第15話
ニコラスが王宮を探っている目的。
そして、レオノーラが示した『蒼炎の悲劇』への王宮関与疑惑。
あの日以来、シシィはより前向きに、もっとできることを増やそう、と思えるようになっていた。
厨房での下ごしらえに、各所の掃除、書庫での整理作業。
山積みの書類と格闘しながら、広い王宮を駆け回って魔道具のリストを作り上げていく。
最初は見分けるだけで精一杯だった道具も、今では判別や特徴の把握がずっと早くなっていた。
リリスやアンナベルタと肩を並べて働き、仕事の合間に交わす何気ない会話。
笑い合う時間も増え、三人の間には確かな連帯感が芽生えつつあった。
時折、合同訓練にも参加する。
騎士団との連携を想定した訓練は、相変わらず緊張気味で、ぎこちない動きの時もある。
特に「魔力供給訓練」では、ニコラスの語った真実が頭をよぎり、胸の奥が少し苦くなる。
それでも、できなかったことが少しずつできるようになっていく。
――その小さな達成感が、シシィの心を支える力になっていた。
近いうちに、ニコラスは必ず式典開催の許可を得る。
そう信じながら、シシィは今日も王宮の中を駆けていた。
王宮の謁見の間。
玉座に座るジグムント王の姿を前に、ニコラスは軽く笑みを浮かべて一礼した。
「父上。お時間をいただきありがとうございます。今日はひとつ、進言がございます」
「珍しいな?ニコラス。いつもは軽口ばかりのお前が進言とは。聞こうではないか」
静かに顔を上げたニコラスへ、ジグムントの冷ややかな眼差しが突き刺さる。
それでもニコラスは気負わず、いつもの軽やかさを纏いながらも、確かな芯のある声で切り出した。
「来月で、蒼炎の悲劇から三十年です。節目の年に、追悼式と併せて、当時使用された魔道具の展示をしたいと考えています」
ジグムントの眉がわずかに動いた。
表情を崩さず、口元だけで冷笑を浮かべる。
「……国民に見せてどうする。『暴走した平民の魔力が引き起こした事故』――それが記録にも、記憶にも残っているなら、それで十分ではないか。なぜ今さら、その墓を暴く?」
謁見の間に冷たい空気が流れる。
ニコラスは一瞬だけ沈黙し、王の視線を正面から受け止めた。
「父上の懸念はもっともかと存じます。確かに、蒼炎の悲劇を改めて取り上げることは、国民の記憶を呼び起こし、心を乱すかもしれません」
そこで、ニコラスはほんのわずかに口角を上げた。
軽口にも似た穏やかな笑み。
しかしその青い瞳には、ひるむことのない真剣な光が宿っている。
「ですが――あの悲劇を、私たち王家がどう受け止め、どう未来へ繋げるのか。それを示すことは、国民に『恐怖』ではなく、『信頼』を抱かせるはずです。忘れぬための式典として、国家が毅然と向き合う姿こそ、民を導く道ではありませんか」
「……言うようになったな、ニコラス」
ジグムントの声音は、わずかに低くなった。
「机上の理想など、現実には通じぬことを、まだ学んでいないらしい」
謁見の間に、緊張が張り詰める。
それでも、ニコラスは一歩も引かなかった。
微笑を浮かべ、わずかに頭を垂れる。
「陛下が現実を知り尽くしておられるのは、誰よりも承知しております。理想を語る若輩に、現実の政治を許す寛容を。このカレストリア国の未来のために」
その声には、挑むような強さと、息子としての誠意が同時に込められていた。
沈黙が落ちる。
ジグムントの瞳が、じっとニコラスを射抜くように見つめる。
その眼差しの奥には、何を考えているのか読み取れない鋭さがあった。
「……認めよう。ただし、条件がある」
やがて重い声が空気を揺らした。
