けれど、それが全てではない。

 照らしてくれる光も、間違いなくそこにあったから。

「私は、人でいたい」

 傲慢な裁きを下す天使にも、惑わし弄ぶ悪魔にもならない。

「私は、人を守りたい」

 それを独善と罵られる日が来たとしても。

 恐れられ、共に歩む事が許されなくとも。

 彼女は黒い世界で戦い続ける。そう決めた、だから――


「帰ってきてくれ、エル」


 Lilimがイリムになるために、切り離された一文字。

 皮肉にも『神』を示すヘブライ語と同じ発音。

 大切な人達と話すなかで見つけた、自分一人では思いつけなかった、絆の象徴。

 名前を呼び、私と貴方、同じ者ではないと告げたうえで、手を伸ばす。

 他人だからこそ、向き合い、手を繋げるのだと、この一年間で学んだから。

「なにを馬鹿な――」

 嘲笑おうとしたリリーの目が、直ぐに驚愕で見開かれる。

 左腕の中から迸る、皮膜の翼を構成する青い光。

 膨大なエーテルの結晶である悪魔の力が、脈打ち明滅しながら、差し出されたイリムの義手に向かって流れていったのだ。

「駄目よ、待ちなさいっ!」

 リリーが叫び、どれほど力を込めようとも、青い光は止めようもなく流れ出していく。

 そして、本来あるべき者の、作り物となった腕の中に入り込み、一度だけ大きく輝いた。

 まるで「ただいま」とでも告げるように。

「おかえり」

 まだ二ヶ月と経っていないのに、義手から流れ込んでくる感触がひどく懐かしくて、イリムは緩みそうになった涙腺をぐっと堪えた。

 一方、悪魔を奪い返されたリリーは、それこそ悪鬼の如き形相となる。

「こんな馬鹿な事が……っ!」

 自らの腕を切り落としてまで手に入れた力を、こうも容易く取り返されたという、理不尽への怒りはある。

 だが、それ以上に胸を焼き尽くしたのは、嫉妬にも似た激しい憎悪。

 記憶という過去を、普通の生活という未来を、自分達から奪い去った元凶たる悪魔や天使。

 利用し、誇りながらも、心の奥底で嫌悪していたそれと、仲良しこよしと手を結ぶ姉が、醜い人間達や魔術師よりも、堪らなく許せなかったのだ。

「もういい……お姉様もそいつも、もう要らないっ!」

 喉が張り裂けるほどに叫び、リリーは右腕に残された天使の枷を外した。

 赤い光が血の如く大地を侵食し、見渡す限りの地面から、剣山と見紛う数の翼が生え伸びる。

「誰も彼も、みんな死んでしまえばいいのよっ!」

 暴走した力の逆流により、全身のいたる箇所で毛細血管が破裂し、病的に白い肌さえも赤く染めながら、リリーは癇癪を起した子供そのものとなって、無数の翼を振りかざした。

 いくら悪魔を取り戻しても、受肉に使うべき周囲の物質が、全て天使に掌握された今、イリムに抵抗の余地はない。

 そう思い、凶悪な笑みを浮かべるリリーの前で、悪魔憑きに戻った少女は、地面に落ちていたもう一つの相棒を拾い上げた。

 魅了の力を抑え、彼女の慢心を防いでくれた鞘。

 そして、不法魔術師を打ちのめす鋼の拳。

 半身の宿った義手で、共に戦い続けた小手を掴み、イリムは己のあるべき姿を具象化する。


「――(トリ)()(ティ)()(スタ)(ート)――」


 青き光が鋼の小手と融合し、五枚の刃となって左の指で羽ばたく。

 それは、爪を伸ばした悪魔そのモノの姿でありながら、晴れ渡る空ように、どこまでも蒼く美しかった。

「……っ、そんなものでっ!」

 一瞬見惚れてしまった自分に気付き、さらなる怒りを燃やしながら、リリーは翼の群れで襲いかかる。

 全方位から迫る赤い津波を、イリムは瞬き一つせず見詰め、ただ己の左腕を構えた。

「いくぞ、エル」

 呼びかけ、右から左へと一文字に腕を薙ぐ。

 瞬間、五枚の刃が彼女の望むままに伸び、翼の津波を両断した。

「まだよっ!」

 斬られた翼が灰となって崩れ落ちても、リリーはひたすら残った翼でイリムを襲う。

 しかし、その度に青い刃が翻り、持ち主でも支配者でもない、名をくれた友の身を守った。

「何で……何でなのよっ!」

 怒り叫びながら、リリーの頬はいつしか涙で濡れていた。

 記憶を奪われ、天使なんてモノを植え付けられ、自分はこんなにも恐ろしく不安で堪らなかったのに。

 怖い大人達を跪かせて、人類全てに八つ当たりでもしなければ、心を保てなかったのに。

