表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

覚悟という名の火種

掲載日:2026/02/11

 

 2026年4月。東京は花見客で賑わっていた。

 だが、スマートフォンの画面に映るニュースは、桜の下で笑う人々の表情を少しずつ歪ませていた。

「中国海軍、台湾海峡で大規模演習」

「米国務長官『台湾防衛の意志は揺るがない』」

「日本政府、自衛隊に警戒態勢を指示」

 篠原誠は、目黒川沿いのカフェでコーヒーを飲みながら、テレビに映る内閣総理大臣・早坂真奈美の記者会見を見ていた。


「日本国民の皆様。我が国は、自由と民主主義を共有する台湾の危機を、決して他人事とは考えません。改めて申し上げますが台湾有事は日本有事です。我が国には、断固たる覚悟があります」


 早坂の声は力強く、明瞭だった。彼女の背筋は真っ直ぐで、目には揺るぎない決意が宿っていた。

 記者席から質問が飛ぶ。


「総理、中国は日本側の発言を『挑発』と非難していますが」


 早坂は即座に答えた。

「挑発ではありません。事実です。日本は平和を望みますが、侵略に屈する国ではありません。全国民の生命と財産を守るためなら、いかなる犠牲を払おうとも我々は戦う覚悟を持っています」


 テレビの前で、誰かが拍手した。カフェの隅で、初老の男性が「その通りだ」と呟いた。

 篠原は、コーヒーカップを置いた。

 彼は元外交官だった。20年間、外務省で中国担当を務め、北京の日本大使館にも勤務した。現在は退官し、都内の大学で国際政治を教えている。

 彼には分かっていた。

 早坂の言葉は....正しい。

 だが、正しすぎる!

 必要以上に強く、必要以上に頻繁で、必要以上に感情的だ。

 そして何より——中国に、格好の口実を与えている。

 篠原はスマートフォンを取り出し、中国の環球時報の日本語版を開いた。案の定、早坂の発言が大きく取り上げられていた。

「日本右翼政権、再び軍国主義の道を歩む」

「早坂政権の挑発的発言、地域の平和を脅かす」

「日本は歴史の教訓を忘れたのか」

 篠原は溜息をついた。

 この構図は、何度も見てきた。

 強硬な言葉は国内では拍手を浴びる。だが外交の現場では、相手に「被害者」の立場を与え、国際世論を操作する材料を提供する。

 言葉は武器だ。

 だが、使い方を間違えれば、自分の喉を切り裂く。


 ────


 その夜、篠原は旧友の田中と飲んでいた。

 田中は大手商社に勤める男で、妻と二人の子供がいた。彼はビールを三杯空けた後、唐突に言った。


「俺、有事になったら家族連れてシンガポールに逃げるわ」


 篠原は驚いて田中を見た。

「本気か?」


「本気だよ。会社も了解済み。海外拠点への『一時転勤』という形で手続きは整ってる。台湾に中国軍が上陸した瞬間、俺たち家族は成田から飛ぶ」


「……逃げるのか」


「逃げるんじゃない。守るんだよ。大切な家族を」

 田中は真剣な顔で言った。


「お前だって分かってるだろ? 日本が戦争に巻き込まれたら、どうなるか。まずミサイルが飛んでくる。インフラが止まる。食料が尽きる。そんな中で、子供を守れるか? 仮にアメリカの支援があっても俺には到底無理だ」


「だが——」


「だが、何だ? 愛国心か? 篠原、お前は独身だから言えるんだよ。守るべき者がいる人間は、綺麗事じゃ生きられないんだよ」


 篠原は黙った。

 田中の言葉は、理解できた。彼は逃げているのではない。選択しているのだ。家族という、何よりも優先すべき存在のために。

 だが同時に、篠原は思った。

 全員が逃げたら、この国はどうなる?


「田中、お前みたいな人間ばかりになったら、日本国は終わるぞ」


 田中は苦笑した。

「終わらせるのは、俺じゃないな。『覚悟』とか『戦う』とか軽々しく口にするインフルエンサーや政治家。特に早坂、あいつは安全な場所にいるから、そんなことが言えるんだ。戦うのは自衛隊だろ...」


 篠原は反論しようとして、やめた。

 田中の怒りは、的外れではなかったからだ。


 ───


 翌週、篠原は大学の研究室で論文を書いていた。

 そこへ、学生の一人が駆け込んできた。


「先生! テレビ見ました? 総理がまた!」


 篠原は研究室の小さなテレビをつけた。

 国会中継が流れていた。早坂総理が、野党議員の質問に答えていた。


「……ですから、私は申し上げているのです。日本国民は、平和ボケから目を覚ますべきだと。中国の脅威は現実です。台湾が陥落すれば、次は沖縄です。そして本土です。私たちには、戦う覚悟が必要なのです!

