1−6−2
ばたばた、と龍一が階段を駆け下りていく音がする。その音が聞こえなくなってからきっかり十秒後、
「悪かったわね」
椅子に腰をかけ、まっすぐと窓を見つめたまま円はそう呟いた。
「まったくだな」
応接とを仕切る衝立のさらに奥、仮眠室のドアをあけて、直純が出てきた。
「あんたが居るって言ったら、龍一君も話にくいでしょうから」
「そうだな」
ぼさぼさの頭を片手でなおしながら円の隣、自分のデスクに座る。
「あと、十分。それだけ休んだら、また一海に戻る」
「わかった。次、清澄に仮眠をとるように言って。彼は普通の人間だから、そこまでタフじゃないしね」
「ああ。その次はお前な」
正面を向いたまま、目だけを右に動かし、ちらりと直純を見る。
「別に、私は平気よ」
「三十路を前にして強がるなよ。もう若くないんだから」
「殴るわよ」
そう言いながら徹夜明けの目元を円は片手で揉む。
「でも、本当に私は平気。それよりも沙耶が心配。あそこまで暴走させるのなんて、それこそ最初の一回以来だしね」
「大丈夫だろう」
正面の窓ガラスに映る従姉に向かって、直純は断言した。
「……何故?」
「大丈夫だと思ったから託したんだろう?」
そこで直純は横を向き、円を見た。
「榊原龍一に」
円は直純を見つめ、それから意外そうに眉をあげて見せた。
「初めてね、直が龍一君の名前を呼ぶの」
「ああ。だって認めざるを得ないだろう」
もう一度正面を見つめなおす。円も同じように正面の窓ガラスを見た。
「そうね。彼が居なかったら、龍がとまったかどうか、怪しいところよね。最悪、私たちが沙耶を……」
そこまで言って、円はあきれた、とため息をついた。
「男が泣くんじゃないわよ、情けないわね」
そういって苦笑してみせる。
「泣くか、バカ。諦めたわけじゃない」
顔を逸らしながら直純が怒鳴ってみせる。
「へぇ、往生際が悪い男もなっさけないと思うけどねぇ」
「うるさい」
窓ガラスに映る、顔を背けた従弟をしばらく笑っていたが、顔を下に向けるとぽつりと呟いた。
「……本当、敵わない。私たちの方があんなに長く、ずっとあの子と一緒にいたのに」
「……まったくだ。なんで……、俺じゃないんだよ」
ずっとずっと、子供の頃から見てきた。直純の中でそれが恋心に変わってからも、ずっと。
困惑させたくないから気持ちを告げない、と直純は言っていた。それを円は思い出す。三人でずっと、事務所を立ち上げてからは清澄も一緒に。微妙なバランスの関係は、榊原龍一の存在で崩れたといえる。
強制的に封じ込めている龍を、榊原龍一はわずかながらも沙耶にコントロールさせた。
円や直純には、何も出来なかったのに。そんなこと出来なかったのに。ふらっと現れた少年が、素人の少年が、沙耶に自分を取り戻させるほどの力を与えた。
それは多分、沙耶が龍一に対して、他の人とは違うレベルの気持ちを持っていたのだろう。
最初からずっと見ていた。彼の思いは、多分誰よりもよく知っている。そう考えて、ふっと笑った。だからってこればっかりは何ができるわけじゃない。沙耶が誰を好きになっても、円には何も言うことはできない。
机の上に放り出していた箱から煙草を一本引き抜いた。ゆっくりと火をつける。
「これでお相子ね」
「何が?」
「私は直純が泣いているのなんてみてないし」
「……俺は円が煙草を吸っているのなんて見ていない」
円が言いたいことを察して直純が呟く。
「ええ、私は何も見ていないから」
「……泣いてないからな」
「ええ、知ってる」
そして円は、優しく微笑んだ。何も出来ないけれども、せめてこれぐらいはやろうと思う。沙耶を守りきれなかったという気持ちは、同じなわけだし。
煙草をくわえたまま、正面の窓ガラスを見つめたまま、彼女は優しく微笑んだ。
直純は窓ガラスに映るそんな従姉をちらりとみてから、天井を仰いで、きつく目を閉じた。影で一海の騎士と呼ばれている、騎士になりきれなかった男は、きつく目を閉じていた。