「卑怯よ、お姉様だけずるいのよっ!」

 優しい大人達に守られて、悪魔と心を通わせて。

 同じ黒い世界に放り込まれながら、一人だけ幸福を掴もうとする姉が、妬ましく羨ましくて。

「嫌いよ、大嫌いっ!」

 誰もが平伏す天使の仮面が剥がれた時、そこに残っていたのは、ただの弱く幼い少女でしかなかった。

 イリムは止めどなく襲いくる翼の群れを、次々と切り裂き灰に帰しながら、ついにはリリーの前へと辿り着く。

「来ないでぇぇぇ―――っ!」

 リリーは咄嗟に重く遅い受肉を解除し、掌から赤いエーテルを直接撃ち放つ。

 光の速度で迫る、魂を喰らう一撃。

 しかし、千差万別の術を使う、魔術師との戦いを経てきたイリムに、その程度の奇襲は通用しない。

 腕を向けられた瞬間には、次の攻撃を予想し、前に飛び出していた。

 頬が触れ合うほど密着する事で、光の翼を避けながら、必中の間合いに入り込む。

「……っ」

 心臓を貫かれる痛みを想像し、リリーは悲鳴を呑みこみ目を閉じる。

 だが、いくら待とうとも、彼女の元より赤いドレスが、自らの鮮血で染まる事はなかった。

 その代わりに、ペチッという音と共に、頭に軽い衝撃が走る。

「どうして……?」

 頭を平手で叩かれた、それは分かる。

 だが、何故殺さないのか。

 理解出来ず目蓋を開けたリリーの瞳に映ったのは、困ったような、でも優しく目を細めた姉の顔だった。

「悪い事をしたら、叩かれて、痛い思いをして、それが悪い事だと教え込まれた」

「…………」

「ジェイは私にそうしてくれた。だから、私もお前にそうした」

「どうしてっ!?」

 魔術師を殺した事、人類の皆殺しを企んだ事、そのために大勢を利用した事。

 それが悪いと叱られたのは分かる。

 分らないのは、腕を切り落とし、あまつさえ殺そうとした自分を、叱責だけで許そうとしているイリムの心情。

「憐れんでいるの、この私をっ!」

 同情して見下されるくらいならば、いっそ殺された方がマシだと、リリーは険しい顔で叫び返す

 女王のような気位の高さは、魔術でも消せなかった生来の性格なのか。

 イリムはそれを微笑ましく思いながら、首を横に振る。

「違う。私がそうしたいから、そうしただけだ」

「つまりは憐れんでいるんでしょうっ!」

 納得いかないと噛みつかれたイリムは、困った顔をして、一年前から唯一変わらない、首を傾げる仕草をする。

 そして、懸命に言葉を探し、己の心を伝えた。

「お前が、私を姉と呼んでくれたから」

 血の繋がりもなく、絆が生まれるほど共有した時間もなく、それでも、同じ痛みを知る者として、必死に探し当ててくれたから。

「姉は、妹を守るものだろう?」

 大切な人がそうしてくれて、嬉しかったから。

 自分もそうあろうと誓ったのだ。

「お姉様……」

 思わず涙腺が緩みそうになり、慌てて顔を逸らしたリリーを、イリムは右腕で抱き寄せる。

「色んな所に行って、色んな人と会ってくれ」

 簡単に結論を出すには、リリーは世界を知らなすぎる。

 真っ白い部屋を出たばかりの、彼女と同じように。

「……それでも、滅ぼしたいと思ったら?」

 目を合わせず、まだ抵抗しようとする妹に、イリムはもう一度困った顔をしながらも、ハッキリと答えを口にする。

「その時は、私が殺しに行くよ」

 自分の勝手なワガママで、危険な妹を助けるのだから、それが負うべき責任というもの。

 イリムを外に連れ出し、空の青さを教えてくれた人も、同じように背負ってくれたから。

「ふふっ、それは素敵ね」

 どれだけ離れても途切れる事のない、血よりも濃い絆のように感じられて、リリーはようやく笑みを浮かべる。

 イリムも口元を綻ばせ、もう一度強く妹の小さな体を抱きしめた。

 そんな二人の遥か上、立ち込める雲さえ見下ろす高空を、一機の飛行機が駆けていた。

 ロックウェル・B―1B・ランサー、可変翼の戦略爆撃機。

 本来は超高速、超低空で敵地に潜入し、精密な空爆を行うための機体である。

 ただ、ラスベガスの北東にある、ネリス空軍基地から飛び立った本機が受けていた命令は、地上から悟られにくい高空を飛び、決められた時間に、決められた地点へ向けて、用意された爆弾を落とすという、至極簡単なものだった。

