【幕間 契機―moment―】
アメリカ合衆国の東部、バージニア州はリッチモンド市。
その端に存在する、政府の軍事施設を偽った黒犬の本部。
金網で囲まれ物々しいそこへ、ひどく似つかわしくない一団が入って行く。
顔と手以外の全てを覆う、ゆったりとした真っ白い祭服に身を包んだ神父達。
だがその瞳には、とても聖職者とは思えぬ剣呑な光が宿っていた。
アポイントは取ってあるらしく、彼らは守衛に止められる事もなく、広い建物の中に足を踏み入れ、迷いもせずある部屋の前に辿り着く。
先頭に立つ四十路の男が、自らノックして扉を開くと、部屋の主は柔らかそうなソファーに身を埋め、ノートパソコンで動画を眺めているところだった。
「人のお楽しみを邪魔するなんて、どこの自殺志願者かと思ったら、これはまた珍しいお客さんだねぇ」
童顔の魔術師、ジル・アドキンスは白々しく驚いた顔をしながらも、パソコンの画面に映るアニメーションから目を離そうとしない。
そんな彼に、来訪者の代表者である四十路の司教――サイモン・エッジワースは、慈愛に満ちた笑みを浮かべて話しかける。
「今日、この時刻にお伺いすると電報を送らせて頂いたのですが、目を通して頂けなかったのですかな?」
「ごめんねぇ、黒山羊さんは目が悪いから、読まずに食べちゃったみたいでさ」
ふざけたジルの物言いに、若い神父の一人が怒りを顕わにする。
「貴様、邪悪な魔術師の分際で、主に仕える我らをコケにするのかっ!」
「マーク、お止めなさい。憤怒は罪だと忘れたのですか」
サイモンに窘められ、マークと呼ばれた若い神父は、グッと罵声を呑み込む。
「失礼致しました、ジル・アドキンス。今度からは電話で直接連絡させて頂きます」
「黒山羊さんは耳も悪いから、着信音に気付かないかもしれないけどねぇ」
面倒だから来るなと、繕いもせず告げる童顔の魔術師に、若い神父がまた顔を歪めていたが、司教はまるで笑顔を崩さなかった。
「では皆さん、私はこれからジル・アドキンスと大切な話がありますので、部屋の外で待っていて頂けますか?」
「そんな、司教様を邪悪な魔術師と二人きりにするなど――」
「マーク」
「――も、申し訳ありません、出過ぎた事をしました」
異を唱えようとした若い神父は、サイモンの穏やかだが有無を言わせぬ視線を受け、逃げるように部屋の外に出る。
他の者達も続き、邪魔が入らなくなった部屋の中で、司教と魔術師は改めて向かい合う。
「さて、用件は言わずとも分かっておりますね」
「ローラちゃんの事でしょう? 終わった事をネチネチと、これだから聖職者は嫌いなんだよねぇ」
全く動じない司教様はからかい甲斐がないからか、サッサと話を終わらせたいと、ジルは嫌味を吐きつつも本題に入る。
ローラ・アルドリッジ、人魚の娘だと言われた、魔性の声を持つ少女。
彼女をサイモン達、人外を駆逐するための組織――『白騎士団』の手から、ジル達『黒犬』がかっさらった件について、苦情を申し立てに来た訳である。
「あの案件を担当した神父、トーマスはとても慈悲深く信仰心に満ちていますが、そのぶん人を疑うという事を知りません。口の上手い貴方達に騙されたのではと、心配するのも当然でしょう」
「慈悲深い、ねぇ……」
どんな冗談だと、ジルは童顔を嫌そうに歪めた。
確たる証拠もなく、風評噂話の類だけで、人魚と契ったという男を殺し、その娘まで手に掛けようとしたのだ、正気の沙汰ではない。
しかし、その場に向かった黒犬の隊員――ジョン・ルーザーの話に耳を傾けただけ、まだマシな人物だった事も確かである。
神の教えに背く異教徒を、魂を持たぬ人ならざる者を、本気でこの地球上から死滅させようなどという究極の差別主義者こそが、彼ら白騎士団なのだから。
「ローラちゃんを引き渡せというならもう遅いよ。彼女はとっくにサブカルチャーの聖地に送り届けたからねぇ」
