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【第十一話 亡霊―phantom―・前編】

挿絵(By みてみん)



 アメリカ合衆国の東部、ロードアイランド州。

 全米五十州の中で最も小さい州であり、その面積は日本の県一つ分程度しかない。

 そんなロードアイランドの中では最大の都市、州都・プロビデンスにあるホテルの一室で、色違いの瞳を持つ少女、エル・イリム・ワンはベッドの上で丸くなり、己の殻に閉じこもっていた。

「飯だぞ、食え」

「…………」

 黒い牧師服を着た男、ジョン・ルーザーがパンとスープを目の前に置いても、光を失った瞳でぼんやりと眺めるだけで、手を伸ばそうとしない。

 食事と入浴の時だけは目を輝かせ、無表情ながらも全身で喜びを示していた少女とは思えない有様である。

 怪物よりも怪物じみた、狂った芸術家気取りの富豪が起こした、凄惨極まるあの事件。

 姉と呼ぶべき人を、初めて家族と言える人を失い、己の無力さに絶望したイリムは、人形のように心を閉ざしてしまったのだった。

「ったく、世話の焼ける」

 ジェイは悪態をつきながらスプーンでスープをすくい、イリムの小さな唇に押しつける。

 すると、彼女は抵抗せずに飲み込むが、美味しいとも不味いとも言わなかった。

「いい加減、飯くらい一人で食え。俺はヘルパーじゃねえんだよ」

「…………」

 ジェイが叱りつけると、イリムは「すまない」と謝ろうとしたのか、微かに唇を動かしたあと、少し痩せた右手をパンに伸ばした。

 ノロノロと片手でパンを千切り、口へ運ぶ彼女の左腕は、再び鋼鉄の小手によって封じられている。

 大きな屋敷を丸々呑み込み、悪夢の如き光景を生み出した悪魔の翼。

 それの宿った左腕を切り落とし、普通の世界に戻るかどうか。

 あの任務が終われば問う筈だった選択を、ジェイはまだ告げていない。

 とてもではないが、重大な決断を下せる精神状態ではないからだ。

「お前は……」

 慰めか叱咤か、何か言葉をかけようとしたが、ジェイは結局口を閉ざす。

 そうして、重苦しい食事を取っていると、入り口からノックの音が響いてきた。

 ジェイは即座にグロック18を手に取ると、何時でも扉越しに撃ち殺せるように、銃口を向けたまま声をかける。

「誰だ?」

「俺だよ、開けてくれ」

「『俺さん』なんて客が来る予定はないが?」

「どうせ見えているだろ、早く開けろよ!」

 扉の向こうから苛立った声が響いてくるが、ジェイは焦らず、テレビのリモコンを取ってスイッチを押す。

 すると、テレビ画面に部屋の前の廊下が映し出された。

 ホテル側にも秘密で仕掛けた、監視下カメラの映像である。

 そこに映っているのが、大量の食料品を抱えたジャージ姿の青年――ケン・カーライル一人なのを確認してから、彼はようやく扉の鍵とチェーンを外した。

「大声を出すな、人目につく」

 ジェイが文句を言いつつ扉を開けると、ケンは思い切り不機嫌な顔をしながらも、素早く部屋の中に入り込む。

「外出の度にこんな事をして、心配しすぎじゃないか?」

「生憎、この世界はお前の頭ほど脳天気に出来ちゃいないんだよ」

 東洋の魔術である『気』なんて力を持っているからか、警戒心の足りないケンを見て、ジェイは深々と溜息を吐く。

 それをまるで気にした様子もなく、青年はベッドに横たわる少女の元へと走り寄った。

「イリムさん、食事をする気になってくれたんですね、良かった」

「…………」

「イリムさんの好物と聞いて、アップルジュースを沢山買ってきましたよ。アップルパイもあります。いくらでも俺が買って来ますから、好きなだけ食べて下さいね!」

「…………」

 満面の笑みを浮かべて、大量の食品をズラリと並べて見せるケンに、イリムは首を横に振り、無言で拒否を示す。

 空気を読まず、ただ好意を押し売りする青年の姿に、ジェイはまた溜息を吐きつつ、携帯電話を取って部屋を出た。

「そいつから目を離すなよ、ロリコン」

 言われるまでもないだろうが、一応釘を刺してから扉を閉めると、オートロックが掛かったのを確認して、隣の部屋に向かう。

 カードキーで扉を開け、足を踏み入れたその部屋は、全く使われた様子もなく綺麗なままだが、空き部屋という訳ではない。

 ジェイが別人の名義を使い、正式に借りている部屋である。

 隣室からの盗聴や襲撃を防ぐため、イリムが居る部屋を中心とした上下四部屋も、念のため押さえているのだ。

 ケンは大げさだと笑うが、ジェイとしてはフロア全体を貸し切りたかったくらいだし、連れの少女がそれだけ危険な立場にいると自覚していた。

「無関係な一般人を巻き込んで、ホテルごと爆破する狂人だって、世の中には居るかもしれないんだぞ」

 黒犬の一員になったというのに、未だ甘さの抜けきっていないケンを思い、ジェイは軽く舌打ちしながら携帯電話の短縮ダイヤルをかける。