 眼下が厚い雲で覆われているため、目標は視認不可能。

 しかし、地形データもない未知の敵地ならばいざ知らず、ここはお膝元のネバダ砂漠だ。

 居眠りしていたところで、機体が勝手に数mの狂いもなく目的地へと導いてくれる。

 だから、搭乗員達は予定通りの場所で、B―1Bの腹から六発の爆弾を落とした。

 自分達が何を撃ったのか、彼らは知らされていないし、知ろうとも思わない。

 ただ命令を忠実にこなす、優秀なパイロット達であったが、それでも事実を知れば驚愕した事だろう。

 使用されたのは、ベトナム戦争以降、非人道的として全て廃棄されたはずのナパームB――特殊焼夷弾をさらに改良した物。

 極秘のため名前すらないその兵器は、ベトナム時代とは比べ物にならないほど進化した誘導技術により、二人の少女を捕らえ、そして炎の洪水で飲み込んだのだった。


             ◇


 どんな物質も分解して取り込み、戦車砲さえ通用しない悪魔の翼。

 その宿主をいかにして殺すかという問いに、一つの解答として出されたのが、強力な焼夷弾による広域焼却であった。

 爆炎そのものは受肉した翼によって防がれるだろう。

 しかし、千度を超える高熱が、翼で隠れた宿主を蒸し焼きにする。

 仮に高熱を耐えられても、待っているのは酸欠か一酸化炭素による中毒死。

 着弾前に全て分解でもされぬ限り、確実に殺し切れる必殺の策である。

 逆に言うと、事前に知っていればどうとでも対処出来る、脆い策でしかないのだが。

「お前が死ぬのはこれで二度目だな」

 ネバダの砂漠から遠ざかっていく輸送ヘリ、CH―47・チヌークの中で、黒犬の隊員ことジェイは溜息混じりに呟いた。

「そうなのか?」

 彼の隣に座る修道服の少女、イリムは何と返えせばよいか分からず、何時ものように首を傾げた。

「しかし、流石はイリムさんですね」

 向かいに座ったジャージ姿のケンが、思い出しても惚れ惚れすると熱く語りだす。

「地下深くに潜って焼夷弾をやり過ごすなんて、誰も思いつきませんよ!」

「思いついても出来ないだけだろうが」

 諸手を挙げて褒め称えるケンを、ジェイは「こいつを調子に乗らせるな」とばかりに苦い顔で睨む。

 ナパームの炎がいかに高温とはいえ、数十mもの地面という天然の断熱材には無力だ。

 だから、イリムは悪魔の力で足元を分解し、深い縦穴を掘る事で、即席のシェルターを作り回避したのだ。

 元々、地下で核爆弾の実験をしたせいで、地盤が脆くなっていたような場所である、穴を掘るのは容易い。

 といっても、悪魔憑きでもなければ不可能な芸当ではあるが。

「でも、これでイリムさんの身も一安心ですね」

 ジェイの視線に気づいた様子もなく、ケンはホッと安堵の溜息を吐く。

 イリムが説得すると言ったところで、政府や白騎士団は子供の戯言と納得せず、天使憑きの排除を訴える。

 そのために一考を案じた結果が、今回の茶番劇であった。

 悪魔憑きの少女を囮として、天使憑きをネバダの砂漠に呼び出す。

 そこに、空軍の協力による爆撃を行い、焼夷弾でイリム共々処分するというのが、表向きの作戦であった。

 実際には、円錐状にした悪魔の翼で身を隠しつつ、地下に潜ってナパームの炎を回避し、その後に遺骨でも拾うふりをして、隠れていたイリム達を密かに救助して今に至るのだが。

