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結婚三周年、妻は僕がデザインした結婚指輪を初恋の男に贈った

作者: 熾星
掲載日:2026/06/26

 


 プロローグ



 結婚三周年の記念日。


 僕は一週間前から、銀座にあるフレンチレストランの個室を予約していた。テーブルには白い薔薇とキャンドルを並べ、神崎清音が好きなイチジクのデザートワインも用意していた。


 僕は彼女の向かいに座り、手の中でベルベットの指輪ケースを握っていた。中に入っているのは、僕が自分でデザインし、自分の手で磨き上げた銀杏の葉の結婚指輪だった。


 三か月かけて作った作品だった。指輪の内側には、たった一言だけ刻んである。


 清音、余生を君に。


 せめて今日くらいは、彼女が僕をちゃんと見てくれると思っていた。


 けれど清音は、冷めた顔でグラスを置き、僕の動きを遮るように手を伸ばした。


「凛也。毎年、贈り物を用意するのはあなたでしょう。今年は先に、私からのものを見て」


 僕は一瞬、言葉を失った。


 清音はバッグから白い箱を取り出し、僕の前へ押し出した。箱が開いた瞬間、僕の手は宙に浮いたまま固まった。


 中に入っていたのは贈り物ではなかった。


 二枚の書類だった。


 一枚は、すでに必要事項が書き込まれた離婚届。


 もう一枚は、彼女と江藤蓮司の婚姻届だった。


 僕はその二枚の紙を見つめた。喉の奥が、何かに塞がれたようだった。


「清音……これは、どういう意味?」


 神崎清音は僕を見上げた。声は、まるで何でもない用件を告げるように平坦だった。


「蓮司が帰ってきたの」


 彼女はそこで少し間を置き、僕が理解できていないと思ったのか、さらに続けた。


「子どものころ、私は蓮司と約束したの。いつ、どんなときでも、彼が戻ってきたら私は彼の隣に立つって。今はあなたと結婚しているけれど、人は約束を守らなきゃいけないでしょう」


 清音は離婚届を指先で軽く叩いた。


「これはあなたの分。署名して、持っていって。あなたが署名すれば、私は蓮司との婚姻届を出せる」


 彼女の視線が、僕の手元にある指輪ケースへ落ちた。


「あなたが用意した指輪は、ちょうどいいから置いていって。私と蓮司への結婚祝いにするわ」


 僕は指輪ケースを握りしめた。ケースの角が掌に食い込み、指の骨が白くなるほど痛んだ。


 五年だった。


 神崎宗一郎前会長が亡くなる前、僕に清音を五年間頼むと言った。僕は、その約束を守ってきた。


 そして、五年の約束も、もうすぐ終わる。


 今ならまだ、僕は損切りできるのかもしれない。



 1. 結婚記念日、彼女は僕に離婚届を差し出した


 個室の扉が開いた。


 江藤蓮司が入ってきた。身体に合った濃い色のスーツを着て、顔には穏やかで、それでいて勝ち誇ったような笑みを浮かべていた。


「ありがとう、凛也くん」


 彼は僕の前まで歩いてきた。そして、まるで自分のものを取り戻すように、僕の指を一本ずつこじ開け、指輪ケースを奪い取った。


 ケースを開けると、江藤蓮司は中の銀杏の葉をかたどった女性用リングを取り出し、照明にかざした。


「悪くないデザインだね。清音、見て。細工がかなり丁寧だ」


 神崎清音は手を伸ばし、その指輪を受け取った。


 彼女はそれを、自分の左手の薬指にはめた。サイズはぴったりだった。清音は長いあいだ指輪を見つめ、ようやく今夜初めて笑った。


「本当に綺麗」


 それから彼女は、僕を見上げた。


「男性用は?」


 僕は黙ったまま、スーツのポケットからもう一つの指輪ケースを取り出した。


 江藤蓮司がそれを受け取り、男性用の指輪を自分の指にはめた。彼は少し眺めてから、満足そうに頷いた。


「こっちも、ちょうどいい」


 そう言って、彼は神崎清音の腰に腕を回し、低く笑った。


「清音。そろそろ、お祝いしてもいいんじゃない?」


「ええ、もちろん」


 神崎清音は彼の腕の中に身を預けた。そして僕のほうを向き、波ひとつない声で言った。


「凛也。もう帰っていいわ」


 僕はその場に立ち尽くした。


 抱き合う二人を見つめていた。神崎清音の手には、二つの指輪が重ねられている。内側の一つは、三年前に僕がこの手で彼女にはめた結婚指輪。外側の一つは、この三か月、僕のすべてを注ぎ込んだ指輪だった。


 今、その二つはどちらも、彼女が別の男へ捧げる贈り物になっていた。


 江藤蓮司は気遣うように椅子を引き、彼女を座らせた。二人は、僕が用意した結婚記念日のディナーの席に並んで座り、声を潜めて笑い合った。


 まるで僕は、そばに立つ給仕係でしかないようだった。


 しばらくして、江藤蓮司がふと思い出したように手を上げた。男性用の指輪が、キャンドルの光を受けてきらめく。


「そういえば、この内側の刻印、変えたほうがいい?」


 神崎清音は彼の手を取り、指輪の内側を覗き込んだ。そこに刻まれた言葉を見て、彼女は小さく笑った。


「変えなくていいわ。このままで。皮肉が効いていて、いいじゃない」


 清音は僕を見た。


「凛也の余生は、今は私のものなんだから」


 江藤蓮司が声を上げて笑い、彼女の頬に口づけた。


 僕は拳を握りしめた。爪が掌に食い込んだ。


 神崎前会長。


 あなたに頼まれた五年間、僕は清音を守りました。


 だから、もう行ってもいいですよね。



 2. 僕のデザインは、彼の名前になった


 その日から、江藤蓮司は神崎ジュエリーに入った。


 肩書きは、ブランドクリエイティブ顧問。けれど誰もが知っていた。彼が奪ったのは、その肩書きではなく、僕の場所だった。


 神崎清音は社内会議で自ら発表した。今後、僕が担当するすべてのデザイン案件の最終確認権限は、江藤蓮司に移す。理由は、彼がヨーロッパ留学から戻ったばかりで国際的な視点を持っているから。