 一分近く待たされた後、ようやく繋がった電話の向こうからは、若々しいが疲労の濃い声が響いてきた。

『やぁ、ジェイ……とりあえず生きていたようで安心したよ……』

「お前は今にも死にそうだな」

 皮肉と心配が半々の声を掛けると、電話の相手である童顔の魔術師――ジル・アドキンスは大きな欠伸を返してきた。

『もう三日ほどろくに寝てなくてさ……アニメの上映会ならまだしも、くだらない会議や交渉ばかりだと辛くて辛くて。いっそ眠気知らずのゾンビにでもなりたいくらいだよ……』

 普段通りのふざけた台詞だが、声は流石に元気がない。

「悪かったな」

『あはははっ、君が素直に謝るなんて、明日は隕石でも降るのかな』

 ジェイの謝罪を聞いた童顔の魔術師は、それだけでも頑張った甲斐があったと、少しだけ元気を取り戻し笑うのだった。

「で、結果はどうなった?」

 前置きを終え、ジェイは努めて平静な声で問いかける。

 それに、童顔の魔術師は明るい声を返した。

『とりあえず、イリムちゃんの安全は確保出来たよ』

「……そうか」

 最良の答えを聞けて、ジェイは大きく息を吐き、張りつめていた肩の力を抜いた。

 ウエストバージニア州、ハンティントンで起きたあの事件から既に二週間。

 狂信者――白騎士団の襲撃を警戒し、一寸たりとも気の抜けなかった日々が、ようやく幕を下ろしたのだ。安堵の溜息が出て当然であろう。

『勿論、末端の暴走はあるかもしれないけれど、白騎士団が組織として動く事はないよ。司教様がちゃんと約束を守ってくれたからねぇ』

「意外と律儀な野郎だな」

 白騎士団、バージニア教区の司教、サイモン・エッジワース。

 ローマ・カトリック教会に属する彼は、宗敵たるプロテスタントの失墜という目的が達成された今、悪魔憑きの少女を黙認するという密約を実行してくれたのだ。

『プロテスタントの牧師が信者の金持ちと共謀し、悪魔召還の儀式をしていた――って事になったからね。ここぞとばかりに宗敵を叩くのが忙しくて、イリムちゃんに構っている暇なんて無いんだろうさ』

 アメリカ政府、黒犬、そして白騎士団。

 三者による長い長い協議と、調査や証拠提出という名の騙し合いの果てに、ハンティントンの事件はそういう形に収まった。

 そこに、吸血鬼に変えられ遺体すら残らず消え去った、少年少女達の項目はない。

 証拠が消えた者達よりも、悪魔という目に見えて巨大で凶悪なモノの方が、宗敵を蹴落とす材料として好都合と判断されたからだ。

「まさか、元からそれを狙って、イリムを名指ししてきたのか?」

『かもね。吸血鬼が居なくとも、悪魔が居たとスケープゴートにしてさ』

 司教の謀略をかぎ取り、顔をしかめたジェイに、童顔の魔術師も同意を示す。

 全世界に二十億の信徒を抱える白騎士団のことだ、狂った芸術家――ハワード・エヴァレットが、孤児院の院長にしてプロテスタントの牧師――ヘクター・バーンズと共謀し、孤児を里親に出すふりをして、屋敷に連れ込んでいた事は把握していたのだろう。

 しかし、たんなる児童の誘拐や虐待だけでは、宗敵を貶めるインパクトにかける。

 主の教えに背く怪物――吸血鬼が居るかもしれないという情報は掴んでいたのだろうが、確実な証拠も無かったのだろう。

 そこで、悪魔憑きの少女・イリムの出番だ。

 見目麗しい彼女は、遠からずハワードの目に止まり、屋敷に連れ込まれるだろう。

 そこを取り押さえ、悪魔憑きを飼っていたとすれば、主への反逆行為としてプロテスタント側につく泥は、ただの児童殺害よりも重くなる。

 仮に吸血鬼が居なかった時の保険も兼ねて、彼女はあの孤児院に送り込まれたという事だ。

『場合によっては、イリムちゃんも一緒に始末する気だったのかもね。聖書に書かれているとはいえ、悪魔はやっぱり神の敵だし』

「その計画が狂ってこの様か」

 司教ことサイモンとて、全てを見透かす神の目を持っている訳ではない。

 イリムのルームメイトが拷問の末に殺され、それを見た彼女が憎悪により暴走し、あれほどの力を見せつけるとは想像していなかっただろう。

 ただし、彼にとってそれは嬉しい誤算でしかない。

 空を貫くほど巨大な悪魔の翼は、民家から遠く離れた豪邸の、暗い夜の出来事とはいえ、幾人かに目撃され証拠の写真も撮られてしまった。

 ネット上に出回ったそれは、黒犬と政府の協力により、全て迅速に消去されたが、まるで黙示録のような光景が虚言ではなく、事実だったと証明する役には立った。

 拘束されたハワードやその部下達の証言もあるし、なにより、巨大な屋敷が一夜で灰と化し崩れ落ちたという、目の逸らしようもない証拠も残っている。

 黒犬や白騎士団の存在を知っていても、魔術や怪物などファンタジーだとコケにしいてた自称・常識人の政治家も、数々の証拠と証言を突きつけられては、悪魔の実在を認めざるおえない。

