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調律師  作者: 小高まあな
第二章 ありがとうございました、と依頼人は言った。
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1−2−2

「……ここか」

 龍一は「調律事務所」という看板を見つけると小さく呟いた。

 どうやらその事務所が入っているのはこのビルの五階のようで、少し古びたぎしぎしなる階段をゆっくりとあがっていく。

 退院したのは昨日のことだった。意識不明だったことなんて嘘のように体調は回復して、退院許可も少し早めにおりた。

 本当ならばその日のうちに来たかったのだが、さすがにそれは母親にとめられた。今日だってなんとか宥めて、半ば強引に家をでてきたのだ。

 頼りになるのが名刺だけだったので、ちゃんと来られるかどうか不安だったか、無事たどり着いてほっとした。

 ここに来てみようと思ったのは、大道寺沙耶という女性が現れた日の夜のことだった。理由は単純で、出来ればもう一度会いたかったのだ。お礼という口実で、貯金をおろして普段立ち入らないようなお店でお菓子を買ってきた。

 門前払いをくらったらどうしようかという不安と、早く会いたいという期待で気が変になりそうだった。こんな緊張感、それこそ高校入試の時だって味わわなかったのに。

 五階。扉にもきちんと「調律事務所」という、やっぱりなんかちょっと胡散臭げな名前が入っていることを確認する。深呼吸して、ためらいがちに手を上げると、

 びー

 ブザーを鳴らした。

「はーい」

 明るい声がして、ドアが開く。

「いらっしゃいま……せ?」

 出てきたのはこの間の沙耶という女性で、彼女はにこやかな営業スマイルを浮かべながら出てきて、龍一の顔を見ると眉をひそめた。

 一瞬、あまりにも表情がありすぎて本人かどうか疑ってしまった。

 彼女は営業スマイルをひっこめ、最初と同じ表情のない顔をする。

「あなた、この間の?」

 それを聞いてきちんと彼女がこの間の大道寺沙耶であることを確認する。

「はい。その節はお世話になりました」

「……とりあえず、入ってください」

 そういってドアを大きく開けると、彼を招き入れた。


「円姉っ」

 こちらで待っていてください、と示されたソファーに腰をおろす。ついたての向こうから沙耶のやや怒鳴るような声が聞こえる。

 正直、意外だった。確かにあの時は最後に不意打ちの笑顔を見せてきたが、こんなに表情のある人だったとは。だけれども、それは当たり前のことで、ああ、彼女にはちゃんと笑える場所があるのだとなんだか安心した。

 ついたての向こうでなんだか話し声がして、

「こんにちは」

 そういって現れたのは、どこか不機嫌そうな感じがする女性だった。

「私はこの事務所の所長の、一海円。沙耶は今、お茶を淹れに行ってるんだけど……ご用件は?」

 妙に砕けた感じで話してくる人だったが、嫌な気持ちはしなかった。むしろ、肩の荷が下りたようでほっとする。

「あの、この間のお礼に……」

「ああ」

 何を思ったのか、円は唇の端をあげてにやりと笑うと、

「沙耶ー、お茶いいからちょっと」

 どこか楽しそうにそう言った。

「何?」

 ついたての向こうから沙耶が顔をだす。円は首をかしげるようにして、龍一を促した。

「あ、えっと、その、この間はありがとうございました」

 立ち上がっておじぎをする。

 返事が無い。

 恐る恐る顔をあげてみると、沙耶は目を見開いてこちらを凝視していた。黒くて大きな瞳が、まっすぐにこちらを見ている。逸らすわけにもいかず、そのまま見つめ合うこと数秒。

「……あの?」

 ゆっくりと声をかけてみる。沙耶は視線をそらし、

「そんなことのためだけに、今日、来たんですか?」

 吐き出すようにしてそう言った。

「え……、あ、はい。……迷惑でしたら、もう帰ります。すみません……」

 考えてみたらいきなり仕事中に押しかけるのはまずかったかもしれない。彼女の不機嫌そうな声を聞いて、龍一はそう思った。自分の迂闊さと滑稽さを呪う。なにもこんな怒ったような声が聞きたかったわけじゃないのに。もう一度、あの顔が見てみたかっただけで。

 机の上においておいた紙袋をとり、

「あの、これお礼です。……つまらないものですが」

 どこかしどろもどろになりながらも、やや押し付けるようにして沙耶の目の前に差し出した。

 それまで床に視線を落としていた沙耶は顔を上げ、

「ありがとうございます」

 わずかに眉をひそめながらそれを受け取った。

 ああ、やっぱり怒らせてしまったかと後悔し、龍一はもう帰ろう、と椅子の上のコートに手を伸ばしかけた。

「座っていてください」

 沙耶は彼をさえぎるかのようにそう言った。

「今、お茶淹れてきますから」

 そういってどこか早足で出て行く。

 反応に困って、龍一は立ちすくんだ。

「……座ったら、どうですか?」

 そんな二人をどこか楽しそうにみていた円は、相変わらずの笑みを浮かべたまま龍一にそう言った。

 言われて、龍一は慌ててすとん、と椅子に腰をおろす。

「気にしないでくださいね。あの子、あんなだけれども、怒っていたわけじゃないですから。というか、あの子が他人に対して怒っているときはもっと直接的な態度を取るし……、あんまり他人に対して怒りをぶつけることは、ないですから」

