第4話
数日ぶりに晴れた午後。
シシィは使用人長から声をかけられ、薬草庫の整理を命じられた。
「あの薬草庫……担当が休暇に入ってるでしょう? しばらく放ってしまったから、見ておいてちょうだいな」
帰省、療養などの理由で、使用人が一時的にいなくなることは、王宮ではそう珍しい話でもない。
それでもシシィは、小さく首を傾げた。
――あの人、先週は「数日で戻る」って言ってなかったっけ……?
人違いかもしれないし、と、誰にも詳細を確認できないまま、シシィは薬草庫へ向かう。
近づくにつれて、埃のにおいと、微かに焦げたような香りが鼻先をかすめた。
戸を開けると、もわっとした空気が押し返してくる。
棚の上に積まれた薬草は、ところどころ茶色く変色していた。
瓶の並びは乱れ、ラベルの文字も褪せている。
そのとき、扉の外から軽やかな足音が聞こえた。
「シシィちゃん、お手伝いに来たよ~!」
ひょっこりと顔をのぞかせたのはアンナベルタだった。
どうやら使用人長とのやり取りを聞いていたらしく、エプロンを整えながら、うきうきとした足取りで近づいてくる。
「整頓、頼まれているんでしょ?薬草庫って、ちょっと不思議な香りがするから好きなんだよね。……あ、でも片付けるのは別かな〜?」
明るく笑う声に、続けて低い声がかぶさる。
「アンナベルタが言うから手伝ってあげるのよ。別に、あんたのためじゃないんだから」
ぶっきらぼうな声とともに、リリスが腕を組んで薬草庫へと入ってきた。
目元にはうっすらと憮然とした影を浮かべているけれど、アンナベルタの「リリスちゃんなら余裕だよねえ」という悪戯めいた称賛には、どこか得意げな様子で鼻を鳴らす。
「ほんとにちょっとだけなんだから」
「ありがとう……!とっても助かるし、嬉しいよ」
思わず零れたシシィの笑みに、リリスはふいと顔を背け、アンナベルタは満面の笑顔を返した。
「じゃあ早速始めようか〜?」
アンナベルタの一声で、三人はそれぞれ持ち場に散っていく。
棚を拭き、乾燥しかけた薬草を選別し、記録用の冊子に目を通す。
「やっば、すごい量じゃない、コレ……“タデ草”って何? 雑草じゃないの?」
リリスが不服そうに眉をひそめながら、渋々瓶を手に取る。
やる気がないわけではないけれど、どこか気だるげな動作。
「それはね、乾燥させて煎じると咳止めになるんだよ~」
アンナベルタが手を止めずに説明する横で、リリスがふと手を伸ばしたその瞬間――カラン、と小さな瓶が棚の上から転げ落ちた。
床に落ちて割れた瓶から、淡い緑の粉がふわりと舞い上がる。
空気が一変し、甘く、どこかふわふわとした香りが鼻をくすぐった。
「うわっ、なにこれ!?」
「リリスさん!口元を覆って!」
鋭い声が響いた。――シシィだった。
リリスは驚きに目を見開きながらも、すぐに袖で口元を覆う。
咄嗟の行動に迷いはなかった。
同時に、アンナが素早く一歩下がり、指を構えた。
「《風よ、巡れ。清らかな道を!》」
優しく吹き抜けた風が、庫内にこもった香気を巻き上げ、ぐるりと円を描くように空気を流していく。
その間にシシィは窓へ駆け寄り、薬草庫の上部にある小さな換気窓を開け放った。
ごうん、という大きな音に反して、優しい風が庫内を巡り、空気の流れを作った。
むわりと漂っていた眠気を誘う香りが、風に乗って一掃されていく。
「よかったぁ~……。誰もケガはない?」
「わたしは大丈夫」
「……ないわよ」
リリスは壁にもたれ、ふぅっと大きく息を吐いた。
「……アンタら、なにその連携プレー。……助かったわ」
思わず漏れた声に、シシィが照れたように笑う。
「数日前のお使いで、香気が危ない薬草って聞いていたから……とっさに思い出して」
「でも、あんなに早く判断できるのすごいよ、シシィちゃん!」
アンナベルタがにっこりと褒めると、シシィも「えへへ……」と笑って肩をすくめる。
「てか、アンナも風魔法の使い方完璧すぎ。あんな優しく風を起こせる人、知らないもん」
ふたりの会話を聞きながら、リリスは少し俯いた。
「……シシィが言ってくれたおかげで、ほとんど薬草を吸わずに済んだわ。……私が一番、足引っ張ってるじゃない……」
静けさが戻った薬草庫で、三人は割れた瓶と飛び散った薬草を前に立ち尽くす。