 そして僕は、神崎家に引き上げられただけの古い人間にすぎないから。


 三日後。


 四半期の新作発表会を前にした最後の確認会議で、僕は九十九枚の原稿を抱えて会議室に入った。


 会議室には、すでに人がそろっていた。神崎清音は上座に座り、その隣には江藤蓮司がいた。


 僕は入口で数秒、足を止めた。


 神崎清音が目を上げる。声には、あからさまな苛立ちが混じっていた。


「そこに立って何をしているの? 入りなさい。ドアを閉めて」


 僕は会議室に入り、原稿をテーブルの上に置いた。


 江藤蓮司がそれを手に取り、ぱらぱらとめくり始めた。彼の指先は、まるでどうでもいい紙束を扱うように、図面の上を滑っていく。


 そのシリーズは、僕が三か月かけて描いたものだった。


 一筆ごとに、神崎清音を思って描いたものだった。


 江藤蓮司は数枚めくったところで、軽く笑った。


「これが、発表予定の『銀杏の誓い』シリーズ?」


 彼は神崎清音のほうへ顔を向けた。


「清音。このデザインは平凡すぎるよ。今の市場じゃ売れない」


 神崎清音がわずかに眉を寄せた。


「本当に? 私は悪くないと思ったけれど」


「悪くない? このリングアームを見て。重すぎる。今の東京の若い女性が求めているのは、もっと軽やかな印象だよ。それに、この銀杏の葉の石留め。レトロを通り越して、古臭く見える」


 僕はテーブルの下で、ゆっくりと手を握りしめた。


 神崎清音は、その原稿の束を僕の前へ押し戻した。


「蓮司の言うとおりね。凛也、このシリーズは使えないわ」


 僕は顔を上げた。


「発表会は三日後です。今から取り下げれば、四半期の計画全体に影響が出ます」


 神崎清音の声は冷たかった。


「発表会は予定どおり行うわ。シリーズ名は『蓮星』に変更。デザイナー名義は、江藤蓮司」


 会議室は、恐ろしいほど静まり返った。


 全員が僕を見ていた。


 僕のアシスタントの小森が、耐えきれず小さく口を開いた。


「神崎社長、このシリーズは佐伯ディレクターが三か月かけて描き上げたものです……」


 神崎清音は、彼女のほうを見もしなかった。


「黙りなさい。あなたに発言権があると思っているの?」


 小森の顔が白くなった。彼女はうつむいた。


 僕は深く息を吸い、神崎清音を見た。


「清音。このシリーズは、僕たちの結婚三周年のために用意した記念作品です」


 彼女は、まるで冗談でも聞いたように笑った。


 そして席を立ち、僕の前まで歩いてきた。


「何を記念するの? あなたが三年間、私の夫だったこと?」


 清音は僕の目を見て、ゆっくりと言った。


「佐伯凛也。忘れないで。祖父が死ぬ前に、どうしてもあなたと結婚しろと言わなければ、あなたは今でも路上で似顔絵を描いていた人間よ」


 江藤蓮司が、絶妙なタイミングで口を挟んだ。


「清音、そこまで言わなくても。凛也くんが傷つくよ」


 神崎清音は冷たく笑った。


「傷つく? 代用品のくせに、本物になったつもりでいたの? これに署名しなさい」


 彼女は一枚の書類を、僕の前へ投げ出した。


 著作権および商品化権の譲渡契約書だった。


 そこにははっきり書かれていた。『銀杏の誓い』シリーズに関する著作権、商品化権、販売権、デザイナー名義の使用権を、すべて江藤蓮司へ譲渡する。


 僕はその契約書を見つめ、目の前が暗くなるのを感じた。


「署名しません」


 神崎清音が眉を上げた。


「署名しない? なら今すぐ神崎ジュエリーを出ていきなさい。ついでに教えておくわ。あなたがこれまで関わった案件には、競業避止義務と秘密保持契約がついている。署名しないなら、会社はあなたを機密漏洩と契約違反で訴える」


 彼女は一音ずつ、僕に突きつけるように言った。


「違約金は三千万円。払えるの?」


 僕は静かに彼女を見つめた。


 十年知っていて、十年愛して、三年間、妻だった女。


 その目には、もう温度がなかった。


 江藤蓮司は、また痛ましそうな顔を作った。


「清音、やっぱりやめよう。これは凛也くんの心血を注いだ作品だし」


「何をやめるの? 私があなたにあげると言ったの。だったら、あなたのものよ」


 神崎清音の声が冷えた。


「佐伯凛也。署名するの? しないの?」


 僕はペンを取った。


 そして契約書に、自分の名前を書いた。


 神崎清音は満足そうに契約書を持ち上げた。僕の署名を確認したあと、バッグから口紅を取り出す。


 彼女は会議室にいる全員の前で、その口紅を使い、僕の名前を乱暴に塗りつぶした。


 そして、その横に書き込んだ。


 江藤蓮司。


「これでいいわ。今から、このシリーズは蓮司のものよ」


 彼女は契約書をテーブルへ戻し、そこに積まれた原稿を指さした。


「そのゴミは持っていって。ここに置かれると目障りだから」


 僕は原稿を抱え、会議室を出た。


 ドアが閉まる直前、江藤蓮司の笑い声が聞こえた。


「清音、今夜はどこでお祝いしようか」


 神崎清音の声は、僕が一度も聞いたことのないほど柔らかかった。


「蓮司の好きなところでいいわ」



 3. 彼女は僕の原稿を人前で燃やした


 午後二時。


 神崎ジュエリーは銀座の旗艦店で、江藤蓮司の歓迎パーティーを開いた。シャンパンタワー、レッドカーペット、メディア、花で飾られた撮影ボード。


 神崎清音は江藤蓮司の腕に手を添え、スポットライトの下に立っていた。


 まるで本物の新婚夫婦のようだった。


 僕は会場の隅に立ち、彼らに近づくつもりはなかった。けれど神崎清音は、僕を見つけた。


 彼女はマイクを手に取り、集まった人々に向かって言った。


「本日は、蓮司が神崎ジュエリーへ戻ってきたことを歓迎する場です。ですが、もう一つ、皆さまにお伝えしなければならないことがあります」


 会場が静まり返った。


 神崎清音の視線が、僕の上に落ちた。


「昨年、国際ジュエリーデザイン賞を受賞した『再生の羽』シリーズについて、社内調査を行いました。その結果、このシリーズの着想元は、江藤蓮司が三年前にヨーロッパで制作した草稿であることが分かりました」


