第13話
夜が更け、王宮の片隅にある一室――。
重厚な扉をくぐると、そこには静かなランプの灯りがゆらめいていた。
金の髪をもつ王子が、ソファに腰かけ、足を組んでいる。
その目元には笑みが浮かび、けれどどこか探るような色も混じっている。
向かいの椅子には、使用人の少女。
クリーム色の髪をふたつにまとめ、背筋を伸ばして座るシシィの顔は、どこか硬い。
手帳を取り出そうとしたその時、先に口を開いたのは王子の方だった。
「……今日はいつもより、なんか暗い顔だね?」
シシィは思わず、ぴくりと目を瞬かせる。
「……あっ、すみません」
シシィは手帳を両手で持ち直す。
「いろいろあって、どこから報告しようかなと……」
「俺が怒りそうな内容?……怖くて震えてきたよ」
言葉とは裏腹に、首をかしげながら、からかうように片眉を上げたニコラス。
シシィの表情が少しだけ緩んだ。
「……いえ、そんなことはないですよ」
少しだけ顔を伏せて言うシシィに、ニコラスは静かに笑った。
「じゃあ、順番に。聞かせてくれる?」
その落ち着いた声に、シシィは息をふっと吐き出す。
ゆっくりと姿勢を正し、手帳を開いた。
「はい。まず、ポーションの納品先についてです」
ニコラスは、肘掛けに軽く肘を置き、シシィへと視線を向ける。
そのやわらかな空気に、シシィもようやく息を整える。
「前回の報告で、友人は『作った上級ポーションを王都ギルド・病院・王宮騎士団に卸している』と話していました。でも実際にギルドの方に聞くと、『近く卸される予定なのか』といった反応で……」
「覚えてるよ。違和感あったね」
「はい。調べてみたのですが……ギルドには、やっぱり“上級ポーション”は卸されていなかったのかもしれません」
シシィは手帳の間に挟んでいた納品書の写しを取り出し、テーブルへ並べる。
「病院と騎士団の納品書には“上級ポーション”と明記されています。でもギルドだけ、“ポーション(青)”という表記なんです。……中級も、上級も、どちらも青色をしているので、見た目だけじゃ区別がつきにくくて」
ニコラスの表情がすっと引き締まる。
「つまり、誤魔化そうと思えば可能ってことか」
「……はい。納品書以外の証拠があるわけではないので、断定はできませんが……意図的に“上級”という名称を外していた、とも考えられるかもしれません」
小さく紙のめくれる音が室内に響く。
ニコラスは納品書を指先でたどりながら、しばし無言で見比べていた。
「そして、これも憶測ですが……」
言い淀むシシィを、ニコラスは目で促す。
「ギルドに卸されたとされていた“上級ポーション”は……本当は王様のところに運ばれていた可能性もあると思います」
揺れるランプの光の中で、ニコラスの瞳がわずかに細められた。
その淡いターコイズの色が、冷たい湖面のように、静かに揺れる。
「騎士団の新人の方が、上級ポーションを勝手に持ち出して騒ぎになったそうなんです。……渡した相手は、王付きの従者だったそうです」
ニコラスは無言で耳を傾けていた。
シシィの声には、どこか痛みが混じっていた。
誰かを責めるためではない。ただ、真実を見逃さないために。
「その新人は、従者から直接指示を受けたわけではなかったんです。隣の隊の人に頼まれた、と。その人も、さらに他の人から頼まれたと……。辿っていったのですが、最初に『王付きの従者へ渡せ』と指示した人物は、結局分からなかったそうです」
ぽつり、ぽつりと語るたびに、室内の空気が少しずつ沈んでいくようだった。
ランプの光だけが、二人の表情をやわらかく照らす。
「……失礼なことを申し上げているのは分かっています」
一瞬、声が途切れる。
けれど、シシィはひるまない。
静かにニコラスを見つめる。
「けれど……王付きの従者のところへ巧妙に渡された品も、ギルドに納品されていない品も……。全て“上級ポーション”なんです」
その言葉に、ニコラスはふと視線を伏せる。
卓上の帳簿に添えられた指が、わずかに動いた。
シシィは迷いを断ち切るように、言葉を続ける。
「……最後に、北棟の温度調節石についてです。殿下は、通られたことはありますか?」
不意に投げかけられた質問に、ニコラスは顔を上げた。
