序幕 其の二
あやめはじりじりと照りつける太陽から逃れるように屋敷に急いでいた。
旗本三千石の姫でありながら供も連れずに籠も使わないのは、つい先程まで獣肉屋にいたからだ。
あやめは、蘭方医を志す少々変った姫君である。
鎖国の続いているこの時勢に西洋医学を勉強するには随分と苦労がいることだった。
それでも、洋書の輸入規制が緩和されて以降は飛躍的に手にできる異国の情報や扱う薬品も増えてきて蘭学を学ぶ者も増えている。
杉田玄白らの解体新書などが刊行された後は医学的な資料も充実している。
今や時代の新しい風となっていた。
けれどご法度体制はまだまだ続く。
あやめは人体が知りたかった。
しかし、それを知るための腑分けという作業には幕府の許可が必要であった。
それを行うのは医者や学者という身分のものに限られている。
更にいうなら、身分を重視する江戸の社会では医者は尊敬されるが身分は低いのだ。
その為、尊い身分の者にはそれを卑下するものもいる。
旗本の姫で医者を目指すことは世間にも聞こえの良いものではなかった。
当然、腑分けに参加などできるはずもない。
あやめはせめて動物の体から学ぼうと考えたのだ。
食としてはご法度の動物の肉も、薬としてなら獣肉屋で売っている。
あやめは獣肉屋に懇願をしてやっとその店に出入りさせてもらえるようになったばかりだった。
しかし一応でも姫が公に出入りしてしまえば旗本岩木家の体裁も悪いと思い、隠れるようにひっそりと一人で通っていたのであった。
道を曲がってしばらくは寺社領が続く。
あやめは背よりも高い生垣の影に入り暑さをしのいで歩調を緩めた。
するとその鼻がひくっと何かの臭いを捕らえた。
丁度、先程まで獣肉屋で嗅いでいたような臭いである。
知らない人からすると何か生臭い、で終わるところだがあやめは違った。
微かだが、内臓特有の臭みを捉えたのだ。
「何かしら」
臭いは今歩いている寺の方からしてくる。
生垣の向こう側が気になったが、びっしり葉が生えているので簡単には中の様子は伺えない
しかし、下のほうに若干の隙間があった。
誰も通らないことを確認して、あやめはしゃがんで生垣に顔をねじ込む。
四間(約8m)ほど離れたところに部屋が見えた。
部屋の中央に僧侶たちが囲むように集まっている。
その真ん中には人が寝かされていた。
そこでは信じられないようなことが行われていたのだ。
あやめは中で行われている事を理解するなり見入ってしまった。
そしてその場を去るときに落としてしまった簪に気付いたのは、屋敷にたどり着いた頃だった。