 同時に、そんなモノを喚び出してしまった、牧師の不始末も。

 もしも、あれが人口密集地で起きていたなら、未曾有の大惨事を引き起こした事だろう。

 ただの人的、物的被害だけではなく、魔術師や政府が協力し、ひた隠しにしてきた神秘の存在が暴かれ、人々の固定概念が崩れ去ってしまう。

『常識』の檻に捕らわれ、自らの才能を埋もれさせていた者達が、一斉に魔術という力を知り、目覚め、それを悪用し始めたらどんな事になるか。

 巻き起こる混乱と被害の規模は、誰にも想像が付かない。

 それほどの凶悪な兵器を、ヘクター牧師は、ひいてはプロテスタント教会は、いったい何に使うつもりだったのか。

 カトリック側は政治と宗教の両面から非難し、プロテスタント側はそれに弁明する事すら出来なかった。

 犯人であり証人となる資産家と牧師、その部下達は一人残らず白騎士団の手に渡り、尋問という名の拷問を受け、まともな証言も出来ぬ廃人と化していたからだ。

 それが、余計な事を言わせぬための口封じである事は、誰の目にも明らかである。

 とはいえ、事件が起き、それにプロテスタントの牧師が手を貸していた事実は揺るがない。

 結果、プロテスタント教会や、それを支持母体とする共産党の政治家は、国家への反逆者を出したという汚名を甘んじて受けるしかなく、カトリック教会とその支持を受ける民主党の政治家達は、敵の失墜により勢力を増す。

 白騎士団にとっては完全勝利と言える結果であった。

『お陰様で、イリムちゃんの命はお目こぼしして貰えたんだけどね。書類上は死んじゃった事にされたけど』

 孤児院に預けられた捨て子、エル・イリム・ワンという少女は、悪魔召還の生け贄にされて死亡した――というのが、公式の真実である。

 悪魔を宿していたのが彼女であり、今も生きているという事実は、誰の得にもならないため抹消された。

「誘拐された子供が、記憶のない人形にされて、今度は死人か……じゃあ、今ベッドでいじけているのは幽霊か何かか?」

『名無しの子供が、身元不明の死体を名乗って、黒い猟犬になったりするご時世だもの、そんな事もあるんじゃない?』

 皮肉っぽい愚痴をこぼすと、自分の身の上を言い返されて、ジェイは不愉快そうに舌を鳴らす。

「ともかく、あいつの安全の保証されたんだな」

『まあね。ほとぼりが冷めるまでの数ヶ月、大人しくしてもらう必要はあるけれど』

 仮にも死人なのだ。今まで以上に人目を避ける必要があるし、一度足を踏み入れた地には、間違っても行かせられないだろう。

 今は他の児童擁護施設に移された、孤児院の子供達にも二度と会えない。

 それを知れば、さらに傷つくだろうイリムを思い、顔を曇らせるジェイに、童顔の魔術師は笑みを消して告げる。

『白騎士団から狙われる危機は去った。だからといって、安全だなんて言えない事は分かっているよね?』

「…………」

 何を示唆しているのか、分かりすぎるだけにジェイは沈黙した。

 左腕の悪魔という巨大な爆弾は、今もイリムの中で眠っている。

 それは、不発に終わったとはいえ、『憎悪』という名の導火線が一度は点いてしまったのだ。

『もう一度言うよ――あの子に向かって引き金を引けるのは、君だけなんだ』

 心まで黒く染まって、本当の悪魔になってしまった時。

 終わらせるのまた、保護者である彼の責任なのだから。

 それを改めて告げ、童顔の魔術師は電話を切った。

 プープーと虚しい音が響く携帯電話を、ジェイはポケットにしまうと、綺麗に掃除された部屋の壁に、めり込むほど拳を叩き付ける。

「……させるかよ」

 そんな下らない終幕を迎えるために、一年もの間、溜息を吐き舌打ちしながらも、ずっと共に過ごした訳ではない。

 殺される為に、あの子を人形から人間になった訳ではない。

 だが、どうすればいいのか。

 自分はいったい、今のイリムに何が出来るのか。

 答えが見つからず、ジェイは不甲斐ない自分への苛立ちを、もう一度壁に叩き付けるしかなかった。


             ◇


 それから二週間は、とても静かな時間が過ぎた。

 時の流れが心を癒す特効薬となったのか、うるさいほど好意を示してくるジャージ姿の青年が、少しは気晴らしになったのか、ジェイの心配とは裏腹に、イリムは少しずつ以前の調子を取り戻していった。

