1−6−3
いつも自分が乗るのと違う電車に乗ってここまで来た。龍一はメモを頼りに歩いていく。
本当はわからないことだらけだった。龍のことだってあの説明で全てわかったわけじゃない。彼女が怖くないわけじゃない。
それでも彼は進んでいた。他に出来ることがないから。
せめて、好きな人が落ち込んでいるときにそばに居られるぐらい、近い存在でありたいと、願った。
地図にあった通りのマンションの四階。表札に「大道寺」の文字がローマ字で書かれているのを確認しながら、恐る恐るチャイムを鳴らした。
「はい?」
インターフォンから聞こえてきた少しいつもよりも低い言葉に慌てて告げる。
「あ、龍一です」
「そう……。待ってて」
しばらくの間の後、ゆっくりとドアが開く。
もつれた長い黒い髪をかきあげ沙耶が尋ねる。憔悴しきった顔は化粧をしていないようだった。
「……何?」
「円さんが様子を見て来いって」
出来るだけ落ち着いて答える。
「そう……。あがって」
沙耶はそういうと、扉を大きく開き龍一を招きいれた。
「お茶淹れるから、そこ座って」
キッチンに向かう沙耶を見ながら、龍一は素直に座卓の前に腰を下ろす。
1DKの部屋。奥にある寝室と思われる部屋のドアが少し開いていた。ちらりと視線を移すと、本や洋服や小物などが、まるで誰かが投げつけたかのように散らかっていた。そっと視線を逸らし、見なかったことにした。
「円姉なんだって?」
かちゃかちゃと、カップをいじる音がする。
「好きなだけ休んでいいって。有給消費することになるけどって」
「ふふっ、円姉らしいわね」
微笑み、沙耶はお盆を抱えて戻ってくる。
「はい、空茶でごめんなさい」
そう言ってカップを置いた。
「あ、ありがとう」
華奢なデザインのそれを手にとり、ゆっくりと一口飲む。
沙耶はそれを頬杖をついて見ていた。
「ねぇ、龍一君。貴方、見えるようになったんでしょ」
ゆっくりと紡いだ言葉は、問いかけというよりも確認だった。
「……うん」
頷く。そっか、と沙耶は呟いた。頬杖をついた方の手をそのままずらし、頭を抱えるようにする。
「それじゃぁ、見えていたんでしょう? 昨日のアレも。あたしの、」
言葉を一度詰まらせる。
「龍」
龍一が代わりに呟いた。
沙耶は机の端を見つめた。そこに答えがあるかのように。
沈黙。
龍一は紅茶をもう一口飲んだ。
沙耶もカップを手にとる。けれども飲まないまま、中を見つめた。紅茶に映った自分がとても情けない顔をしていることに、沙耶は気づいた。
対照的に目の前の榊原龍一は、今まであったよそよそしさや気兼ね、そういったものがなくて、自分自身に確固たる自信を持っているかのように見えた。
「円姉から……、聞いた?」
紅茶を見つめたまま呟く。
「はい。大道寺グループのこと、龍のこと、記憶のこと、全部聞きました」
よどみなく、龍一は言い切る。そう、と沙耶は呟く。
「それでも、ここに来たの?」
「はい」
かちゃり、結局口をつけないまま、沙耶はカップをソーサーに戻した。
「あたしは貴方を傷つけるわ。いつか、きっと確実に」
最初はゆっくりと話していた。けれども、次第に感情が入り、早口になっていく。
「昨日だってそうだわ。あたしのせいで、貴方は危険な目にあった。怪我だって、したでしょう?」
龍一のテーブルの上に置かれた、大きなバンドエイドの貼られた手のひらを見て、呟く。
「腕のはかすり傷。背中もただの打撲」
静かに龍一は答える。
「それはだって、運が良かったから。あたしが、龍を暴走させなければ……」
「沙耶さんのせいじゃない。あれは、俺がそうしたいからそうしただけです」
沙耶は顔を上げて、龍一の目を見た。本気だった。
「行く前に円さんに命の保証はしないと言われた。その上でついていった。あの時駆け寄った時だって、命の保証しなくていいなんていい放っていた。非日常的な出来事における言葉なので信憑性は少ないかもしれませんけど、あれは俺が決めたことです。それを自分のせいだ、と言い切るなんて随分と傲慢なんじゃありませんか? 俺の行動の責任を沙耶さんに取ってもらおうなんて欠片も思っていない」
きっぱりと言い切る。寧ろ、沙耶に対して幾分かの嘲笑が込められているようだった。
「何故? 何故そこまで言い切れるの?」
「何故?」
龍一はふっと鼻で笑った。露骨な動作に沙耶が軽く眉根を寄せる。