 人々の間にざわめきが広がった。


 清音は続けた。


「つまり、佐伯凛也デザインディレクターには、重大な盗作行為があったということです」


 僕はその場に立ち尽くした。


 全身の血が、一瞬で冷えたようだった。


「僕は盗作していません」


 神崎清音は笑った。


「していない? これが、蓮司の三年前の草稿のコピーよ。皆さま、ご覧ください。『再生の羽』シリーズとの類似度は九割以上です」


 彼女はバッグからコピーの束を取り出し、スタッフに配らせた。


 僕は一目見ただけで分かった。


 たしかに、それは江藤蓮司の筆跡だった。けれどデザインの構造も、細部も、修正の跡も、すべて僕のものだった。


 彼は僕の作品を写し取り、今度は逆に、僕を盗作者に仕立て上げたのだ。


 神崎清音が僕を見た。


「佐伯ディレクター。何か言い分はある?」


 僕は彼女の目を見返した。


「あれは、半年かけて描いた作品です。一枚一枚、僕がこの手で仕上げました」


「証拠は?」


 彼女は当然のように問い返した。


「あなたの原本はどこにあるの?」


「会社の金庫です」


「金庫にあったのは、これだけよ」


 神崎清音は、さらに一つのファイルを取り出した。声には嘲りが混じっていた。


「これが蓮司の原本。あなたのものは? まさか、出せないの?」


 僕の原本は、三日前、彼女が確認のためと言って持っていったものだった。


 今、彼女は持っていないと言っている。


 江藤蓮司が彼女の隣に立ち、低い声でなだめるように言った。


「清音、もういいよ。凛也くんも、きっと一時の迷いだったんだ。デザイナー同士、影響を受けることもあるし……」


「影響? これは明らかな盗作よ」


 神崎清音は冷たく僕を見た。


 一言ずつ、突き刺すように告げる。


「佐伯凛也。あなたのような人間に、デザイナーを名乗る資格はない」


 そして彼女は、バッグの中から僕の原稿を取り出した。


 厚い原稿の束だった。二百ページを超える、最初の構想から完成稿まで、僕の半年間の夜をすべて記録したものだった。


 僕の呼吸が止まった。


「今日は皆さまの前で、この盗作品を処分します。それが、蓮司へのけじめです」


 そう言うと、彼女はシャンパンタワーの横へ歩いていった。給仕からライターを受け取り、その原稿を掲げる。


 火がついた。


 紙の端が、あっという間に炎に呑まれた。


「やめろ!」


 僕は駆け出した。


 けれど二人の警備員に押さえ込まれた。僕はただ、原稿が炎の中で反り返り、黒く縮み、灰になっていくのを見ることしかできなかった。


 神崎清音は燃え残った紙片を、シャンパンタワーの中へ投げ入れた。火が酒に触れ、小さな音を立てて消えていく。


 周囲から拍手が起こった。


 彼女は火が完全に消えるのを見届けると、江藤蓮司の腕に手を添えた。


「蓮司。踊りましょう」


 音楽が流れた。


 二人はホールの中央で踊り始めた。江藤蓮司が彼女の腰を抱き、耳元で何かを囁く。神崎清音は、愛されている少女のように笑った。


 僕は人々の外側に立ち、見ていた。


 僕の愛も、仕事も、シャンパンタワーの中で一緒に灰になった。


 夜八時。


 僕は神崎家の別荘へ戻った。


 玄関の前に、僕のスーツケースが投げ出されていた。神崎清音は玄関に立ち、腕を組んでいた。


「帰ってきたの」


「清音。これはどういう意味?」


「そのままの意味よ。あなたは解雇された。この家にも、もう住めない」


「理由は?」


「蓮司が言っていたわ。あなたが彼の新シリーズのデザイン画を盗んだって」


「盗んでいない」


「証拠は? 蓮司には監視カメラの記録がある。あなたには何があるの?」


 僕には何もなかった。


 彼女は背を向け、家の中へ戻ろうとした。けれどドアを閉める直前、何かを思い出したように振り返った。


「ああ、そうだ。あなたのお母さまが残した、あの道具も処分しておいたから」


 僕の身体が、激しく強張った。


「今、何て言った?」


「あの古い道具箱よ。置いておいても場所を取るだけでしょう。古道具屋が三千円で引き取ってくれたわ」


 彼女はバッグから数枚の紙幣を取り出し、地面に投げた。軽い声だった。


「ちょうど、蓮司が今夜バーで一杯飲むくらいにはなるわね」


 ドアが閉まった。


 僕は雨の中に立ち、地面で濡れていく紙幣を見つめていた。


 あの道具は、母が残した唯一の遺品だった。母は神崎ジュエリーで最年少のジュエリー職人だった。あの道具は、三十年ものあいだ母と一緒にいた。


 母は亡くなる前、僕の手を握って言った。


「凛也。いつか本当に愛する人に出会ったら、この道具で、その人のために何か作ってあげなさい」


 僕はあの道具で、神崎清音に初めてのネックレスを作った。


 銀杏の葉のペンダントだった。彼女は一日だけ身につけ、それから引き出しに放り込んだ。デザインが古いと言って。


 今、その道具は三千円で売られた。


 僕はしゃがみ込み、濡れた紙幣を拾い上げた。


 雨水と涙が、紙幣の上に落ちた。


 スーツケースを引いて去る前、僕はもう一度、別荘を振り返った。二階の窓際に、神崎清音と江藤蓮司が並んで立っていた。


 江藤蓮司は彼女を後ろから抱きしめ、顎を彼女の肩に乗せていた。神崎清音は笑っていた。


 僕が三年間の結婚生活で、一度も見たことのない幸福そうな笑顔だった。


 僕は背を向けた。


 スーツケースを引き、雨の夜へ歩き出した。



 4. 埼玉郊外の廃工場


 手元に残っていた最後の金で、僕は東京の端にある安いビジネスホテルに部屋を取った。


 部屋は狭く、湿っていた。壁の隅には古い水染みがあり、ベッドは座るたびに軋んだ。


 僕はそのベッドの端に座り、長時間握りしめていたせいで微かに震える右手を見つめた。この手はかつて、神崎清音を笑わせるデザインを描いた手だった。ぎこちなく彼女に結婚指輪をはめた手でもあった。


 今も、原稿が燃えたときの熱が残っている気がした。


 それから二日間、僕は以前の同業者や知人に連絡し、仕事を探した。


 けれど噂が回るのは早かった。


 神崎ジュエリー前デザインディレクター、佐伯凛也に盗作疑惑。


 佐伯凛也、神崎ジュエリーから追放。


 江藤蓮司復帰、神崎ジュエリー新作発表会に期待高まる。


 そんな言葉が、すでにジュエリー業界の中で広がっていた。


 かつて僕に熱心に連絡をくれた人たちは、曖昧に言葉を濁すようになった。中には、電話を切る人もいた。


 東京はあれほど広いのに、一晩で僕の前からすべての扉が閉ざされたようだった。


 SNSでは、神崎清音と江藤蓮司がイベントに出席した写真が次々と拡散されていた。『蓮星』シリーズの発表が近づき、メディアは二人を神崎ジュエリーで最も輝く新しいコンビだと持ち上げていた。