 少なくとも、表面上は。

 だから、「散歩に出ていいか」とイリムが言い出した時、ジェイは僅かに悩んだものの、頷き返したのだった。

「あまり遠くには行くなよ」

「分かった」

 ベッドから腰を上げ、左腕の小手を隠せる大きめのコートを羽織るイリムを見て、ケンも慌てて立ち上がる。

「俺もついて行きます!」

 デート気分と洒落込みたかったのか、喜色満面で申し出てくる彼に、しかしイリムは首を横に振る。

「いや、一人で行きたい」

「そんな……」

「お前は大人しく座ってろ、ロリコン」

 ジェイは意地悪く笑いながら、肩を落とすケンの携帯電話を掴み取り、イリムの手に押しつける。

 迷子になったりした時、GPS機能で見つけ出すためだ。

「日が暮れる前には帰ってこいよ」

「分かった」

 さらに食事代として、二十ドル札を渡してくるジェイに頷き、イリムは部屋から出ていった。

「お前、まるでイリムさんの母親だな」

「うるせえ」

 不愉快な事を言うケンに、ジェイは拳を振り下ろすものの、気孔術を修めた武闘派な魔術師は、易々とそれを避けてしまう。

 余計に苛立ち舌打ちしつつ、銃の手入れを始めた彼の元に電話が掛かってきたのは、それから一時間ほど経った頃だった。



 ホテルから離れ、当てもなく街の中を彷徨い歩いていたイリムは、ふと小さな公園の前を通りかかる。

 まだ雪こそ積もっていないが、十一月の風が冷たいせいか、人影は全くない。

 彼女は静まり返った公園に入ると、冷たいベンチに座り、寒々しいほど青く晴れた空を見上げた。

「マリナ……」

 一人になり、心配してくる者が居なくなった途端、その名前が口からこぼれ落ちた。

 目蓋を閉じれば、今でも彼女の笑顔が鮮明に蘇る。

 同時に、手足を切り落とされた痛ましい姿も、救えなかった己の無能さも。

「ごめんなさい……」

 次々と自責の念が溢れ出し、目尻に涙が浮かんでくる。

 彼女はそんな事を望まないのに、笑っていて欲しいと、最期の時まで自分の幸せを願ってくれたのに。

「私は、笑えない……」

 涙の滴が頬を伝って落ち、足下の地面にシミを作る。

 何時から自分は、こんな泣き虫になってしまったのだろうか。

 何時から、喜びや悲しみという感情が、胸を揺り動かすようになったのだろうか。

 白く狭い部屋に閉じこめられ、人形のように無感情だった頃の事を、イリムはもう思い出せない。

 自分があそこから外に出て、様々なモノを見て学んだこの一年あまりが、果たして正しかったのか間違っていたのか、それさえも分からなかった。

「…………」

 風に晒され体が凍り付きそうなほどの間、ただ泣き続けた後、イリムはジェイとの約束を思い出し、目元を拭い立ち上がる。

 その時になってようやく、彼女は自分の前に立つ人影に気付いた。

 真っ赤なドレスを身にまとい、黄金に輝く長い髪をなびかせた小柄な少女。

 肌が病的なまでに白いが、口元に浮かべた妖艶で酷薄な笑みのせいで、弱々しさは微塵も感じられない。

 歳はイリムより下だろうが、大人でさえ傅きたくなる、圧倒的な存在感を放つ女。

「貴方は……」

 目の前に居る者が何か、イリムは肌で感じ取り、呆然として目を見開く。

 それを見て、少女はさらに笑みを深めると、血のように赤い左目と、魔性の輝きを放つ緑色の右目を輝かせ、ようやく出会えた同族に向けて、優雅に名を告げる。

「初めまして、お姉様。私の名はLilim・Twelve」

 ドレスの裾を摘んでお辞儀をしてから、少女は右腕を真横に掲げた。

 寒々しくも裾が切り落とされ、肩口まで白い肌を見せるその腕から、突如赤い光が迸る。

 見る者全てを魅了し、余さず喰らい尽くす、美しくも破滅的な赤い輝き。

 それは鳥の翼となって羽ばたき、口づけをするようにイリムの頬を撫でた。

「天、使……?」

「そう、お姉様と同じように、高密度の霊子を植え付けられた、選ばれし子供よ」

 ボンヤリと呟くイリムに、真っ赤な少女は満面の笑顔で頷く。

 天使と悪魔、見た目が違うだけで、その力は全く同じモノ。

 体を流れる血は違うが、同じ存在を体内に抱えた、姉妹と呼ぶと相応しい二人は、こうして出会ってしまったのだった。


             ◇


『ごめん、まずい事が起きた』

 携帯電話を取ったジェイの耳に、普段のふざけた口調が微塵も消えた、ジルの緊迫した声が響く。