 ジェイ達とは別の場所に隠れ、事態を見届けていた政府の監視役は、どうにか騙されてくれたらしい。

 もしくは、気付いたうえで見逃してくれたのか。

 ともあれ、姉妹は表向き死亡した事で、自由と安全を得た訳であった。

 だというのに、ジェイの顔が晴れないのは、散々かけられた心労のせいである。

「ったく、上手くいったからいいものを」

 舌打ちしてイリムの頭に拳骨を落とすが、それも仕方ないと思えるほど無謀な賭けだったのだ。

 第一に、リリーから悪魔を奪い返すという、前例のない事態を成功させるのが前提という時点で、色々と終っている。

 そもそも、彼女が奪った左腕を自分に移植し、悪魔を連れてくるという保障すらない。

 プロビデンス市での事件後、急に一ヶ月近くも姿を消したため、おそらく移植手術を受けて養生しているのだろうと、童顔の魔術師ことジルが推測し、イリムもそれに同意した。

 しかし、普通の人間であるジェイからしてみれば、健康な自分の腕を切り落とし、悪魔の宿った腕を繋げるなど正気の沙汰ではない。

 まして、血の繋がりもない他人の腕である。

 壊死せずまともに繋がるかどうかすら疑わしい。

 そんな無謀極まる賭けを、いったい誰がするというのか――というのは極普通の懸念であろう。

 だが残念な事に、彼らが生きているのは普通の世界ではない。

 そしてありがたい事に、リリーは奪った左腕と悪魔を持ってきて、イリムはそれを取り返せた。

 おそらくは、ラスベガスのスロットでジャックポットを当てるくらい、奇跡的な幸運に恵まれて。

「悪魔が居るからってな、悪運まで味方するなんて保障はないんだよ」

「……すまない」

 ゴンゴンと何度も頭を叩かれ、イリムはしょんぼりと項垂れる。

 それを庇うためでもないが、ケンは話題を輸送機の中央で眠る少女に移す。

「それで、このリリーって子はどうするんですか?」

 睡眠薬を投与され、簡易ベッドに固定された彼女の右腕には、イリムの物と似た金属製の小手が嵌められていた。

 ただ、似ているのは外見だけで、備えられた効果は遥かに厳しい。

 一度着ければ決して外れないよう、万力の如く締め付けられており、外から無理に壊そうとすれば、爆薬で腕ごと吹き飛ばすようになっている。

 また、天使の力を使おうとすれば、その一部を内側に向けて反射する魔術が組み込まれており、やはり腕がミンチとなる。

 イリムが闇に落ちてしまった時にと、童顔の魔術師が密かに用意していた物を再利用したのだ。

「無害化したからと言って、無罪放免とはいかないでしょうし……」

「まあな」

 心配げなケンに、ジェイも似たような表情で頷く。

 ジルは太鼓判を押したが、天使なんて異常な存在を相手に、絶対の安心などありえない。

 そして、普通の世界に戻そうにも、彼女は恨みを買いすぎている。

「元凶のロリコン魔術師は自業自得としても、利用してきた奴らがな……」

 詳細は調査中であるが、リリーは天使の魅力によって、幾人かの資産家を誑し込んでいる。

 彼らの資産と権力に庇護されていたからこそ、黒犬でもおいそれと消息が掴めなかったのだ。

 しかし、リリーは天使の魅力を封じられ、誑かされた者達も時が経てば目を覚ます。

 ただ資産を浪費されただけならば、悪い夢だったと忘れられるが、中には妻や愛人との関係を壊されたり、会社を傾けた者も居るかもしれない。

