第17話
――日が高く昇るころ。
長い馬車旅を終えた一行を迎え入れるように、荘厳な大広間の奥に一人の令嬢が立っていた。
淡いラベンダー色のドレスを纏い、背筋をすっと伸ばした姿。
その立ち姿だけで、場の空気が凛と引き締まる。
「ようこそ、ルミナリアへ。……遠路よりお越しいただき、心より歓迎いたしますわ」
澄んだ声とともに、ライラ=ド=ラーウスは優雅なカーテシーを披露した。
身に着けている品々は、装飾こそ控えめだが、縫製の細やかさや宝飾の質の高さは一目で分かる。
「選ばれた者の華」とでも言うべき気品が、自然と周囲を圧倒していた。
「とんでもない。お招きいただき、ありがとう」
ニコラスが一歩進み出て、同じく洗練された所作で返礼する。
その後方には、護衛や文官たちに混じり、飾り気のない素朴な服装の少女たちが控えていた。
ライラは視線をゆっくりと流す。
これが噂に聞く「特別使用人」。地味な出で立ちだが、“特別”と呼ばれるだけの魔力を宿す者たち――。
「長旅でお疲れでしょう。まずはお部屋へご案内いたしますわ」
ライラが従者に軽く目配せをしたときだった。
「……っと、悪い。シシィ、これ頼む」
ニコラスが何気ない動作で小包を手渡した相手。
それは、ライラがつい先ほど目に留めた少女たちのひとり。
クリーム色の髪を2つに束ねた、どこか素朴で柔らかな雰囲気の娘だった。
「はい、殿下」
シシィは自然な笑みを浮かべながら受け取り、深く頭を下げる。
その様子に、ライラのまぶたがわずかに動く。
呼び方は丁寧だ。だが、二人の空気感は、いち主従ではない――もっと近いものを感じる。
ニコラスの口調も、どこかほんの少し、柔らかいように感じていた。
胸の奥に、微かなひっかかりを感じる。
しかしライラは、完璧な令嬢としての仮面を崩さない。
「ご案内は、私の従者が承ります。どうぞ、ごゆっくりお休みくださいませ」
優雅な微笑を保ちながら、ゆるりと踵を返した。
静かに、けれど確かに。
ライラの心の中で、その「使用人」に対する関心が芽を出していた。
――庭園に面した白いテラス席。
ラーウス家が誇る庭園は、春の花々が咲き誇り、色彩と香りで訪問者を歓迎していた。
庭に負けず劣らず豪華な室内は、天井に吊るされたクリスタルのシャンデリアが、昼の光を反射してきらきらと輝いている。
長く伸びたテーブルの中央には、花と果実が豊かに飾られ、ルミナリアの伝統料理が色鮮やかに並んでいた。
「遠路はるばるお越しいただき、感謝いたします。こうしてカレストリアの皆様と同席できることを、大変嬉しく思っております」
朗らかな声で、ラーウス家当主――ライラの父が立ち上がり、杯を軽く掲げた。
「この出会いが、さらに良き友好を深めるものでありますように。どうぞ、心ゆくまでお楽しみください」
テーブルを囲む人々が一斉にグラスを掲げ、「乾杯」と声を合わせる。
カランとグラスの音が響き、昼食会が始まった。
「改めてようこそ、ルミナリア王国――そして我が家へ。こうしてお食事をご一緒できるのは光栄ですわ、ニコラス様」
ライラは優雅に微笑み、グラス持つ指先まで淑女の所作で統一している。
「こちらこそ。美しい庭園の中での昼食とは、歓迎の意がよく伝わります」
ニコラスが軽く笑みを返し、場は和やかな空気に包まれた。口調はさっぱりとしたものだったが、王子としての礼節も忘れていない。
やがてライラの父が話題を切り出す。
「カレストリアではどのような研究が進んでいるのか、ぜひ伺ってみたいものです。我が国では、魔力を蓄積する魔導車輪の開発を進めていまして。いずれ馬車に代わる移動手段になるかもしれません」
「それは興味深いですね。魔力の効率性や持続力の課題がネックだと耳にしたことがありますが……」
ニコラスも興味を示し、官僚たちが加わって話は盛り上がっていく。