 戦え....戦はなければ勝てない!」


 早坂の声は熱を帯びていた。与党席から拍手が起こった。

 野党議員が反論する。


「総理、あなたのその発言こそが、中国を刺激しているのではありませんか!」


 早坂は即座に切り返した。


「刺激? 違います。これは事実の指摘です。侵略国家に配慮して黙っていろと、そうおっしゃるのですか? それこそ、戦前の『空気を読め』という全体主義ではありませんか!」


 また拍手。

 学生が興奮気味に言った。


「先生、マナちゃん、かっこよくないですか? ちゃんと言うべきことを言ってるし」


 篠原は答えなかった。

 彼はテレビを消した。

 学生は不満そうに言った。


「先生は、早坂総理のこと嫌いなんですか?」


「嫌いじゃない」

 篠原は短く答えた。


「ただ、危険だと思っている」


「危険?」


「言葉は武器だ。だが、武器を振り回せば、敵だけじゃなく味方も傷つける結果になる。早坂総理の言葉は、中国に確実に口実を与え続けている」


 学生は首を傾げた。

「でも、黙ってたら舐められるんじゃないですか?」


「外交は、声の大きさで決まるものじゃない」


 篠原は立ち上がり、窓の外を見た。


「本当に強い国は、無駄な言葉を使わない。静かに準備し、静かに行動する。叫ぶのは、弱い者の特権だ」


───


 5月半ば。篠原のもとに、一通のメールが届いた。

 送り主は、内閣官房の古い知人だった。


「総理が、あなたと話したがっている」


 篠原は驚いた。

 早坂真奈美と自分に、接点はない。だが、どうやら篠原の論文——「強硬外交の危険性」と題した最近の寄稿——が総理の目に留まったらしい。

 一週間後、篠原は総理官邸の一室にいた。

 部屋には、早坂総理と篠原、そして官房長官の三人だけ。

 早坂は、テレビで見るよりも小柄だった。だが、その目には誰よりも強く輝く光があった。


「篠原さん。あなたの論文、読ませていただきました」


 早坂は穏やかに言った。

「私の外交姿勢を『危険』と評されていましたね」


 篠原は頷いた。

「はい。率直に申し上げれば、総理の発言は中国に利用されています」


「利用?」


「総理の強硬発言は、中国国内のナショナリズムを煽り、中国政府に『日本国の脅威』という大義名分を与えています。結果として、台湾侵攻の正当化に使われている」


 早坂は微笑んだ。

「では、黙っていればいいと?」


「そうは言っていません。備えることは必要です。だが、煽る必要はない」


「煽っているつもりはありません。事実を述べているだけです」


 篠原は首を振った。

「事実の述べ方、にも技術があります。総理は必要のない場面で、必要以上に強い言葉を選んでいるでしょう」


 早坂の表情が、わずかに硬くなった。

「篠原さん。あなたは外交官でした。だから分かるはずです。日本がどれだけ舐められてきたか。どれだけ譲歩してきたか。その結果、中国は増長し、今や台湾...いや、世界を飲み込もうとしている」


「それは事実です」


「ならば、もう黙っている時代は終わったのではありませんか? 日本は声を上げるべきです。覚悟を示すべきです」


 篠原は、早坂の目を見た。

「総理。あなたの覚悟は本物です。私はそれを疑っていません」


 早坂は少し驚いた表情を見せた。

 篠原は続けた。


「だが、覚悟があるからこそ、慎重であるべきです。愛国は叫ぶものではありません。防衛は感情論では成り立ちません。最も危険なのは、覚悟があるつもりで軽率な言葉を吐くことです」