「存じておりますよ。引取先の修道院からも、礼儀正し善い子だと報告を受けております」
預けられたのは遠い異国の地、だが白騎士団の手が伸びうる主の家。
穏やかな牽制のし合いが面倒になり、ジルは溜息と共に本音を漏らす。
「ハッキリ言っておくけど、ローラちゃんに手を出したらタダじゃおかないよ」
「人魚の娘に、そこまで魔術的な価値があるのですか?」
「違うよ、僕が子供好きなだけさ。前任者から聞いてなかったのかい?」
「はい、バチカンに転任となられたのが、急な事でしたので」
堂々とした態度から誤解されそうだが、サイモンが白騎士団・バージニア教区の司教――政府や黒犬との折衝役に任命されたのは、たった三ヶ月前の事。
童顔の魔術師と直接会うのは、これが初めてだったのである。
「しかし、幼子が好きという理由だけで、我々の勤めを妨害したというのは、言い訳にしても少々無理がありませんか?」
表情はやはり穏やかなまま、サイモンを納得いかないと首を傾げる。
保身のために不法な魔術師を狩る、正当魔術師。
魔術の探求を邪魔されねばそれでいいと、どこまでも自己中心的な彼らが、白騎士団――ひいては全世界に二十億と居る信徒を敵に回すという、あまりにも大きなデメリットを背負うには、見返りが少なすぎる。
そのもっともな問いに、ジルはふざけた笑顔のまま、真面目に答えた。
「罪無き子供を救いたいって動機が、そんなに納得いかないかな? あえて付け足すなら、さっきも言ったけれど――善人面した聖職者って奴らが、僕は大嫌いなんだよ」
言い切る彼の瞳には、井戸の底を思わせる、深く黒い闇が沈殿していた。
それは、若々しい見た目とは裏腹に、何十年、何百年と生きてきた魔術師の、ふざけた笑みでも浮かべなければ蓋の出来ぬ、醜い怨念を窺わせた。
「なるほど、良く分かりました」
常人ならば発狂しかねない瞳で覗き込まれても、サイモンは小揺るぎもせず、頷いただけだった。
その胆力には、ジルも偽りない微笑を賞賛として送る。
「分かってくれて嬉しいよ。言っておくけど、僕は神を嫌ってはいないし、神に救いを求める人の弱さは愛おしくすら思っているよ。ただ、神の名をかざして人を踏みにじる獣が嫌いってだけなんだ」
「そうですか、肝に銘じておきましょう」
底の窺えぬ穏やかな顔を崩さぬまま、サイモンはもう一度頷き、ジルも自分語りはここまでだと話を変える。
「さて、ローラちゃんに手を出す気はなさそうだし、まさか僕の身の上を聞きに来た訳でもないだろうし、結局何がお望みなのかな?」
ゾロゾロと他の神父達を引き連れ、この本部まで詰めかけた理由。
察しているだろうに、わざわざ尋ねてくる童顔の魔術師に、司教は飾らぬ言葉で答えた。
「少々汚らしい言い方になりますが――あまり舐められると、下に示しがつかないのですよ」
「あははっ、実に分かりやすいねぇ!」
初めて人間らしい感情を覗かせたサイモンに、ジルは心からの喝采を送った。
敬虔な神の使徒を自称する白騎士団とて、決して一枚岩ではないし、欲のない聖人君子ばかりでもない。
むしろ、神の名を免罪符にし、邪悪な人外だからと己を騙し、命を奪う暗い愉悦に浸る、自覚なき殺人鬼の方が多いやもしれぬ。
さらに組織である以上、権力と富が手に入る上位の椅子を、誰もが虎視眈々と狙っている。
それらの首輪を握る立場の司教としては、魔術師の脅しに屈して人外を見逃したなどと、弱みを見せる訳にはいかない。
だからサイモンは、人魚の娘がどうなろうと構わなくとも、黒犬の本部へ押しかけねばならかったのだ。
「いや~、前任者もなかなかの俗物だったけど、君も大概みたいだねぇ」
「恐れ入ります」
罵声にも聞こえる賞賛を、司教は穏やかな仮面で受け入れる。
もちろん、サイモンとて人並みならぬ信仰心を持っているし、人外の存在に対する敵対心も抱いている。
ただ、この魔術師と全面的に争うという、利益よりも損の多い選択を取るほど、愚かでも狂信的でもないというだけの事だ。