「ええ。まだ安定性には課題がありますが、ぜひお見せしたい。……カレストリアでも、こうした動力化の研究は?」
「魔力の効率化が最優先課題でして。動力化はまだ手探りの部分も多いですが、技術者たちは興味を持っています」
ニコラスは柔らかい笑みを見せながら答える。
その余裕ある声色に、ラーウス家の人々も感心したように頷いた。
研究の話題で盛り上がる中、ライラがふと視線を後方へ流した。その目線の先には、壁際に控える特別使用人たちの姿がある。
やわらかな笑みを浮かべながら、声をかけた。
「今回同行されている特別使用人の方々は……普段、どのようなお仕事をなさっているのですか?」
思いがけない問いに、ニコラスはわずかに目を瞬かせる。
しかしすぐに、王子らしい落ち着いた微笑を取り戻し、柔らかい声で答えた。
「使用人としての雑事もあるけれど、彼女たちには魔力量を活かした研究や管理の補佐もしてもらっている。助かっているよ」
「ふふ……『特別』とつくだけありますのね」
ライラは唇にかすかな笑みをのせる。
だが、ニコラスはその言葉の直後、ほんの一瞬だけ目を伏せた。
――特別という名の下で、いったいどれだけの人が犠牲になってきたのか。
その胸中を知る者は誰もいない。
かすかな翳りを帯びたニコラスの横顔に気づいたのは、この場ではライラだけだった。
長い睫毛の奥でライラックの瞳を揺らし、探るようにその表情を見つめる。
「……三名とも、私やニコラス様と年が近いように見えますわ。せっかくですもの、それぞれ何を研究されているのか、伺ってもよろしいかしら?」
そのにこやかな笑みの中には、どこかさりげない値踏みのような響きが含まれている。
ニコラスとライラが見ていることに気づいたシシィは、わずかに背筋を伸ばしたが、二人が何を話しているのかまでは聞こえない。
ニコラスは一瞬だけ目を細め、穏やかに応じる。
「右からリリス・リムドラン。実家は騎士団一家で実戦経験に長けていてね、彼女はポーションの調合や研究に力を入れている。その隣がアンナベルタ・フレイファー。動植物や薬草への興味から、温室や農園を中心に新品種の開発なんかもしてもらっている。そして……」
自然な流れで、視線がシシィに移る。
その一瞬だけ、ニコラスの瞳が柔らかくほどける。
「最後はシシィ・バルト。雑務係として働いているから、決まった研究や得意分野はない」
けれど、と言葉を区切って、ニコラスが続ける。
「誰よりも周囲をよく見ていて……動くべき時の判断がとても的確だ。控えめだが、信頼できる存在だよ」
遠くにいるシシィには、言葉までは届かない。
ライラはその仕草を見逃さず、涼やかな笑みを保ちながらも、胸の奥に小さな違和感を覚えていた。
――殿下の視線、あの子にだけ、柔らかすぎる気がするわ……と。
昼食会が終わると、ライラの提案で庭園を巡る「植物に関する意見交換会」が始まった。
青空の下、ラーウス家の誇る華やかな庭園は、色とりどりの花々と甘い香りで一行を迎える。
「わあ……!この花、カレストリアではまだ入ってきていない品種……!」
アンナベルタは子供のような瞳で花壇にしゃがみ込み、花びらをそっと撫でた。
「あなた……アンナベルタさんね?」
ライラが微笑みながら声をかける。
「植物に詳しいのね。王宮でも新種開発に携わっていると伺ったわ」
「はい!ルミナリアの植物や生育状況にもすっごく興味があります~!」
アンナベルタは顔を輝かせながら即答する。
その純粋な反応に、ライラは優雅な笑みを深めた。
「まあ、それは頼もしいわ。ぜひルミナリアの庭園管理者ともお話を」
ライラが軽く手を振ると、後方から庭園管理官が歩み出る。
「この庭園の植物も、研究の一環で魔力を用いて育てているのです。農園には、収穫量を安定させるため、『魔導温室』を導入していますよ」
「魔導温室……!」
アンナベルタの瞳が、きらりと輝いた。
