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第16話

 夜の訓練場は、人影もなく静まり返っていた。

 

 テオスカーは、手にした木剣を無造作に振り下ろす。

 自分の胸のざわめきをぶつけるように、何度も、何度も。

 剣が風を裂く音が、張り詰めた静けさに溶けていく。


 ――シシィが、ルミナリア王国へ行く。

 どうして、俺に何も言わなかったんだ?


 心の奥で、ちくりとした痛みが広がる。

 ただの公務だと分かっている。全ての予定や出来事を共有する義務などない。

 それでも――テオスカーの胸には、小さな棘のような焦燥が刺さっていた。

 

 「……シシィ」


 木剣を握る指先に、力がこもる。

 かすかな笑みが浮かべ、剣を振り続ける。

 その笑みはどこか寂しく、諦めにも似た色を帯びていた。


 ――そのとき、控えめな足音が近づいてきた。


 「テオスカー、ここだったんだ!探しちゃった」


 そこに立っていたのはシシィだった。

 振り向いたテオスカーの頬に、月明かりが淡く差し込む。

 訓練場に響いていた剣の音は止まり、静かな夜の空気がふたりを包む。


 「シシィ?どうした、こんなところまで来て」

 「あのね、もう知ってるかもしれないけど……明日からルミナリア王国に公務で行ってくるんだ。殿下と、リリスちゃん、アンナベルタちゃん達と一緒に」


 もちろん、テオスカーはすでに耳にしていた。

 ルミナリア王国への親善訪問。特別使用人が数名同行すること。

 シシィの口から発されたことで、テオスカーの胸の奥は余計にざわめいた。


 「テオスカーには、ちゃんと伝えておきたくて」


 ――ああ、やっぱり俺は、この子のこういうところに弱い。

 

 その一言で、心臓が少し跳ね、胸の棘を柔らかく溶かした。

 自分のことを思い出して、わざわざ来てくれた。

 それだけのことなのに、嬉しいと感じてしまう。

 

 月明かりの下で話すシシィの顔つきは、以前よりもずっと凛々しく、頼もしさすらある。

 ほんの少し遠くなってしまった気がして、また胸がわずかに痛む。


 「聞いたよ。まさか王宮に来たばかりのシシィが選ばれているとはな」


 テオスカーの声はいつも通り穏やかだったが、その奥には複雑な感情が混じっていた。

 誇らしい気持ちと、どこか取り残されるような寂しさ。

 

 「私もびっくりだよ。ほんとはもっと早く言いたかったんだけど、準備でバタバタしていて。ごめんね」

 「シシィから聞けて嬉しいよ。……本当は、すぐに聞きたかったけどな」


 軽く笑ったテオスカーの目が、ほんの一瞬だけ揺れた。

 シシィは目を瞬かせ、夜風の冷たさと、言葉の熱を同時に感じていた。

 ふいに風が吹き抜けていく。


 「シシィはもう、『雑務係』って周りから揶揄されるような立場じゃない。前よりずっと、顔つきも凛々しくなった」

 「……え?」


 不意に告げられた言葉に、シシィの頬が少し赤くなる。

 いつもの調子で褒められるのとは違う。まっすぐで、どこか優しさよりも誇りを込めた声だった。


 テオスカーは一歩近づき、そっと肩に手を置いた。

 大きな手のひらから伝わる温かさは、彼がずっと変わらずシシィを想ってくれている証のようだった。


 「だから、きっと大丈夫だって思ってる。でも」

 

 少しだけ言葉を区切って、テオスカーはシシィから目を逸らさずに言う。


 「もし、何かあったら……俺が助けに行く。いつでもシシィの味方だから」


 その声音は穏やかでありながら、どこか胸を締め付けるような真剣さを帯びていた。

 ほんの少しだけ目の奥に影が揺れている。


 それには気づかないシシィだったが――胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じ、自然と笑みが零れる。

 まっすぐと成長を認めてくれたことが、とても嬉しかった。

 同時に、何か言葉にできない気持ちが胸の奥でちくりと疼いた。


 「……ありがとう、テオスカー。なんか心強いかも!」


 シシィはそう言って、ぱっと花が咲いたように笑った。

 