「白騎士団の奴らが約束を反故にしたのか?」

『いや、そっちは大丈夫だよ。司教様はちゃんと約束を守っている』

 やはり悪魔を退治する気なのかと、思わず立ち上がるジェイに、童顔の魔術師は安心しろと告げる。

 だが、その声はやはり固いままだ。

「なら、何が起きた?」

 今現在、白騎士団に狙われる以上の脅威など、ない筈なのだが。

 思い浮かばず考え込むジェイに、童顔の魔術師は懐かしい名前を口にした。

『エドガー・スタントンって覚えている? イリムちゃんにベタ惚れして、君の家にまで押しかけたお馬鹿さん』

「あの初代ロリコン野郎がどうしたよ」

 二代目のケンを横目で伺いつつ、ジェイは意外な名に驚き眉を動かす。

 まだ小手や修道服が出来る前、悪魔の魅力を垂れ流しにしていたイリムを直視してしまった数人の内、最も心を奪われてしまった魔術師、エドガー。

 彼はイリムを自らのモノにしようとして問題を起こし、その結果、『イリムに近付くな』と制約――約束を破ろうとすれば、心身に激痛の走る強制遵守の魔術をかけられ、その事を恥じて黒犬の本部からバーモント州の実家へと逃げるように去った。

『そう、あのどうしようもなくお馬鹿で才能のない彼が、盛大にやらかしてね……』

 台詞はふざけているのに、声は何処までも重苦しい。

 そんな、明らかに普段と違いすぎるジルの態度に、ジェイの目も自然と険しくなる。

「何をした?」

『エドガーがイリムちゃんに惚れ込んだの、容姿や悪魔の魅了だけじゃなく、研究対象としても興味深かったからだって言ったの、覚えてる?』

「……いや」

 言っていたかもしれないが、記憶に残っておらず、ジェイは首を横に振る。

 ただ、『研究対象』という不吉な単語から、嫌な予感はどんどん膨らんでいく。

 そんな彼の焦りを感じてか、童顔の魔術師は無駄話をせず説明した。

『何度も言うけど、エドガーは魔術師としての才能が無かったんだよ。ギリギリ魔術は使えるけれど、どう足掻いても高みには上れないっていう、とても残酷な加減でさ』

 いっそ、大勢の一般人と同じように、魔術なんて知らずに過ごした方が幸せだったのかもしれない。

 だが、エドガーは魔術という未知の力を知ってしまい、自分にその才能が無く、どんなに努力しても無駄だという事にも気付いてしまった。

『才能が無い事に絶望し、それでも藻掻き足掻いた人間が何をしたか、君も覚えているよね』

「おい、まさか……」

 驚愕のあまり声を詰まらせるジェイは、それが誰の事か嫌というほど知っている。

 エドガーと同じ境遇の、才能に恵まれなかった三人の魔術師。

 彼らは結束し、そして作り上げた。

 自分に才能が無いのならば、才能に溢れた操り人形を生み出そうと。

 エーテル――魔術の元であり、人の意志に反応して膨大なエネルギーを生み出す、未知の物質を凝縮し、それを体内に埋め込んで、自在に操る事が出来る、人間を超えた力の持ち主。

「イリム……」

 Lilim・One――悪魔を植え付けられ、人造の天才魔術師になる筈だった少女。

 それと同じモノを、エドガーも渇望していたのだ。

『最初から同じような研究をしていた所に、イリムちゃんという完成形を見ちゃったからね。そりゃあ不法侵入や誘拐を厭わぬくらい、惚れ込みもするだろうさ』

 けれど、ジェイに撃退され、童顔の魔術師に『制約』をかけられ、求めた少女には会う事すら不可能となった。

 ならば、どうすれば良いのか。

「イリムを、あいつと同じモノを、作ろうとしたって言うのか?」

 そう、手に入らぬのならば作り出せばいい。

 悪魔と同等の高密度エーテル体を植え付けた、彼だけの愛しい天使を。

「狂ってやがる……っ!」

『狂っていなかったら、魔術師なんてやっていないよ』

 誘拐され、監禁され、記憶の全て消しさられた。

 悪魔を植え付けるために、イリムが受けた事を知っているだけに、ジェイは嫌悪も丸出しに吐き捨て、童顔の魔術師はそれを静かに諭す。

『ともあれ、実家に引き籠もったエドガーは、僕達の目から隠れてそれを作り上げてしまったようなんだ』

 元々、エドガーに対して興味がなく、不法魔術師を狩るという本来の仕事で忙しくもあるジルは、彼に対して『制約』こそかけたものの、監視者を付けたり行動報告をさせたりと、行動を縛ったりはしなかった。

