批判は常に存在してる
ここで扱う批判は、学術的な批判ではなく、悪口を含んだ広い意味での『批判』です。
なんとなくだけど、自分への批判って常に存在してると思う。自分に批判が直接届いていなくても、いまこの瞬間も『自分』が持っている特徴を批判している人間はどこかにいる。
だから、たった1つの批判に負けないで
『自分』って、いろんな特徴からできてる。
例えば、「人間」だったり、「髪が長い」「髪が無い」、「〇〇が好き」、「胸がない」「ネイルをしてる」とかいろいろある。そんな情報たちが集まって出来上がったのが『自分』だ。
僕は、こう言った複数の情報が集まって1つになった物を『複合的情報物』と呼んでいる。
つまり、『自分』が情報の集まりである『複合的情報物』である以上、偶然、目に入った批判に『自分』を構成している特徴が含まれていても何ら不思議ではない。
そういった偶然目に入った批判は自分に向けられたものではない。本当に偶然、自分の特徴みたいな物が批判されているだけである
言葉や文字は全てを語らない。だから、「〇〇ってダメだよね」と書かれていたとしても、そうではない。
その批判は、その人が見た人を批判している。
限りなく他人である自分のことではない。
世の中に存在している物の全ては批判可能だ。どんな物でも見る角度さえ変えれば批判できる。なぜなら、物質も言動も単純なものではなく、『自分』と同じ複合的情報物だからだ。
見る角度さえ変えれば、あらゆる物事は批判が可能になる。そう考えた場合、全ての物は常に批判されている。その批判たちに、学術や社会的に正当な意義があるかはまた別の話だ。
逆を言えば、自分を肯定する声も常に存在している。
必ずどこかで誰かに応援されてる。
このエッセイも応援だ。
僕は見知らぬ誰かを応援してる。
批判されても安心して。
このエッセイは君を応援している。
だから、1つの批判に負けないで
1つの批判で『自分』を表現する事を諦めないで。
(あの、、、、)
( 小声で話すんですけど、、、、このエッセイは誤って投稿された物です(恥)。活動報告の方に『どんなものでも批判できる』という主張の具体例と本来このエッセイに入れるはずだった要素を書きました。乱文乱舞でちょっと読みにくいかもしれません。もし、お暇でしたらそちらもご覧ください。 )