 彼らが復讐に出れば、無力な少女となったリリーに抵抗の術はない。

「かといって、黒犬で匿うわけにもな」

 悪魔憑きと天使憑きは共にネバダで死亡した、それが公式の真実だ。

 政府や白騎士団を納得させるためには、その嘘を貫くしかない。

 イリムも暫くはアメリカを離れ、ヨーロッパ辺りでほとぼりを冷ます手筈になっている。

 同じように、リリーも国外に逃がすべきだろう。

 問題は、誰が彼女の監視と護衛をするか。

「ケン」

「な、何ですか!?」

 名を呼ばれ、ケンは嫌な予感を抱きながらイリムを見る。

 すると、彼女は予感通りの言葉を口にした。

「リリーを、守ってやってくれないか?」

「それは……」

「駄目か?」

「うぐっ……」

 嫌です――と反射的に出かけた言葉は、卑怯な上目づかいで封殺された。

「この子には、守ってくれる人が必要だ」

 ジェイやジル、その他にも様々な人達が、何も知らぬ自分を見守ってくれたから、彼女は黒く染まらず、人間のままでいられた。

 リリーにも最初からそんな人が居れば、今度の事件を起こす事もなかっただろう。

「だからケン、私の妹を助けてくれ」

 自分は一緒に居られないから、知っている中で誰よりも強く、誰よりも正義感に溢れる青年に託したい。

 そんな厚い信頼を寄せられ、ケンは舞い上がるほど嬉しく思いながらも、イリムとまた離ればなれになるのが辛くて、簡単には頷けない。

「俺は、俺は……」

 頭を抱え苦悩するケンの姿を見て、ジェイが呆れた溜息を吐く。

「やめとけ、こんなロリコン野郎に任せたら、大切な妹の貞操が危ないぞ」

「貞操?」

「丁度去年の今頃、変態教師を退治しただろうが。あいつみたいに――」

 首を傾げるイリムに、あらぬ疑いを植え付けられそうなのを見て、ケンは慌てて叫ぶ。

「お前が言うな、このペド野郎っ!」

「……テメエ、今何って言った?」

 その単語だけは聞き逃せず、ジェイは額に青筋を浮かべて立ち上がる。

 しかし、ケンも怯まず叫び返す。

「イリムさんと三六五日、寝食を共にしてたお前の方が変態だって言ったんだよ!」

「ふざけんなコラッ! なら娘を持つ父親はみんな変態か? ガキの世話をしてきただけで変な勘繰りをするのは、お前こそが変態ペド野郎だからだろうがっ!」

「イリムさんはもう十四、五歳だろう? 俺とは五、六歳しか違わないからセーフだ!」

「律儀に歳を計算してんのが余計にキモイんだよっ!」

 空を飛ぶ不安定なヘリの中にも関わらず、襟首を掴み怒鳴りあう二人の男達に、当のイリムは驚いて目を丸くしてしまう。

 そうしてから、ふと立ち上がり、眠り続ける妹の頬を優しく撫でた。

「喧嘩は、こういうのがいいな」

「ん……」

 聞こえた筈もないが、リリーはまるで頷くように寝返りをうつ。

 それを見て、イリムは目を細め、大きく口を開ける。

 はにかむような微笑みとは違う、満面の笑顔。

 目にしただけで胸が温かくなる、初めて浮かべたそれを、罵りあう男達と眠る妹は、残念ながら見逃してしまうのだった。



 後日、修道服の少女と牧師風の男という、奇妙な二人連れの姿がフランスで目撃されるが、それはまた、未来にて紡がれる物語。





挿絵(By みてみん)

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