4−1−2
一海直純は、一仕事を終えて事務所に戻るところだった。今日の報告書を仕上げればあとの予定はないから、久しぶりに皆を食事にでも誘おうかと頭の中で計画をたてる。清澄は今日風邪で休みだから、円と沙耶と三人で。あの時以来、ひきこもりがちになった沙耶を誘い出す意味でも。
これは兄の範疇だよな、と自分に確認する。だから二人で食事ではなく、みんなで食事なのだ、と。
口元が思わず自嘲気味に歪んだ。長い間抱えて来た思いは、そうそう綺麗に払拭はされない。いずれにしても、可愛い妹の心配をして何が悪い。
調律事務所の入っているビルまで戻ってくる。古い階段をのぼる。きしんだ音をたてる。
とりあえず、沙耶に電話でもしてみようかな、とケータイをとりだして、
「いい加減にしてっ!」
甲高い、女性の声が聞こえた。
取り出したケータイを再びしまい、階段をかけあがる。この上にあるのは調律事務所だけで、その声に僅かながら聞き覚えがあった。
ばんっ、とドアを開け放つ。
そこに広がっていた、思ったとおりの光景に唇を歪めた。
「これ以上、清澄に関わらないで。本当に、あんた達なんなのよっ!」
ヒステリックな声。清澄の恋人である桜庭祐子のもの。入って来た直純には気をとめない。
それを優雅に微笑みながら、一海円がうけとめていた。こちらはちらり、と直純を一瞥した。
後ろ手でドアをしめる。
清澄の姿がないことから察するに、単身乗り込んで来たのだろう。彼女が調律事務所のことをよく思っていないことは知っているし、その心情も理解できる。
沙耶もいないし、円に勝手にやらせとけばいいか。思って腕を組み、ドアに寄りかかる。
祐子の言葉がヒートアップしていく。
しかし、まぁ、
「あいつ、煽ってるだろ」
小さく呟き、小さくため息。
祐子の暴言にも顔色一つ変えずに、円は優雅に微笑んでいる。手応えのない態度に、神経を逆撫でするような笑顔に、祐子がさらに声を荒げる。
しかし、今日はどうしたのだろう。
祐子が調律事務所を変な団体だと思っていることも知っているし、こうやって怒鳴り込んでくることも一度や二度じゃない。それでも、怒鳴り込まれるのは、清澄が大けがをするなどそれなりに理由があったときだけだ。
最近は、清澄を現場に出すことも控えているのに。
悩んだ末に、もう一度事務所の外へでて、ケータイを取り出し、
『直さん?』
清澄にかける。
「桜庭さんが来ているんだが」
『ええっ!』
端的に告げると、電話の向こうで悲鳴のような声があがった。
『ちょ、ごめんなさい! ええっと、じゃあ、今から行くから……』
「いい、いい。風邪ひいてんだろ。大人しく寝とけ」
『でも』
「電話したのは責めたいからじゃなくて、確認したくて。理由は?」
『あー、この前からちょっと喧嘩してて。その、結婚関係の話とかで』
ごにょごにょっとごまかされる。
「ああ。親に紹介出来ない仕事、とかそういう」
『そういうあれ……』
まあ、紹介できないもんなーと思う。
「幽霊だの化け物だの、いるわけないじゃないのっ! 気持ち悪いのよ、あんた達!」
ヒステリックな声が外へ響いてくる。
祐子の言っていることは、普通の感覚だと思う。そして、少なくとも佐野清澄はそちら側の人間なのだ。
「わかった。理由がわかれば対処のしようもある。多分、円が負かすだろうからその……、あとでフォローしとけ」
『ああ、はい』
「あと、……言うからな、あれ」
『……ん』
曇った声。
「清澄、悪いな」
『ううん。……今日、休ませてもらったおかげで風邪殆どよくなったし、明日、行きます。祐子のこと、お願いします』
「ああ、それじゃあ」
ケータイを閉じると、小さくため息をついた。
ゆっくりと、音を立てないようにして事務所の中へ入る。そろそろ、円が終わらせようとしているところだろう。
「お話はよくわかりました」
直純が戻ると、案の定、祐子の言葉が切れるのを待って、円が言ったところだった。微笑んだまま。
「つまり、貴女は、幽霊だの化け物だの本来存在するはずのないものを相手にする商売なんてばかばかしいからやめろ、と。少なくとも清澄を巻き込むな、ということですね。でも、少なくとも清澄の自由意思でこの仕事をしているんだと思いますけど」
「だから、煽るなよ」
小さく直純は呟いた。
「ねぇ、でも本当に幽霊はいないのですか? それはどうやって証明してくださるのですか? 私には見えているのに」
円が一歩、祐子に近づく。祐子が反射的に後ずさる。
「幽霊って霊感がないと見えないと思っている方、結構いらっしゃるようですけど、世の中には霊感がない人にも見える幽霊ってたくさんいるんですよ。そうじゃないと怪談ってなりたちませんしね。まるで実際に存在する人間のように生活する幽霊がいるんです」
切れ長の瞳を細める。
「何を言って……」
円は少し低い声で、囁く様に尋ねた。
「貴女自身が幽霊じゃない、という保証はどこにあるの? 貴女は本当に、存在しているの?」
綺麗に整った唇が、魅力的な弧を描く。少し首を傾けて、笑う。一海の女王が、笑った。
「円、いい加減にしろ」
気迫に押されて、青い顔をしている祐子をみて、さすがに直純は間に入る。
「お前、素人相手になんて顔するんだよ」
小さく耳元で囁くと、
「ちょっとからかっただけじゃない」
円は、肩を竦めて自席に座った。
「失礼しました」
青い顔をしたままの祐子に出来るだけ柔らかく微笑む。
「貴女は少なくとも正真正銘の生きている人間です」
「わかっているわよっ」
悲鳴のように言われた。
「わたしたちのことを貴女が怪しむのも無理はありません。変な宗教団体みたいですしね。清澄の自由意思とはいえ、わたしたちが拒めばこんなことにはなっていなかったのですから、それはお詫びします」
頭をさげる。
「でも、心配しなくても、この事務所はもう無くなります」
祐子が目を見開く。
直純は一度円に視線を向ける。円は軽く肩をすくめてみせた。
「え?」
「清澄には既に伝えてあるし、了解もとってあります。清澄の次の就職先についても、わたしの友人がやっている会計事務所、本当にごくごく普通のそちら側の事務所で雇ってもらえるようになっています」
だから、と様子をうかがう様にしていた祐子に笑いかける。
「心配しなくても君の言う通りになるよ」
と、下がった眉で直純は諦めた様に笑った。