覚悟という名の火種
2026年4月。東京は花見客で賑わっていた。
だが、スマートフォンの画面に映るニュースは、桜の下で笑う人々の表情を少しずつ歪ませていた。
「中国海軍、台湾海峡で大規模演習」
「米国務長官『台湾防衛の意志は揺るがない』」
「日本政府、自衛隊に警戒態勢を指示」
篠原誠は、目黒川沿いのカフェでコーヒーを飲みながら、テレビに映る内閣総理大臣・早坂真奈美の記者会見を見ていた。
「日本国民の皆様。我が国は、自由と民主主義を共有する台湾の危機を、決して他人事とは考えません。改めて申し上げますが台湾有事は日本有事です。我が国には、断固たる覚悟があります」
早坂の声は力強く、明瞭だった。彼女の背筋は真っ直ぐで、目には揺るぎない決意が宿っていた。
記者席から質問が飛ぶ。
「総理、中国は日本側の発言を『挑発』と非難していますが」
早坂は即座に答えた。
「挑発ではありません。事実です。日本は平和を望みますが、侵略に屈する国ではありません。全国民の生命と財産を守るためなら、いかなる犠牲を払おうとも我々は戦う覚悟を持っています」
テレビの前で、誰かが拍手した。カフェの隅で、初老の男性が「その通りだ」と呟いた。
篠原は、コーヒーカップを置いた。
彼は元外交官だった。20年間、外務省で中国担当を務め、北京の日本大使館にも勤務した。現在は退官し、都内の大学で国際政治を教えている。
彼には分かっていた。
早坂の言葉は....正しい。
だが、正しすぎる!
必要以上に強く、必要以上に頻繁で、必要以上に感情的だ。
そして何より——中国に、格好の口実を与えている。
篠原はスマートフォンを取り出し、中国の環球時報の日本語版を開いた。案の定、早坂の発言が大きく取り上げられていた。
「日本右翼政権、再び軍国主義の道を歩む」
「早坂政権の挑発的発言、地域の平和を脅かす」
「日本は歴史の教訓を忘れたのか」
篠原は溜息をついた。
この構図は、何度も見てきた。
強硬な言葉は国内では拍手を浴びる。だが外交の現場では、相手に「被害者」の立場を与え、国際世論を操作する材料を提供する。
言葉は武器だ。
だが、使い方を間違えれば、自分の喉を切り裂く。
────
その夜、篠原は旧友の田中と飲んでいた。
田中は大手商社に勤める男で、妻と二人の子供がいた。彼はビールを三杯空けた後、唐突に言った。
「俺、有事になったら家族連れてシンガポールに逃げるわ」
篠原は驚いて田中を見た。
「本気か?」
「本気だよ。会社も了解済み。海外拠点への『一時転勤』という形で手続きは整ってる。台湾に中国軍が上陸した瞬間、俺たち家族は成田から飛ぶ」
「……逃げるのか」
「逃げるんじゃない。守るんだよ。大切な家族を」
田中は真剣な顔で言った。
「お前だって分かってるだろ? 日本が戦争に巻き込まれたら、どうなるか。まずミサイルが飛んでくる。インフラが止まる。食料が尽きる。そんな中で、子供を守れるか? 仮にアメリカの支援があっても俺には到底無理だ」
「だが——」
「だが、何だ? 愛国心か? 篠原、お前は独身だから言えるんだよ。守るべき者がいる人間は、綺麗事じゃ生きられないんだよ」
篠原は黙った。
田中の言葉は、理解できた。彼は逃げているのではない。選択しているのだ。家族という、何よりも優先すべき存在のために。
だが同時に、篠原は思った。
全員が逃げたら、この国はどうなる?
「田中、お前みたいな人間ばかりになったら、日本国は終わるぞ」
田中は苦笑した。
「終わらせるのは、俺じゃないな。『覚悟』とか『戦う』とか軽々しく口にするインフルエンサーや政治家。特に早坂、あいつは安全な場所にいるから、そんなことが言えるんだ。戦うのは自衛隊だろ...」
篠原は反論しようとして、やめた。
田中の怒りは、的外れではなかったからだ。
───
翌週、篠原は大学の研究室で論文を書いていた。
そこへ、学生の一人が駆け込んできた。
「先生! テレビ見ました? 総理がまた!」
篠原は研究室の小さなテレビをつけた。
国会中継が流れていた。早坂総理が、野党議員の質問に答えていた。
「……ですから、私は申し上げているのです。日本国民は、平和ボケから目を覚ますべきだと。中国の脅威は現実です。台湾が陥落すれば、次は沖縄です。そして本土です。私たちには、戦う覚悟が必要なのです!