 「気をつけて行ってこい。……あまり無茶はするなよ」

 「うん!帰ってきたら、またいろいろ話すね」


 弾むように答えるシシィを見て、テオスカーは小さく息をついた。

 どうしてだろう。シシィの笑顔を見るたびに、守りたい気持ちと、独り占めしたい気持ちが混じり合っていく。


 「……ああ。楽しみにしてる」


 そう言って微笑みながら、シシィの背中を見送る。

 遠ざかる足音が静寂の中に消えると、テオスカーの瞳から柔らかい光がすっと薄れた。

 

 ――あの笑顔を、ずっと俺だけに向けていてくれたら。

 そんなことを考えてしまう自分に、苦笑が漏れる。


 「……やっぱり、寂しいな」


 声は夜風に紛れ、打ち消された。

 



 ――翌日。

 朝靄のかかる石畳の広場。

 出発準備の整った馬車が、厳かな空気の中で待機していた。

 馬たちの吐息と、わずかなざわめきが漂っている。

 

 護衛騎士が十名ほど、鎧の継ぎ目を点検しながら控え、文官や官僚らしき人物が五名、手元の書類を確認している。

 その列の中、シシィとアンナベルタは緊張を隠せずに立っていた。


 「リリスちゃん、こないね~?」

 「まだ時間はあるけど……どうしたのかな」


 日頃から「アクシデントがあっても対応できる余裕が大事」と口癖のリリス。

 彼女が姿を見せないとなれば、さすがに不安になる。

 

 シシィとアンナベルタが顔を見合わせたそのとき、遠くから全力疾走する影が見えた。

 リリスがスカートをひらめかせている。


 「兄さんのせいで……!捕まって遅くなっちゃったじゃない……!」


 見送りに来ていたガイルハルトに足止めされたのだろう。

 顔を真っ赤にして憤慨する姿は、少しだけ笑いを誘う。

 

 「おはよう~!まだ余裕あるから大丈夫だよ~」

 「おはよう、リリスちゃん!」

 「……おはよう。はぁ……髪がめちゃくちゃよ……」

 

 アンナベルタとシシィの笑顔を見て、リリスは肩の力を抜き、ようやく安堵の色を見せた。

 

 「揃ったな」

 

 ほっとした空気を切り裂くように、澄んだ声が広場に響く。

 視線が一斉に馬車の方へ向き、ニコラスが姿を現した。

 白い外套を軽やかに揺らし、涼やかな笑みを浮かべて歩み寄る。


 「今回の親善訪問は、研究の情報交換も兼ねた重要な取り組みだ。普段より大人数だが、皆で力を合わせれば、必ず実りのある訪問にできる」


 その場にいた全員の背筋が伸びるような、涼やかでいて意思を感じさせる声。

 空気が、きゅっと引き締まる。

 

 「カレストリア王国の顔として、全員が誇りを持って臨んでほしい。では、出発しよう」


 ニコラスの言葉と共に、護衛や文官たちが準備を始める。

 シシィたち三人も馬車の方へと歩み寄った。


 「緊張してきた……」

 

 小声で漏らしたシシィに、リリスが肩をポンと叩く。

 

 「ま、あんたも選ばれたんだし。堂々と胸張って行けばいいのよ」

 「そうだよ~!三人で行けるなんて嬉しいな~!」

 「アンナはちょっとくらい緊張感を持ちなさいよ!旅行じゃないんだからね!」

 

 三人が揃えば、どこにいてもまるで食事時のように賑やかになる。

 リリスとアンナベルタも一緒に行けることが嬉しい。

 心のどこかで張り詰めていた緊張が、少しだけ解けていく――そのときだった。

 

 「シシィ」


 不意に名前を呼ばれ、振り返る。

 朝霧の中、思ったよりも近い距離にニコラスが立っている。

 

 「君が同行してくれるのは心強い。頼りにしているよ」

 「は、はい!」

 

 思わず上ずった声で返事をしてしまい、シシィは耳まで熱くなるのを感じた。

 その反応に、ニコラスは小さく口角を上げた。


 シシィの頬に浮かぶ戸惑いと緊張が、どこか愛おしく見えてしまうことに、ニコラス本人はまだ気がついていない。

 リリスとアンナベルタは、まるで氷像のように固まったまま、その場に立ち尽くしていた。

 