「円さんから聞いてません? 俺は大道寺沙耶という人間に好意を抱いているから、それだけです」
ためらいもなく言い切った。言い終わってから、それをよどみなく告げることの出来た自分に龍一は内心で手を叩いた。
「……何故?」
沙耶から返ってきた言葉があまりに予想外で、龍一は思わず吹き出した。
「人の告白聞いて、何故? はないでしょう」
くすくすと笑う。
「本気で聞いてるの」
けれども、その笑いにはとりあえず、沙耶はまっすぐに目を見つめてもう一度、重ねて問いかけた。
「何故?」
それをみて、龍一は笑みをひっこめ、一度息を吐いた。
「一目ぼれ。最初は、顔にね。最初に沙耶さんが病室に来たとき、なんだこの人は、と思ったね。まったくの無表情で、そこから最初に見せたのは嘲るような顔。でも、病室を出て行くとき、沙耶さんは笑ったから」
「……それは、龍一君があたしなんかにお礼を言うから」
「理由なんてどうでもいい。ただ、その時の笑顔に一目ぼれってわけ」
こう見えてなかなか面食いでね、とおどけて肩をすくめる。
「でも、それは最初だけ。猫を送ってあげた時」
「うん」
「あの時に綺麗だと思った。容姿もね、もちろんあるんだけど、それ以前に猫に対して話しかける言葉や態度が。そういうものが綺麗だってことは、優しい人なんだろうなぁと。そして、あの龍の時」
「うん」
沙耶は目を閉じた。
「こんなに重いものを背負っているのかと思った。あの時に思ったんだ。代わってあげることは出来ないけれども、その荷物を後ろから支えるぐらいはしたいって」
「……後ろから?」
目を開ける。
「そう。半分背負うなんてかっこいいこといえなくて悪いけど」
おどけたように笑う彼に、ううんと沙耶は首を横に振った。
「ありがとう。それが一番、嬉しい」
代わりに背負おうとしてくれた堂本賢治とは破綻したことを思いながら呟く。
沙耶の言葉に龍一はにっこり微笑んだ。
「だから、今日も来たし、これからも事務所には行くつもり。例え、沙耶さんがなんと言おうとね。別に、答えてもらおうとか思ってないから、そこら辺は安心して。ただ、理由は述べておきたくって」
龍一はそこまで言うと、少し澄ました顔で紅茶を飲み干した。
「今日来たのはそれを言いたかったのと、」
ちゃらん、
ポケットからドッグタグを取り出す。
「あ」
沙耶は慌ててテーブルに置かれたそれを手にとる。
「大事なもの、なんでしょ?」
龍一は微笑んでみせる。大道寺沙耶と堂本賢治の名前が書かれたそれを、沙耶に返すことは胸に痛みを覚える作業だったけれども、それでも微笑んでみせる。
それが自分の選んだ道なのだから。
「あ、ありがとう……」
「どういたしまして」
そして、今度は一つの封筒を渡した。
「……これは?」
「あけて」
沙耶は素直にそれを受け取り、開ける。
「っ、これ!」
「四月一日、十時十三分東京発のぞみ四十九号」
沙耶が持っている新幹線のチケットに書かれたものを龍一は告げる。
「行き先は、山口県」
そして、にやりと笑った。
「星、見に行く約束、したろ? 残念ながら皆でっていうわけにはいかないけど」
「でも!」
沙耶はそこまで言って、後に続く言葉が出てこなかった。そこまでする彼に、何を言えるのだろう?
「明後日、四月一日に東京駅の山陽新幹線の改札のところに、九時四十五分に。待っているから」
龍一はそれだけ告げると、立ち上がった。
「それじゃぁ、お邪魔しました」
「え、あ……」
咄嗟に沙耶も立ち上がる。何を言えばいいのかわからぬまま。
玄関へ向かう龍一の後についていく。
「紅茶、ごちそうさま」
ドアを開けながら龍一は微笑した。
「え、あ、おそまつさまでした」
沙耶の言葉に龍一は、何故か驚いたかのように目を見開き、笑った。
「それじゃあ、明後日」
そう言って手を振ると、階段を下りていく。そんな彼を見送り、ドアを閉める。がちゃり。
部屋に戻り、もう一度そのチケットを見つめた。
思い出して、すっかりぬるくなった紅茶に口をつける。
「!」
吹きそうになった。
「やだ、何これ、苦いじゃない……」
自分が淹れたとは到底思えない、ただただ苦いだけのそれを見つめる。なるほど、おそまつさまでした、と言ったときの龍一の表情の意味がやっとわかった。
でも、
「っ。なんでこんな苦いの全部飲んじゃうのよ」
空になったカップに、吐き出すように告げる。
そのまま、チケットを額に当てて目を閉じた。