1−6−8
翌日も雨は降ったままだった。
「今日も止まなかったね、雨」
結局、自分が使うと占領したベッドの上で、クッションを抱えて沙耶は呟いた。
窓の外でびしょぬれになった照る照る坊主が申し訳なさそうに揺れていた。
「うん」
隣の部屋で、二つの部屋を仕切るふすまに寄りかかりながら、龍一は頷いた。
「でも、明日は晴れるって。二十九日が新月だったから、まだそんなに月も大きいわけじゃないし、きっとよく見えるよ」
「そう、満月だとあまりよく見えないものね」
呟く。
「……退屈?」
龍一は首を捻って、沙耶を見る。少し笑いを含んだ声で問うた。
「いいえ。何故?」
「今日は雨が降ってたし、何も出来なくて一日中家にいたからさ」
沙耶は微笑んで首を横に振った。
「こういうのもいいかもね」
クッションを抱えた、自分の指先を見ながら呟く。
「こういうの?」
「あまり誰も来ない山の中で、ただただ、終わるのを待つの。ケータイも繋がらない、ある程度世間から隔離された場所で」
龍一はコメントを控えた。
「そしたら、もう、おびえなくてすむもの」
「……でもそれは、寂しいよ」
沙耶の少しだけ、満足そうな言葉に龍一は小さく呟いた。
「……そうかしら?」
「うん」
首を傾げる沙耶に龍一は頷いて見せた。
「少なくとも、俺がね。沙耶さんが居ないと」
「それは……」
真摯な態度で見つめてくる瞳から目をそらす。
「それは貴方の都合だわ」
早口で言い切る。
「そうだよ」
龍一は微笑しながら頷いた。
「これは俺の勝手。我が儘。知ってるよ、そんなこと。でも、沙耶さんも沙耶さんの都合で物を言ってる、違う?」
にこっと微笑む龍一をちらりと見ると、沙耶は抱えたクッションに顔を埋めた。
「……円姉に似てきたね」
くぐもった声と内容に、思わず龍一は笑う。
「明日、晴れるといいね」
顔を埋めたままの沙耶に笑いかける。
「ん」
クッションごと、沙耶は頷いた。
「ほらほら」
雨が過ぎ去り、快晴。雲ひとつない空を、龍一は二階の窓から指差した。
「いい天気」
微笑む。
「そうね」
けれども、窓越しだとよく外は見えない。目に映るのは窓に映った情けない顔をした自分だけ。
水性ペンで書かれた目が涙をこぼしながらも、照る照る坊主は昨日よりも満足そうに揺れている。
それをみて龍一は、よし! と楽しそうに気合を入れた。
「よし?」
「行こう」
「え、どこへ」
「ほらほら、上着着て」
沙耶の問いかけを全て無視し、ジャケットを沙耶の肩にかける。素直にそれに袖を通す沙耶の腕を引いて、龍一はきしむ階段を下りていく。
「ばあちゃん、星見てくる」
「気をつけんしゃい」
「うん」
玄関で、台所に向かってそう告げると、龍一は靴を履く。
「ほら」
言われて沙耶もしぶしぶ靴を履いた。そんな沙耶を見届けると、龍一は沙耶の手を握ったまま外へ出た。
「うわぁぁ」
空を見上げ、沙耶が子どものような感嘆の声を上げる。さらり、と髪の毛が背中から腰へと落ちる。
そんな沙耶から一度手を離すと、龍一は庭の奥の方へかけていく。
少し息苦しいと感じながらも、限界まで上を見上げる。
一つ、二つ、見えていた星が、目が慣れてくると更に増えていく。三つ、四つ……。数多くの星が目に飛び込んでくる。
「沙耶さん」
龍一に声をかけられる。
「なぁに?」
上を見上げたまま答える。
「首、疲れるでしょ。こっち来て」
そういって龍一が手招きしている。口調がなんだか笑っているようで、沙耶は少しだけむっとした。確かに自分の対応は子どもっぽかったが、何も笑うことはないじゃないか。
そう思いながらも、素直にそちらへかけていく。
「上って」
かけていった先では龍一がはしごを屋根に立てかけていた。建物の半分が一階だて、半分が二階だての家の、一階部分へ上れるはしごになっている。
「上ってって……」
「屋根の上からだとよく見えるんだ。小さいころからよくやってて」
はい、どうぞ、とはしごをしめしながら龍一が微笑む。
沙耶は自分の足元に視線を落とすと、
「スカートなんだけど」
ぼそり、と呟いた。龍一も沙耶の黒いロングスカートを見た。
一拍の沈黙のあと、
「見ないし、見えないし、暗いから」
龍一が呟いた。
沈黙。
ぎろっと沙耶が睨んでくるので、降参っと龍一は両手を挙げた。
「本当に下で支えておこうってだけなのに。まぁいいや、先に上るんで」
そういって、すたすたと屋根にはしごを上っていく。
「どうぞ」
屋根の上に腰をかけ、龍一ははしごを押さえた。
よし、っと自分に気合をいれて、沙耶は足をかけた。はしごを上るなんていう経験、初めてかもしれない。
