1−6−5
四月一日午前九時四十五分、龍一は二十分も前からそこに立っていた。
肩からかけた鞄は重いし、人は多い。そして、沙耶が来るかわからない。
一昨日来た円からのメールには、行くつもりになったから沙耶のことをよろしく、とあったけれども、気が変わったかもしれない。
そわそわと、視線を動かす。
やがて、彼の視界が黒い長い髪の毛を捉えた。そこに視線を合わせると、人込みの中からゆっくりと沙耶が出てくる。
安堵のため息をつき、龍一は片手を大きく振った。それに気づき、沙耶の視線が龍一を捉える。少し力ないながらも、笑みを沙耶は作った。
がらがら、と鞄を引っ張りながらやってくる沙耶に、龍一は満面の笑みを浮かべる。
「おはよう」
「……おはよう」
「行こっか」
沙耶は頷く。沙耶の鞄を持っている方の手から鞄を奪い取る。
「あ」
小さく呟いた沙耶のその手を握ると、ひっぱって歩き出した。
「新幹線、初めてなんだって?」
斜め前を歩く龍一の横顔を見ながら、沙耶は頷いた。
「まぁ、普通の電車と変わりないよ。乗ってる時間長いけど」
苦笑。つられて沙耶も少し笑った。
「乗車券と特急券を一緒にお入れください」
改札の前で駅員が呼びかけている。
「だって」
龍一は振り返り、沙耶に告げる。沙耶は慌てて斜めがけの白い鞄からその二つを取り出す。それを確認すると、龍一は改札を通る。
少しびくびくしながらも、沙耶はそれに習った。
「……緊張」
通り抜けた後にぼそりと沙耶が呟いた。
「そっか、緊張か」
龍一はそれを聞いて笑った。
十二号車十番E席D席。その指定席を確認すると、龍一は沙耶を窓側に座らせる。
荷物を棚にあげる。
窓際の席で、おろおろと辺りを見回す沙耶がとても可愛らしく思えて、そんな自分にあきれ果てて笑う。
「沙耶さん」
縋るような目で見てくる彼女に、龍一は笑顔で告げた。
「ここでちょっと待ってて」
「え……」
それだけ言うと、財布を持って出て行く。
「ちょと、龍一君」
沙耶の静止の声も聞かずにすたすた降りていってしまった。
一人残された沙耶は、ふぅっとため息をつきシートに寄りかかる。
見慣れないチケット、知らない座席、見たことのない車内の様子に視線をやる。今ならまだ、引き返せる。今なら、まだ。
うじうじと後ろ向きなことを考え出す。そんな自分に気づき、沙耶はぱんぱん、と両頬を叩いた。
ここまで来て、逃げ出すなんてことは出来ない。そうした時に自分に向けられるかもしれない、龍一や円の失望の視線が怖かった。
そして、それをしたら自分はもう二度と、何かを決断することが出来なくなりそうで、それが怖かった。
隣の空いている座席に目をやる。そっと、その座席を撫でた。
ここに座る彼が、今後自分にとってどんな存在になるのかわからない。ただ、今の時点で言えることがあるとするならば、この間の龍の件は彼のおかげで上手く納まったのだ。そのことは、感謝しなくては。
隣を向いていた体を、正面に戻す。きっと前を見据える。大丈夫。
「何、真剣に車内案内図見てるの?」
ふいに横から声をかけられて、じっくりと自分に活を入れていた沙耶は飛び上がらんばかりに驚いた。
「そんな、驚かなくても」
少し傷ついたような顔をして、龍一は沙耶の視線の先にあった案内図を倒し、テーブルにした。その上に、はいっと箱を置く。
説明を求めるように沙耶は龍一を見る。
「カツサンド。小さいころから何故かばあちゃん家行く時はこれでさ……」
言ってから、自分に向けられる沙耶の視線に慌てた。
「え、もしかして、カツ嫌い?」
慌てたような龍一の言葉に、くすりと思わず笑って首を左右に振った。
「好きよ」
よかった、と龍一が笑う。
それから今度はテーブルの上にペットボトルを置いた。
「紅茶の方がいいのかなぁと思ったんだけど、いっぱい種類があってわからないから、お茶」
ごめん、と謝る龍一。それを聞いて沙耶はペットボトルの蓋をあけ、口をつけた。ごくり、緊張して乾いた喉に心地よい。
「ありがとう。わざわざ買ってきてくれて」
「どういたしまして」
龍一は満足そうに笑い、沙耶の隣に腰を降ろした。