 「もちろん、リリスとアンナベルタも頼りにしてる。三人で力を合わせてくれれば安心だ」

 

 さらりと続けるその声に、リリスが「も、もちろんです!」と慌てて背筋を伸ばす。

 「頑張ります~!」と返したアンナベルタの声が柔らかく響き、ニコラスは軽く頷くと、別の馬車へ乗り込んでいった。

 

 その後ろ姿を見送る数秒だけ、沈黙が流れる。

 待ってましたと言わんばかりにリリスが口火を切った。

 

 「ちょっとシシィ……いつから殿下と気軽に話す関係になってたわけ?」

 「えっ!?そ、そんなことないよ、緊張してるって!」

 「でも~、なんだかシシィちゃんのことすごく信頼してる感じしたよね~!」

 「い……いいから馬車乗ろうよ~!」


 慌てて馬車へ駆け込むシシィを、リリスとアンナベルタは「絶対に何かある」と言わんばかりの視線で追う。

 やがて、車輪がきしむ音とともに、馬車はゆっくりと動き出した。



 

 ガタガタと大きく揺れる感触に、シシィは思わず座席にしがみついた。

 馬車は石畳を抜けて、未舗装の道に入ったようだった。

 車輪が跳ねるたびに、体がふわりと浮く。


 「わっ……!」

 

 不意に体が傾き、シシィの隣でリリスが短く声を上げた。

 

 「ちょっと!この道、馬車泣かせにも程があるでしょ!」

 「あははっ!なんだか楽しくない~?」


 余裕そうなアンナベルタに反して、リリスは揺れるたびに小さく悲鳴を上げている。


 「きゃっ!?」

 

 大きな揺れが起こる。

 シシィの腕は、いつの間にかリリスに掴まれていた。

 ぷるぷると体を震わせるリリスは、王宮では見たことのない珍しい姿だった。

 シシィの視線に気づいてか、リリスが顔を赤らめて言い返す。


 「別に、体勢を崩したとかじゃないんだから!」

 「そうなの?」

 「当たり前でしょ!」


 強気な口調のまま、ちょっとだけ目をそらすリリス。

 その姿に、シシィは思わず笑いをこらえた。

 

 「わあ……!図鑑でしか見たことないチョウが飛んでるよ!」

 

 一方で、アンナベルタは窓際で大はしゃぎだった。

 窓ガラスに顔をぺたりと押しつけ、楽しげに外を眺めている。

  

 「今回訪問するルミナリア王国って、やっぱり植物の分布とか違うの?」


 シシィがふと興味を口にすると、アンナベルタは窓から目を輝かせたまま振り返る。


 「違うよ~!うちの国と同じくらい暖かいけど、北側だからね~。固有種も多いんだって。わあ、あれもそうかも!」


 アンナベルタは外に咲く小さな紫の花を指さして、嬉しそうに身を乗り出した。

 なかなか見られない景色に、終始目をきらきらさせている。

 

 「アンナちゃん、さすが詳しいね」

 「えへへ……すごく面白いんだよ~!」

 

 屈託のない笑顔に、シシィも自然と笑みをこぼした。

 和やかな空気の中、隣で揺れにようやく慣れてきたリリスが、ふいに口を開いた。


 「そういえばさ、今回の親善訪問って……ニコラス殿下の結婚相手の顔合わせも兼ねてるんでしょ?」

 

 「ニコラス殿下」という言葉に、シシィはわずかに目を見開いた。

 レオノーラの口からも聞いていた、あのライラ様のことだろうか。

 胸の奥が、かすかにきゅっと鳴る。


 「ライラ様って言ったっけ?ルミナリア王国の超有力貴族のお嬢様。しかもニコラス殿下に気があるとか、いかにも縁談コースじゃない」


 リリスが肩を竦め、どこか現実的な口調で言う。


 「そうなんだ~? すごい人なんだね……」

 

 アンナベルタはきょとんとした顔で首を傾げた。

 

 「王族と他国の貴族が結婚するなら、国の友好もアピールできるし、国家間の独立性も保てる。悪い話じゃないのよ」

 「なるほど……」

 

 貴族出身は、さすが視点が違う。

 シシィは感心してリリスを見つめた。

 

 「ライラ様の実家は広大な土地も、資金もあるし、軍事力も豊富。本人も優秀って噂よ。候補ってだけで、確定ではないみたいだけどね」

 

