4−2−11
「……どうしたの? 沙耶のこと?」
机に頬杖をつき、優しい声で円が言う。
頷く。
「喧嘩でもしたの?」
首を横に振る。
喧嘩なんて、そんないいものじゃない。ただ、一方的に傷つけた。沙耶は、何も悪くないのに。
「……俺、酷いこと言いました」
こみ上げて来た涙をぐっと堪える。
「酷いこと?」
「言ったらいけなかったのに」
どうして、あんなこと。
「俺の、ことは忘れたのに、あの人のことは覚えてるんだな、なんて……」
「……あの人?」
円が小さく眉をひそめて尋ねる。
「……堂本賢治」
「……それは」
珍しく、彼女が口ごもった。
「沙耶は何も悪くないのに。失う記憶を、沙耶が選んでいるわけじゃないのに。それは、わかっているのにっ」
言葉が半分嗚咽になる。
「でも、耐えられなかった。俺のことは龍一君って呼ぶのに、あの人のことは賢って呼ぶし。大体、そもそも、俺が、ただの高校生の俺が、スーツが似合う大人の男性に勝てるわけなくて」
自分でも何を言っているかわからなくなってきた。
「賢治君に会ったの?」
問われて、頷く。
「さっき、駅で……」
がしゃん、っと何かが割れる大きな音がして、顔をあげた。
「そんなはずないっ!」
清澄が足元で割れたコーヒーカップに目をやることもなく、大声をだす。
「ちょ、どうしたの、清?」
「そんなはずないんだ、だって堂本は」
顔色が真っ青だ。
「大学の時に死んだんだから」
空気が止まる。
「なによ、それ?」
円が小さく呟き、
「いや、そんな……。だって雅が、姉が見たって言ったんだから、そんなわけ……」
龍一は思わず笑ってしまった。そうだ、あの姉に霊感なんてないんだから、そんな話は聞かないんだから、もう生きていないなんてそんなこと。
「円姉、場合によっては人間と見間違うぐらいの霊だっているって、昔言ってたよな?」
真顔で問われて、円は一つ頷き、
「それはそうなんだけど。でもちょっとまってよ、私そんなこと聞いてないっ!」
声を荒げる。
「だって、沙耶、賢治君のことなんて一言も……。清澄、あんただって何も言ってなかったじゃない! この前の、春の時だって!」
「沙耶が言うなって言うから……」
「あーもう、言いなさいよ、そういうことはちゃんとっ!」
髪をかきむしり、鞄を掴む。椅子を蹴飛ばす様にして、立ち上がる。
「直に連絡しておいてっ!」
「どこに?」
「沙耶のとこに決まってるでしょっ!」
悲鳴のような言葉に、龍一もわれにかえる。
「円さん、俺も行きますっ!」
慌てて立ち上がるとその後を追う。
分からなかった。気づかなかった。どう見ても、普通の人間にしか見えなかったのに。
沙耶の言葉を思い出す。生きている人間を連れていきたがるものだと、だから気をつけろ、と何度か言われた。見えるだけの人間は引きずられやすいから、と。
もし、堂本賢治が沙耶を連れて行きたがっているとしたら?
そして今の沙耶ならば、ついていってしまうかもしれない。
転げ落ちそうになるのを必死に保ちながら階段を駆け下りる。
ただでさえ、最近落ち込んでいたのに、さっき自分がとどめをさした。傷つけた。唇を噛む。
「なんで気がつかないのよ、私の馬鹿」
円が小さく呟く。悲壮感漂う言葉。
彼女も思っているのだ。もしかしたら、沙耶は。
そんなこと、させるわけにはいかない。
たとえ、もうこれ以上傍にいられなくても、失う訳にはいかない。