1−1−3
響くのは自分の靴音だけ。ああ、ここは本当に変わっていない。廊下を歩きながら沙耶は思う。
藁半紙の掲示物が貼られた薄汚れた廊下と、人がいることをあらわすロッカーとそれでいて無機質な教室と。
ああ、もう、本当に変わっていない。
大嫌いな思い出のはずなのに、やっぱり脳はきちんと覚えていて、足はしっかりと二年四組へ向かっている。
二の四。プレートのついた教室の前で足を止める。
一年間過ごした、強いて言えば三年間の中で楽しかった部類に入る日々を過ごした教室。でも、楽しかった思い出なんて過ぎ去ってしまえば苦痛以外の何者でもない。
一つ息を吸い込んで、勢いよくドアを開け放った。
がらり、
「こんにちは」
小首を傾げて、無表情に告げる。
ソレは教室の真中で蹲っていた。
「聞いていないかもしれないけど、一応自己紹介をしておきましょう。それがうちの事務所のスタンスだから」
後ろ手でドアを閉めながら、早口で告げる。
「あたしの名前は大道寺沙耶。調律事務所の事務員で、一海の実質、養子ね。だから、もしあなたがこのままここから立ち去ってくれるならばあなたに危害は加えないけど、まぁ無理か」
そういいながら、飛びかかってきたソレから避けるためにしゃがみこむ。
「本体はこの教室に残しておいて、一部分を被害者に憑かせるなんてことできるからてっきり高度な知能でも持っているものだと思ってたけど、やっぱりこっくりさんはただの狐なのかしら?」
この教室という空間が不愉快すぎてしょうがない。だからこんなに、やけに饒舌なのだ。自分でわかっていてもどうしようもないけれども。
たっと駆け出して、とりだしたお札をソレ相手に伸ばす。ばちっと、まるで静電気のような音がして、慌てて戻る。
「お札だけでいけるかと思ったけど、やっぱり無理か」
肩をすくめ、口の中で祝詞を唱える。
もう一度駆け出し、
「っ!」
足を止めた。
目の前にある机の表面に「巫女姫様」と彫ってある。それはどうみても、自分の渾名だったもので……。吐き気さえして、机を思いっきり蹴飛ばした。がんっ、と思ったより大きい音がした。
気が散ってしょうがない。
その言葉の横にある二文字なんて最初から無かったことにした。いくら彫り方が浅いからって、暴言が彫ってある机なんてさっさと破棄しなさいよと、心の中で悪態をつく。
そうしている間にも間合いをとりなおし、お札を握りなおす。
どうってことない相手なのにこんなに手間取るのはやっぱりこの環境がいけない。
強いて言えば楽しかった思い出のある教室は、だからこそ、失ったものを実感させてとても、つらい。集中しなければならないのに、目に映るもの一つ一つに付随する記憶がよみがえる。
一瞬、眩暈さえしたような気がした。
ふらついて、慌てて片手を机の上につくと、体勢を立て直し走り出そうとして、目の前にこっくりさんのいないことに気づいた。
「っ!」
慌てて振り返り、持っていた札を前に出しても、目の前にはソレがいて、
「いやぁっ!」
思わずぎゅっと目を瞑った。
「沙耶?」
『! 沙耶の姉ちゃん』
顔を上げたのは清澄もちぃも同時だった。
かすかに聞こえた悲鳴のようなもの。それが何を意味するのか考える前に清澄は走り出していた。
『あ、清! ちょっと待て、ここで待ってろって言われたじゃないかってああもう声が聞こえないってすっげぇ不便』
わーわー怒鳴りながらちぃもその後を追う。
「沙耶っ!」
二の四のプレートのある教室の扉を開けようとして、
がらっ、と先に扉が開いた。
「……来るなって行ったでしょ。ちぃちゃんも何してるのよ」
扉を開けて、どこか青ざめた顔をした沙耶が出てきた。
「沙耶、大丈夫なのかっ!」
『そうそう! 悲鳴が聞こえたけど』
「別に、平気」
扉に寄りかかるようにして立ち、沙耶は言う。
「アレはあたしに憑こうとして……、そして結果的には喰われてしまったわ」
言われたことの意味を理解して、清澄は押し黙る。なんて声をかければいいのか、わからない。
「……沙耶、それじゃぁ」
かろうじて口を開いても、自分が何を言いたいのかわからなくて、また黙る。
「つまり、龍が活性化してしまったということ。ああ、これでまた一つあたしは忘れるのね」
自嘲気味で投げやりにそういうと、沙耶は歩き出す。足取りはふらついていておぼつかない。
「沙耶」
『姉ちゃん』
慌てて駆け寄った清澄が支えるようにして横に立ち、ちいは正面から顔を覗き込んだ。
『少し休んでけよ。全部終わったなら無理に今帰らなくても』
「いいの、帰るの」
『だけど、いっつもそうやって無理して倒れていたじゃないか』
「あれは昔の話でしょう? あたしはもう子どもじゃないわ」
ちぃの声が聞こえない清澄にも二人が何を言い合っているのか、大体の想像は出来た。
「沙耶、せめて円姉に迎えにきてもらうとかした方が」
「いいってば」
「でも」
『お前、意地張りすぎだぞ。そんなんだから賢治だって』
「黙りなさいっ!!」
大声で怒鳴る。ちぃも清澄もぎょっとしたように押し黙り、声の主を見る。
「何で今ここで賢が出てくるの? 関係ないでしょ、あんなやつ、もう」
吐き捨てるようにそういうと、清澄の手を振り払って歩き出した。
「……堂本の話なんか、したのかよ」
見えないちぃに向かって非難がましく清澄は呟く。
ちぃはそんな非難の声なんて無視した。向こうが聞こえないのに、こちらだけがそれに従うなんて不公平だ。
『関係ないっておまえなぁ、あれほどお前を心配してくれる奴、この学校には他にいなかっただろう? 仮にもお前の恋人だったのにその言い草はないだろうがっ!』
「あたしに指図しないでっ!」
先ほどよりも大きな声で怒鳴る。
そのまま早口で続けた。
「賢はあたしから離れていった、もう関係ないじゃないっ。嫌いになったわけじゃないけど、だってしょうがないんだもの、あいつがあたしを……」
そこまで言って、口元に手をやる。自分でもなにが言いたいのかわからなくなってしまった。
「……帰る」
不機嫌そうに呟くと、すたすた歩き出す。
「ちょ、沙耶」
慌てて清澄が追いかけ、
『……また来いよ』
後ろでちぃがぼそりと呟いた。
「嫌よ、あたしは学校なんて大嫌いなの」
それを聞いて沙耶は即答し、
「でも」
振り返って、かすかに微笑みながら続けた。
「ちぃちゃんに会いに来るだけなら考えてもいいかもね」
そう言うとちぃは、本当に嬉しそうに笑う。
ああ、だって忘れられないのだ。初めてあった時、自分のことが見えるのかと驚いた顔で笑った、この幽霊の顔が。
例え、本人にその意図がなかったとしても無視されるという苦痛は理解できるつもりで、心置きなく話せる相手というのがどんなに大切なのかもわかっているつもりだ。ちぃのことが見える人間は他にもいるだろうけれども、やっぱりそれでも少しは自分を特別に感じてくれていたのだろうかと思うと、素直に嬉しい。それだけは確かなこと。
そんなことを思いながら、もう一度前を向き直ろうとして、
「あ……」
くらりと視界が歪んだ。
「っ、沙耶!」
『沙耶の姉ちゃん!』
叫ぶ声さえどこか遠くに聞こえて、回る視界に目を閉じて蹲った。