 王族の結婚は、国家の未来を左右する重大な決断。

 カレストリア王国の次期国王となるニコラス。

 その隣国、ルミナリア王国で大きな権力を持つ貴族令嬢のライラ。

 両者が手を取り合えば、カレストリア王国の力は確実に増す。理想的な組み合わせだ。

 

 「結婚」という言葉だけが、シシィの心の中で反響して、妙に胸をざわつかせる。

 理由も分からず、シシィは小さく首を振った。

 

 再び馬車が大きく跳ね、リリスが「きゃっ!?」と悲鳴を上げる。

 慌ててしがみつく様子に、アンナベルタが「もう、リリスちゃんったら!」と笑い、シシィも思わずくすくすと笑みを漏らした。

 そのひとときが、モヤモヤした心を少しだけ軽くした気がした。




 ――途中の街で、休憩を兼ねた市場散策が許された。

 立ち並ぶ屋台や露店からは、焼き菓子の甘い香りや香辛料の匂いが漂う。

 威勢のいい呼び声や笑い声が重なり、通りはどこもかしこも賑やかだ。

 シシィたち三人は、足を踏み入れた途端にその活気に呑まれた。


 「見て見て~!これ、色が変わる布だって!」

 

 アンナベルタが、店先の布を手に取り、目を輝かせる。

 光を受けてつるりと色味を変えるその布は、まるで魔法にかけられたかのようだった。


 「そういうのって、ふっかけられることもあるんだから……気をつけなさいよ!」

 

 リリスが腕を組んで口を尖らせ、半分は本気、半分は呆れたように注意を飛ばす。

 その姿は、まるで付き添いの姉のようだ。


 「そこのお姉ちゃん!かわいい君にピッタリの品があるよ!」


 突然店主に呼びかけられ、リリスはびくりと肩を跳ねさせた。

 

 「……私?まぁ、そこまで言うならつけてあげないことも……って、なによこれ!前が見えないじゃないの!」

 

 手渡されたのは、奇妙な動物の顔を模したお面だった。

 すっぽりと顔を覆う、あまりに滑稽な姿に、シシィとアンナベルタは堪えきれず爆笑する。


 「リリスちゃん、似合いすぎ!あはははっ……!」

 「ふふ、ふふふっ、もうやめて……笑いすぎてお腹が痛い……!」

 「ちょっと!笑いすぎでしょアンタたち!」


 三人の笑い声は、通りの賑わいに混じってひときわ明るく響いた。

 少し離れた場所で護衛騎士たちと控えていたニコラスが、振り返る。

 呆れたような、「やれやれ」といった笑みを浮かべて肩をすくめ、「……まぁ、楽しそうで何よりだな」と小さく呟いた。

 

 「はあ……リリスちゃん、面白かったな……」

 

 ひとしきり笑ったあと、シシィはふと視線を巡らせた。

 路地の片隅に、小さな護符屋が目に留まる。

 古びた木札に刻まれた「旅のお守り」という文字。どこか懐かしく、心を惹かれるものがあった。


 「……ちょっと見てみようかな」


 小さな護符屋は、ほかの店とは一線を画す静けさをまとっていた。

 軒先に吊るされた古い鈴が、かすかに音を鳴らす。

 香木の匂いが漂う中、店先の机には、手のひらサイズの護符や木彫りの魔除けがずらりと並べられている。

 

 「いらっしゃい……」


 奥から現れたのは、背の曲がった小柄な老婆だった。

 深い皺に包まれた瞳は、不思議と優しい光を湛えている。

 シシィが並べられた護符に視線を落とした瞬間、老婆は静かに言葉を紡いだ。


 「旅人にゃ、『想い』を包む品が必要になる。迷わぬように、道を照らすためにな」

 「想いを……包む?」


 ぽつりと繰り返したシシィの心に、老婆の言葉が、そっと落ちる。

 ――この旅路、誰一人欠けることなく、無事でありますように。

 そう願う気持ちを、形にするのもいいかもしれない。シシィは護符を手に取った。


 「お守り……? いいじゃないの。こういうの、持ってて損はないでしょ」

 「いいね~!ねぇねぇ、三人でおそろいにしようよ~!」

 

