「魅了の術を使っている!」と断罪された、ピンク髪姫の真実
「男を惑わす妖女よ! 魅了の術を使っているのでしょう? 今日こそ、正体を暴いてみせるわ!」
夜会の会場に、ズラタ王女の鋭い声が響き渡った。
私、マリアナ・ヴィーリイは、手にしていたグラスを落としそうになり、慌ててテーブルに置いた。
王女が指差す先には、若草色の瞳を見開き、明らかに戸惑った様子のペマ姫が立っている。柔らかなピンク色の髪が灯りを受けて揺れていた。
彼女を守るようにして、オデサリス王国王太子ドミトル殿下、宰相子息ミコラ様、騎士団長子息イヴァン様、そして魔術師団長子息ラファエル様が周囲を固めている。
私は彼女と同じピンク色の髪を押さえ、小さく呟いた。
「……面倒なことになった」
*
私の家は男爵家だが、領地を持たない名誉爵位である。
祖父はもともと他国の人間で、使い捨てられていた魔道具の魔石を繰り返し使えるようにする画期的な再利用技術を考案した。
その功績により祖父は男爵位を授けられた。他国出身者への叙爵は異例だったが、それほど価値のある発見だったのだ。
祖父が受け入れられた理由は単純だ。祖母が連れてきたからである。
祖母イゾルダ・ヴィーリイは子爵家の令嬢で、ある日突然「世の中を見たい」と放浪の旅に出た。そして旅先で祖父を見つけ、そのまま連れ帰ってきた。
豪快すぎる。
祖母が祖父を見初めた理由は「サクラみたいだったから」。
祖父は珍しいピンク色の髪をしていた。サクラという言葉を誰も知らなかったが、私は分かる。前世が日本人だからだ。
祖母も転生者だったのではないかと私は思っている。
だが、そのことを確かめる前に祖母は亡くなってしまった。
前日に酒を飲み、楽しく過ごし、翌朝起きてこなかった。葬儀を終えた祖父も、三日後、同じように起きてこなかった。本当に仲の良い夫婦だった。
私が前世の記憶を完全に取り戻したのは、その直後。十二歳の時だ。
もう少し早く思い出していれば、祖母といろいろ話ができたのに。
祖父母の間には、息子ばかりが五人生まれた。
そんな一族の中で初めての娘として私が生まれた時は、お祭り騒ぎだったらしい。
妹が生まれた時も、やはり大騒ぎだった。
さらに末の妹が生まれた時、祖父がぽつりと呟いた。
「また女の子なんだ」
跡継ぎの息子を期待されたと思った母は泣き、父は怒り、祖母は無神経だと祖父を殴り倒した。
ただ、祖父に悪気はなかった。祖父の一族は男性ばかりが生まれる家系で、不思議に思っただけらしい。
祖父母の遺品を整理していた時、私は不思議なものを見つけた。
小さな木箱の中に、見慣れない文字が刻まれた護符が入っていた。祖母が旅先で手に入れたものだろうか。
護符の裏には、祖母の筆跡で「約束」とだけ書かれていた。何なのかは分からないまま、私はそれを大切にしまっておいた。
祖父の代で立ち上げた商会は、魔石再利用技術を核に大いに繁盛している。
長女である私は、婿を取って家を継ぐ必要があった。
ここオデサリス王国では、婚約は十八歳前後に結ばれるのが一般的だ。
幼い頃に結ばれた婚約は、派閥争いや性格の不一致で解消されることも珍しくなかったそうで、早い婚約は避けられるようになった。
もちろん、結婚相手を親が決めることも多い。
だが貴族の出会いの主な場所は、王立学園だ。
学園は男女で校舎が分かれているが、舞踏会や記念祭など、定期的な交流の場は設けられている。
建前では「礼節を学ぶための社交訓練」。実際は――そういうことだ。
男爵家とはいえ、王立学園へ進学できたことは嬉しかった。学園での学びにも興味があった。
ただ入学前から不安はあった。
我が家は商会を営む新興の男爵家。宮廷に出入りすることもなければ、他の貴族の邸宅で茶会に呼ばれたこともほとんどない。
母は平民出身だし、祖母は子爵家の出とはいえ社交界とは無縁の自由人だった。
貴族の子女が幼い頃から身につける作法や暗黙の了解――誰と誰が親戚で、どの家がどの派閥に属し、誰の顔色を窺うべきか。そういうことを私は知らない。
前世の記憶で「社会には見えないルールがある」という理解はある。でも、この世界の貴族社会の具体的な力関係は分からなかった。
父に聞いても「うちは商売で成り立っている家だからな」と苦笑するだけだった。
そして学園生活が始まったわけだが。
入学してしばらく経っても、私の周囲は驚くほど静かだった。挨拶は交わすし、必要な会話もある。けれど、そこから先がない。
……なぜ?