 部屋に沈黙が落ちた。

 早坂は、長い間篠原を見つめていた。

 そして、静かに語った。


「あなたは、私が戦争を始めると思っているのですか?」


「いいえ」

 篠原は即座に答えた。


「あなたは戦争を始めない。だが、あなたの言葉は、戦争を確実に近づけている」


 早坂は立ち上がった。

 窓の外を見ながら、彼女は言った。


「篠原さん。私には二つの恐怖があります」


「一つは、中国に侵略されること。もう一つは——」


 早坂は振り返った。

「——日本人が、戦う意志を完全に失うことです」


「総理」


「田中さんという方をご存知ですか? 世論調査で会った、ある男性です。彼は私にこう言いました。『有事になったら、私は国外に逃げます』と」


 早坂の声には、悲しみが滲んでいた。

「彼だけではありません。若者の多くが、そう考えています。この国を捨てる準備をしている。それが、私には耐えられないのです」


 篠原は黙っていた。

 早坂は続けた。


「だから私は、叫ぶのです。『覚悟を持て』と。『逃げるな』と。それが煽動に見えるなら、構いません。少なくとも、誰かの心には届くはずです」


「総理」


 篠原はゆっくりと言った。

「人は、恐怖では動きません。強制では動きません。彼らが留まるのは、この国に留まる価値があると信じられた時だけです」


「価値?」


「そうです。愛すべき何か。守るべき何か。それは『覚悟』という言葉では生まれません。静かな誇りと、日々の安心から生まれるものなんです」


 早坂は、長い沈黙の後、微笑んだ。


「篠原さん。あなたは理想主義者ですね」


「....現実主義者です」


 篠原は立ち上がった。

「総理。お願いがあります」


「何でしょう」


「今日の午後の会見、中止してください」


 早坂は目を見開いた。

「なぜです?」


「中国が今朝、台湾周辺で新たな演習を発表しました。総理が何か言えば、それは必ず強硬な内容になる。そして、今、中国はそれを確実に利用します」


「では、黙っていろと?」


「一日だけ。沈黙してください。それが、今最も強いメッセージになります」


 早坂は篠原を見つめた。

 長い沈黙。

 そして、彼女は官房長官に言った。


「会見、延期で」


───



 その日の夕方、日本中のメディアが混乱した。

 予定されていた総理会見が、突然中止されたのだ。

 理由は「体調不良」とされたが、誰もそれを信じなかった。

 野党は「弱腰だ」「逃げるな」「無責任」と批判した。

 与党内からは「なぜ黙る」と不満の声が上がった。

 中国メディアは「日本政府、対応できず混乱」と報じた。

 だが、台湾の総統府は、短い声明を発表した。


「日本政府の慎重な姿勢を評価する」


 そして、アメリカ国務省の報道官が記者会見で言った。


「日本は冷静に状況を見極めている。これは同盟国として、非常に成熟した対応だ」


 翌朝、篠原は新聞を広げた。

 一面には、早坂総理の写真。だが、見出しは予想外のものだった。


「早坂総理、沈黙の外交」


「強硬一辺倒から転換か?」


 篠原は苦笑した。

 メディアは分かっていない。早坂は何も変わっていない。ただ、一日だけ、言葉を飲み込んだだけだ。

 だが、それだけで十分だった。

 その日の午後、中国が予定していた大規模演習は、突如縮小された。

 理由は不明。だが、外交筋は囁いた。


「日本が予想外の動きをしたから、中国も様子見に入った」

 

────


 6月。

 篠原は再び早坂と会った。今度は非公式に、都内のホテルのラウンジで。

 早坂は紅茶を飲みながら言った。


「あの日の沈黙、効果はありました」


「ええ」


「だが、私は変わりませんよ、篠原さん」


 早坂は微笑んだ。

「私は今でも、覚悟は必要だと思っています。日本人は目を覚ますべきだと思っています」


「私もそう思います」


 篠原は答えた。

「ただ、覚悟と叫ぶことは違う。目を覚ますことと、相手を煽ることも違う」


 早坂は紅茶を置いた。

「難しいですね」


「外交は、常に難しいものです」


 二人は、しばらく黙っていた。

 窓の外では、初夏の陽射しが東京の街を照らしていた。

 早坂が口を開いた。

「篠原さん。一つ質問があります」


「はい」


「あなたは、私のことを危険だと思っていますね」


「……ええ」


「では、なぜ協力してくれるのですか? 私を引きずり降ろせばいいじゃないですか」


 篠原は首を振った。

「総理。あなたは危険です。だが、必要でもある」


「必要?」


「この国には、逃げる者が多すぎる。平和ボケした者が多すぎる。あなたのような存在がいなければ、日本はただ流されるだけです」


 篠原は早坂を見た。

「だが、あなただけでは、この国は燃え上がってしまう。だから、誰かがブレーキをかけなければならない」


 早坂は笑った。

「つまり、私は火で、あなたは水だと?」


「そうかもしれません」

 篠原も微笑んだ。


「火は必要です。だが、燃え広がらないように、誰かが見張っていなければならない」


 早坂は立ち上がった。

「分かりました。では、これからもあなたには、私を監視してもらいましょう」


「光栄です」


 二人は握手を交わした。

 早坂が去った後、篠原は一人、窓の外を見た。

 東京の街。平和な日常。笑い、働き、生きる人々。

 この風景を守るために、何が必要か。

 覚悟か。

 沈黙か。

 それとも——

 篠原は呟いた。

「両方だ」

 覚悟を持ちながら、軽率に叫ばない。

 備えながら、煽らない。

 愛国を胸に秘めながら、感情に流されない。

 それが、本当の強さだ。

 篠原はコーヒーを飲み干し、席を立った。

 外の世界では、まだ火種がくすぶっている。

 だが、少なくとも今日は、誰も火をつけなかった。

 それだけで十分だ。

 明日も、また。

この物語を書きながら、私はガンディーの唱えた

非暴力・不服従という思想を思い出していました。

不服従とは、声を荒らげることでも、拳を振るうことでもありません。

そして、意思を表明する手段は、強い言葉だけではない。

沈黙もまた、明確な意思表示です。

言わないと決めること。

語らないという行動を選ぶこと。

それは逃避ではなく、屈服でもありません。

言葉の力と危険性を理解した者だけが取れる、能動的な選択です。

煽らず、逃げず、だが従わない。

”備え”ながら、”軽率”に叫ばない。

この物語の沈黙が、

弱さではなく、意志として読まれることを願っています。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