整頓途中だった他の瓶も倒れ、中身がどれとどれか分からない。
「瓶の中身、混ざっちゃってるよね……どうしよう……」
アンナベルタが目を瞬かせ、シシィも苦笑する。
そのとき――。
「ちょっとどいて。あたしがやる」
リリスがいつの間にかほうきとちりとりをもって立っていた。
腕まくりをし、さっと膝をついて作業を始める。
割れた瓶の破片を手早く集めながら、薬草も種類ごとにすばやく仕分けていく。
棚の構造もさっと見回し、要点だけを的確に見極めていくその姿は、どこか職人じみていた。
「この棚、下の支柱が折れてるし!あとで修理依頼出さなきゃね。……あ、アンタたち、その瓶はこっちの列にちょうだい。そっちは鎮静系のハーブでまとめるの」
「は、はいっ!」
言われるがまま動くシシィとアンナベルタ。
あれほどやる気のない様子だったリリスが、思いのほか素早く、手際よく作業を進めている。
しゃがみ込んだまま、リリスはちらりとふたりを横目で見る。
「……あたし三女だし、こういう雑務、昔からやらされていて慣れてんの!普段は本気出してないだけなんだから」
ふいと向こうを向いたリリスの耳は赤い。
「あたしの家、男爵家なの。といっても、父親が軍功あげて、ごく最近爵位をもらったって程度。根っこは庶民と変わらないし」
「そうだったんだ」
シシィが小さく頷く。
たしかに、特別使用人は平民ばかりで貴族はいないと、雑務係として王宮を回る中で耳にした。
リリスは棚のぐらつきを確認しながら、手慣れた手つきで持参の紐を取り出して、ささっと補強していく。
その横で、アンナベルタがふと思い出したように口を開いた。
「そういえば、私とリリスちゃんのお兄ちゃんって、王宮騎士団にいるんだよ〜。お兄さん、リリスちゃんのこと大好きなんだよね〜!」
「や、やめなさいよアンナ!あれはただの過保護!妹バカなの!」
リリスの顔がさらに真っ赤になる。
慌てて返す姿に、シシィも思わずくすっと笑ってしまった。
気づけば、ぐらついていた棚はしっかり応急処置がなされ、薬草もきれいに分けられ、床もすっかり片付いていた。
「かんせ〜い!」
「なんとか終わってよかった……!」
「これくらい当然でしょ?あたしの手際が良すぎて引いてるんじゃないでしょうね?」
ツンツンした口調とは裏腹に、リリスの表情はどこか誇らしげだった。
シシィとアンナベルタは、顔を見合わせて笑いあう。
「……私、王宮勤めが心配だったけど」
残った薬草瓶のふたを閉めながら、シシィがぽつりと呟く。
「へえ?そんな風に思うんだ。意外と真面目ね?」
リリスがからかうように眉を上げた。
「そりゃ真面目だよ〜。シシィちゃん、いつも各部署に挨拶回ってたし。ちゃんと努力してるの、私知ってるよ」
アンナベルタがふにゃっと微笑みながら言うと、シシィは思わず照れくさそうに笑った。
「……ふふ。ありがとう。二人もいてくれるし、良かったなって。改めて、これからよろしくね」
「ま、これで“薬草庫トリオ”結成ってわけね!あたしとアンナは兄同士も知り合いだし、今度はあんたとも繋がったってことでしょ?」
ツンとした言い方の中にも滲む優しさが嬉しい。
そんなリリスを見て、アンナベルタが少し悪戯っぽく笑う。
「薬草庫トリオって言い方、どうなのかなぁ~?」
「うーん……ちょっとヘンかも……?」
シシィもそれに乗っかって、リリスに笑みを返す。
「何よ!あたしのセンスにケチつける気!?」
三人でわいわい騒いで、思わず笑ったそのとき。
シシィはふと、入り口のドアの後ろに紙が落ちていることに気づく。
「……紙?」
扉の陰に落ちていたのは、小さく折りたたまれた一枚の古びた紙。
拾い上げると、うっすらと魔術陣のような複雑な図形と、掠れた走り書きが浮かんでいる。
「どうかした?……なんだろう、これ?見たことないね」
アンナベルタが覗きこむ。
「何か古い魔法関係なんじゃない?少なくとも最近の物ではなさそうだけど」
反対側からリリスも顔を寄せて、三人で紙を囲むように頭を突き合せた。
「これ……ちょっと気になるから、持っていってもいい?」
正体不明の古びた紙。
もしかして、こういった物が、密命に繋がるんじゃないだろうか?
