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「やべ、どうしよう」
龍一が、事務所のドアを開けたとき、彼を迎えたのは彼の心を代弁するような清澄の言葉だった。
「あ、龍一君、おはよう」
面白そうに清澄を見ていた円が微笑む。
「清澄、どうしたの?」
「カノジョに会うんだそうだ」
このまえの事件以来、なんとか普通の会話ぐらいは出来るようになった直純が言う。でも、お互いあまり深くは立ち入らない。それでもやっぱり、ライバルなわけだし、恋の。
「それの何が問題なわけ?」
「嫌味っぽいわよねー」
と円が笑う。
「違うって、ケータイ」
「ケータイ?」
「壊れちゃったろ、ほら、この前の……」
「ああ」
この前の事件で、清澄のケータイは、櫻に閉じ込められた悪霊によって壊された。その悪霊の姿を思い出して、一瞬不愉快になる。
「買い替えたんだけど、カノジョに問いつめられて。連絡とれなくなってたから、無理もないだけど。普通、ケータイ壊れないでしょ!? って」
苦笑い。
「ん? 清澄のカノジョさんは知ってるの?」
清澄の仕事とか、幽霊とかのこととか。口には出さなかったけれども、伝わったらしい。
「まあ、大まかには説明してある」
「反対、されているからねー」
まあ、当然よね、と円はつまらなさそうに言う。
「私が、あんたのカノジョちゃんの立場でも、とめるわ」
直純も苦々しい顔をして頷いた。
「嫌なら、いつでもやめていいんだからね?」
はがれかけたエナメルを見つめながら、円が言う。
「……やめないから」
清澄は、そちらを見ずにそれだけ言いきった。
「まあ、で、そのケータイ買い替えてから初めて会うんだ、今日。いやだなあー、と思って」
龍一の方を見ると、困ったように笑う。
以前、清澄は贖罪だと言っていた。自分がここで働く事は贖罪なのだ、と。事情を知らずに、沙耶のことを避けていたことや、それにも関わらず自分の妹を助けてもらったことに対する贖罪だ、と。
でも、それだけで“見えない”彼が、この事務所でカノジョに怒られながらも働く理由になっているだろうか、と龍一は内心で首を傾げる。きっと、聞いてはいけないことなのだろうし、聞いてもはぐらかされる気がするから直接は聞かないけれども。
まだまだ、自分の知らないことだらけだ。
「あんまり、心配かけるもんじゃないわよ?」
言いながら円は立ち上がる。
「龍一君、緑茶でいい? 沙耶、今いないから」
「あ、おかまいなく」
沙耶がいれるのは、当然紅茶。円は緑茶で、直純と清澄なら珈琲。そういう分担が自然にできてるようだった。
座れば? と示された椅子に大人しく座る。春休み中、彼がバイトしているときに、一脚増やされた椅子。いわば、彼の定位置に。
「さて、俺はそろそろ行くから」
直純は立ち上がると、ホワイトボードからマグネットをはがす。
「龍一君、ごゆっくり」
と、早く帰れよ? とでも言いたげな顔で言われて、苦笑いする。これでも、大分進歩した関係だ。
「駄目な大人ねー」
「ほっとけ」
楽しそうに円がいい、それに少し笑って言葉を返すと、直純はでていった。
「はい、どうぞ」
「あ、ありがとうございます」
湯のみを受け取る。ふーっとそこに息をふきかけた。
「沙耶、もうすぐ帰ってくると思うけど?」
「あ、はい」
「あら、素直」
くす、っと笑われる。
「いや、今日は本当に用があって来たんで」
「沙耶に?」
頷く。
「何の用が?」
清澄の言葉に返事をしようとしたとき、
「ただいま」
沙耶が戻ってくる。
「あら、いいタイミング」
円が微笑む。
「あ、龍一来てた。なに、あのメール」
出来るだけ警戒されないように微笑むと、
「姉が、帰ってきてるんだけど」
「あれ? お姉さん居たの?」
「うん、結婚して家出て行っているんだけど」
「結婚、おいくつ?」
「二十六歳」
「ふーん」
自分の席に荷物を置きながら、沙耶が相槌を打つ。
「へー、二十六、そう……」
その向かいで円が低く、低く呟いた。一海円、もうすぐ三十路。
「ええっと……」
「円姉の結婚事情は放っておいていいから。それで?」
その様子に鬼気迫るもの感じたが、あっさりと沙耶に先を促される。
「ああ、うん。それで、姉が良かったら、うちに晩ご飯と食べにこないか、と……。日頃お世話になっているならお礼をするべきだ、って。母もなんか、乗り気になっていて。断ってくれて、いいんだけど」
そこまで言いきると、首を傾げる。
「どう、かな?」
沙耶は黙ったまま。断るなら、さくっと断ってくれた方がいい。無理な願いだというのは分かっているんだから。
「行けば?」
そうやって言ったのは、意外にも清澄だった。龍一は驚いて隣の清澄を見る。
「一家団欒っていうの、見た方がいいよ」
「そう?」
清澄の方を見ないまま、沙耶は尋ねる。
「一人で食事は寂しいしなー」
「そうね」
「誰かさんはカノジョがいるからいいわよねー」
円が囃し立てると、清澄は思い出したかのようにため息をついた。
「そう、ね」
沙耶は何かを断ち切るかのように少し唇を噛み、
「お邪魔じゃなければ」
龍一の方を見て微笑んだ。
「ああ、うん、そう」
断られる事を前提としていたので、その反応に驚く。
「あ、じゃあ、うん、親に連絡する」
言いながらケータイを取り出し、事務所の外にでる。
おかしい、なぜ、こうなった?
そう思いながらも、この状況を喜んでいる自分もいて、そんな自分を嗤った。