ふと昔の記憶がよみがえる。このピンク色の髪。家族の中では、私と父と祖父だけがこの髪色だ。
幼い頃、それを理由に陰口を叩かれたことがある。そのときは祖母が烈火のごとく怒り、相手の子を容赦なく叱り飛ばした。私は私で、口で言い負かした。
泣きそうになった私の頭を、祖母は優しく撫でて言った。
――あなたの髪の色は、お祖父さんと同じ色。とても素敵よ。
近所の人たちは慣れて何も言わなくなったが、学園は初めて会う人ばかりだ。
やはり髪のせいだろうか。胸の奥が少しだけざわついた。
ただ、原因を探る術はない。
私は割り切った。せっかく入学できたのだ。一人でも学園生活を楽しんでやる。
そう決めたある日。
中庭を通りかかった私は、思わず足を止めた。
……眩しい。比喩じゃない。本当に、眩しかった。
金髪碧眼の王太子殿下。黒髪に鋼色の瞳を持つ宰相子息ミコラ様。赤髪に琥珀色の瞳の騎士団長子息イヴァン様。栗色の髪に翠の瞳の魔術師団長子息ラファエル様。
容姿も家柄も完璧な彼らは、光り輝く者たちと呼ばれていた。
そして、その中心にいるのが――淡いピンク色の髪を揺らす少女。
トアレン国から留学中の王女、ペマ姫。
トアレン国が近頃注目されていることは、私も知っていた。魔鉱石の鉱脈が見つかったのだそうだ。
その王女を、美麗な男性たちが取り囲んでいる。節度を守れば学内での男女の会話は許されているが――あれはどう見ても、逆ハーレムだ。
私が凝視していると、ペマ姫と目が合った。
「あら」
彼女が、声をかけてきた。
「そこの方、私と同じ髪の色ですのね。もしかして……」
彼女がこちらへ歩いてくる。キラキラ眩しい面々も一緒だ。
「マリアナ・ヴィーリイと申します。ペマ姫殿下」
「……ヴィーリイ」
小さく繰り返す声には、単なる挨拶とは違う響きがあった。
ペマ姫は微笑んだ。
「ずっとお話ししたいと思っていましたの」
他国の王女殿下が、男爵家の娘にわざわざ声をかける。
それがどれほど異例なことか、当時の私には分かっていなかった。ただ素直に嬉しかった。
――こうして私は、半ば強引に光り輝く者たちの一員に加えられてしまった。
それから数か月。私はペマ姫とすっかり親しくなり、輝かしい顔ぶれにも慣れてしまった。
彼女は頭の回転が速く、話が面白い。王太子殿下たちも個性的だが、好人物だ。
ちなみに、ペマ姫とドミトル殿下、イヴァン様、ラファエル様は二年生。ミコラ様は私と同じ一年生。ミコラ様とイヴァン様は従兄弟同士だという。
……こういう家同士の繋がりも、他の生徒たちは当然のように知っているらしかった。私だけが「へえ」と驚いている。
「知らないことは恥ずかしくないですよ」
そう言ってくれたのはミコラ様だった。
「マリアナ嬢の驚きはいつも新鮮で……つい、僕も話したくなります」
穏やかな口調に、私は肩の力が抜けた。祖母と同じ黒髪ということもあり、自然と親近感を覚える。
「あなたは、ペマ姫に似ていますね」
「え? 色が同じなだけです。私は無作法ですし、姫様と似ているなんてとんでもない」
「いえ……そんなことありませんよ」
少し間があって、彼は言葉を足した。
「物怖じせずに聞いてくるところが、とても好きですよ」
微笑む表情に、胸が高鳴った。
でも、きっと私には分からない、貴族特有の言い回しなのだろう。
彼らと一緒に過ごす時間が、いつの間にか大切なものになっていた。
ただ――気になることもあった。
ペマ姫は男子生徒としか話さない。
もともと彼女の世話役はズラタ王女殿下が務めていたらしい。しかし卒業を控え、多忙を理由にその役目はドミトル殿下へ引き継がれた。
そのためか、休み時間は光り輝く者たちと過ごしているのだが――距離が近い。
彼らも、それを当然のように受け入れている。彼女と共にいること自体が褒美であるかのように。
別の日の昼休み、中庭で目にしてしまった。ペマ姫がラファエル様と顔を寄せ合い、楽しげに話していたのだ。
ラファエル様の瞳が姫を見つめている。あの眼差しは――ただの友人に向けるものではなかった。
それを見ていた女子生徒たちが、囁き合う。