だが、何も言わない。ただ静かに、シシィの言葉に耳を傾けていた。
「特別使用人同士で、『あの辺りって寒いよね』って話になったんです。涼しいくらい、という人もいれば、明らかに寒いと感じている人もいて……。でも、料理人長は『全然寒くない』と。室内は温度調節石で気温が管理されているなら、差があるはずないのに。壊れているのかもしれないと思って、見に行ったんです」
シシィの声は落ち着いていた。
静かさの裏にある疑惑が、その言葉を鋭く際立たせていた。
「一か所だけ、明らかに冷気を感じる場所があって。壁の装飾に紛れて、ぱっと見では気づかないような……温度調節石に似た別の装置が仕込まれていました。それは、魔力に反応して“冷気を放つ”仕組みだったんです」
ふたりの間に長く伸びる影は、時が止まったかのように動かない。
「本当は良くないことかもしれませんが、話をした同僚の健康診断記録を確認させてもらいました。……魔力量が多い子ほど、寒さを強く感じていたんです」
その言葉を聞いた瞬間、ニコラスの眼差しが鋭くなる。
しかし、それでもなお、彼は沈黙を守ったまま、話を受け止めている。
その沈黙に背を押されるように、シシィは一歩、踏み出した。
言葉ではなく、『想い』の領域に。
「……過ぎたことを口にしているのは分かっています。でも……殿下の目的が分かれば、もっと異変に気が付けるかもしれません。見落とさずに済むかもしれません」
両手で手帳を抱きしめるようにして、シシィははっきりと顔を上げた。
その瞳はまっすぐに、揺らぐことなくニコラスを見据えている。
「教えてください。どうして、ニコラス殿下が、私を介して王宮内部を探っているのかを」
静寂が降りた部屋に、その声だけが凛と響いていた。
シシィの真剣な言葉に、ニコラスはしばらく何かを考えるように口を閉ざしていたが、ふっと息をついた。
「こんなに真っ直ぐ詰め寄られたら、俺も逃げられないね」
いつもの軽口。
けれど、その目は穏やかでありながら真剣だった。
「……冗談だよ。大切なことだから、ちゃんとシシィにはいつか伝えるつもりだった。ただ、こうして言ってもらえたことで、覚悟が決まった」
ふう、と短く息をついて、ニコラスは窓の外へ視線を投げる。
星の瞬く夜空が、わずかにその横顔を照らしていた。
「まず、ひとつ聞いてもいい?」
「……はい」
「『特別使用人』の制度について――なぜ、平民ばかりが任命されているのか、考えたことはある?」
唐突な問いに、シシィは一瞬まばたきをした。
「……貴族の方は、魔力や魔法の勉強も、健康の管理もお家でできるので……わざわざ王宮の制度に頼る必要がないからだと思っていました」
言葉を探すように、慎重に答える。
ニコラスは、その答えに「なるほど」と微笑む。
「もっともらしい理由に聞こえる。実際、そう説明されることも多い」
ニコラスの声が、静かに落ちる。
その視線は、どこか遠い過去を見ているようで――その目はもう、冗談を言う時のそれではなかった。
――ニコラスが8歳の頃のことだった。
父・ジグムント王の執務室。
重厚な扉をノックし、入室の許可をもらったものの、王はちょうど側近に呼ばれて席を外すところだった。
日差しが斜めに差し込むなか、ニコラスは広い執務室の中でひとりぼっち。
子ども特有の好奇心から、執務室の大きな机の上の書類をのぞき込む。
整然と並ぶ書類の束。そのなかに、無造作に広げられた何枚かの資料があった。
子どもたちの顔写真とともに、詳細な情報が記されたリスト。
魔力量、出身地、年齢、素行。びっしりと並ぶ情報が目新しく、ニコラスは夢中で紙を捲っていった。
それは、特別使用人に選ばれる候補者たちの一覧だった。
けれど……ニコラスの胸には、次第に違和感が広がる。
「……平民ばかりだ」
気づいたときには、何度も名簿を見返していた。
十人、二十人、三十人――名前が続くどの欄にも、貴族の家名はなかった。
ふと気がついたその事実は、偶然と片付けるには、あまりに偏りすぎていた。
貴族の子女にも高い魔力を持つ者は少なくないはず。
そろそろ父が戻ってくるかもしれない。
こういう勘は当たるのだ。
ニコラスは、こっそりと書類を元通りにして廊下へ飛び出す。