 たまに僕の名前が出ても、盗作、品行不良、前妻に捨てられた男という言葉と一緒だった。


 神崎清音は、僕を嘲笑する投稿に「いいね」まで押していた。


 その投稿には、こう書かれていた。


 女の力でのし上がった男なんて、いつか必ず化けの皮が剥がれる。


 三日目の午後。


 知らない番号から電話がかかってきた。


 相手は小さなデザイン事務所の責任者だと名乗った。僕の初期作品を見たことがあり、作図担当として雇いたいと言う。


 場所は埼玉県郊外の工業地帯。時間は夜八時。


 場所も時間も怪しかった。


 それでも、僕には他の選択肢がなかった。仕事が必要だった。自分がまだ何かを描ける人間なのだと、証明したかった。


 夜、指定された住所へ向かった。


 そこにあったのは、古びた廃工場だった。


 中にデザイン事務所はなかった。責任者もいなかった。


 いたのは、江藤蓮司だった。


 彼は薄暗い照明の下に立っていた。その後ろには、数人の男がいる。


 僕が後ずさる前に、後頭部へ重い衝撃が走った。


 地面に倒れ込んだ。


 次の瞬間、鉄槌が振り下ろされた。骨の奥から、鈍い音が響いた。


 江藤蓮司が僕の前にしゃがみ込んだ。


 笑っていた。


「痛い?」


 僕は答えなかった。


 右手はもう、痛みを通り越して麻痺していた。ただ、骨の奥から鈍い熱が全身へ広がっていく。


 江藤蓮司はスマートフォンを取り出し、僕の前で揺らした。


「誰に頼まれたか、知りたい?」


 僕は顔を上げた。


 彼は軽い声で笑った。


「清音だよ。信じられない?」


 江藤蓮司は録音を再生した。


 スマートフォンから、神崎清音の声が流れた。


「手が使えなくなるなら、それでいいわ。どうせ、もう大したものなんて描けないでしょう。殺さなければいい」


 その声は本物だった。


 その口調も本物だった。


 冷たく、不機嫌で、邪魔な古い物を処分するときのような声だった。


 喉が乾いた。


「清音が……そんなこと……」


「そんなこと、何?」


 江藤蓮司はスマートフォンを僕の耳元へ近づけ、もう一度再生した。


「聞こえた? 君の妻が、自分の口で言ったんだ」


 彼はスマートフォンをしまい、立ち上がった。そして、もう一度鉄槌を持ち上げた。


「これが、結婚指輪を作った手?」


 鉄槌が落ちた。


 僕は、自分の悲鳴を聞いた。


「これが、賞を取った手?」


 二度目の衝撃で、骨が砕けた。指がありえない方向へ曲がった。


 江藤蓮司はしゃがみ込み、工具箱からペンチを取り出した。


「清音が言っていたよ。君のこの手には、デザイナーを名乗る資格がないって」


 彼は僕の人差し指を挟んだ。


 力が込められた。


 関節が壊れる音は、悲鳴よりもはっきり聞こえた。


 人差し指。中指。薬指。小指。


 彼は一本ずつ、どうでもいい物を砕くように潰していった。


 最後に、江藤蓮司は一本のナイフを取り出した。


「怖がらなくていい。すぐ終わる」


 刃が手首の皮膚を裂いたとき、僕はもう、痛みをあまり感じなかった。骨を砕かれた痛みに比べれば、その程度の痛みは遠かった。


 それでも、血が流れ出すのは見えた。


 赤く、温かい血が、コンクリートの床に広がっていく。


 江藤蓮司は、僕の手首の腱を断った。


 一本ずつ。


「はい。これで本当に、この手は使えないね」


 彼は立ち上がり、ナイフを床に捨てた。手を拭きながら、電話をかける。


「清音? うん、終わったよ。安心して。死んではいないから。分かった、これから悠斗を連れて食事に行く」


 電話を切ったあと、彼は僕を蹴った。


「聞こえた? 清音は今、僕の息子の誕生日を祝っているんだ。悠斗こそ、彼女の本当の子どもみたいだってさ。君には、父親になる資格すらなかったんだよ」


 意識はすでに朦朧としていた。


 それでも、その一言だけが胸の奥を締めつけた。


 江藤蓮司は僕の反応が気に入ったらしい。しゃがみ込み、僕の血で濡れた指を、僕の額に軽く当てた。


「ここまで惨めなら、もう一つ教えてあげるよ。君と清音が結婚して何年も経つのに、どうして子どもができなかったか、知ってる?」


 呼吸が止まった。


 江藤蓮司はゆっくり笑った。


「君のせいじゃない。彼女が望まなかったんだ。もっと正確に言えば、僕が望まなかった」


 彼の声が低くなった。


 一言ずつ、耳の奥へねじ込まれていく。


「彼女の身体の中に、君の子どもが宿るかもしれないと思っただけで吐き気がしたんだ。だから僕は軽く言った。清音、君があいつの子どもを産むところなんて見たくないって。彼女が何て言ったと思う?」