「ねえ、あれ……」
「ラファエル様が、あんなふうに女性と接するなんて」
「トアレン国って、よく分からない秘境の国でしょう? 何か怪しい術でも……」
耳を塞ぎたくなった。けれど――確かに違和感はある。
別の日、図書館でラファエル様を見かけた。彼は女性の服飾に関する本を探していた。
ペマ姫が興味を持ちそうなものを選んでいる。その表情は――崇拝に近かった。
あれは単なる好意なのだろうか。それとも――。
私だって、疑問に思わなかったわけではない。
ペマ姫が何か特別な力を持っているのではないか。そんな考えが脳裏をよぎることもあった。
それでも――ペマ姫は私に親切だった。
男性との付き合いにもきちんと一線を引いているように見えた。夜に会うことはなく、部屋で二人きりになることもない。
ミコラ様も言っていた。
「姫殿下は話に夢中になると距離が近くなりますが……指摘すれば、改めてくださいます」
皆もそのうち分かってくれる。そう思っていた。
ある日、女子生徒の一人が、ペマ姫に声をかけようとしているのが見えた。
「あの……ペマ姫殿下――」
彼女が一歩踏み出した、その瞬間。
廊下の向こうに、ズラタ王女殿下の姿があった。
女子生徒は、はっとした様子で立ち去ってしまった。
何度か、同じような場面に出くわした。
前世の記憶にある「空気を読む」という感覚が、ぼんやり重なった。
そんな日々のなか、いつしかミコラ様と話す時間が、私の心を慰めるようになっていた。
彼は宰相の子息でありながら、政治よりも商いに興味があるという。
商会の仕組みについて質問する時も知ったかぶりをせず、分からないことを素直に認める。
私はその誠実さに、少しずつ信頼を寄せていった。
「マリアナ嬢のご実家の商会は、仕入れの管理をどうされていますか?」
「帳簿は複式です。祖父が独自に考案した方式で……」
「複式? それは興味深い。ぜひ詳しく」
気づけば、私たちは話すことが増えていた。
「マリアナ嬢は、なぜ商会を継ごうと思われたのですか」
別の日、彼が唐突に尋ねた。
「義務だから、ではないでしょう?」
「……分かりますか」
真意を見抜かれて、私は驚いた。
「祖父の技術を、ちゃんと世に広げたいんです。祖父はもういないけれど……その仕事は、まだ途中だから」
「素敵ですね」
ミコラ様は静かに微笑んだ。
「僕も、そういう仕事がしたいと思っています」
*
――そして、交流の夜会の日がやってきた。
全学年の生徒が集まり、会場は華やかな雰囲気に包まれていた。
ペマ姫は相変わらず男性たちに囲まれ、楽しそうだ。
ドミトル殿下はいつも通り、姫の傍で周囲を見渡す。
ミコラ様は補佐のように動き、イヴァン様は騎士らしく控えめに立っている。
そして、ラファエル様。
彼はペマ姫の言葉に耳を傾けていた。姫が微笑めば彼も微笑み、姫が何かを指差せば身を乗り出す。
周囲の視線が集まっているのが分かった。
――その時だった。
「男を惑わす妖女よ! 魅了の術を使っているのでしょう? 今日こそ、正体を暴いてみせるわ!」
ズラタ王女殿下の声が響き渡ると、会場は一瞬で静まり返った。
ペマ姫が若草色の瞳を瞬かせる。
「ズラタ王女殿下……一体、何を仰っているのですか?」
「とぼけないで! あなたは複数の男性を誘惑し、囲い込んでいる。そんなことが許されると思って!?」
どうしよう。そう思っていたら。
「それに!」
ズラタ王女の指が、こちらを向いた。
「そこのピンク髪の娘も共犯でしょう! お前もトアレン国の者ね! 二人で術を使っているに違いないわ!」
会場中の視線が、一斉に私へ向けられた。
一瞬、息が詰まった。けれど同時に、頭のどこかが冷静だった。
交渉で理不尽な言いがかりを受けた時、感情を一度脇に置く。祖父が教えてくれたことだ。
「姉上!」
ドミトル殿下が立ち上がる。
「無礼にも程があります!」
「いいえ、これは事実を明らかにする正当な行為よ!」
ズラタ王女は懐から小さな杖を取り出した。
「これは魅了の術を探知する魔道具よ」