「魔道具の選別は『王宮が』行う。跡地の立ち入りは『式典責任者』のみに限定する。勝手な真似をすれば、即座に中止とする。――異論は?」
ニコラスは、ゆっくりと深く頭を下げた。
「一切ございません。……すべての責任は、私が負います」
「では、務めてみせよ。王家の未来を語る者として、な」
その言葉には、父としての情ではなく、王としての圧倒的な重みがあった。
だが、ニコラスの瞳は静かに燃えていた。
――必ずやり遂げる。そう心に誓いながら。
「だが……よもや忘れてはいまいな?」
「……忘れて、とは?」
ジグムントは、玉座の肘掛に片肘をつき、低く言い放った。
「ルミナリアへの縁談を兼ねた交流だ。ラーウス家のライラ嬢は、お前の婚約者候補として最有力。向こうもそれを踏まえて、友好を深める気でいるようだぞ」
唐突な話題転換に、ニコラスの笑みが一瞬だけ凍る。
しかし次の瞬間には、何事もなかったかのように口角を上げた。
「勿論、忘れておりません。王族としての務めを果たします」
穏やかな声。完璧な王子の顔。
見かけは完璧だったが、ニコラスの胸の奥には――シシィの声と笑顔がよぎっていた。
ジグムントは、そんな息子の心を試すかのように、冷ややかに笑った。
「ならばよい。ルミナリアへの訪問は、式典の準備と並行で進めろ。……どちらも失敗は許されぬぞ」
「承知しました」
その笑みは、ほんのわずかに固く張りついたものだった。
謁見の間を出たニコラスは、緊張感か、この先を思案してか――深く息を吐いた。
――ニコラスは私室へ向かい、歩みを進める。
その途中、広い廊下の向こうに、忙しそうに資料を抱えて駆け回るシシィの姿が見えた。
こちらに気づかず、一生懸命な様子に、ニコラスは思わず足を止める。
「シシィ」
声をかけると、シシィはパッと振り向き、驚いた顔をした。
周囲を少し確認した後、「ニコラス様!」と資料を抱えたまま駆け寄る。
その表情を見ただけで、ニコラスの胸には、ふわりと温かいものが広がる。
「式典の許可が取れたよ。追悼イベント、正式に開催だ」
「本当ですか!?よかった……!」
その笑顔を見て、ニコラスは思わず小さく息を漏らした。
――どうしてこんなに、嬉しそうな顔が愛おしいんだろう。
「雑務係がこんなに頑張ってるんだから、俺も頑張らないとな」
わざと軽口めかして言うと、シシィはきょとんとした後、少し照れくさそうに笑った。
廊下の向こうから、別の使用人の声が飛ぶ。
「シシィ、こっち手伝って!」
シシィは「はーい!」と元気な返事をして、「また夜に」と元来た方へ小走りで戻っていく。
その後ろ姿を見送りながら、ニコラスは自分の頬が緩むのを感じていた。
――同日の夜。
ニコラスの私室には、部屋の主に加えてレオノーラ、そしてシシィが顔を揃えていた。
扉が閉まっていることを確認し、ニコラスが口を開く。
「さて。良いニュースと、悪いニュースがある」
「では……良いニュースから聞こうかしら」
レオノーラの言葉に、ニコラスはわずかに苦笑してから言葉を継ぐ。
「ようやく許可が取れた。式典は、計画通り開催できる」
「よかった……!」
シシィの声が弾む。
その反応を見て、レオノーラも「一歩目が踏み出せたわね」と穏やかに微笑んだ。
「そして、悪いニュースだけど」
ニコラスの声が、少し低くなる。
「展示する魔道具の選別は、王宮が行うことになった。跡地の立ち入りも式典責任者だけ。つまり、自由に調べ回ることはできない」
「なるほど。けれど、こちらの動きを制限したということは、都合が悪い何かを隠している証拠、とも考えられるわ」