 江藤蓮司は顔を近づけた。


 声には、悪意に満ちた愉悦が滲んでいた。


「彼女は迷いもしなかった。『分かった』って言ったんだよ」


 身体の芯が、少しずつ冷えていった。


「それから彼女は、君が毎朝飲むコーヒーに薬を混ぜ続けた。少量ならすぐには死なない。でも、長く続けば身体は壊れていく。子どもを望めなくなるくらいにはね」


 彼は神崎清音の軽い口調を真似た。


「蓮司が嫌がるなら、仕方ないわ」


 そう言って、彼は僕の頬を軽く叩いた。


「分かる? 君の健康も、君の子どもも、夫としての最低限の権利も、僕のたった一言より軽かったんだよ。佐伯凛也。君は彼女にとって、最初から何者でもなかった」


 江藤蓮司は立ち上がり、口笛を吹きながら工場を出ていった。


 工場の中には、僕一人だけが残された。


 冷たい床に横たわったまま、僕は右手から波のように押し寄せる痛みに耐えていた。けれど本当に冷たかったのは、心だった。


 薬。


 子ども。


 江藤蓮司が嫌がったから。


 今まで見過ごしてきた細かな違和感が、砕けた破片のように浮かび上がってきた。


 清音が僕のコーヒーを見るときの複雑な目。理由もなく続いていた疲労感。子どもの話をするたびに、彼女がすぐ別の話題へ移ったこと。


 全部、僕の気のせいではなかった。


 手首から血が流れ続けた。


 命と体温が、少しずつ身体から離れていくのが分かった。


 意識が薄れていく前に、いろいろなことを思い出した。


 初めて清音に会った日のこと。神崎前会長が亡くなる前に、僕の手を握って頼んだこと。この五年間、毎日、息を潜めるように彼女のそばにいたこと。


 疲れた。


 このまま終わるなら、それでもいいのかもしれない。


 どれくらい経ったのか分からない。


 遠くで誰かが走ってくる音がした。誰かが叫び、救急車を呼んでいる声がした。


 でも、僕には目を開ける力も、助けを求める力も残っていなかった。


 完全に意識を失う直前、僕は一つだけ思った。


 神崎前会長。


 すみません。


 僕は、五年の約束が終わる日まで、持たないかもしれません。



 5. 五年の約束が、終わった


 再び目を覚ましたとき、消毒液の匂いがした。


 白い天井が視界に入る。病床のそばには医師が立っていて、手にはカルテを持っていた。


「目が覚めましたか」


 右腕を少し動かそうとした瞬間、身体の奥まで突き抜けるような痛みが走った。


 医師はカルテに目を落とした。


「右手の橈骨と尺骨は粉砕骨折。五本の指の指骨にも、それぞれ損傷があります。手首の屈筋腱と伸筋腱は断裂。尺骨神経と正中神経にも損傷が見られます」


 医師は少し言葉を切った。声が、わずかに柔らかくなる。


「簡単に言えば、右手の機能には大きな後遺症が残る可能性が高いです。文字を書く、絵を描く、細工をする。そういった精密な作業を、以前のように行うことは難しいでしょう」