ざわめきが広がる。学園長が制止しようと立ち上がったが、ズラタ王女はすでに杖をペマ姫と私へ向けていた。
杖の先端の魔石が淡く点滅する。
不安定に明滅している。魔石の中で魔力が空回りしている。無理やり反応を引き出そうと魔力を流し込んでいるのだ。
魔石技術者の家で育った私には、すぐに分かった。
「……待ってください!」
私は声を上げていた。
足が竦んだ。でも、口は止まらなかった。
「ズラタ王女殿下。今の点滅は、暴走の前兆です」
「何を言っているの?」
「探知反応が出ないのに無理に魔力を流し続ければ、魔石が壊れます。お手を離してください、危険です!」
ズラタ王女が一瞬ためらった。
けれど、その手は離れなかった。
「黙りなさい! 共犯者の言葉など信用できるものですか!」
次の瞬間――魔石が激しく震え、音を立てて砕け散った。
「きゃあっ!」
悲鳴が上がり、破片が床に散らばる。ズラタ王女の手のひらから血が滲んでいた。学園長が素早く駆け寄り、その手を押さえる。
私の目に涙が浮かんだ。
怒りなのか悲しみなのか、自分でもよく分からなかった。
共犯者。
この髪の色を、そういうふうに言われたのだ。
祖母の声が蘇る。
――あなたの髪の色は、お祖父さんと同じ色。とても素敵よ。
「……私は、この国で生まれました」
声が震えていた。格好悪いけど構わない。
「トアレン国に行ったこともありません。魅了の術なんて知りません。――でも、魔石のことなら分かります」
私は床に散った破片を一瞥し、続ける。
「探知魔道具は、対象を感知すると青く輝きます。明滅しただけなのは、対象――つまり魅了の術が存在しなかったということです」
静寂が満ちた。
「……ヴィーリイ嬢の指摘は正しい」
学園長の低い声が会場に響いた。
「魅了の術は禁忌魔法です」
ラファエル様が、冷静な声で指摘する。
「そんなものが簡単に使えるはずがない。そもそも、使える人間がこの世にどれだけいると思っているのですか。複数に同時行使するなど、歴史上の記録にもありません」
――その時。
「あの……」
震える声が会場の後方から上がった。全員が振り返る。
一人の女子生徒が、勇気を振り絞るように前へ出てきた。
「私……ペマ姫殿下と、お話ししたかったんです。でも……」
彼女は俯く。
「ズラタ王女殿下が……気にされているように見えて……」
どよめきが広がった。
「私もです!」
次々と声が上がり、女子生徒たちが堰を切ったように語り始める。
「お怒りに触れるのではないかと……」
「だから、誰も近づけなかったんです」
ズラタ王女は、一瞬、何を言われているのか分からないという顔をした。
「私はそんなこと命じていないわ……!」
その声には戸惑いが混じっていた。皆、気まずそうに下を向く。
私は愕然とした。ペマ姫が女子生徒と話さなかったのではない。話せなかったのだ。皆がズラタ王女の内心を慮って。
ズラタ王女自身は指示などしていなかったのだろう。ただ不快を表に出した。それだけで周囲が勝手に壁を作った。
……私もそうだったのだ。
ズラタ王女の不興を買う可能性がある相手には、誰も近づかない。
「マリアナさんを巻き込まないでください」
ペマ姫が静かに、しかしはっきりと口を開いた。声はいつもよりずっと厳しい。
「彼女は何も関係ありません。髪の色が同じだというだけで――」
「でも、トアレン国の血が――」
「それ以上はいけません」低く抑えた声。イヴァン様だった。
「トアレン国を侮辱するおつもりですか」
「ペマ姫の国の文化については、姉上も授業で学んだはずです」
ドミトル殿下が一歩前に出て、静かに言った。
「トアレン国では、女性が生まれにくい。男女比は、およそ五対一。文化的背景から、複数の男性と親しくするのがペマ姫には当たり前なのです」
知らなかった。
周囲を見渡すと、高位貴族の生徒たちは知っている様子だった。
王族を含む高位貴族は授業内容が違うと聞いたことがある。驚いているのは、私と同じ下位貴族たちだった。
「私がペマ姫殿下の世話役になったのは、姉上が卒業を控えていたからです。他国の王族を遇するには同等の身分が必要です。姉上の後任として私が務めるのは当然でした」