 仮にも仲間の正当魔術師であるし、互いの魔術研究に口出ししないという、暗黙の了解もある。

 そんな身内への恩情が、事態の発覚を今日まで遅らせてしまった。

「最悪だな……」

 ジェイは吐き捨て、目眩を堪え額に手を当てる。

 イリムと同じ力を持つ者が、銃器では掠り傷一つ付けられないような化け物が、もう一人増えてしまった。

 その事実だけでも目に余るが、一番の問題はそれを作り出したのが身内という点。

「ジル、確認させて貰うぞ」

『……何だい?』

 珍しく上司を名前で呼び、本気である事を示してから、ジェイはそれを口にする。

「今度はもう、引き金を引いて構わないんだな?」

 イリムと同じモノを作り上げた。

 それはつまり、イリムと同じように、罪もない少女を攫って実験台にしたという事だ。

 許されざる罪を犯したエドガーは、もはや正当魔術師の仲間ではない。

 狩り殺されるべき犯罪者、不法魔術師の一人にすぎない。

「一年前に撃ち殺しておくべきだったな……あの野郎には、俺が引導を渡してやる」

 自分でも驚くほど怒りが込み上げ、ジェイは殺害の許可を求める。

 だが、そんな彼の耳に返ってきたのは、静かな否定だった。

『ジェイ、その必要はないよ』

「もう、アレク隊長あたりがケリを付けたのか?」

 尋ね返すも、童顔の魔術師はまた否定する。

『いや、その必要はなかった……なかったんだよ』

 憐れみに満ちた、悲しげな声。

 それを聞いた瞬間、どうしてかジェイの全身は粟立ち、言いようのない悪寒に襲われたのだった。


             ◇


「こんな寒い所ではなく、温かい所でお話をしましょう」

 天使憑きの少女はそう言うと、イリムの答えを待たず公園の外に向かって歩き出した。

 慌てて後を追うと、公園の入り口に黒塗りのリムジンが停められており、少女は至極当然という顔でそれに乗り込む。

 イリムは僅かに躊躇したものの、見えない糸で引かれるように、少女の横に座るのだった。

「貴方は――」

「リリーと呼んで。リリー・エム・トゥエルブ、お姉様の真似だけれど」

 天使憑きの少女――リリーはそう改めて名乗ると口を閉ざし、リムジンを発進させた。

 車に乗ってどんな遠くに行くのかと思ったが、リムジンは意外にも五分と走らずに停車する。

 着いた先はプロビデンス市内でも最高級のホテルで、リリーはやはり物怖じせず、堂々とその中に入って行った。

 すれ違う宿泊客やホテルマンは、誰もが彼女の美しさに見惚れて夢見心地になり、訝しもうとはしない。

 悪魔ならぬ天使の魅了を、まるで抑えようとしないリリーを、イリムは怪訝に思いつつ、誘われるままエレベーターに乗った。

 最上階に着くと、リリーはロイヤルスイートの扉を無造作に開き、きらびやかな部屋の柔らかなソファーに身を沈め、ようやく口を開いた。

「この階には私達以外、誰も居ないわ。遠慮なくお話しましょう」

 最上級のロイヤルスートを、一フロア全て貸し切るなど、いったいどれほどの大金が必要なのか。

 金銭感覚に疎いイリムでも、それが途方もない贅沢であり、この少女がどうやってそれだけの大金を手に入れたのか、薄々と察する事は出来た。

「リリー、貴方は何だ?」

 コートを脱ぎ、向かいに座って尋ねるイリムに、リリーは妖艶に笑って答える。

「言ったでしょう、お姉様と同じ選ばれた子供だって」

 そう前置きし、童顔の魔術師がジェイに語ったのと同じ事を、イリムに説明してやった。

「エドガー・スタントン?」

 話を聞き終えたイリムは、直ぐには誰の事か思い出せず首を傾げる。

「その様子だと、お姉様はまるっきり忘れていたみたいね。いい気味だわ」

 リリーはそれを見て、痛快だと笑った。

「あいつは事ある毎に、お姉様の素晴らしさを私達に語っていたの。それこそ、耳にタコができるくらいにね。だからこうして会いに来たのよ」

「そうか」

 気のない返事をされて、リリーは不満そうに頬を膨らませたが、直ぐに笑みを取り戻す。

「お姉様は私達の事を知らなかったんだもの、仕方ないわよね。つまらない過去の話より、輝かしい未来の話をしましょう」

 そう言うと、リリーは身を乗り出し、天使の宿る右手で、イリムの悪魔が宿る左手を強く握った。

「さあお姉様、どうやって人間を皆殺しにするか、二人で一緒に話し合いましょう」

「……えっ」

 子供らしい無邪気で愛くるしい笑顔とは真逆の台詞に、イリムは一瞬、意味が分からず呆けた声を漏らしてしまう。

「今、何と言った?」

 自分の耳が信じられず確認するが、リリーは笑みを全く崩さず、同じ言葉を繰り返した。

「人間を皆殺しにしましょう、と言ったのよ。私達になら出来るわ」

「何を言っている!」

 イリムは思わず声を荒げ、リリーの手を振り払う。