戦え....戦はなければ勝てない!」
早坂の声は熱を帯びていた。与党席から拍手が起こった。
野党議員が反論する。
「総理、あなたのその発言こそが、中国を刺激しているのではありませんか!」
早坂は即座に切り返した。
「刺激? 違います。これは事実の指摘です。侵略国家に配慮して黙っていろと、そうおっしゃるのですか? それこそ、戦前の『空気を読め』という全体主義ではありませんか!」
また拍手。
学生が興奮気味に言った。
「先生、マナちゃん、かっこよくないですか? ちゃんと言うべきことを言ってるし」
篠原は答えなかった。
彼はテレビを消した。
学生は不満そうに言った。
「先生は、早坂総理のこと嫌いなんですか?」
「嫌いじゃない」
篠原は短く答えた。
「ただ、危険だと思っている」
「危険?」
「言葉は武器だ。だが、武器を振り回せば、敵だけじゃなく味方も傷つける結果になる。早坂総理の言葉は、中国に確実に口実を与え続けている」
学生は首を傾げた。
「でも、黙ってたら舐められるんじゃないですか?」
「外交は、声の大きさで決まるものじゃない」
篠原は立ち上がり、窓の外を見た。
「本当に強い国は、無駄な言葉を使わない。静かに準備し、静かに行動する。叫ぶのは、弱い者の特権だ」
───
5月半ば。篠原のもとに、一通のメールが届いた。
送り主は、内閣官房の古い知人だった。
「総理が、あなたと話したがっている」
篠原は驚いた。
早坂真奈美と自分に、接点はない。だが、どうやら篠原の論文——「強硬外交の危険性」と題した最近の寄稿——が総理の目に留まったらしい。
一週間後、篠原は総理官邸の一室にいた。
部屋には、早坂総理と篠原、そして官房長官の三人だけ。
早坂は、テレビで見るよりも小柄だった。だが、その目には誰よりも強く輝く光があった。
「篠原さん。あなたの論文、読ませていただきました」
早坂は穏やかに言った。
「私の外交姿勢を『危険』と評されていましたね」
篠原は頷いた。
「はい。率直に申し上げれば、総理の発言は中国に利用されています」
「利用?」
「総理の強硬発言は、中国国内のナショナリズムを煽り、中国政府に『日本国の脅威』という大義名分を与えています。結果として、台湾侵攻の正当化に使われている」
早坂は微笑んだ。
「では、黙っていればいいと?」
「そうは言っていません。備えることは必要です。だが、煽る必要はない」
「煽っているつもりはありません。事実を述べているだけです」
篠原は首を振った。
「事実の述べ方、にも技術があります。総理は必要のない場面で、必要以上に強い言葉を選んでいるでしょう」
早坂の表情が、わずかに硬くなった。
「篠原さん。あなたは外交官でした。だから分かるはずです。日本がどれだけ舐められてきたか。どれだけ譲歩してきたか。その結果、中国は増長し、今や台湾...いや、世界を飲み込もうとしている」
「それは事実です」
「ならば、もう黙っている時代は終わったのではありませんか? 日本は声を上げるべきです。覚悟を示すべきです」
篠原は、早坂の目を見た。
「総理。あなたの覚悟は本物です。私はそれを疑っていません」
早坂は少し驚いた表情を見せた。
篠原は続けた。
「だが、覚悟があるからこそ、慎重であるべきです。愛国は叫ぶものではありません。防衛は感情論では成り立ちません。最も危険なのは、覚悟があるつもりで軽率な言葉を吐くことです」
部屋に沈黙が落ちた。
早坂は、長い間篠原を見つめていた。
そして、静かに語った。
「あなたは、私が戦争を始めると思っているのですか?」
「いいえ」
篠原は即座に答えた。
「あなたは戦争を始めない。だが、あなたの言葉は、戦争を確実に近づけている」
早坂は立ち上がった。
窓の外を見ながら、彼女は言った。
「篠原さん。私には二つの恐怖があります」
「一つは、中国に侵略されること。もう一つは——」
早坂は振り返った。
「——日本人が、戦う意志を完全に失うことです」
「総理」
「田中さんという方をご存知ですか? 世論調査で会った、ある男性です。彼は私にこう言いました。『有事になったら、私は国外に逃げます』と」
早坂の声には、悲しみが滲んでいた。
「彼だけではありません。若者の多くが、そう考えています。この国を捨てる準備をしている。それが、私には耐えられないのです」
篠原は黙っていた。
早坂は続けた。
「だから私は、叫ぶのです。『覚悟を持て』と。『逃げるな』と。それが煽動に見えるなら、構いません。少なくとも、誰かの心には届くはずです」
「総理」
篠原はゆっくりと言った。
「人は、恐怖では動きません。強制では動きません。彼らが留まるのは、この国に留まる価値があると信じられた時だけです」
「価値?」
「そうです。愛すべき何か。守るべき何か。それは『覚悟』という言葉では生まれません。静かな誇りと、日々の安心から生まれるものなんです」
