3−2−4
調律師事務所の自分の席で、沙耶はぼーっと壁を眺めていた。
さっきの一家はちゃんと納得して旅立って行った、と思う。少なくとも、沙耶に出来る限りのことはしてあげられたと思う。みんな、死を受け入れられていなかったけれども、父親のことは大好きだった。それが羨ましい。
父親とのいい思い出なんて、何かあっただろうか。あの人はあたしを化け物と言い、捨てた。
心中の原因は借金だったらしい。借金なんて生きていればどうにでもなったのに、と母親が最後に呟いたのが忘れられない。私たちはそんなに頼りにならなかったのか、と。
あんなに優しい人たちこそ、家族皆で生きるべきだったのに。
この前お邪魔した龍一の家も、皆優しかった。ああいう家で生まれれば何かが違ったのだろうか。ああいう優しい家族なら、こんなあたしでも認めてくれたのだろうか。それとも、やっぱり化け物として捨てられたのだろうか。
ためいき。
どうでもいいことばっかり考えている。
一応、報告書を作らなくてはと事務所に来たのに。一人だからいけない。日曜日だし、仕方がないのだけれども。
机に広げたまま手つかずの用紙に一度目を落とし、気分を変えるために給湯室に向かった。紅茶でも飲もう。
紅茶をいれる準備をしていると、外で何か話し声と古い階段がきしむ音がする。この古いビルは、一階の花屋以外日曜日はどこも休みのはずだ。事務所の誰かが来たのかと思ったが、それにしては話し声が甲高い。それに、二人?
準備の手を止め、ドアの方に向かうと、直前でドアが勢い良く開け放たれた。
「あ……」
知っている人物に足が止まる。
入ってきた人物は沙耶をぎろりと睨みつけ
「ちょっとあんた、いい加減にしなさいよっ!」
にじりよると勢い良くまくしたてる。沙耶より小柄なその女性は、顔を真っ赤にしてまくしたてる。
「幽霊だの妖怪だのあんた達が勝手に信じている分にはいいけれども、これ以上清澄を巻き込まないでよっ! 高校の同級生だかなんだか知らないけど、いい加減にしてっ! 何が幽霊よ、妖怪よ、化け物よっ! どうやったら携帯電話が壊れる訳? どうやったら」
「祐子っ!!」
大声が言葉を遮る。
声の主は勢いにのまれて固まっている沙耶と女性の間に体を滑り込ませる。
「清澄、どきなさい!」
「祐子、頼むからいい加減にしてくれっ」
我に返る。
「沙耶、ごめん」
事務所の人間、佐野清澄とその恋人だ。名前は確か、桜庭祐子。
「あのね、清澄。今日という今日は」
「あーもー、わかったから」
どうしたらいいのかわからず二人を交互に見る事しかできない。
清澄の恋人が沙耶達の存在を怪しんでいて、疎ましく思っていて、嫌っている事は知っている。こうやって事務所で怒鳴られるのも初めてじゃない。ただ、いつもは円と直純がいた。円が冷たく切り捨て、直純がそれをフォローしていた。一人で対応したことがない。
「ごめんね、沙耶!」
困っている間にも祐子をなだめすかし、外に出す事に成功した清澄が言う。
「ちょっと今日、喧嘩しちゃって。この前、ケータイ壊した事とかまたひっぱりだされちゃって。あの通りキレちゃって。日曜なら誰もいないからいいかなって思ったんだけど」
「あ、うん、ごめん……」
「仕事だった?」
「ちょっとね。ごめんね」
「なんで沙耶が謝るのさ」
清澄が呆れた様に笑う。
「ごめん、祐子が怒るから。明日またちゃんと説明する。ごめんね」
早口で言うと事務所を出て行く。
手近な椅子に座りこむ。
謝らなければいけないのはこっちの方だ。桜庭祐子の言う通りだ。清澄をこっちの世界に引きずり込んだのは、あたし自身だ。何一つ上手く対応出来ないくせに、彼をこちらに引きずり込んだ。
ため息をつく。
「仕事、しなきゃね」
立ち上がりかけ、また歪んだ視界に慌てて机に手をつく。
「やだっ、もう、なんで……」
立ちくらみだ、ただの立ちくらみだ。必死に言い聞かせる。右手で肩を強く握る。
だから大丈夫。もう一度腰を下ろす。
だから、だいじょうぶ。
そのまま机に頭を預けた。