 僕は目を閉じた。


 長い沈黙のあと、ようやく口を開いた。


「誰が……僕を病院へ?」


「通行人です。郊外の道路脇であなたを見つけて、救急に通報したそうです。相手は、メモも残していました」


 医師はカルテの間から、一枚の紙を取り出した。


 僕はそれを受け取った。


 そこには、こう書かれていた。


 佐伯凛也。医療費は払っておいた。江藤蓮司。


 僕はその紙を丸め、ゴミ箱へ投げ捨てた。


 医師が出ていくと、病室には僕一人だけが残った。


 包帯でぐるぐるに巻かれた右手を見つめながら、ずっと昔のことを思い出した。


 母が僕の手を握り、笑って言った。


「凛也。あなたの手は、ジュエリーを作るために生まれてきた手よ」


 あのとき、僕は真剣に答えた。


「母さん。僕は一番のジュエリーデザイナーになる」


 母は笑った。


「信じているわ」


 その手は、もう壊れた。


 僕は点滴の針を抜いた。血の粒が滲んだが、ティッシュで適当に押さえた。


 左手だけで服を着る。途中で何度も手間取った。シャツを半分ほど着たところで、病室のドアが開いた。


 神崎清音が入ってきた。


 彼女は僕がベッド脇に立っているのを見て、明らかに動揺した。


「目が覚めたの?」


 視線が、僕の右手に落ちた。


「手は……どうなの?」


 僕は答えなかった。


 彼女は一歩近づき、包帯に覆われた僕の手首を見た。


「お医者さまは、何て?」


「壊れた」


 神崎清音は唇を噛んだ。


「私……こんなことになるなんて思わなかった。蓮司は、少し懲らしめるだけだって言ったの」


 僕は彼女を見た。


「懲らしめる? 人の手を壊すことが、君にとっては懲らしめるだけなのか?」


 彼女は何も言えなかった。


 僕は左手でシャツのボタンを留めようとした。何度やっても、うまくいかない。


 神崎清音が手を伸ばしてきた。


 僕は避けた。


「触るな」


 彼女の手が、宙で固まった。


 服を着終えると、僕は病室を出ようとした。


 清音が、僕の左手を掴んだ。


「どこへ行くの?」


「出ていく」


「その身体で、どこへ行けるの?」


 彼女の声は震えていた。


「私が面倒を見る」


「必要ない」


 僕は彼女の手を振り払った。


 そして病院を出た。


 タクシーで神崎家の別荘へ戻ると、リビングは静まり返っていた。


 ローテーブルの上に、二つのものが置かれていた。


 一つは、『蓮星』シリーズのパンフレット。表紙には、神崎清音と江藤蓮司が並んで立ち、眩しいほどに笑っている。


 キャッチコピーには、こう書かれていた。


 蓮星――最愛の人へ捧げる光。


 もう一つは、一枚のメモだった。


 神崎清音の字だった。


 佐伯凛也。あなたの物は全部捨てた。あなたのお母さまの骨壺も含めて。邪魔だったから。もう帰ってこないで。


 僕はそのメモを見つめた。


 不意に笑いが漏れた。


 笑っているうちに、涙が流れた。


 母の骨壺は空だった。


 当時、墓地を買う金がなく、母の遺骨は海へ撒いた。あの箱の中に入っていたのは、母が残したいくつかのジュエリーと、一通の手紙だった。


 手紙には、こう書かれていた。


 凛也。いつかあなたを心から愛してくれる人が現れたら、これを渡しなさい。もし現れなかったら、思い出として持っていなさい。


 今、神崎清音はそれを捨てた。


 邪魔だったから。


 僕は書斎へ入り、一番下の引き出しを開けた。そこには隠し扉があった。


 隠し扉の中には、神崎前会長が僕に残した懐中時計、パスポート、ビザ、そして一枚のキャッシュカードがあった。カードには、僕がこの数年で少しずつ貯めた金が入っている。


 それらをリュックに詰めた。


 リビングへ戻り、ローテーブルの引き出しから、ずっと前に印刷しておいた離婚届と離婚協議書を取り出した。


 僕はそこに署名した。


 日付は、三年前にした。


 そう。


 三年前、結婚したその夜に、僕はこの書類を用意していた。


 この結婚が長く続かないことを、最初から分かっていたからだ。


 署名した書類をローテーブルの上に置き、『蓮星』のパンフレットで押さえた。


 それから、神崎清音に最後の電話をかけた。


 電話が繋がると、彼女は何かを言おうとした。けれど僕は、その機会を与えなかった。


「神崎清音。江藤蓮司と、どうか末永く幸せに」


 それだけ言って、電話を切った。


 今度こそ、僕は二度と振り返らない。



 6. 彼女はようやく、あの手紙を読んだ


 神崎清音が別荘のドアを開けたとき、彼女の口元にはまだ笑みが残っていた。


 江藤蓮司は彼女の腰を抱き、耳元で甘い言葉を囁いている。悠斗が先に走り込み、明るい声で叫んだ。


「ただいま!」


 彼らは高級レストランから帰ってきたばかりだった。


 その食事は、江藤蓮司が正式に神崎家の別荘へ移り住むことを祝うためのものだった。


「凛也くんが今の僕たちを見たら、きっと悔しがるだろうね」


 江藤蓮司は得意げに笑った。


 神崎清音も、かすかに笑った。


「あの人の話はやめて。気分が悪くなるわ」


 彼女はリビングへ入り、バッグをソファに置いた。そのまま二階へ上がって着替えようとして、ふとローテーブルの上にあるものに気づいた。


 署名済みの離婚届。


 離婚協議書。


 そして、その上に置かれた『蓮星』のパンフレット。


 表紙の中で、彼女と江藤蓮司は輝くように笑っていた。


 神崎清音の足が止まった。


 江藤蓮司もそれに気づき、パンフレットを手に取ってめくった。


「よく撮れているね。清音、この写真なんて――」


「黙って」


 神崎清音の声が冷えた。


 彼女はローテーブルに近づき、離婚協議書を手に取った。指が震え始める。


 一番下には、佐伯凛也の署名があった。


 日付は三年前。


 三年前。


 彼らが結婚した日だった。


 清音はその日付を、長いあいだ見つめていた。あまりに長く見つめていたため、江藤蓮司が苛立ち始めた。


「清音? どうしたの?」


 神崎清音は答えなかった。


 協議書を下ろすと、その下に一通の古い封筒があることに気づいた。切手も住所もない。


 表には、たった一行だけ書かれていた。


 五年後の神崎清音へ。


 彼女の心臓が、激しく脈打った。


 江藤蓮司が手を伸ばした。


「何、それ?」


「触らないで!」


 神崎清音は叫び、封筒を胸に抱き込んだ。


 江藤蓮司は驚いて身を引いた。


「何をそんなに怒っているんだよ」


 神崎清音は彼を見なかった。


 震える手で封筒を破る。


 中には、一枚の紙だけが入っていた。


 見慣れた字だった。


 佐伯凛也の字だった。


 神崎清音へ。


 君がこの手紙を読んでいるということは、五年の約束が終わり、僕が君のそばを離れたということだと思う。


 この手紙を書いているのは、僕たちが結婚した日の夜だ。


 あの日、君は酔って眠りながら、僕の隣で江藤蓮司の名前を呼んでいた。その瞬間から、僕はこの結婚が間違いだったと分かっていた。


 けれど、神崎前会長は亡くなる前、僕の手を握ってこう言った。


 凛也。五年間、清音を頼む。


 五年後、それでも清音がお前を愛せないなら、そのときは去りなさい。


 僕は約束した。


 だからこの五年間、君が何をしても、僕は耐えるつもりだった。


 君が僕の作った結婚指輪を江藤蓮司に渡しても、僕は耐えた。


 君が僕の作品を彼の名前にしても、僕は耐えた。


 君が人前で僕の原稿を燃やしても、僕は耐えた。


 君が母の道具を三千円で売っても、僕は耐えた。


 僕は待っていた。


 五年が終わるのを。


 堂々と君の前から去れる日を。


 今、その日が来た。


 この五年間、僕は君に、自分が与えられるものをすべて渡した。愛も、忠誠も、寛容も、最後に残っていた尊厳も。


 そして君は、僕に一番深い傷を与えた。


 でも、もういい。


 すべて終わった。


 これからは、君は君で、僕は僕だ。


 二度と会わない。


 佐伯凛也。


 神崎清音は読み終えた。


 その場に立ったまま、動けなかった。


 手紙が指先から滑り落ち、床へ落ちる。


 江藤蓮司が近づき、眉をひそめた。


「何が書いてあったんだ? 見せて」


「出ていって」


 神崎清音は低く言った。


 江藤蓮司が固まった。


「何て?」


 神崎清音は顔を上げた。目の奥は、死んだように静かだった。


「出ていってと言ったの」


 江藤蓮司は眉を寄せた。


「清音。いきなりどうしたんだ」


 神崎清音は彼を見つめた。


「聞こえなかった?」


「何が?」


「凛也が行ったの。本当に、行ってしまったの」


 江藤蓮司は一瞬黙り、それから無理に笑った。


「それなら、いいことじゃないか。彼が消えたんだ。これで僕たちはやっと一緒に――」


「違う」


 神崎清音の声が震えた。


「それは、私がこの先一生、もう彼に会えないということよ」


 彼女は二階へ駆け上がり、主寝室へ入った。


 ウォークインクローゼットの中には、佐伯凛也の物が一つも残っていなかった。


 服も、靴も、ネクタイも、古いスケッチブックも、工具箱も。


 本当に彼のものだった品は、すべて消えていた。


 彼女がかつて気まぐれで買い与えた高価な品だけが、整然と並んでいた。一つも減っていない。一つも触れられていない。


 その瞬間になって、神崎清音はようやくはっきり理解した。


 佐伯凛也は去った。


 彼はもう、二度と戻ってこない。


 江藤蓮司が追いかけてきて、背後から彼女を抱きしめた。


「清音、落ち込まなくていい。彼がいなくなったほうがいいんだ。これから僕たちは――」


 神崎清音は振り返り、彼の頬を強く叩いた。


 江藤蓮司はよろめき、頬を押さえた。


「君、正気か?」


「出ていって」


「ここは君の家だ。これからは、僕の家でもある」


「出ていって!」


 神崎清音は叫んだ。


「今すぐ出ていって! あなたの物も、全部持って、私の家から出ていって!」


 江藤蓮司は彼女を睨んだ。目が少しずつ暗くなっていく。


「神崎清音。後悔するよ。今の君を欲しがる男なんて、僕以外にいると思う? 佐伯凛也は君を捨てた。祖父ももう死んだ。君には何が残っている?」


 神崎清音は笑った。


 泣くよりも痛々しい笑顔だった。


「あなたの言うとおりね。私は、何も残っていない」


 彼女はスマートフォンを取り出し、佐伯凛也へ電話をかけた。


 けれど電話から聞こえたのは、機械的な電源オフの案内だけだった。


 神崎清音は床に崩れ落ち、身体を丸めて泣いた。


 喉が裂けるほど泣いた。


 この五年間、彼女はずっと、自分を一番愛してくれた人を傷つけ続けていたのだ。



 7. 彼女はすべてが嘘だったと知った


 神崎清音は涙を拭き、立ち上がった。


 彼女はまず、江藤蓮司が言っていた監視カメラの記録を調べた。すると会社の保安部は、その期間はシステムメンテナンス中で、有効な映像は存在しないと答えた。


 江藤蓮司が三年前の原稿だと言ったものも調べた。


 専門家の鑑定結果は、インクが新しいものだというものだった。紙も、意図的に古く見せられているだけだった。


 さらに彼女は、国際ジュエリーデザイン賞の運営事務局へ連絡した。返ってきた回答には、『再生の羽』シリーズは応募から受賞まで、すべての手続きが正当に行われており、盗作の事実はないと記されていた。