早坂は、長い沈黙の後、微笑んだ。
「篠原さん。あなたは理想主義者ですね」
「....現実主義者です」
篠原は立ち上がった。
「総理。お願いがあります」
「何でしょう」
「今日の午後の会見、中止してください」
早坂は目を見開いた。
「なぜです?」
「中国が今朝、台湾周辺で新たな演習を発表しました。総理が何か言えば、それは必ず強硬な内容になる。そして、今、中国はそれを確実に利用します」
「では、黙っていろと?」
「一日だけ。沈黙してください。それが、今最も強いメッセージになります」
早坂は篠原を見つめた。
長い沈黙。
そして、彼女は官房長官に言った。
「会見、延期で」
───
その日の夕方、日本中のメディアが混乱した。
予定されていた総理会見が、突然中止されたのだ。
理由は「体調不良」とされたが、誰もそれを信じなかった。
野党は「弱腰だ」「逃げるな」「無責任」と批判した。
与党内からは「なぜ黙る」と不満の声が上がった。
中国メディアは「日本政府、対応できず混乱」と報じた。
だが、台湾の総統府は、短い声明を発表した。
「日本政府の慎重な姿勢を評価する」
そして、アメリカ国務省の報道官が記者会見で言った。
「日本は冷静に状況を見極めている。これは同盟国として、非常に成熟した対応だ」
翌朝、篠原は新聞を広げた。
一面には、早坂総理の写真。だが、見出しは予想外のものだった。
「早坂総理、沈黙の外交」
「強硬一辺倒から転換か?」
篠原は苦笑した。
メディアは分かっていない。早坂は何も変わっていない。ただ、一日だけ、言葉を飲み込んだだけだ。
だが、それだけで十分だった。
その日の午後、中国が予定していた大規模演習は、突如縮小された。
理由は不明。だが、外交筋は囁いた。
「日本が予想外の動きをしたから、中国も様子見に入った」
────
6月。
篠原は再び早坂と会った。今度は非公式に、都内のホテルのラウンジで。
早坂は紅茶を飲みながら言った。
「あの日の沈黙、効果はありました」
「ええ」
「だが、私は変わりませんよ、篠原さん」
早坂は微笑んだ。
「私は今でも、覚悟は必要だと思っています。日本人は目を覚ますべきだと思っています」
「私もそう思います」
篠原は答えた。
「ただ、覚悟と叫ぶことは違う。目を覚ますことと、相手を煽ることも違う」
早坂は紅茶を置いた。
「難しいですね」
「外交は、常に難しいものです」
二人は、しばらく黙っていた。
窓の外では、初夏の陽射しが東京の街を照らしていた。
早坂が口を開いた。
「篠原さん。一つ質問があります」
「はい」
「あなたは、私のことを危険だと思っていますね」
「……ええ」
「では、なぜ協力してくれるのですか? 私を引きずり降ろせばいいじゃないですか」
篠原は首を振った。
「総理。あなたは危険です。だが、必要でもある」
「必要?」
「この国には、逃げる者が多すぎる。平和ボケした者が多すぎる。あなたのような存在がいなければ、日本はただ流されるだけです」
篠原は早坂を見た。
「だが、あなただけでは、この国は燃え上がってしまう。だから、誰かがブレーキをかけなければならない」
早坂は笑った。
「つまり、私は火で、あなたは水だと?」
「そうかもしれません」
篠原も微笑んだ。
「火は必要です。だが、燃え広がらないように、誰かが見張っていなければならない」
早坂は立ち上がった。
「分かりました。では、これからもあなたには、私を監視してもらいましょう」
「光栄です」
二人は握手を交わした。
早坂が去った後、篠原は一人、窓の外を見た。
東京の街。平和な日常。笑い、働き、生きる人々。
この風景を守るために、何が必要か。
覚悟か。
沈黙か。
それとも——
篠原は呟いた。
「両方だ」
覚悟を持ちながら、軽率に叫ばない。
備えながら、煽らない。
愛国を胸に秘めながら、感情に流されない。
それが、本当の強さだ。
篠原はコーヒーを飲み干し、席を立った。
外の世界では、まだ火種がくすぶっている。
だが、少なくとも今日は、誰も火をつけなかった。
それだけで十分だ。
明日も、また。
この物語を書きながら、私はガンディーの唱えた
非暴力・不服従という思想を思い出していました。
不服従とは、声を荒らげることでも、拳を振るうことでもありません。
そして、意思を表明する手段は、強い言葉だけではない。
沈黙もまた、明確な意思表示です。
言わないと決めること。
語らないという行動を選ぶこと。
それは逃避ではなく、屈服でもありません。
言葉の力と危険性を理解した者だけが取れる、能動的な選択です。
煽らず、逃げず、だが従わない。
”備え”ながら、”軽率”に叫ばない。
この物語の沈黙が、
弱さではなく、意志として読まれることを願っています。