会場がざわめいた。
王太子がペマ姫の傍にいたのは、恋心からではない。外交上の職務として引き継がれた役割だった。
イヴァン様が穏やかな声で続ける。
「私たちは自らの意思で、ペマ姫殿下と交流しています。私は、騎士を目指す者として姫殿下をお守りしておりました」
沈黙の中、ズラタ王女が声を絞り出した。
「……私は、間違っていたの?」
誰に向けた問いなのか分からない言葉だった。
ドミトル殿下が、静かに答える。
「姉上は……私を心配していたのでしょう」
ズラタ王女が、はっとして殿下を見る。
「異国の王女に囲われ、操られているのではないかと。王族として、身内として……恐ろしくなった」
会場が静まり返る。
「ですが」
殿下は、まっすぐ姉を見据えた。
「心配することと、決めつけることは違います。姉上は……恐れから、他者を傷つけた」
ズラタ王女は唇を噛みしめ、やがて深く頭を下げた。
「……過ちでした」
夜会はそのまま解散となった。
会場を出た後、ミコラ様が追いかけてきた。
「マリアナ嬢。大丈夫ですか」
「……ええ、まあ。膝はまだ笑っていますけど」
冗談めかして言ったつもりだったが、声は震えたままだった。
「あんな場所で名指しされて……平気なわけがないですよね」
ミコラ様は私の隣に並んで歩く。沈黙が、不思議と苦しくなかった。
しばらく歩いてから、彼は静かに言った。
「あの時、すぐに声を上げられなかった自分が情けないです」
「いえ、仕方ないと思います」
「それでも」
灯りに照らされた横顔が、いつもより少し大人びて見えた。
「次は、真っ先にあなたを守ります」
その言葉が、冷えた体の奥を温めた。
*
誤解は晴れた――はずだった。
けれど私の中には、まだ疑問が残っていた。
なぜペマ姫は私に声をかけたのか。なぜ、こんなにも親しくしてくれたのか。
夜会の翌日、ペマ姫は私と二人きりで話をしてくれた。
「ごめんなさい、マリアナさん。きちんと説明しておくべきでしたね」
「いえ……私こそ。ずっと疑問に思っていたのに、聞けなくて」
「気づいていましたのね」
ペマ姫は少し寂しそうに笑った。
「周囲の視線や噂に。でも、私にとっては当たり前の文化で……説明するという発想がなかったんです」
そして、考え込むように続ける。
「皆さま、理解してくださっていると思い込んでいました。でも、知識があることと、受け入れることは違ったのですね」
「だから、光り輝く者たちだけが……友人だったんですね」
「はい」
小さく頷く。
「私も、こちらの文化を十分に理解できていませんでした。距離が近かったのは、そのせいです」
申し訳なさそうに目を伏せた。
「それでも一線は引いていたつもりでした。婚約者ではありませんでしたから」
しばらく沈黙が続いた後、ペマ姫は私をまっすぐ見つめた。
「実は……マリアナさんと私には、縁があるんです」
「……縁、ですか?」
「マリアナさんのお祖母様――イゾルダ・ヴィーリイ様は、かつて私の国を訪れたことがあります。その出来事は今でも語り継がれているのです」
「え……?」
思わず声が漏れた。
「ロサン様――マリアナさんのお祖父様は、当時、私の国で婚約されていました」
私は目を見開く。
「トアレン国では女性が極端に少ないため……女性は『家の兄弟たち』の妻となります。兄弟全員が同じ女性を妻とする。女系相続なので問題はありません。それが私たちの文化なのです」
そんなこと考えもしなかった。
「イゾルダ様は、ロサン様の婚約者に向かってこう仰ったそうです。『あなたには、こんなにたくさん夫がいるのだから。この人を私にくれても、良いんじゃない?』と」
言いそうだ。ものすごく祖母らしい。
「その率直さに心を打たれた婚約者は、ロサン様の婚約解消を許し、他国へ行くことを認めたそうです」
ペマ姫は続けた。
「実はロサン様は、一妻多夫の形に馴染めなかった方で……イゾルダ様一筋だったとか」
柔らかく微笑む。
「そして私は、その『兄弟たち』の婚約者で、後に妻となった――当時の女王の孫にあたります」