 すべてが嘘だった。


 江藤蓮司は彼女を騙していた。


 そして彼女は、それを信じた。


 神崎清音は車の鍵を掴み、江藤蓮司が泊まっているホテルへ向かった。


 部屋のドアを叩く。


 江藤蓮司がドアを開け、彼女を見るなり笑みを浮かべた。


「清音? こんな朝早くから――」


 言い終える前に、神崎清音の平手打ちが飛んだ。


 江藤蓮司は頬を押さえ、笑顔を凍らせた。


「何をするんだ」


 神崎清音は冷たい目で彼を睨んだ。


「どうして私を騙したの?」


「何の話?」


「凛也は盗作していなかった。あなたに三年前の原稿なんて存在しない。全部、あなたが作った嘘だった。どうして?」


 江藤蓮司は数秒黙った。


 そして、突然笑った。


 彼は一歩近づき、隠し続けていた怨毒を目の奥に浮かべた。


「どうして? 嫉妬したからだよ。佐伯凛也みたいな貧乏人が、どうして君と結婚できる? どうして神崎ジュエリーに入れる? どうして彼のデザインが賞を取る? 僕のほうが優れている。僕のほうが君を理解している。それなのに、君の祖父は彼を選んだ」


 彼は低く笑った。


「納得できるわけがない」


 神崎清音の顔から血の気が引いた。


「だから、彼の手を壊したの?」


 江藤蓮司は笑った。


「あれは僕だけの考えじゃないよ。君だって、好きに懲らしめればいいと言ったじゃないか」


 神崎清音は一歩後ずさった。


「私は……」


「君はこう言ったんだよ。『好きにして。私を煩わせないで』って」


 江藤蓮司は、そのときの彼女の不機嫌な口調を真似た。


「僕が、もし怪我をさせたらどうするって聞いたら、君は言った」


 彼はスマートフォンを取り出し、録音を再生した。


 神崎清音は、自分の声を聞いた。


 冷たい声だった。


「好きにして。私を煩わせないで」


 そして、もう一つ。


「殺さなければいいわ」


 録音が終わった。


 江藤蓮司は笑いながら彼女を見た。


「清音。ほら、僕たちは共犯なんだ。僕が手を下し、君が黙認した。これが世間に出たらどうなるだろうね。神崎ジュエリーの社長が、自分の夫の手を潰すことを黙認した。想像できる?」


 神崎清音は彼を見た。


「何が望みなの?」


「五千万円。現金で。払えば、これで終わりにしてあげる」


 神崎清音の手が強く握られた。


「五千万円? 正気なの?」


「払わないなら、今すぐ録音を流す。神崎社長がどんな人間か、世間に教えてあげるよ」


 江藤蓮司はスマートフォンを揺らした。


 神崎清音は彼を見つめた。


 長い沈黙のあと、ようやく言った。


「分かった。払うわ」


 江藤蓮司は勝ち誇った笑みを浮かべた。


「それでいい」


 神崎清音は踵を返した。


 部屋を出る直前、彼を振り返る。


「江藤蓮司。あなたは後悔するわ」


 江藤蓮司は笑った。


「後悔するのは君だろう? 僕のために、自分の夫の手を潰したんだから」


 その日の夕方。


 神崎清音は約束どおり、現金を持って駐車場へ向かった。


 江藤蓮司はボストンバッグを受け取り、中を開いた。そこには五千万円分の現金が整然と詰められていた。


 彼は満足げに笑った。


「取引成立だね」


 神崎清音は彼を見た。


「本当に、お金を受け取れば逃げられると思ったの?」


 江藤蓮司の笑顔が固まった。


「どういう意味だ」


 神崎清音は答えなかった。


 次の瞬間、周囲から数人の警察官が飛び出し、江藤蓮司を地面に押さえつけた。


 江藤蓮司は激しくもがき、怒鳴った。


「神崎清音! 騙したな!」


 神崎清音はその場に立ち、静かに言った。


「恐喝の録音は、すでに警察へ渡してあるわ。あなたが原稿を偽造したこと、凛也を盗作者に仕立てたこと、証拠を壊したこと、彼に傷害を負わせたこと。その資料も、すべて弁護士に渡した」


 彼女は息を吸った。


「江藤蓮司。あなたは終わりよ」


 江藤蓮司は警察に連行されていった。


 彼の罵声は、少しずつ遠ざかっていく。


 神崎清音は駐車場に立ったまま、少しも勝った気がしなかった。


 今、彼女がしたいことは一つだけだった。


 佐伯凛也を見つけたい。


 けれど、見つからなかった。


 空港に出国記録はなかった。銀行カードの金も動いていない。スマートフォンはずっと電源が切れたままだ。


 彼は、この世界から消えたようだった。


 神崎清音は、彼が行きそうな場所をすべて回った。


 母親がかつて働いていた工房。以前借りていたアパート。よく通っていた図書館。母親の遺骨を撒いた東京湾の海辺。


 どこにもいなかった。


 最後に、彼女は古道具街へ行った。


 彼の母親の道具を買い取った店だった。


 店主は年配の女性で、神崎清音を見ると少し驚いた。


「神崎さん?」


「買い取られたジュエリー工具を、買い戻しに来ました」


「もうありませんよ。買い戻されました」


 神崎清音の胸が強く跳ねた。


「誰が?」


 店主は少し考えた。


「若い男の人でした。右手を分厚く包帯で巻いていて、左手もあまり器用には動かない様子でした。でも、目だけはとても真っ直ぐでした。あれは母の遺品だから、どうしても取り戻したいって」


 神崎清音の目が、一瞬で赤くなった。


「彼は……元気でしたか?」


「いいえ。あまり元気には見えませんでした。物を受け取るときも、ずっと震えていました。でも、自分のお金で払うと言い張りました。誰にも借りを作りたくない、と」


 店主はカウンターの奥から、一通の封筒を取り出した。


「それから、これを預かっています。神崎さんが来たら渡してほしいと」


 神崎清音は封筒を受け取った。


 中には、一枚のキャッシュカードと、一枚のメモが入っていた。


 キャッシュカードは、彼女が佐伯凛也に渡していたカードだった。何年ものあいだ、彼女は毎月そこに金を入れていた。


 けれど彼は、一円も使っていなかった。


 メモには、たった一言だけ書かれていた。


 お金は返します。これで、僕たちは何も関係ありません。


 神崎清音はメモを握りしめた。


 爪が掌に食い込む。


「彼は、ほかに何か言っていましたか?」


 店主は少し考えた。


「言っていましたよ。彼女に伝えてください、と」


 神崎清音は息を止めた。


 店主は静かに言った。


「母の道具は、僕を心から愛してくれる人のために残します、と」


 神崎清音は目を閉じた。


 涙が落ちた。


「私には、資格がない」


 彼女は震える声で言った。


「私には、そんな資格はなかった」



 8. 三年後、ジュネーブの風鈴が鳴った


 三年後。


 スイス、ジュネーブ。


 僕は小さなジュエリー修復工房で働いていた。


 もうデザイナーではない。今の僕は、修復師だ。


 右手は今でも思うようには動かない。けれど、左手を使うことを覚えた。左手でピンセットを持ち、左手でルーペを持ち、顕微鏡の下で壊れたアンティークジュエリーを修復する。


