1−5−8
「龍一」
清澄が駆け寄り、助け起こす。
「……あれは?」
「! 龍一、見えてるのか?」
龍一が一つ頷く。
「……俺には見えないよ」
清澄は小さく呟いた。先ほどまで沙耶の手を握っていた自分の手のひらをみつめた。
黒龍が暴れる。
その中心で沙耶がうつろな目をして桜を見上げていた。
「直」
直純に肩を借りて立ち上がりながら、円は呟く。
「最悪ね」
「まったくだな」
「これだよ」
もう一度贋作が呟いた。
黒龍が暴れる。桜の枝が折れる。何本も、何本も。
「もう少し」
彼は固唾を飲んでそれを見守っていた。あの桜が全て、破壊されればそのときは。嬉々として眺めていた。
「え?」
でも、それは一瞬のことだった。突如として黒龍は方向を変え、贋作に向かって口を開いた。
「嘘だろ?」
呟く。
それが最後だった。
次の瞬間には、贋作は黒龍に飲み込まれた。
かしゃん、最後まで贋作が持っていたドッグタグが地面に落ちた。
「二人とも、こちらに来なさい」
円の言葉に慌てて、龍一と清澄が二人の傍へ行く。
「ここなら結界がはってあるから大丈夫」
飲み込まれた贋作に眉根をひそめながら直純が言った。
「まったく、厄介なことになったわね」
残りのお札の数を確認しながら円が呟く。
「これが、爆弾ですか?」
龍一が呟いた。
「ええ、そうよ」
円が頷き返す。
桜の枝が折れる。
はらはら、と花びらが舞い落ちる。
中心で、ただそれを見上げている沙耶の目から涙が落ちた。
はらり、と。
ぐっ、と唇をかみ締めると龍一は立ち上がった。
「龍一君?」
円が訝しげに尋ねる。
「命の保証、してくれなくていいんで」
告げると龍一は、走りだした。沙耶に向かって。
「あんのガキ」
直純も後を追おうと立ち上がって、
「まって」
それを円は引きとめた。
「円」
「彼に任せましょう」
「円! あいつはただ、見えるだけの人間だ。何ができるわけじゃない。あいつじゃ、沙耶を守れない。それこそ、堂本賢治の二の舞になるぞ!」
「直」
円は悲しそうに微笑んだ。
「私たちだって守れないわ。私たちが最悪、選ばなければならない方法を……、あの子を傷つけることを考えるならば、彼に少しぐらい託してもいいでしょう?」
直純はじっと従姉を見る。円も見つめ返した。
「今回だけだ」
一つ舌打して、直純は了承した。
「ただし、危なくなったらいつでも動けるようにしておくからな」
「もちろん。死なせるわけにはいかないのよ、二人とも」
「泣くからな、沙耶が」
直純の言葉に円が少し笑った。
「ええ、沙耶が泣くからね」
「大道寺さん!」
ばしんっ!
地面に叩きつけられる龍の尻尾を避け、桜の根に足をとられそうになりながらも走る。
「大道寺さん!」
はらり、また落ちる。
「うわ」
近づいてきた黒龍を慌てて避ける。これ以上は近づけない。
「っ、沙耶っ!」
怒鳴った。
ああ、まただ。また、あたしは馬鹿をした。また、暴れさせてしまった。
思い出す。割れた窓ガラス。血の色。断片的な記憶の中で、鮮明に思い出すのは、両親の自分への拒絶。嫌悪。化け物。化け物。だって、あたしは、あたしは……、
「大道寺さん!」
声が聞こえる。誰?