一歩一歩上っていく。
それを上で龍一は微笑みながら見ていた。
最後の一段に足をかけた。
「お手をどうぞ」
龍一はそういうと右手を差し出す。素直にそこに自分の手を重ねた。ぎゅ、っと握られる。
この辺だと座るのが丁度いいんだ、なんていいながら龍一はそこから少し上に上る。沙耶は慌てて、その手にしがみつき、あとに続く。
一階と二階の境目の場所。そこの二階の壁の隣に沙耶を座らせ、その隣に龍一は腰をおろした。
「壁に寄りかかると落ちないよ」
微笑む。沙耶はこくこく、と頷くと壁に寄りかかるというか、へばりついた。
それを見て、龍一がくすりと笑った。
「笑わないでよ」
「ごめんごめん」
それでもまだ笑いながら、龍一は手を離そうとする。
「あ、待って!」
言いながら沙耶は、握った手に力をこめる。龍一が驚いた顔をして沙耶を見る。
「手、離さないで。お願い」
そんな言葉を紡いだ沙耶を意外そうに見つめたあと、龍一は微笑んだ。
「それは願ったり叶ったりです」
そして彼は空を見る。沙耶も同じように空を見た。
「あ……」
「ね、見やすいでしょ」
隣の龍一が楽しそうに言う。首をあげなくても、正面に星空が見えた。
「綺麗ね……」
小さく呟き、それっきり黙る。
小さく口を開き、ただただじっと星空に見入る沙耶の横顔を、ちらりと龍一は見た。少しだけ眉を寄せて空を見る彼女は、空を慈しんでいるようにも切望しているようにも見えた。
そっと視線を逸らす。
「気に入った?」
代わりに呟く。
「ええ、とても」
空を見たまま、彼女は言葉を返してきた。
「来てよかった」
「……ならよかった」
龍一は微笑んだ。そういってもらえれば、これ以上嬉しいことはない。
「あたし」
やはり空を見たまま沙耶が呟く。
「うん?」
「日記に書くわ、今日のこと」
「日記?」
「ええ」
沙耶は一つ頷いた。
「日記、つけているの。ずっとずっと、小学生のころから。自分に龍が憑いていると知った時から」
龍一は沙耶の横顔に視線を移した。
「忘れたくないこと、たくさんたくさんあるの。あたしが忘れたこと、誰かが話しているの聞くの、嫌なの。ああ、忘れちゃったのね、って言われるのが嫌なの。だから、日記をつけているの」
はらり、と沙耶の右目から涙が一つ、落ちた。
「でも、結局駄目なのよ。日記を読んでもそのことは思い出せない。ただ、そういうことがあったという事実を知るだけ。そのたびに自分自身に失望する。それでも」
瞳を閉じる。たまっていた涙が、零れ落ちた。
「やめられないの、日記を書くこと」
何も言えずに、龍一は沙耶の横顔をじっと見ていた。沙耶は瞳を閉じたままうつむいた。
さらり、長い髪が彼女の横顔を隠す。
龍一は視線を空へ向けた。握った手に力をこめる。ゆっくりと、躊躇いがちに、言葉を紡ぎだす。
「例え過去を沙耶が忘れても、過去は沙耶を忘れない」
敬称をつけずに呼ばれた下の名前に、沙耶の肩がぴくり、と動いた。そうやって呼ぶのは、あの龍の時以来だということを、彼女も気づいたのだろう。
それに気づかないふりをして、続ける。
「例え俺を沙耶が忘れても、俺は沙耶を忘れない」
OK? と軽い調子で尋ねる。瞳を閉じた沙耶は、抱えた膝に顔を埋めながらも頷いた。
「日記をつけてるって言ったじゃん。今はもう一つ日記があるんだよ」
ふぅ、っと龍一は鼻から抜けるように息を吐いた。告白したあのときよりも緊張している。
「俺も、忘れないから。覚えているから。もし、沙耶が忘れてしまっても、俺のことを知らないという日がきても、俺は覚えている。沙耶が嫌だと泣いて喚いても、今まであったこと全部説明してやる。もう一度、記憶を埋め込む。沙耶が忘れるたびに、同じことを繰り返すよ。何度忘れても、何度でもそれを教える」
ぐすっと、沙耶が鼻をすすった。
「それじゃ、駄目かな?」
沈黙。
龍一は黙って沙耶に視線を移す。彼女はゆっくりと、首を横に振った。
「……だめじゃ、ない」
ぐすり、ぐすりと涙声だったけれども、彼女は告げた。
「……ありがとう」
握っていた右手に左手を添えた。
「ありがとう」
顔をあげてもう一度、龍一の目をみて告げる。
両手で握った龍一の手を、自分の額に祈るようにつける。
「龍一を信じて、来てよかった」
その台詞に龍一は一度大きく目を見開き、最上級の笑顔を浮かべた。
「こちらこそ」
彼女が敬称なしで呼んでくれた下の名前の響を、心地よいと思いながら。
東京では見られない、本当の空に瞬く星が二人を黙って見下ろしていた。