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「星を見に行くんでしょ?」
夕方にそう言いながらやってきた円は、何故か片手に旅行鞄を持っていた。
「あんたは旅行とか行かないから持っていないだろうと思って、貸してあげようとわざわざ持ってきたの。聞いて驚きなさい、この私がわざわざ一海の自室まで取りに行ったのよ。こんなときでもないと帰ってこないって、父様に怒られてまでね、まったく」
自慢気に言い放つ。
「……あれは、円姉の差し金?」
思わず呟いた沙耶を、円はあっけらかんと笑い飛ばした。
「まさか。龍一君が言い出したのよ。あの子ね、バイト代を前借して行ったの。チケット代って。しばらくただ働きね」
ふぅ、とため息にも似た吐息を吐き出しながら呟く。
「そんな、だって」
「それぐらい本気だってことでしょう?」
言いながら円は、はいっと鞄を沙耶の手に握らせた。
「とりあえず、行ってきなさい。どちらにしろ、今の貴女には休みが必要だし」
「でも」
「心配?」
沙耶の正面に座り、左手で沙耶の髪の毛を綺麗に整える。そして右手のひらを額にあてる。子どものとき、眠れないとぐずる沙耶に円がよくした仕草。
「彼、告白したんでしょう?」
「……うん」
「気づいていた?」
「……うん。自分の、勘違いだって言い聞かせてたけど」
「そっか」
円は優しく微笑んだ。
「そっくりよね、賢治君に」
ぴくり、と沙耶の肩が強張る。それに気づきながらも、円は気づかないフリをする。
「彼も、最初あんな感じじゃなかった? 何度も何度も、沙耶が近づくなって言うのに、彼は近づいてきて。あのころの沙耶、外では平静を装ってたのに、家に帰ってくるとものすごく困惑した顔で私に全部話してくれた」
「………そうだね」
沙耶は力なく微笑む。
「……あのね」
そしてゆっくりと囁くように言葉を紡ぐ。
「なぁに?」
円は優しく微笑む。
「あのね、龍一君、あたしが最初に見せた笑顔に一目ぼれしたって、言ってたの」
「うん」
たどたどしく言葉を紡ぐ、自分がまるで子どもに戻ったようだ。
「それ、賢と一緒だと思ったの。彼も、あたしが最初に笑ったのに惚れたんだって、よく言ってた」
「うん」
「……だからね、怖いの」
こつん、と円は手の上から沙耶と額をくっつける。
「繰り返しそうで?」
「そう。だって一緒なんだもん。賢と」
「うん」
「嫌なの、もう。そういうの……」
「別にね、恋愛だって構えなくてもいいと思うの」
円は目を閉じた。
「貴女のことを全て知って、受け止めて、逃げ出さない人がもう一人いた。それだけでいいんじゃない?」
「でも……、賢だって最初そうだったけど、賢は途中で……、耐えられなくなってた」
「そうね。龍一君もそうかもしれない。でも、」
円は目を開けた。至近距離から沙耶の瞳を捉える。
「龍一君は違うと、どこかで思ってるでしょ?」
「それは……」
今度は沙耶が瞳を閉じた。
「龍一君は、あたしの背負っているものを後ろから支えるって言ってくれたの。賢は、隣で背負おうとしてくれてたんだけど。そこが違うなって、でも……」
「信じたいんでしょ?」
「……うん」
だったら、と円は微笑んだ。
「今回ぐらい、信じてあげなさい。龍一君、何も沙耶のために出かけようなんて思ってないわよ? ただ彼は、自分がそうしたいからそうしているだけなの。……それでも、そのチケットは重い?」
一拍の間。
「重いよぉ」
殆ど泣き出しそうな声で沙耶は言った。
「だって、いつかあたし、それすらも忘れちゃうかもしれないのに……」
よしよし、と円は額を離して沙耶の頭を撫でる。
その感覚に、沙耶は昨日自分が感じた心地よさを思い出した。大丈夫だから。何度も何度も耳元で囁いてくれていた、彼の声。
「……重い、けど」
ぎゅっと目を閉じたまま、告げる。
「行って来る」
「うん」
「本当は怖いけど、彼の気持ちも重いけど、でも、今のあたしにはそれが必要なんだと思う」
「うん」
「認めたくないけど、あたし……」
沙耶は目を開けて、微笑んだ。
「彼のことならもう少し、信じてもいいと思ってる」
「でしょ?」
円はいつものにやりとした笑みを浮かべた。
「だって、私が認めた男よ?」
そんな円を沙耶は見つめる。しばらく二人で見つめ合う。そして、あははと二人で笑いだした。
「そうね、円姉のお墨付だもんね」
「そうよ、だから」
円はゆっくりと笑みを作った。
「いってらっしゃい」