「大道寺さん!」
出来る限り視線をそちらに向けようとする。必死の形相で叫んでいる誰かが見えた。
「っ、沙耶!」
「……りゅういち、くん?」
呟く。少し、意識が自分に戻るのを感じた。
「沙耶」
龍の動きが鈍くなる。その隙をついて、龍一は沙耶の隣へ駆け寄った。
「沙耶!」
正面に回りこみ、肩を揺する。
「沙耶、沙耶、」
何度も名前を呼ぶ。
「りゅういち、くん」
その言葉に一度頷く。
「沙耶」
龍一は微笑んで見せた。
「……龍一君」
さまよっていたうつろな視線が、龍一の顔にピントが合う。
ぼきっ、
「龍一君!」
枝が折れ、二人の上に降ってくる。叫ばれた円の言葉に、反射的に龍一は沙耶の頭を守るように体を丸めた。
「いっ……」
顔をゆがめる。
「龍一君!」
大きな声を出す。ああ、またあたしは誰かを傷つけて……。
「大丈夫」
沙耶の頭を抱えたまま龍一は答えた。しっかりとした声で。その声に沙耶の思考はさえぎられる。
「大丈夫だから」
ひらり、ひらり、と桜が舞う。
「っ……」
はらり、はらり、と沙耶は涙をこぼした。龍一にしがみつく。
「大丈夫、大丈夫。何もないんだ。もう、何も。沙耶を傷つけるものなんて、何もないから。だから」
「うん」
「だから、大丈夫だから。何もないから」
沙耶の頭を撫でながら、龍一は何度も何度も繰り返す。
沙耶は黙って、しがみつく。
この大丈夫だといってくれる声が、頭を撫でてくれる手が、腕が、自分にとってかけがえのないものに変化していることに気づいていた。
「龍一君!」
突如として円の叫ぶ声が聞こえる。
「!」
振り返った龍一が息を呑む音がした。
沙耶は慌てて顔をあげ、龍一の肩越しに、彼に向かって口を開く龍が見る。直純が走ってきているけれども、間に合わない。
それだけは、駄目だ。
「だめ!」
咄嗟に沙耶は叫んだ。
「……とまった」
円が呟く。
動きを止められた黒龍は、口をあけたまま、龍一の鼻先で停止している。
龍一は、目を見開いてそれを見たまま、固まっている。
「だめ、それだけは」
黒龍を見つめる。
「お願い。もう、やめて。もう帰って。あげるから。あたしの記憶、あげるから。だから」
懇願するように、すがりつくように呟く。
「お願いだから彼には手を出さないで」
龍一の肩越しに黒龍と見つめあう。
「帰って。帰りなさい」
最後は怒鳴った。
「記憶ならばいくらでもくれてやる。だから、帰りなさい!」
そして、今度は黒龍を睨んだ。
「……沙耶」
直純が小さく呟いた。
榊原龍一の存在が彼女に意志を取り戻させたことを、彼女に龍を止めるぐらいの力を取り戻させたことを憎憎しく思いながら、直純は少しずつ拡散し始めている龍に近づいた。
「直兄」
名前を呼ばれて沙耶を見る。
「お願い」
涙目でのお願いに彼は微笑んで答えた。それ以外に彼に出来ることはなかった。
持っていたお札を龍に突きつける。龍の封印のためだけにつくった、祝詞を唱える。
それを聞きながら、沙耶はもう一度、しっかりと龍一にしがみついた。顔をうずめる。
今日のことだけは忘れてはいけない。
ゆっくりと、龍が消えていく。否、沙耶の中に戻っていく。
暴れたりない黒龍が、体の中で暴れる感覚に眉をひそめ、沙耶は肩を強く握った。
それも収まると、ゆっくりと龍一から離れた。
状況についていっていない龍一の困ったような顔から視線を逸らす。
直純は何も言わないで二人を見ていた。
ゆっくりと円が近づいてくる。
それらに気をとめず、沙耶は桜を見た。
たくさんの枝を折られた桜は、もう殆ど原型を留めていなかった。振動で散った花びらが、ひらひらと未だに降ってくる。
「桜、枯れてしまったね……」
沙耶は呟いた。
「あんなに見事な桜だったのに。あたしが、枯らしてしまった……」
龍一は何も言えずに、ただ彼女を見ていた。
沙耶はしばらく、その枯れ果てた桜をみていたが、やがて、ゆっくりと目を閉じた。