 気づけば、リリスとアンナベルタも隣に立っていた。

 

 「じゃあ……これ、3つください」

 「ふむ……3つねぇ」


 老婆はシシィたちの顔をじっと見つめた後、唇の端を上げた。

 

 「だが、あの男にも渡しておくといい」

 「えっ……!」


 三人は老婆が指した先を見つめる。

 護衛に囲まれながらも、市場を歩くニコラスの姿があった。

 

 「王子様だろう?」


 老婆はニヤリと笑う。

 その様子に、三人は声を潜めながらも、慌てて顔を突き合わせる。

 

 「な……なんで分かったんだろう!?」

 「このおばあさん、何者なの……?」

 「不思議な方ですねぇ~……」

 

 老婆は気にする様子もなく続ける。


 「渡さずに持っているだけでもいい。願いや想いは消えない」


 老婆の穏やかな言葉に、シシィは背中を押されたような気持ちになった。

 受け取ってもらえるかは分からないけれど……。


 「分かりました。じゃあ、4つください」

 

 もう1つ護符を手にしたシシィを見て、老婆は微笑んだ。

 

 買い食いをして、土産物の買い物をして……露店の匂いや音を楽しみながら、三人は散策を続ける。

 護符は、そっとシシィのポケットにしまわれたまま。

 小さく、あたたかい重みを残していた。


 


 ――ところ変わって、宿の一室。

 馬車旅の疲れがじんわりと体に残っていたが、三人の声色は明るかった。

 長時間の馬車移動を案じて、ニコラスの計らいで、道中一泊することになったのだった。

 

 「ベッド、私ここにするわ」

 「シシィちゃんは?どうする?」

 「じゃあ……こっちにしようかな」


 ベッドの位置をめぐるやりとりも、なぜだか楽しい。

 慣れない遠出で張り詰めていた空気が、ふっと解けるような心地がした。

 お泊り会のような、わいわいとした空気が部屋に満ちている。

 

 「昼に買った香草茶、リラックス効果あるんだって!お湯沸かそう~!」


 アンナベルタが湯沸かしポットを手に、ぴょこぴょこと動き回る。

 

 「そういえば、焼き菓子も買ったよ。食べよう!」

 「ふーん。ま、悪くないじゃない。もらってあげる!」


 焼き菓子を皿に並べると、甘い香りが部屋に広がった。

 シシィは、こうして二人と同じ空間で笑い合えることが、どこかくすぐったくも嬉しかった。

 荷物を整理していると、指先に小さな袋が触れる。


 「あ!そういえば……殿下の護符、どうしよう?」


 その一言で、部屋の空気がピタリと止まった。

 リリスとアンナベルタの視線が、同時にシシィへ突き刺さる。


 「えっ?な、なに?」

 「シシィって……なんとなく殿下と距離が近くない?ほら、馬車の前でも声かけられてたじゃない」

 「護符屋に入ったのもシシィちゃんが最初だし、おばあさんにも『あの人に渡すといい』なんて言われちゃってたし……。ね、これはもう運命だよ!」


 リリスのニヤニヤ顔と、アンナベルタの無邪気な笑顔。

 ああ、これは絶対に逃げられない――シシィは悟った。

 

 「雑務係のお仕事で少し話す機会があったたけだってば!たまたま!」

 

 必死に否定するシシィだったが、二人はまったく引く気配がない。


 「いいから、こういうのは行動あるのみよ!」

 「シシィちゃん、いってこ~い♪」

 「なんで!?不公平だよ!」


 とうとうシシィは、拳を突き出して宣言した。


 「じゃ、こうしよう!じゃんけんで!」


 数秒後――。

 

 「……ぐぅっ……!」

 

 シシィは床に両ひざをつき、敗者のポーズでうなだれていた。

 対して、リリスは腕を組み、ドヤ顔を炸裂させる。

 

 「こういうのはね、最初に言い出した人が負けるって決まってるのよ」

 「シシィちゃん、行ってらっしゃい~!」

 

 アンナベルタののんきな声に、リリスには物理的に、シシィは背中を押されて部屋を出た。

 ――そもそも、ニコラス様の居場所なんて、いち使用人には知らされていないのだけど……。

 シシィは半ば追い出される形で、宿の廊下に出ていった。

 


