3−7−2
「こんにちは」
襖をあけて、出来るだけ微笑んで言う。
「……あ」
布団の上で上体を起こしていた沙耶は、驚いたような顔を一瞬して
「龍一、くん」
小さい声で名前を呼ぶ。
一瞬思い出してくれたのかと思ってしまった。そんなことあるわけないのに。忘れたのではない、記憶は奪われたのだ。奪われた記憶は戻らない。
くん付けの呼び方に、胸がちくりと痛む。
「いい?」
尋ねると小さく頷かれた。
いつもより少し離れたところに座る。お互いが手を伸ばしても届かないぐらいの距離。
「体は、平気?」
「おかげさまで」
小さい声で答える。どこかよそよそしい対応。
「あのさ、」
ずっと考えてきた。
教室で、こずも達と話しながら、車の中で、一海に来てから、ずっと考えていた。なんて言おうか。何が出来るか。何をすればいいか。
答えは既に自分が決めていた。
「星を見に行かない?」
微笑んだまま告げる。せめて笑っていろ。自分にいい聞かせる。
不安にさせるな。せめて、笑っていろ。
「え?」
沙耶が首を傾げる。
「今すぐとは言わない。でも、今度星を見に行こう」
丸くて大きい瞳が、じっと龍一を見つめる。
「約束したんだ。例え沙耶が忘れても、俺は沙耶を忘れない」
丸くて大きい瞳が、驚いた様にさらに大きくなる。
「それ……、書いてあった、日記に」
「日記ってそれ?」
転がっているピンク色の表紙を指差す。沙耶が小さく頷く。
「それもちゃんと日記に書いていてくれたんだ。ありがとう」
素直に微笑めた。それは覚えていたいと思っていてくれた証拠だ。
「今はもう一つ日記があるんだよ」
そう、答えはとっくの昔に決まっていた。
祖父母の家に星を見に行ったあの時。満天の星空の下で、龍一は沙耶に約束していた。
どうすればいいのか、何ができるかなんて、そんなこと、昔の自分が知っていた。
「俺も、忘れないから。覚えているから。沙耶が忘れてしまったことも、俺は覚えている。だから、沙耶が嫌だと泣いて喚いても、今まであったこと全部説明してやる。もう一度、記憶を埋め込む。沙耶が忘れるたびに、同じことを繰り返すよ。何度忘れても、何度でも」
丸くて大きな瞳が少し潤む。
「それでいいって、沙耶は言ってた」
沙耶がかすかに頷く。
「だから、もう一度やり直そう。流石にもう一度こっくりさんに憑かれるのは嫌だけど」
おどけて苦笑い。沙耶も少しだけ口元を緩めたから上出来だ。
「もう一度、同じ事やればいい。星を見に行こう。一緒に見に行った映画も、もう映画館ではやってないかもしれないけど、DVDでも借りて一緒に見よう」
黒くて長い髪が小さく頷く。
「この前行きそびれた映画ももう一回行こう。次は遊園地だって行こう。それだけじゃない、他のところにも行こう」
今度は少し大きく、頷く。
「大丈夫、俺はちゃんと覚えてるから。何度だって同じことができるよ」
微笑む。大丈夫、ちゃんと微笑めている。
「……ごめんなさい、ありがとう」
消えてしまいそうなぐらい小さい声で沙耶が言う。
「ごめんなさい、ありがとう、龍一君」
その言葉に少しだけ近づく。
「ありがとう、ごめんなさい」
「違うよ、沙耶」
龍一君に戻ってしまった呼び方に、後退してしまった関係に、痛む胸を押し隠して龍一は柔らかく微笑んだ。
「また、よろしく、沙耶」
そして右手を差し出す。
沙耶は、ゆっくりとためらいがちにその手をにぎり返した。
「よろしくおねがいします」
第三部完結です。第四部の更新は五月以降になります。