 もっとも、と円はおどけたように肩をすくめた。

「私なんかは付き合いが長いんで、遠慮がないのか怒られっぱなしですがね」

「でも……」

 怒っていないというならば、今の顔はどういうことだったのだろうか? そう思って、説明を求めるように円を見る。

「あれは、反応に困っていただけ。初めてなのよ。菓子折りを持ってお礼にやってくる依頼人なんて」

 だから私もびっくりよ、と円は続けた。

「……そうなんですか?」

「そうなんですよ」

 膝の上で頬杖をつきながら、ふざけた調子で円が言う。

「だって、普通はそんなに簡単に信じないから、こんなの。例えば、幽霊とかこっくりさんとか。まぁ、君の場合は今日来た理由はちょっと違うみたいだけどね」

 そういってにやりと笑う。

 全てが見透かされている気がして、ぎくりと体を強張らせた。

 反応に困って、助けを求めるように机を見つめ、

「失礼します」

 ついたてを一度叩いてから、沙耶が入ってきたことに救われた。

 湯気のたったティーカップを二人の前に置く。真ん中にクッキーの入ったお皿。

「それでは、ごゆっくり」

 それだけ言って、なんだか逃げるようにして沙耶は出て行った。

「あ」

 声をかけることも出来なくて、龍一はため息をついた。

「ごめんなさいね、せっかく会いに来てくださったのにあんな態度しかとらない子で」

 円が頬に手をあてながら、さっきまでの態度が嘘のように、切なそうにため息をつく。切れ長の瞳を閉じて、駄目ねーと首を左右にふった。

「でも、やっぱりあなたのことどう対処していいのかわからないみたい。お礼を言ってくれる依頼人、なんてあの子にとっては初めてのことだし、困ってるのよ、きっと。もともと、外面はいいけど、人付き合いは苦手な子だしね」

 はぁっともう一度ため息をつく。

「……そうですか」

 龍一もため息をつく。悪気はないのだろうが、やっぱりあの拒絶されたような態度は傷つく。

「でもね」

 円はカップを持上げ、微笑みながら言った。

「貴方のこと、悪くは思っていないはずよ。これ、あの子のお気に入りのカップで、普通のお客様用カップとは違うものだから」

 取っ手の部分にまで華奢な薔薇を形どったそのカップを撫でる。

「紅茶も、どうやらあの子の一番のお気に入りのものみたいだしね。あの子、紅茶がすきなのよ。もう、紅茶狂」

 台詞の後半は、おどけた調子でくすくすと笑う。

 紅茶が好きだ、ということを、きちんと心のノートに書きとめながら、龍一は曖昧に頷く。嫌われていないということは、喜びたい事実だか、やっぱりどこか素直には喜べない。

「ちょっとね、色々わけありの子だから、他人に心開くまでが時間がかかってね。他人と自分の間に明確な線引きをしている子なのよ。そんなあの子が二度目にあった貴方にこのカップでこの紅茶を出すっていうことは「嫌っていない」というよりも「割と好き」の部類に入る意思表示なのよ。だから」

 そういって、円はもう一度微笑んだ。もともと、顔立ちの綺麗な人だから、とってもきれいな笑みになる。冷たい印象を与える瞳を一度閉じることで、こっちまで、どこかほんわかして安心してしまうような笑みを形どる。

 その笑みのまま、一言告げた。

「頑張ってね」

「はい」

 そんな悪魔の笑みに騙されて、元気よく返事をしてから、龍一は自分の失言に気づいた。 目の前の悪魔が、さっきまでのどこか愁いを帯びた仮面を脱ぎ捨てて、にやりと本性を出して笑った。

「あ、いや、俺……僕はそんなつもりで言ったわけじゃ……」

「いいのよぉ、そんなこと気にしないで」

 うふふと笑いながら、円は言う。

「大丈夫、あの子ちゃんと今フリーだから。一目ぼれって言うか、自分の直感って大事だと私は思うのよねぇ」

「あ、あのっ」

「ああ、大丈夫。私の直感も君を悪い人だとは言っていないから。じゃなかったらこんなこと言わないわ」

「……ありがとうございます」

 思わずお礼を言ってしまう。

「ほら、そうやって納得はしていなくても筋を通そうとしちゃうところとか、君は根が優しい人なのよ」

 そういって、少し赤くなりながら口篭もる龍一に、そのままの口調でさらりと彼女は言った。

「だからね、君には色々と説明しなくちゃね」

 そういって、笑みを崩すことなくいった。

「長話になってしまうかもしれないのだけれども、今、時間あるかしら?」

 口調も表情も変わっていなかったけれども、どこか空気が重くなった。

 龍一は姿勢を正す。

「はい、時間は有ります。……その前に一つ、お聞きしてもよろしいですか? それは、聞かなければ良かったとあとから、俺……僕が思うようなことですか?」

「別に俺でいいわよ。そんな無理して敬語使おうとしなくても。ええっと、何? 呼びタメOKっていうやつ?」

 ところどころ軽口を挟んで、重たい本質さえも軽くしてしまおうとするのは、円の癖なのだと龍一は気づいた。だから、わざとおどけたような仕草をしたり、崩れた言葉ではなしたりするのだと。

「そして質問の答えはね、YESであり、また同時に、NOでもあるわね。強いて言うならば、それで「聞かなければ良かった」と思うような人はもう二度とここ来ないで、あの子にも関わらないでもらいたい。その方が、貴方のためにもあの子のためにもなるはずよ。裏を返せば「聞いてよかった」って思ってくれるならば、どんどんばしばしここに来て頂戴。なんだったら、アルバイトでもしてみる? 春休みの間だけでもいいから。掃除とか」

 どこまで本気なのかわらない口調で彼女は言う。

 そして、もう一度首を傾げておどけるようにして、聞いた。

「それで、お時間は有るかしら?」

 あいにく、榊原龍一は、ここで「No」と言えるような人間ではなかった。

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