 

 街灯の明かりが、夜風に揺れる葉影を淡く照らしていた。ひんやりとした風が肌を撫でる。

 近くのベンチに腰を下ろし、ニコラスは腕を組んでいた。

 護衛の騎士は「中でお休みを」と気遣って声をかけたが、「いや……少し風に当たりたいだけだ」とやんわり断った。


 本当は、宿の奥からうっすらと聞こえてくる女子部屋の笑い声が、妙に気になっていたのだ。

 耳を澄ませば、シシィの声らしき響きが混じる。

 ――何をそんなに楽しそうにしているんだか。

 

 「……ふっ」

 我ながらくだらない、と思ったニコラスが苦笑を漏らす。

 わざわざここにいる自分の方が、よっぽど呆れる。

 

 やがて笑い声も落ち着き、夜の静けさが戻ってきた。

 そろそろ部屋に戻るか――そう思ったとき、宿の前をそわそわと歩き回る影が目に入った。

 シシィだった。


 「……何してるの?」


 不意に声をかけると、シシィは飛び上がるように振り返った。


 「殿下! あの……これを」


 胸元から、そっと小さな護符を取り出して差し出す。

 その手は少しだけ汗ばんでいるようで、シシィの緊張感が伝わった。


 「旅の無事を願う護符です。……お休みのところ、すみません」


 ニコラスは受け取る前に、ちらとシシィの顔を伺った。

 その様子に気づいたのか、シシィが「え、えっと……じゃんけんで負けまして……」と困ったように言う。


 「……じゃんけん?」

 「途中で寄った市場がありましたよね?そこで買ったんですが、誰が殿下に渡すかで、ひと勝負を……」

 「勝負の結果はどうあれ、こうして君が持ってきてくれたんだろ?」


 少し意地悪な笑みを浮かべながらそう言うと、シシィは目をぱちぱちさせ、慌てた。


 「えぇ!?そ、それは……違います……!」


 赤くなりながら動揺するシシィを見て、ニコラスはつい笑いをこぼした。


 「そういうことにしておこうか。わざわざありがとう」

 「では……渡したので失礼しますっ!」


 一礼もそこそこに、送る間もなくシシィはぱたぱたと走り去っていく。

 その背中を目で追いながら、ニコラスは小さく呟いた。


 「……じゃんけんで負けた、か」


 呟きながら、ニコラスは護符にそっと指を滑らせた。

 粗い手触りの中に、誰かの温度がまだ残っているような気がする。

 胸の奥にじんわりと灯る温かさは、意外なほど大きかった。

 けれど、ニコラスは暗い顔で静かに目を伏せる。


 ――俺は、お前をそんなふうに見ていい立場じゃない。

 自分にそう言い聞かせるのに、心は妙にざわつく。

 既に「ただの部下」や「雑務係」としては見られなくなっている証拠だった。

 

 シシィの顔が脳裏をよぎる。

 笑っていた顔。真剣な眼差し。

 

 「……ほんと、シシィらしいよ」

 

 ニコラスは護符を懐にそっとしまう。

 夜の静けさに溶け込むように深く息を吐き、ゆるゆると立ち上がった。

 


 

 宿の廊下を小走りで戻ると、部屋のドアが勢いよく開いた。

 出迎えたのは、腕組みをして待ち構えていたリリスだ。


 「おかえり。……で、どうだったのよ」

 「な、なにがっ……!?」

 

 シシィがしどろもどろになる横から、アンナベルタがにゅっと顔を覗かせる。

 

 「シシィちゃん、顔赤いよ~? まさか、何か言われちゃったとか?」

 「ただ護符を渡しただけだよ! ほんとにそれだけ!」


 必死に否定するシシィに、二人のにやにや笑顔は止まらない。


 「へぇ~?ただの護符を殿下に呼ばれてもいないのに渡しに行ったの?」

 「う、うぅ……!」


 シシィは顔を真っ赤にしながら、ぷいっと視線をそらした。

 

 「……もういい!恥ずかしいから、寝るっ!」


 そう言って、布団にばさっと潜り込む。

 リリスとアンナベルタのからかうような笑い声が響いた。


 背中に視線を感じながら、シシィはぎゅっと布団を握りしめる。

 胸の鼓動はまだ少し早いままだった。

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