レオノーラの淡々とした言葉に、シシィも小さく頷く。
「もしかしたら……お話していた、過去の魔道具が残っているかもしれないですよね。すぐには難しいかもしれないですが……」
少し考え込んだシシィが、手元のペンをいじりながら続ける。
「書庫や魔道具庫の整理を何度か手伝ったことがあります。顔見知りの人も多いので、準備の手伝いを名目に、もう少し深く潜り込めるかもしれません」
「さすが。雑務係で築いた人脈か。……あまり無茶はしないでほしいけど、頼もしいな」
その言葉に、ニコラスはふっと口元を緩めた。
褒められたことに、シシィは少し頬を赤らめる。
「雑務係に命じてくださったのは、殿下ですから」
「まあ、シシィ。そんな健気なことを言われては、殿下も悪い気はしないでしょうね」
レオノーラが意味ありげに笑い、ニコラスを横目で見た。
「レオノーラ……」
「事実でしょう?」
ニコラスはひとつ咳払いをして、言葉を選ぶように口を開いた。
「……式典実施の交換条件として、父上からルミナリアへの親善訪問を命じられた」
「ルミナリア……?お隣の国ですか?」
口調は軽いが、わずかに沈んだ声音で頷いた。
シシィが小さく首をかしげる。
ルミナリア王国。カレストリア王国の北に位置し、同等の領土を持つ友好国。
温暖な気候故に農業も盛んで、ここ最近は魔法を活用した国造りを進めている。
「インフラ整備や、農業、ポーションの研究状況……交流の一環として、意見交換を行う予定だ。そのために、特別使用人も数名連れていく」
シシィの脳裏に、リリスやアンナベルタの顔がよぎる。
仕事に誇りを持っている二人であれば、刺激を受けてより一層すごいものを作り出せそう――。
そんな想像が浮かんだ。
「そして……ルミナリア王国は『蒼炎の悲劇』の跡地が近い。当時の資料の一部が、王国博物館に展示されているらしい」
何があるのかまでは分からないけれど、とニコラスは言葉を区切る。
「ただ……滞在中に俺が確認に行くのは難しい。そこで……シシィ、君にも同行してほしい」
「わ、私もですか……?」
「ああ。信頼している人物にしか頼めない。補佐役として、力を借りたい」
ふいに言葉の熱を感じて、シシィは思わず口を結んだ。
胸の奥が、トン、と強く鳴る。
――信頼。その響きが嬉しい。この人の期待に応えたい、と強く思った。
「……分かりました。私でよければ同行させてください。蒼炎の悲劇について、調べてきます」
――その目は仕事への決意だけでいっぱいで、そこに自分への影は一欠片もない。
ニコラスは一瞬だけ言葉を失い、喉奥でかすかに息を呑む。
「……ああ、頼むよ」
掠れた声を紛らわすように、ニコラスは軽く笑みを浮かべた。
そんな弟の横顔を、レオノーラはちらりと見て、何かを察したように目を細める。
そして、小悪魔的な笑みを浮かべ、にわかに大きな声量で話し出した。
「親善訪問ねぇ。……ルミナリアといえば、ライラ嬢の顔合わせもあるわよね?」
「……レオノーラ」
ニコラスの眉がピクリと動く。
低い声で制したが、レオノーラはどこ吹く風だ。
「なぁに?本当のことじゃない。ルミナリア王国随一の令嬢で、貴方の婚約者候補として最有力だって……王都中の社交界で囁かれているわ」
「えっ?そうだったんですか」
シシィは思わず口をぽかんと開けた。
婚約候補という言葉が、頭の中でじんじんと響く。
「姉上。余計なことを……」
ニコラスは眉間に皺を寄せ、視線を逸らす。
その様子は、否定しようとしているのに言い訳が見つからないような、微妙な気まずさに満ちていた。
レオノーラはそんな弟を見て、楽しげに微笑む。
