第1話「5人入社、5人退職」
月曜の朝、エレベーターの扉が開くたびに、冷たいビルの空気が廊下に吐き出される。
革靴が床を叩く乾いた音と、消毒液とコーヒーの混じった匂いが鼻をつく。
ロビーに並んだ五人の新人。
スーツは新品特有の硬さを残し、襟元にはアイロンの折り目がくっきりと残っている。
手に持つビジネスバッグの持ち手を、白くなるほど握りしめているのが見えた。
額にはうっすらと汗。
冷房の効いたフロアなのに、緊張で体温が上がっているのだろう。
「おはようございます!」
声だけは張っているが、足元はぎこちない。
――私もかつて、あの列の中にいた。
22歳の春、初任給で両親に何か買ってあげようと密かに決めていた。
自分の数字で会社を動かすつもりでいた。
だが、それは一か月も経たないうちに打ち砕かれた。
この男――氷室宗一が、笑いながら踏みにじった。
金曜の夜、その五人のうち何人が残るだろう。
多くて二人。残りは――机の上に未開封のカップ麺を置き、ロッカーにワイシャツをかけたまま、姿を消す。
電話も出ない。メールも返らない。
会社では、それを「飛ぶ」と呼んでいた。
飛んだ者の机は、翌朝には片付けられる。
蛍光灯の白い光に照らされた空の机は、まるでそこに人がいたことすら最初からなかったかのように無機質だった。
置き去りにされた私物の箱からは、時折、芳香剤の甘ったるい匂いが漂う。
それは、職場の殺伐とした空気の中で唯一“人間”を感じさせる匂いだった。
氷室宗一――社長。
背広の肩は少し落ち、だが目だけはぎらぎらと光り、獲物を睨む鷹のようだった。
低く響く声は、最初は穏やかに聞こえる。
だが一度「数字」に触れると、空気が一変する。
「今週の数字は?……おい、なんだその額は」
一歩近づくたびに、安い整髪料とタバコの臭いが混じった風が頬にかかる。
それと同時に、拳が机を叩く衝撃音が腹に響く。
ガラスのコップが小さくカタリと震え、その中の麦茶が表面張力を破って波紋を広げる。
「逃げる奴は裏切り者だ。見つけ出してでも数字を取らせる」
その言葉は、冷たい金属のように耳にこびりついた。
――そして今。
私は介護施設の面談室で、入所記録を手にしている。
ボールペンを握る指先に、あの時と同じ冷や汗が滲む。
名前欄には――「氷室宗一」。
介護の仕事は重労働だ。
腰も痛めるし、認知症の対応に心が折れそうになる日もある。
それでも、この職場には“ありがとう”がある。
人を数字で測らない。
感謝の言葉や笑顔で、心のどこかが温まる。
あの会社では決して得られなかったものだ。
……だが、その温かさの中に、氷室を生かす理由はない。
紙が、握る手の熱でわずかに湿っていく。
かすかに感じる、加齢臭と消毒液の匂い。
その奥に、あの臭い――タバコと整髪料の混ざった匂いが、一瞬よみがえった気がした。
私は深く息を吐いた。
数字の終わりを、ここで見届けるために。