ちょうど通りかかった家臣に駆け寄り、問いかけた。
「ねぇ。特別使用人って、貴族はなれないの?」
家臣は一瞬目を細める。
その目には、子どもの気まぐれな質問を受け流すような色が浮かんでいる。
やがて、どこか作り物めいた笑みを浮かべて、言った。
「……ああ、あれは教育を受けられない者を対象にした制度でしてね。貴族は家にチューターがいますから。わざわざ王宮に呼ぶ必要などないのです、殿下」
「そうなんだ……」
ニコラスはそれ以上尋ねることもなく、その場を離れた。
けれどその胸の奥には、さきほど感じた違和感が、燻るように残り続けていた。
次の稽古事まで、まだ少し時間があったニコラスは、部屋に戻るのも億劫で、気ままに王宮内を歩いていた。
見慣れた回廊も、こうして一人きりで歩くと、どこか違って見える。
そんな折だった。
ちょうど角を曲がろうとしたとき、ふと、廊下の陰から声が聞こえた。
「殿下に今日、話しかけられてな。特別使用人はなぜ平民だけなのか――って」
くぐもった声。
家臣たちが、人気のない場所で話しているようだった。
「ハハハ、まさか殿下がそんなことを気にされるとはな」
「貴族の子息を使い捨てにしたら、後々うるさいからな。何を言われるか分からん」
「平民なら、“研究の一環”で魔力を抜きすぎて廃人にしても、親元に伝えなければ済む」
「なに、しばらくは手紙を誰かが代筆していれば、家族も気づかんよ」
ニコラスはそっと角から顔を出す。
醜悪な笑みを浮かべた家臣が、ニヤニヤと顔を突き合わせて話していた。
「最悪、ポーションで魔力だけ回復させて、生かしておけばいい。供給源としてな」
「人が悪いですなぁ」
「有事の際に魔力の盾となって、我々を守ってくれるんです。むしろ当然の扱いでしょう?」
「ま、有事が起きなければ、平民であっても王宮に好待遇で勤められるのだから、悪い制度ではあるまい」
言葉の端々に滲むのは、「当然」という名の、澱んだ冷笑だった。
足音を立てることもできず、ニコラスはその場に立ち尽くしていた。
自分が育った王宮。
王子として育まれてきたこの場所で、誰かの命を犠牲にする仕組みが、当たり前のように機能している。
特別使用人――選ばれし者という言葉の裏にあるもの。
それは、特別という名の犠牲。
魔力の多い平民たちは、いつの間にか“道具”として扱われている。
壊れても、替えが利く存在として。
その日から、ニコラスの中に、王宮の歪みを見つめる目が生まれた。
「……そんなことが……」
思わず呟いたシシィの声は、かすかに震えていた。
信じたくなかった。でも、思い当たる節は――あまりにも多い。
――『特別という名の犠牲』。
その言葉が、シシィの胸の奥に、じわりと重く沈んだ。
いつもは軽口ばかりで、どこか飄々としているように見えたニコラスから語られた、あまりにも痛ましい現実。
「騎士団との合同訓練には、魔力供給訓練も組み込まれていますよね?……それも、やっぱり……」
シシィの脳裏に浮かぶのは、あの日の訓練の光景。
あくまで、非常時を想定した緊急対応のための訓練として、特別使用人から騎士団員への魔力供給を行なったことがあった。
「……恐らくね。供給訓練は、表向きこそ『緊急対応』ってことになっているけど……戦いの場で“君たちが持っているもの”を使って勝てるなら、毎回使えばいい、と思う連中も出てくるだろう」
声のトーンが、どこか沈んでいた。
「……」
「上級ポーションも、同じだ」
ニコラスはゆっくりとシシィの方へ視線を向けた。
「本来なら、発展は歓迎すべきなんだ。怪我や病を癒せる技術が進めば、救える命は増える」
だけど、と彼は続ける。
「……その用途が、『魔力を抜かれすぎた人を無理やり生かすため』のものだとしたら。俺は、そんな発展は望まない。発展なんて、止まって構わない」
静かだけれど、強い言葉だった。
「人を、壊れるまで働かせるための薬になってしまう」
その言葉には、怒りとも、悲しみともつかない、深い痛みが込められていた。
そして――ニコラスは、ふっと息を吐く。
「……もうひとつ、俺の中で決定的だった出来事があるんだ」
ニコラスの言葉に、シシィはそっと顔を上げた。
――それから数年後、ニコラスが王命で地方を訪れていたときのこと。
