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それじゃあ、と沙耶を連れて事務所を辞する。
気をつけてね、と円が含みのある笑顔で手を振ってきた。どういう意味だ。
「沙耶、本当にいいの?」
歩きながら尋ねる。今ならまだ、平気だ。
「だって、せっかくご招待されたんだし」
言ってから、あっ、と口元に手をやる。
「龍一、あたしのことご家族にはなんて説明しているの?」
「え、前沙耶が言っていた、文化祭で出会ったっていう……」
「ああ、そう。どうしよう、大丈夫かな」
「何が?」
「龍一のお母様とは一回お会いしているのよ、ほら、病院で」
ああ、と思い出す。
一番最初、沙耶に出会ったきっかけ。龍一がこっくりさんに憑かれたとき。
「大丈夫だと、思うよ。うちの母親は、その、なんていうか、ぬけてるから」
一度しか会ってない他人の顔を覚えているわけがない。
「そう? まあ、そうね、お母様、あのとき龍一の事で精一杯だったみたいだし」
言ってゆっくり微笑んだ。
「大事にしなさいね?」
それは年長者が年下にする笑みで。実際その通りなのだが、すこぅし胸が痛んだ。
「ん」
適当に相槌を打った。
「ただいまー」
と、ドアをあけると
「おかえり」
ドアの前で姉が仁王立ちしていた。
「雅……」
言いたい事はたくさんあったが、脱力して名前だけ呼ぶ。
何も、ここにいなくても……。
「こんばんは、大道寺沙耶です」
後ろの沙耶がにこやかに微笑みながら会釈する。
「急にお邪魔してしまって、申し訳ありません」
「こちらこそ、急にお呼びだてしてしまって」
雅も微笑んだ。
十七年間、彼女の弟をやってきたが、初めて見る顔だった。大人の女の人、の顔。
なんとなく居心地が悪い。
「あがって」
靴を脱ぎながら、沙耶を急かす。
「お邪魔します」
もう一度沙耶は頭を下げる。
きちんと靴を揃えて、微笑む彼女は、そういえばいいところのお嬢様だった、ということを龍一に思いださせた。
完全によそ行きの顔をしている。
「あらあら、ごめんなさいねー」
ぱたぱたと走りながら母親が、台所から現れる。エプロンで手を拭きながら。我が家はスーパー庶民だ。
「こんばんは。大道寺沙耶です。本日はお招き頂いてありがとうございます」
微笑む。
「あらあら、綺麗なお嬢さんねー。うふふ、龍ちゃんには勿体ないわねー」
「母さん!」
抜けている抜けているとは、思っていたけど、まさか此処までとは。雅は雅でなんか偉そうだし。
「龍一さんにはいつもお世話になっています」
「ごめんなさいねー、うちの子が迷惑かけて」
今ひとつ噛み合ない会話な気がして龍一はため息をついた。やっぱり、馬鹿正直に沙耶の事を誘わないで、この話を握りつぶすべきだった。
「お夕飯、もうすぐできるから待っててね。龍ちゃんのお部屋でいいかしらねー」
そしてそこでナチュラルに息子の部屋を出すな。すたすたと母親は、階段に向かって歩き出す。
「ありがとうございます。あ、これよかったら皆さんでどうぞ」
言いながら沙耶は、先ほど駅で買ったロールケーキを差し出す。
「お口に合うといいんですけど」
「あらあら、わざわざありがとうございます。ご丁寧にねー」
受け取ってそのまま階段を上ろうとする母親をとめ、
「いや、母さんは料理しなよ、ね?」
「あらそうー?」
残念そうに言いながら、母親は台所に引き換えす。夕飯出来るまで待っててねー、ってあんたが夕飯を作るんだぞ?
ため息。
「紅茶と珈琲、どちらがいいですか?」
成り行きを見守っていた雅がいう。
「ありがとうございます、紅茶でお願いします」
沙耶は微笑んだまま告げる。雅は一つ頷くと、台所に向かう。
その背中を見送ると、沙耶はくすり、と笑った。楽しそうに。
「素敵なご家族ね」
龍一に言う。素敵?
「いや、うん、まあ」
恥ずかしくてしょうがない。言葉を濁しながら、こっちと二階の自室へと案内する。
そうしながら、部屋の状況を思い起こす。ええっと、見られてまずいものとかおいてない、よな?
脳内トレース終了後、大丈夫だろう、という結論に達し、
「ここ」
言いながら部屋のドアをあけ、慌ててしめた。
「ちょ、ごめん、散らかって、ええっとちょっとまってて!」
勢い良くそれだけいうと慌てて部屋の中に入る。
机の上におきっぱなしだった本を手にとると、どこにしまうか悩み、定番だがベッドの下に押し込んだ。
「ごめん、どうぞ?」
再びドアをあけると、楽しそうに笑った沙耶がいた。そんなに楽しそうな顔をしてもらえるなら、こっちも嬉しいんだけど。
「どうぞ」
勉強机の椅子を明渡し、自分は床に座る。
「ありがと」
言いながら沙耶は部屋をくるり、と見回し
「綺麗にしてるじゃない」
「ん、」
沈黙。
この状況下って、あんまり健全じゃないよなー、等と思ってしまう自分の脳内が恨めしい。
「あの、」
何か話しかけようとした時、
どんっ!
「龍一、開けろ」
雅の声がする。その前のどん、という音はきっと、ノックではなく扉を蹴った音だ。
ドアを開けると、二つのティーカップを載せたトレーを抱えた雅がそこに立っていた。
「ごくろう」
何故か偉そうに言う。
そうして、沙耶に笑いかけ
「どうぞ」
勉強机の上に紅茶を置いた。
「ありがとうございます」
「いいえ。龍一」
「ん?」
「母さんが呼んでた、行って来い」
「はぁ?」
雅は持ってきた紅茶のもう一つは自分で飲みながら、
「いいから。十分ぐらい戻ってくるな」
言うと乱暴に龍一を閉め出し、あまつさえ、ドアに鍵をかけた。
「え、ちょっと!」
龍一はドアを叩く。返答はない。
「あー、もう! 沙耶、ごめん!」
怒鳴るようにして部屋の中にいうと、素直に階下に降りて行った。
母親のところにいっても、どうせ、「どうしたの?」と言われるだろうと分かっていながら。