「まあ、どうであれ、弟が誰かを信頼して連れて行くなんて珍しいことだわ。……シシィ、頑張ることね」
その微笑みに、シシィは「はい」と頷いた。
――その日から数日後。
騎士団の休憩室は、いつになく騒がしかった。
大柄な赤髪の青年――ガイルハルトが、まるで試合に敗れた戦士のように崩れ落ちている。
床に両手をつき、今にも泣き出しそうな顔で呟いた。
「……リリちゃんに数日間会えないなんて……辛い……ショックだ……!」
その姿に、椅子に腰かけていたルーデリヒが、眉間を押さえながら呆れた声を漏らす。
「公務だろ、公務。ルミナリア王国への派遣任務だと聞いているが……しっかりしてくれ」
「わかってる……わかってるけど……!」
あの後、ルミナリア王国への親善訪問が正式に王宮内へ通達された。
通達には「特別使用人も数名同行」とだけ記されていたが、リリス、アンナベルタ、そしてシシィが選ばれていることを、ガイルハルトはルーデリヒから聞かされていた。
つまるところ、リリスから直接連絡がなかったこと、そして数日間会えないことにガイルハルトが打ちひしがれている……というのが、現在の状況であった。
ガイルハルトは、拳で床をドンと叩く。
「毎日会えてたんだぞ!?リリちゃんが頑張ってる姿を毎日見られたんだぞ!?なのに数日間も会えないなんて……」
「……大げさすぎる」
ルーデリヒは深くため息をつくと、飲み物を一口含む。
その横で、テオスカーが小さく苦笑した。
「そもそも、騎士団に入隊してしばらくは実家に帰れないから……顔を合わせられない時期もあったはずですよね?」
「過去は、過去!今は今だ!毎日会えるようになってしまった今……リリちゃんの笑顔は必要不可欠なんだ!」
両腕を広げて力説するガイルハルト。
ルーデリヒは「まるで駄々っ子だな」と低く呟き、呆れを通り越して無視し始めていた。
それでも収まらないガイルハルトは、ルーデリヒに取り合ってもらえないと悟ってか、テオスカーをずび、と指差す。
「お前らはよく平気でいられるよな!?ルーデリヒ、アンナベルタちゃんが!テオスカー、お前の妹分が!隣国へ行くってのに、なんとも思わないのか!?」
「――妹分が、何だって?」
テオスカーは、ふと動きを止める。
先ほどまでの穏やかな笑みは、すでに消えている。
「シシィちゃんのことだよ!え、聞いてないの!?ニコラス殿下と一緒にルミナリアへ同行するって――」
数秒、静かに固まる空気。
ルーデリヒが低く口を挟む。
「おい、言ってよかったのか」
項垂れ続けるガイルハルトと、何も聞いていなかったテオスカーの険しい顔。
休憩室に、妙な緊張感が漂う。
テオスカーは視線を伏せたまま、ぽつりと口を開いた。
「……そうか。……初耳だったな」
その声音は穏やかに聞こえるのに、どこか深い底を秘めているようだった。
ガイルハルトは、しまったという顔で両手をぶんぶん振る。
「えっ、えっ?あれ?まずかった!? ……いやでも事実じゃん!?見送り行こ?な!」
「ありがとうございます」
テオスカーは静かに微笑んだ。
だがその笑みに、ほんの少しだけ影が差しているのを、ルーデリヒは見逃さなかった。
「……テオスカー」
「すみません。少し外の空気を吸ってきます」
テオスカーは、声をかけようとしたルーデリヒを遮るように席を立った。
背を向ける彼の背中は、普段の柔らかさとは違う、張り詰めた何かを纏っていた。
残されたガイルハルトとルーデリヒは顔を見合わせる。
「……あいつ、怒ってるのか?」
「怒ってるというより……焦ってる、って感じかもな」
ルーデリヒの低い声に、ガイルハルトは首を傾げたままだった。