視察団が次の土地へ向かう準備をしている間。
ニコラスは、ひとりで村の広場を歩いていた。
生まれてこの方、王都以外を訪ねたことがなかった。
人々の暮らしぶりを肌で知りたかった。
地に足の着いた視点を、忘れてはいけない気がして。
……そんな中で、目にした光景。
「やめろ!」
鋭く飛び出た声に、広場の片隅で子どもを小突いていた男が振り返った。
男の手はまだ上がったままで、痩せた子どもの腕は泥にまみれて震えている。
ニコラスが歩み寄ると、男は一瞬、訝しげな顔をした。
しかし、身なりと紋章に気づいた瞬間、顔色を変え、慌てて頭を下げた。
「い、いえ、これは……! 未来の王である殿下のために、鍛えているのです」
「鍛えている……」
「はいっ。王宮の特別使用人を目指して……魔力を高める訓練を」
言葉の意味を測りかねて、ニコラスは眉をひそめる。
「どういうことだ?魔力を、高める?」
「ええ、ええ。水を控えたり、睡眠時間を削ったり……飢えや恐怖といった極限状態でこそ、魔力は目覚めるのだとか。この子も、いつか王宮に……」
そこで、ニコラスは言葉を遮った。
視線は、地面に倒れこんでいる少年に向けられていた。
小さな身体には、あざがいくつも浮かび、唇は乾ききっている。
それでも、その目だけは、必死に虚空を見上げていた。
――こんなことを、“訓練”と呼ぶのか。
膝をつき、少年に手を伸ばす。
優しく治癒魔法と清浄魔法をかけると、少年の体は綺麗な見かけになる。
それでも、少年は地面から起き上がれなかった。痩せた体までは、魔法ではどうすることもできない。
「……そんなことをしても、魔力は変わらない。痛みや飢えは、強さとは別のものだ」
そう呟きながら、ニコラスはポケットからハンカチを取り出し、少年の手にそっと握らせた。
「……立てるか」
少年は、かすかにうなずいた。
そのわずかな頷きが、今でも忘れられない。
ニコラスは振り返り、なおも平伏している男に言い放つ。
「『特別』とは、誰かを傷つけるための言葉じゃない。二度と同じことをさせるな。――王子としての命令だ」
シシィは黙ってニコラスを見つめていた。
真っ直ぐに、穏やかに。
けれど、確かに燃えているその瞳を。
「……あの時、はっきり思ったんだ。俺が、この国を変えなきゃいけないって」
言葉は穏やかだった。
だが、その奥には強い熱が込められていた。
「制度を壊すだけじゃ足りない。魔力の多い者たちは、今、特別使用人として王宮に集められている。拒否権もなく、強制的に」
その言葉に、シシィの胸がちくりと痛む。
シシィ自身も、「希望して来た」というより、「仕組みの流れに乗せられ」ここに来た一人だった。
こんな背景があったとは――。心の奥で、何かが静かに揺れ始めている。
一語一語を噛みしめるように、ニコラスは言う。
「集めた国民を、道具として扱うなんて、あってはならない。本当ならすぐにでも解放したい。けど……今それを言っても、握りつぶされて終わる」
そこまで言って、ニコラスはふっと笑った。
「だから、準備を進めることにした。そして、その第一歩として、シシィを雑務係――補佐役に選んだ。俺は、誰かと何かをするなら、力と同じくらい『人となり』が大事だと思ってる」
「……力と人となり、ですか?」
「そう」
ニコラスはうなずく。
「シシィ達の王宮入りの日、何気なく門の上から見ていたんだ。君の首元に――とんでもなく強い魔力が溜まっているのが見えた。例のネックレスだね」
シシィは思い出す。
初対面の日、「魔力が見える」と言った彼の言葉。
母の形見である、魔力を帯びたあのネックレスを、布の上から的確に言い当てたこと。
……あのときすでに、彼は自分を知っていたのだ。
「そして……門の横手で、老人が転んだのを覚えてる?」
その一言で、記憶が鮮やかに蘇る。
「あっ……」
「誰も気に留めなかった。けれど、シシィだけが荷を拾って、袋を貸して、手際よくまとめて――最後には笑って、手を振ってた」
思い出すほどに、恥ずかしさがこみ上げてきて、シシィは思わず目をそらした。
「……見てたんですね」