 人間を皆殺しにする――文字通り、一人残さず殺し尽くす。

 それが戯れ言ではなく、本気で言っていると分かっただけに、彼女は信じられず叫んだというのに、リリーはただ不思議そうに首を傾げた。

「お姉様、どうしてそんなに驚いているの? あっ、分かったわ。皆殺しなんて無理だと思っているのね」

「そうじゃ――」

「でも大丈夫。馬鹿な人間共を上手く操ってやれば、私達が手を下すまでもなく、勝手に殺し合ってくれるわよ」

 イリムの言葉を遮り、リリーはその方法を得意げに語り出す。

 銃弾もミサイルも効かない悪魔の翼は、確かに大きな驚異ではあるが、人類の抹殺を目論んだ時、真に恐ろしいのは人の心を狂わせる魔性の魅力だ。

 魔術の才能を持たぬ者――即ち人類の九九・九九%を、言いなりの操り人形へと変えてしまう力。

 それは当然、このアメリカ合衆国を動かす大統領とて逃れられない。

「偉そうにふんぞり返っている馬鹿な大人達を誘惑して、世界中に核ミサイルを降らせてやればいいのよ。そうしたら、たちまち世界大戦が起きて、いっぱい、いーっぱい死んでくれるわ」

「…………」

 その幼稚な計画が、天使という常識外の力をもってすれば、決して不可能ではないと感じただけに、イリムは声を失い背を震わせた。

「黒犬と言ったかしら? お姉様を騙してこき使ってきた悪党が、私達の邪魔をしにくるでしょうけれど、そんなの人間の軍隊に相手をさせればいいわ」

 黒犬は魔術師すら狩る精鋭の集まりだが、政府に余計な危機感を与えぬために、その数は多くない。

 アメリカ陸軍ご自慢のグリーンベレーにでも強襲されれば、善戦は出来ても壊滅は免れまい。

 黒犬の雇い主たる正当魔術師達も同様だ。

 秘術の限りを尽くし、逃げ延びる事は可能だろうが、国という巨大な相手を一人で打倒する、ヒーローのような力も意志も持ち合わせてはいない。

 残る障害は異形の存在を許さぬ白騎士団くらいのものだが、これはむしろ容易く籠絡される可能性が高い。

 如何にも悪魔然としたイリムのそれと違い、リリーの力は天使、神の使いを彷彿とさせる神々しい姿をしている。

 魔術師に言わせれば、そんなモノは見た目が少々違うだけで、力も危険性も差異はない。

 だが、盲目の狂信者達にそれを見抜く目はないだろう。

 司教など一部の賢い者達は見抜くだろうが、愚かな大多数はその声に耳をかさず、美しすぎる少女を天の使いだ、救世主だなどと持てはやし、服従するに違いあるまい。

 そして、神を信じぬ者達からしてみれば、俄に信じられぬ事だが、キリスト教徒の中には終末論――聖書に書かれた黙示録の通り、世界が滅ぶと信じている者達が居る。

 彼らにとっては、人類が滅び天の国へ行くのは、むしろ喜びなのだ。

 そのためならば、核ミサイルのスイッチを押して世界大戦を起こす事さえ、躊躇わず協力するだろう。

「ねっ、私とお姉様ならきっと出来る。人間を皆殺しにしてやりましょう!」

 心の底から嬉しそうに笑って、リリーは再び断言する。

 例え天使の力をもってしても、そう容易く事は運ばないだろう。

 仮に世界大戦を起こせたとしても、人類が全て死に絶える事もない。

 だが、人口を今の七割にまで減らし、文明を一世紀ほど後退させるくらいは出来るかもしれない。

「……何故だ」

「えっ?」

「何故、そんな事を願う」

 人類の滅亡。かつて、神だけが大洪水によって為し得た、空前絶後の大虐殺。

 問うイリムに、リリーは虚を突かれたのか、色違いの目を大きく見開きながらも答えた。

「だって、人間に生きている価値なんて無いでしょ?」

「だから、どうしてそう思う!」

 得体の知れない恐怖感が込み上げてきて、再び声を荒げるイリムに、リリーは初めて笑みを消し、人形のような無表情になって告げた。

「ねえ、お姉様。私の名前、少し変だとは思わなかった?」

「何を――」

 問い返そうとし、イリムは気付いてしまう。

 Lilim・Twelve――十二番目の悪魔の子。

 イリムの、Lilim・Oneの妹だと言うならば、どうしそんなに番号が飛んでいるのか。

 (T)(w)(o)から(El)(ev)(e)(n)までは、いったい何処に行ったというのか。

「みんな死んだわ」

 サラリと、冷めた紅茶でも飲み干すように、リリーはその残酷な結末を口にした。

「どうして……」

「どうして? 決まっているわ、失敗したからよ」

 凍り付くイリムを、天使憑きの少女は責めるように睨む。

 事実、彼女は自分と同じ姉を、恋い焦がれるほどに愛しながら、同時に殺したいほど恨んでいたのだから。

「あの男はね、お姉様に焦がれて、お姉様を奪われて、お姉様を作ろうとして、一日たりとも待てなかったのでしょうね。私達を攫ってくると、直ぐに記憶を消して天使を植え付けてきたの」