一瞬、意味が理解できなかった。
「つまり……マリアナさんと私は、血縁関係にあるのです」
私は呆然とペマ姫を見つめる。
「だから……初めてお名前を聞いた時、分かったんです」
あの日、名前を告げた時に揺れた若草色の瞳。言いかけて飲み込んだ言葉。
「祖母の遺品の護符……あれは、トアレン国のものだったんですね」
「護符?」
ペマ姫が何かを思い出すように考え込む。
「それは……もしかして、私の祖母が別れの際にイゾルダ様と交わした誓いの護符かもしれません。トアレン国では、再会を約する時に対になる護符を交換するのです」
裏に書かれた「約束」。祖母は、いつかまたトアレン国と繋がる日を信じていた。そしてその約束は今、孫の世代で果たされようとしている。
「私が留学してきた理由は、いくつかあります」
彼女は静かに語った。
「一つ目は、近代化に伴い、一妻多夫という制度を見直す必要があったこと」
「なるほど……」
「二つ目は、男女比の偏りが魔鉱石の影響なのかを確かめるため。マリアナさんと妹さんたちは、その証明になりましたね」
少し頬を染め、彼女は続けた。
「最後は――夫探し、ですね」
「実は私もなんです」
私たちは顔を見合わせ、笑った。
「これからも、よろしくお願いしますね。親戚として……そして友人として」
「我が家の魔鉱石の技術が、問題解決に役立つかもしれません」
ペマ姫の瞳が輝いた。
*
ズラタ王女には処分が下された。
学園の卒業式への出席は許されず、王族の肩書も与えられないまま、外交部の一般職員として配属されることになった。
処分の理由は夜会での暴挙だけではない。ズラタ王女が自身の影響力を自覚していなかったこと――それ自体が危ういと判断されたのだ。
職務中、ズラタ王女が何気なく口にした一言で、場が凍りついた。相手は黙り込み、周囲は息を潜めた。
影響力とは振るうものではなく、在るだけで働くものだと、彼女は理解した。
外交の現場で求められるのは、権威ではなく信頼だった。彼女は少しずつ、自分の立ち位置を測ることを覚えていったという。
聞いた話では、今は真面目に仕事に取り組んでいるらしい。
人生はどうなるか、本当に分からない。
ペマ姫は、ラファエル様と婚約した。
あの夜会の後、ラファエル様はペマ姫に告白したのだという。
崇拝に見えた眼差しは――ただの恋だった。姫一人に向けられた、まっすぐな好意。
彼はトアレン国の一妻多夫の文化も理解した上で、それでもペマ姫を選んだ。
そしてペマ姫も、彼を選んだ。
「ラファエル様は、最初から私を一人の女性として見てくださっていました」
少し照れたように、ペマ姫は言った。
「文化を超えて、ただ一人を愛するというのは……私にとっても、新しい形でした」
トアレン国でも、一妻多夫以外の制度を取り入れる機運が高まっている。国としても意義ある婚姻だと判断され、婚約は無事に整った。
ドミトル殿下は婚約の報告を受けた際、穏やかに祝福したらしい。
イヴァン様は「騎士として姫殿下をお守りできたことを誇りに思う」と言い、以前と変わらずペマ姫の友人でいた。
ミコラ様は……別のことで忙しそうだったが。
――逆ハーレムだと思っていた出来事は、文化の違いによる誤解だった。
祖母も、きっと同じ驚きを経験したのだろう。そしてその違いを受け入れた。
この世界には、まだまだ知らないことがたくさんある。
ペマ姫とラファエル様の婚約を祝った後。
「僕のことは、ミコラと呼んで」
ミコラ様がこう言った。
彼とは話も合うし、もっと一緒に居たいと思っていたけど――。
「僕は侯爵家といっても三男だから。大丈夫だよ」
「大丈夫って……何が?」
「婿に入っても、問題はないってこと」
「違う言い方はないの!?」
「ごめん……。マリアナ、好きだよ」
私の顔は、たぶん髪と同じ色に染まっていた。
ミコラと一緒に我が家を訪れたら、両親も妹たちも大騒ぎをした。貴族らしくないが――温かい家族だ。
「マリアナ」
ミコラが私を呼ぶ。桜色の髪を風になびかせながら、私は軽やかに彼のもとへ駆けていった。




