3−4−2
ばたばたと人が走り回る音がする。
改めて自分は役に立たないという事を思い知った。
邪魔にならないところを探して、結局縁側に腰を下ろした。目の前に大きな木がある。
少しずつ日が暮れて行く。
円や直純や、翔はどこにいるんだろう。
俺は役に立たない。
「龍一君」
呼ばれて、振り返る。
円が、やっぱり困ったような顔をしてこちらを見ていた。
「龍一君、何かあったら連絡するから、そろそろ……」
「泊まっていっちゃ、だめですか?」
咄嗟にそう答えていた。
円は黙って龍一の顔を眺め、小さく微笑んでみせた。
「ちゃんとお家に連絡しなさい」
「はい」
「何かあったらちゃんと言うから、ちゃんと休みなさい」
「……はい」
「それなら、いいわよ」
そういうと軽く龍一の頭を叩いた。そしてゆっくりと立ち去って行く。
その後ろ姿を見送り、もう一度外を見る。
そうだ、家に連絡しないと。そろそろ夕飯の準備をはじめるだろうし。
思って制服のポケットに手を伸ばし、
「あ、鞄……」
慌てて出てきたから学校においてきてしまった。ケータイもその中だ。
「榊原」
目の前に見慣れた鞄が差し出される。グリーンと灰色のメッセンジャーバック。
「巽」
「とってきた。先生には榊原が急に具合が悪くなった、ということにしておいた」
「ああ、うん、ありがとう」
受け取る。翔は何か言いたそうに龍一の横顔をみている。
「今日さ」
その視線を感じながら龍一は呟く。
「うん?」
「巽の家に泊まっていることにしていい?」
翔の方を見ないまま呟く。ふっと空気の漏れる音がした。笑ったようだ。
「うん。僕はちょっと向こう行っているけど、何かあったら呼べよ?」
言って翔は立ち上がる。
「うん、ありがとう」
ケータイを開く。家の番号を呼び出す。
『もしもしー?』
聞こえるのはいつも通りの少し能天気な母の声。
「あ、母さん」
『龍ちゃん? どうしたのー?』
「うん、急にごめん。今日巽の家に泊まるから、夕飯いいや」
『えー、今日はハンバーグにしたのにぃー』
「ごめん」
『……龍ちゃん、何かあったの?』
ゆっくりと、いつもより低いトーンで言われて驚く。
「なんで?」
『元気ないわね』
いつもふわふわしているくせに、何で今そんなこというんだろう。
『ふふ、お母さんにはわかるわよー、お母さんだもん』
ころころと笑う声がする。
何で今、そんなことを言うんだろう。
なんだか泣きそうになって目を閉じる。
「なんでもないよ、大丈夫」
『……そー? 何かあったらちゃんと言いなさいね』
「うん、ありがとう」
『龍ちゃんも年頃だから色々あるわよねー』
また能天気な声で言われる。
「母さん」
『うん?』
なんで俺の名前、龍一なんかにしたの?
言いかけた言葉を、飲み込む。
それはただの八つ当たりだ。名前の由来は、龍のように強くかっこ良く、そして一番の男になって欲しいからだと昔から父が言っていた。正直、名前負けしているけれども、この名前は嫌いじゃない。
でも、龍という言葉が、彼女を苦しめている対象が、自分の名前に入っている事を疎ましく思う。特に今。彼女自身は気にしていないみたいだけど。
『龍ちゃん?』
だけど、それは八つ当たりだ。意味の無い八つ当たり。
「あのさ、勝手に進路変更してごめん」
代わりに違うことを言っていた。それも思っていないわけじゃないけど。
『ああ』
また笑い声がする。底抜けに明るい笑い声。
『別にいいわよー、龍ちゃんはずっと真面目にやってたんだし、それぐらい別に。急だったからびっくりしちゃったけど、お母さん、子どもが急に変な事言い出すのは雅ちゃんで慣れてるから』
笑う。明るく。
この笑い声を当たり前の物だと思っていたけれども、この笑い声が途絶えていたときも確かにあった。
「雅ほど、変な事はしないよ」
少しだけ苦笑いする。
大学卒業間際に妊娠して、周囲の反対を押し切って駆け落ちをした挙げ句、流産した。あの時は流石に母も笑っていなかった。
『まあ、雅ちゃんもね、あのあと信介さんにあって結婚出来てよかったんだけどね。孫の顔も見られたし』
「うん」
『龍ちゃんが選んだ事なら、応援するから』
「うん、ありがとう」
少し話をして、電話をきった。
沙耶は、龍一の家の事をいい家族ね、と言っていた。彼女の生い立ちは円から聞いて知っている。
自分の家だってずっといい事ばかりではなかった。それでもどうにかやってきた。そういう普通の幸せをもっと彼女に知って欲しいと、思っていた。普通の幸せを特別な物みたいに言って欲しくなかった。もっと家に連れてきて、母親の手料理を食べさせて、そういうことも本当はしたかった。
過去形で考えている自分に気づく。でも、もう過去の願いなのかもしれない。
沙耶が忘れていたら、自分に出来る事なんて、きっと、もう、ない。