 工房のオーナーはハンスという。


 彼は僕を受け入れ、修復技術を教えてくれた。そして、もう一度この世界と向き合う方法も教えてくれた。


 彼が初めて僕を見たとき、変形した右手を見て首を振った。


「惜しいな。その手は、本来なら美しいものを生み出すはずだった」


 僕は答えた。


「今でも生み出せます。方法が変わっただけです」


 今の僕は、店で一番安定した修復師になった。


 壊れたブローチ、ひびの入った指輪、光を失った古いネックレス。そういったものが、僕の手の中で少しずつ元の姿を取り戻していく。


 僕の手は、もうデザイン画を描けない。


 けれど、古いジュエリーをもう一度輝かせることはできる。


 それでいいと思えた。


 その日の午後。


 店のドアが開き、風鈴が一度鳴った。


 ハンスはいつものようにカウンターに立ち、言った。


「いらっしゃいませ」


 けれど、その途中で言葉が止まった。


 僕は顔を上げず、手元のアンティークブローチの修復を続けていた。


 足音がゆっくり近づいてくる。


 やがて、その足音は僕の作業台の前で止まった。


 僕は顔を上げた。


 そこにいたのは、神崎清音だった。


 三年ぶりに見る彼女は、ずいぶん痩せていた。顔色は青白く、目の下には深い隈がある。


 彼女は普通の淡い色のワンピースを着ていた。化粧もしていなかった。アクセサリーも身につけていない。


 かつて、眩しいほど華やかだった神崎ジュエリーの社長には、もう見えなかった。


 清音は僕を見つめた。


 目が一瞬で赤くなる。


 声は震えていた。


「凛也……」


 僕は視線を下ろし、手元の作業に戻った。


「三年間、あなたを探していたの。いろいろな国へ行って、いろいろな人に聞いた。最後に、ハンスさんの知人が教えてくれたの。あなたがここにいるって」


 僕は何も言わなかった。


 彼女の視線が、僕の右手に落ちた。


「手は……少しは良くなった?」


「使えます」


 僕は淡々と答えた。


「そう……よかった」


 彼女は唇を噛んだ。


 しばらく沈黙したあと、ようやく言った。


「凛也。私は謝りに来たの」


「そうですか」


「謝っても何にもならないことは分かっている。私があなたを深く傷つけたことも、分かっている。江藤蓮司は刑務所に入ったわ。すべて認めた。神崎ジュエリーも、その後に破産した」


 彼女の声が震えた。


「スキャンダルと信用失墜で、主要な取引先は次々と離れた。銀座の旗艦店も閉まった。私は返せるものを全部返した。今の私には何もない。あなたへの罪悪感以外、本当に何もないの」


 彼女の涙が落ちた。


 今にも立っていられなくなりそうなほど、泣いていた。


 僕はピンセットを置き、顔を上げた。


「話は終わりましたか?」


 神崎清音が固まった。


「終わったなら、帰ってください。仕事中です」


「凛也!」


 彼女は突然、僕の左手を掴んだ。


「もう一度だけ、私に機会をくれない? 最後に一度だけ。今度こそ、あなたを大切にする。あなたを愛する。残りの人生を使って、償わせて」


 僕は彼女の目を見た。


 静かに尋ねた。


「神崎清音。君は僕を愛していますか?」


 彼女は口を開いた。


「愛して――」


「違う。君は僕を愛していない」


 神崎清音の顔から、少しずつ血の気が引いていった。


 僕は彼女を見つめ、低い声で言った。


「僕があの家を出る日、引き出しの中に小さな袋を見つけました」


 彼女の泣き声が止まった。


 僕の左手を掴んでいた指が、急に力を失った。


「中には錠剤がありました。僕のコーヒーに混ぜていた粉も。あのころの疲れが気のせいではなかったことを、そのとき知りました。僕たちに子どもができなかったのも、僕のせいではなかった」


 神崎清音は必死に首を振った。


「違うの、凛也。あれは、そういうつもりじゃ……」


「江藤蓮司の言葉を聞いただけでしょう。彼が、僕の子どもを産む君を見たくないと言った。だから君は、その通りにした」


 僕は静かに続けた。


「彼が僕の手を邪魔だと言ったときも、君は彼が僕を壊すことを許した」


 僕は再びピンセットを取り、作業台の上に置かれたアンティークブローチへ視線を戻した。


「だから、もう愛だとか、償いだとか、そんな言葉を言わないでください」


 手元の宝石に光が当たった。


 僕はゆっくりと言った。


「君を愛して、君のすべてを受け入れようとして、君が僕に薬を飲ませていたと知ってもなお、神崎前会長との約束のために五年の終わりまで耐えようとした佐伯凛也は、もう死にました」


 神崎清音は動かなかった。


「彼は、君が真実を知ろうともせず江藤蓮司を信じた瞬間に死んだ。埼玉郊外の廃工場のコンクリートの上で死んだ。君が僕に差し出した、あの毎朝のコーヒーの中でも死んでいた」


 僕は少し間を置いた。


 それから、最後に言った。


「今ここにいる僕は、もう君を愛していません。そして、君を許すことも永遠にありません」


 神崎清音はその場に立っていた。


 涙だけが止まらず流れていた。


 長い時間が過ぎたあと、彼女はようやく小さく言った。


「分かったわ」


 彼女は背を向け、出口へ向かった。


 ドアの前で一度だけ振り返る。


「凛也。幸せになって」


「君も」


 彼女は出ていった。


 風鈴が、また一度鳴った。


 ハンスが近づいてきて、僕の肩を軽く叩いた。


「大丈夫か?」


「大丈夫です」


「本当に?」


 僕は少し笑った。


「本当です」


 本当に、大丈夫だった。


 三年前、神崎清音のもとを去ったとき、僕は自分の人生が終わったのだと思っていた。


 手は壊れ、愛も消え、仕事も奪われた。


 けれど三年後の今、僕には新しい仕事があり、新しい生活があり、新しい友人もいる。


 この手はもうデザイン画を描けない。


 それでも、壊れたジュエリーを修復し、もう一度光らせることはできる。


 それで十分だった。


 風鈴の音が、少しずつ消えていく。


 僕は顔を下げ、ひびの入ったアンティークブローチの修復を続けた。


 ひびは直せる。


 けれど、壊れたものすべてが、元に戻るわけではない。




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