「それって、季節を問わず作物を育てられるものですよね~?今、王宮の菜園で似たような取り組みを――」
アンナベルタは身振り手振りを交えながら、王宮菜園での研究を嬉々として話し始める。
その表情は、いつものふわふわした雰囲気とは少し違い、真剣さと熱意がにじんでいた。
管理官と一緒に、花壇の奥へ進んでいく。
「アンナったら、植物のことになると見境ないんだから……!」
リリスは呆れた顔を見せつつも、仕方なくシシィに目配せし、アンナの後を追う。
「シシィ、こっちで待っていて。すぐ戻るから!」
「……あ、うん!」
リリスの後ろ姿を見送りながら、シシィはふと周囲を見渡した。
気づけば、先ほどまでいた人々の気配がすっと引いている。
耳に届くのは、庭を撫でる風と、花がそよぐ微かな音だけ。
庭園の真ん中で、一人きり。
追いかけようか、それとも文官たちのほうへ合流すべきか――。
そんな迷いが胸をよぎった、そのとき。
「……ところで、シシィさんでしたね?」
はっと振り返ると、そこにはライラが立っていた。
まるで、最初からこの機会を狙っていたかのように。
淡いラベンダー色のドレスの裾を軽く摘み、芝を避ける優雅な所作でシシィに歩み寄る。
その微笑みは穏やか。だが、瞳の奥には計るような光がある。
「ニコラス様には長くお仕えしているのかしら?」
突然の問いかけに、シシィは一瞬驚いたように目を瞬かせた。
「いえ……私、王宮に入ったのはまだ最近で……」
慌てて首を横に振るシシィ。
ライラの瞳は、その仕草すらも見逃さない。
「雑務係として、ほんの少しだけ、殿下のお手伝いをしているだけです」
「まあ。補佐を務めるなんて……それはきっと、殿下の信頼がなければできないことですわね?」
ライラはかすかに唇を弧に描く。
その眼差しが、まっすぐシシィを貫いた瞬間、胸の奥がくっと締まるような感覚がした。
「先ほど、ニコラス様と……とても親しげにお話されていたように見えましたけれど」
やわらかく首を傾げるその声音は、刺すような鋭さを微塵も見せない。
その柔らかさが逆に、じわりとした圧を生む。
「そんなことはありません。私はただ、必要なご指示をいただいていただけで……」
シシィが控えめに答えた瞬間、ライラの目がほんの僅かに細まった。
――無自覚だなんて。あの柔らかな表情を、私の知らない顔を引き出しておいて……。面白くない。
「殿下は、誰にでも優しくて……魅力的なお方ですものね」
シシィはどう返すべきか分からず、ぎこちなく笑みを浮かべる。
ふと、ライラの背後で風が吹き抜け、ラベンダー色のドレスがふわりと揺れた。
慣れない土地で、ニコラスの婚約者を前にして……吹く風までもがライラに味方しているようで、シシィはわずかに緊張する。
「……殿下のお傍にいると、いろいろとお辛いこともあるでしょう?」
「いえ、私はただの雑務係ですから……。お役に立てることがあれば、それで十分なんです」
シシィは一瞬戸惑いながらも、はにかむように微笑んだ。
その表情には、野心も、計算も、欠片ほどもない。
「それで十分?」
ライラはわずかに首を傾げた。
光を帯びた睫毛の奥、その瞳が細くなる。
「お傍にいられるというのに、もっと望むことはないのかしら?」
「望むこと……?」
シシィはわずかに首を傾げ、考え込む。
そして少し考えたあと、照れくさそうに笑った。
「あの方のおかげで、私たち特別使用人も胸を張って働けるんです。だから――今は、それだけで幸せです」
ライラは一瞬だけ、息を呑むような間を作った。
「そう……。ずいぶんと素直なのね、シシィさん」
その声音はやわらかく、微笑も崩れない。
けれど――ライラの胸の奥で、何かがざらりと軋む音がした。
無自覚なその笑顔が、かえってニコラスにとって『特別』な光を放っている気がしていた。
ライラは静かに呼吸を整える。
顔には微笑を、瞳には品位を。
ただ、その奥で、確かな棘が生まれていた。