4−3−2
「沙耶」
そっと肩を押され、彼から少し離れる。慌ててもう一度手を握る。きつく。
「これだけは忘れないで欲しい」
真面目な顔で、それでも微笑みながら彼は言った。
「これからはもっと自分を特別視しないで、普通だって顔して生きてよ」
言われて、目の前に夕焼けの空が浮かんだ。
あの日、別れのあの日、窓からみた風景。夕焼け空で、そこにまっすぐ伸びる飛行機雲が見えた、あの日。
思い出した。
教室から立ち去ろうとした賢治が、ドアを閉める前に呟いた言葉。
「沙耶」
もう二度と、思い出せないと思っていた言葉。
「もっと普通に生きても、いいと思うよ」
ああ、あの記憶は喰われたわけじゃなかったんだ。ただただ、忘れていただけなんだ。
ずっとずっと、喰われた記憶だと思っていた。
「……思い出した」
小さく呟くと、賢治は
「うん」
微笑む。
「忘れてた、だけだった……」
「だから言ったじゃん、普通だよって」
頭を撫でられる。
駄目だ、涙が止まらない。
「沙耶が普通だって思っていれば、それで平気だから。沙耶から突き放しさえしなければ、もっと受け入れてくれる人がいるはずだよ」
頷く。
どうしてこんな大事なこと、忘れていたのだろう。
「それだけ、言いたかったんだ。だから、ここに戻って来た。大丈夫だよね? 自分からもう、捨てたりしないでね」
「待ってっ」
慌てて腕を掴む。
賢治は駄々っ子を見るような顔をして、
「駄目だよ、もう戻らなきゃ。沙耶だって、わかっているでしょう?」
「分からない。分からない!」
他にどんなに味方がいても、うけいれてくれる人がいても、貴方がいなくちゃだめなのだ。堂本賢治の代わりなんて、いるわけがない。
「大事にしてあげて。さっきの男の子。ね?」
「だけどっ」
「沙耶、そんな顔したら連れて行きたくなるじゃん」
「だったら連れてって」
「沙耶!」
一瞬怒ったような顔をして、
「後悔するよ、そんなこと言ったら、すぐに」
呆れた様に笑う。
「一時の感情で、本当に大事なもの、見失わないで。沙耶はまだ、こっちにきたら駄目」
「あたしは、半分はそっちの人間だもの」
「またそういうこと言う……。普通に生きろって言ったじゃん」
はぁ、とわざとらしく賢治はため息をつく。
「まあ、すぐに前向きになる沙耶も怖いんだけどさ。半分も何も、沙耶は生きてるんだから諦めたら駄目だってば」
さてっと、と賢治は立ち上がる。
握った手が離れない様に力を込めて
「あ……」
力を込めたはずのその手は、宙を切った。
「ごめんね。あんまり長居して悪霊とかになっても困るでしょ?」
おどけて笑う。
「いやっ、駄目っ」
手を伸ばす。
その手は、賢治の体をすり抜けた。
「ごめん。急に現れて、急に消えて。本当に、ごめんね」
消えかかっている体を、どうにかして引き止めようと手を伸ばす。
「だけど、本当に、もっと普通に生きてね?」
消えかかっている指で、沙耶の頬を拭う。感触のない掌に、さらに涙があふれる。
「いかないで……」
「また、そのうち。すぐじゃないよ。そのうち、会おうね」
賢治は微笑み、唇が触れた、ような気がした。
何も、残らなかった唇を押さえる。
「ばいばい」
小さく右手を振って、いつも帰り際別れるときのように微笑んで、
「まっ……」
堂本賢治は消えた。