それが分かったジルは、話が通じる相手で良かったと機嫌を良くし、彼の望みに応えた。
「じゃあ、君のあっぱれな厚顔ぶりに敬意を表して、一千万ドルくらい寄付すればいいかな?」
主力戦車が二、三台買えるほどの大金だが、金額はさほど問題ではない。
黒犬が白騎士団に頭を下げたと、周囲に示す事こそが肝心なのだ。
「ありがとうございます。ただ、ローラ・アルドリッジが再び邪な力を使うようでしたら、身の保証は出来かねますのでご了承下さい」
「それなら大丈夫だよ、彼女はもう二度と歌わないそうだからねぇ」
示談を受け入れつつ、釘を刺してくる司教に、ジルは心底残念そうな顔をしながら太鼓判を押す。
それに満足し、サイモンは出口へと向かいながら、扉の前で立ち止まり告げた。
「ときに、悪魔を飼っていらっしゃるそうですね」
「何の事かな?」
童顔の魔術師は一瞬の動揺すら見せずとぼけたが、このやり手の司教を相手に、誤魔化しきれるとは思っていなかった。
左腕に悪魔を抱えた少女、エル・イリム・ワン。
彼女の存在を知る者は、黒犬の本部にも二十人と居らず、その誰もが口を滑らすとは思えないのだが、白騎士団はいったい何処から嗅ぎ付けたのか。
一秒と考える事なく、ジルは答えに辿り着く。
(年明けのアレだろうねぇ)
ミシガン州のノバイ市で起きた、少女の惨殺死体遺棄から始まり、教え子と淫行に耽っていたジュニアハイスクール教師が逮捕された事件。
あの場で、イリムは記憶を失って以来、初めてと言ってよい怒りを覚え、左腕の悪魔を解放してしまった。
そして、現場に居た共犯者であり被害者の子供達は、何だかんだで子供と女性には甘いジェイの判断により、魔術による記憶操作や、命を奪うという最も信頼出来る口封じがされなかったのだ。
現場では麻薬の類が使われていたため、子供達の目撃したモノは幻覚と断じられたし、その話が外に漏れないよう、ジルも密かに手を回していた。
だが、二十億の信徒全てが耳といってよい白騎士団に、隠し通せる筈もなかったのだ。
(やれやれ、こいつは責任を取って貰わないとねぇ)
名付け親の義務として、失敗した子供は叱ってやらねばと、人の悪い顔を浮かべるジルに、サイモンは重ねて釘を刺す。
「知らぬと言うのなら追求は致しません。しかし、主の大敵たる悪魔が出現したとなれば、尾もない人魚の娘とは同じようにいきませんので、お忘れなきよう」
この司教は盲目の羊ではなく、損得勘定の出来る冷静な人間だ。
だからこそ、白騎士団の大半をしめる、差別的で攻撃的な愚か者達をまとめるために、贄が必要だと判断すれば、無垢な悪魔憑きの少女を平気で捧げるだろう。
それをわざわざ宣言してくれたのは、彼も童顔の魔術師が気に入ったからなのかもしれない。
「ご忠告痛み入るよ」
了解したと肩を竦めてみせるジルに、サイモンは今度こそ話は終わりだと、深々と礼をする。
「それでは、今後も良き敵対者であらん事を」
神という光を際だたせるために、悪魔という闇が必要なように、白騎士団が清い正義であるために、黒犬という汚れた悪が必要なのだ。
有史の以前、石槍でマンモスを狩っていた時代から、人間が集団を維持するためには、何よりも共通の敵が不可欠なのだから。
扉の外で待っていた神父達と共に、司教が歩き去っていく足音を聞きながら、ジルはまだアニメーションの再生を続けていたノートパソコンを閉じ、深々とした溜息を吐くのだった。
「本当にやれやれだねぇ、これは本格的に準備をしておかないと駄目かな……」
面倒で嫌だけど――といつもの台詞を吐きながら、彼は重い腰を上げる。
記憶を全て消され、誰よりも汚れない者として、悪魔を植え付けられた少女。
彼女が白く狭い部屋から出て、世界の広さと汚れを知り始めて、もうすぐ一年が経とうという今、選択の時が静かに迫ろうとしていた。