胸の奥で何かがざわめいた。こんな偶然を見逃すわけにはいかない。
この薬草庫に落ちていたということは、誰かが“あえて”ここに置いたのかもしれない。
「いいわよ。あたしは構わない」
「もちろん、大丈夫だよ」
二人に礼を言いながら、シシィは紙をそっとポケットにしまった。
密命の手がかり。そして、かけがえのない仲間。
――今日は、充実した一日だったな。
薬草庫の整頓を終えた三人は、和やかな空気のまま連れ立って食堂へと向かっていた。
夕刻の回廊には少し涼しい風が吹き抜け、作業後の疲れもどこか心地よいものに感じられた。
曲がり角の向こうから、談笑しながら歩いてくる数人の騎士団員の姿が見えた。
「……ん?」
その中のひとり、先頭を歩く長身の騎士が、こちらに気づいて立ち止まる。
「おーい、リリちゃーん!」
「げっ……兄さん!?」
リリスが目を剥いたかと思うと、男は人懐っこい笑顔で駆け寄ってくる。
快活な声に、白い歯がきらりと光る。がっしりとした体格に、鍛えられた動き。
明るくて、ちょっと暑苦しいくらいの「陽」のオーラを纏った騎士だった。
「リリちゃ〜ん!元気そうで何よりっ!顔にホコリついてんぞ〜?よし取ったっ!」
目にもとまらぬ速さでホコリをとられ、頭をぐしゃぐしゃに撫でられ……リリスが叫ぶ。
「やめてってば!」
普段はツンとしているリリスも、兄の前ではいつもの調子が崩れてしまうようだ。
「ね?リリスちゃんのお兄さん……ガイルハルトさんって言うんだけど、話した通りでしょ?」
アンナベルタが満面の笑みでシシィに囁く。
「何っ!リリちゃんは俺の話をしてたのか……!?」
「違うわ!シシィとアンナが勝手に話していただけよ!」
リリスの頬が髪と同じような赤に染まっていくのがおかしくて、シシィはつい笑いが零れた。
そのとき、やや遅れて後ろからもう一人の騎士が歩いてくる。無駄のない所作と静かな歩調。
ただ立っているだけで背筋が伸びるような、静かな威厳があった。
そして、その隣に――見慣れた黒髪の騎士が現れた。
「テオスカー!」
「お兄ちゃん!」
シシィとアンナが声を揃えて呼ぶと、テオスカーが軽く手をあげて応えた。
二人は顔を見合わせて笑う。
「もしかして?」
「そう、私のお兄ちゃん〜。お兄ちゃん、こっちがシシィちゃん」
「あっ、はい!シシィ・バルトです。よろしくお願いします」
「妹のアンナベルタがいつも世話になってる。ありがとう。俺はルーデリヒ・フレイファー。王宮騎士団所属で、アンナの兄だ。」
にっこりと微笑むアンナに、彼も優しい目を向ける。
そしてその隣――シシィが視線を上げると、テオスカーと目が合った。
「アンナベルタさん、リリスさん、よろしく。俺はテオスカー・オストルム」
「テオスカーとシシィさんは知り合いなのか?」
隣にいたルーデリヒが、ちらとテオスカーを見やって尋ねた。
「はい。シシィは、俺の――」
一瞬言葉が詰まり、テオスカーの視線がわずかに宙を彷徨う。
感情の波が押し寄せるよりも先に、それを切り離すように、言葉を選び直した。
「……同郷の、幼馴染です」
「へえ!テオに幼馴染なんていたんだ。シシィちゃんね!俺はガイルハルト・リムドラン。よろしく〜!」
リリスの兄――ガイルハルトがぱあっと表情を明るくし、気さくにシシィへ手を差し出す。
「はい、よろしくお願いします!」
シシィがその手を取って笑った瞬間。テオスカーの視線が一瞬だけ逸れる。
わざとではなかった。叩かれそうになれば咄嗟に身を引くように、熱いものに触れたら手を離すように。
その笑顔が他の誰かに向けられたとき、感情が反応するよりも早く――身体が勝手に避けていた。
ただ、心配しているだけ。幼馴染だから、目を離せないだけ。
……そう自分に言い聞かせるような、どこかぎこちない表情を浮かべたことに、誰も気づいていない。
「アンナちゃんシシィちゃん、リリちゃんをよろしくね~!口は達者だし強がりだけどいい子なんだ!」
「今そんな話してないでしょ!」
リリスが必死に黙らせようとするが、ガイルハルトは楽しそうにそれをかわしながらなおもしゃべり続ける。
その陽気なやり取りに、一同の顔には自然と笑みが浮かんだ。
和やかな空気の中で、ふとテオスカーが思い出したように口を開いた。
「そういえば……明日は合同訓練があるんだよな」
「そうでしたねぇ。1週間はあっという間だぁ〜」
思わずシシィも俯く。
上手く出来なかったことに加えて、ヴィオラの嫌がらせが頭をよぎる。
振り払うように顔を上げたが、口をつくのは弱気な言葉。
「自信ないな……。先週、終わったあと脚プルプルしちゃったし……」
「シシィちゃん、明日で2回目だろ?明日は簡単な魔法と体術だから大丈夫!」
気さくに笑いながらガイルハルトが言う。
少しだけ安心したシシィは、肩の力を抜いた。
その様子を見て、テオスカーがふと、シシィの方へ視線を向ける。
周囲の声に紛れるように、そっと、低く穏やかな声で呟いた。
「……何かあったら、俺に言えよ。シシィは危なっかしいから心配だ」
シシィは少し驚いたように瞬きをして、それからふわりと微笑んだ。
「確かに体力はないけど、そんなに危ないことしてるかな……じゃあ、わたしができてなかったら、多めに見てくれる?」
「それは、対応致しかねますね」
テオスカーがわざと畏まった口調でしかめ面をつくる。二人は顔を突き合わせて笑った。
この王宮には、まだ知らないことがたくさんある。
でも、こうして笑い合える時間があるだけで……明日も頑張れそうな気がした。