 三人の魔術師が協力し、数年掛かりで作り出した悪魔。

 それを、全米を歩き回って探し出した適合者に、一年近くもかけて慎重に記憶消去の魔術をかけ、真っ白に漂白してからどうにか埋め込む事に成功した者。

 それが悪魔憑きの少女、エル・イリム・ワン。

 彼女は膨大な資産と時間を掛け、努力と幸運の果てに生み出された奇跡の結晶なのだ。

 なのに、才能の無い魔術師ことエドガー・スタントンは、イリム欲しさに事を焦り、たった数ヶ月で同じモノを作ろうとしてしまった。

 時間の不足をトライ&エラー、数々の失敗を繰り返し、死体の山を積み上げる事で解消し。

「適性が無かったり、記憶の消去が不十分だったり、運が悪かったりしたのでしょうね。天使を埋め込まれたみんなは、次々と死んでしまったの」

 流れ込む膨大な力に体が耐えきれず、全身の血管が破裂して。

 天使に精神を喰いつくされて生ける屍となり、失敗作だと銃口を向けられて。

 強引な記憶消去で自我が崩壊し、天使の翼で自らの頭を吹き飛ばして。

 移植、失敗、誘拐、また移植――それを十度も繰り返し、十一人目にしてついに成功したのが彼女、リリー・エム・トゥエルブ。

「私がこの目で最期を見届けたのは、たったの二人だけ。でもね、みんなの記憶がここに残っているわ」

 リリーは色の違う瞳で、自分の真っ白な右腕を見詰める。

「天使に喰われたみんなの魂が、今もずっと叫んでいるの。痛いよ、苦しよ、憎いよって」

「…………」

 天使の宿った右手が、そっとイリムの左耳に当てられるが、彼女には何も聞こえない。

 それが残念なのか、リリーは目を細め悲しげに笑った。

「あの男を殺しても、みんなの声は止まってくれなかったわ」

 ついに成功したと歓喜に震えるエドガーを、彼女は即座に天使の翼でミンチにしてやった。

 それでも、犠牲者達の憎悪は収まらず、絶える事なく呪詛を垂れ流し続ける。

「こんな酷い世界、滅んでしまえって」

 本当に死者の亡霊がそう囁くのか、生き残ってしまった自責の念が責め立てるのか、彼女自身の憎しみが突き動かすのか。

 それは最早、リリー本人にすら分からないのだろう。

「だからお姉様、こんな残酷で醜くて救いようのない世界は、全部壊してしまいましょう?」

 汚れた人類を皆殺しにして、真っ白で綺麗な世界に戻す。

 背徳の都・ソドムとゴモラを焼き払った、大天使ガブリエルのように。

 それこそが、天使を宿した自分の使命だと。

「お姉様だって、こんな世界は大嫌いでしょう?」

「…………」

 その問いを、イリムは即座に否定出来ない。

 欲望のままに人を殺してきた魔術師を、悪魔すら震え上がるような人間の狂気を、彼女も色違いの瞳で見てきたから。

 姉と言える大切な人を奪われた時、リリーと同じ憎悪に駆られたから。

 今もその黒い炎は、彼女の小さな胸の中で燻っている。それでも――

「……出来ない」

 イリムは苦悶に顔を歪ませながらも、首を横に振る。

 リリーの言う全人類には、孤児院で共に過ごしたあの子達も含まれている。

 もう二度と会えなくても、幸せになって欲しいと願う弟妹が居る。

 そして、物知らずな彼女に愚痴りながらも、ずっと側に居てくれた――

「私には、出来ない」

 この一年で出会ってきた、幾人もの顔が脳裏を過ぎり、イリムは迷いながらも、確かな拒否を示す。

 その目に、自分とは違う光が宿っているのを見て、リリーは色違いの瞳を黒く淀ませた。

「そう、残念だわ」

 軽い口調と共に、右腕から赤い光が迸り、ロイヤルスートの床を食い千切る。

「――っ!?」

 小手を外すという、一瞬の遅れが致命傷となった。

 イリムが左腕を外気にさらし、悪魔を目覚めさせようとした時にはもう、受肉を終えた赤い天使の翼が、彼女の体を締め上げていた。

「がっ……!」

「協力してくれないのなら、貴方はいらないわ」

 全身の骨が軋み呻くイリムを、リリーは窓に向かって叩き付ける。

 ガラスが砕け散り、見晴らしの良い最上階から投げ出される少女の体。

 そこへ、二つに分かれた鋭い翼が、ハサミとなって伸びる。

「さようなら、お姉様」

 二枚の翼が閉じ、鮮血が迸る。

 悪魔を宿した左腕が、少女の細い体から切り離され、青い空を舞う。

 痛みもなく、音も消えた、ゆっくりと流れていく時間の中で、赤い天使の翼に掴まれた己の半身を見詰めながら、イリムの体は重力に引かれ、為す術もなく落ちていった。

















挿絵(By みてみん)

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