「見てたよ。ああいうところに、人間って出ると思ってる。だから、俺は君に頼んだ。――王宮の裏を調べられる唯一の人物として、俺の“目”になってほしかった」
淡々とした語り。
けれどそこにあったのは、たしかな信頼と、敬意。
「ようやく協力者が見つかったと思った。これで王宮の内部を正せる、俺が思う理想の未来に近づけるって」
語る声は、次第に未来を描くものへと変わっていく。
「まずは、子どもを中心に、魔力について学べる場所を作りたい。 魔力の強さに関わらず、使い方を身につけられる……安心して通える学校を、国中に建てるつもりだ」
「……学校……」
シシィが小さくつぶやく。
ニコラスはうなずいて、話を続けた。
「学びの機会を広げれば、皆が正しく魔力と向き合えるようになる。使うための知識が身に着けられる。そして、そこで働く人たちの雇用も生まれる。支え合う循環を作りたい」
構想は、すでにその先を見据えていた。
ニコラスの声は、落ち着きながらも、確かな熱を帯びていく。
「学校に通うには、移動手段も必要だ。交通の整備……街と街を繋ぐインフラを作る。魔力持ちの研究者たちと協力して、安全で効率的な技術を追求していくつもりだ」
魔力を、戦力でも搾取の対象でもなく、「共に生きるための技術」として社会に組み込んでいく構想。
それはまさに、制度の先を見据えた、未来のビジョンだった。
「魔力に支配されるんじゃない。自分の意思で魔力を使えるようになってほしいんだ。……そのために、まずは王宮から変えていく。魔力を、ただの力じゃなく、希望に変えるため」
その目は、誰かを従わせる権力者のものではなかった。
この国の誰もが、自分の人生を、自分で選べるように。
真っ直ぐな想いだけが、まるで光のように胸に差し込んでくる。
――この人は、本気で変えようとしている。
そう思った瞬間、シシィの胸に、熱いものが込み上げた。
「……それなら」
しばしの沈黙のあと、シシィはそっと口を開いた。
その声は小さかったが、確かな意志を宿していた。
「私も、ニコラス殿下の期待に応えられるよう、一層頑張りますね」
その一言を聞いた瞬間、ニコラスの眉がぴくりと動いた。
「……ん?今、ニコラスって言った?」
思わぬ反応に、シシィは一瞬きょとんとする。
「え、あ……はい。言いましたけど……?」
ニコラスはわざとらしく、目を見開いてから、ふっと肩をすくめた。
「へえ、俺の名前、知ってたんだ?ずっと殿下って呼ばれていたから、てっきり知らないのかと」
「もう……知らないわけないじゃないですか」
困ったように眉を寄せるシシィに、ニコラスは思わず笑みが零れる。
「じゃあ、どういう気持ちの変化で?」
「今日のお話を聞いて、今まで以上に……殿下の力になりたいって思ったからです。特別使用人だけじゃなくて、この国の人、全てに関わることだから……もう一度、気合を入れて調査を頑張ろう、って」
笑顔を作りながらも、恥ずかしそうに視線を逸らすその仕草に、ニコラスは表情を和らげる。
やっぱり、補佐役として選んで正解だった、と。
「じゃあ、これからは名前で呼んでくれていいよ。二人のとき限定で。ね、シシィ」
「えっ」
瞬間、シシィの顔がぱっと赤く染まった。
「な、名前!?無理です!というかそういう話じゃなかったですよね!?」
その必死な訴えに、ニコラスは吹き出してしまった。
「ふふっ……そういうところ、ほんとに面白いよね」
「う……からかわないでください……!」
「うーん……なら、どうすれば呼べるの?」
どこまでが冗談で、どこからが本気なのか。シシィには全く読めない。
顔の赤みは、完全に耳まで達していた。
ニコラスの方を向けないまま、絞り出すように口を開く。
「せめて『様』を付けさせてください……」
「ニコラス様か。悪くないね」
目を細めて微笑むニコラス。
その眼差しには、静かな喜びと、どこかくすぐったそうな照れがにじんでいた。
「さて……話を戻すと」
ほんのり甘い雰囲気に、少し名残惜しそうにしながらも――ニコラスは表情をすっと引き締めた。
空気が一変する。
情報を読み解く王子としての顔に、戻っていた。
「シシィの言う通り、『上級ポーションは王が使っている』という仮説……あながち的外れじゃないかもしれない。消費するというよりも、いざという時、特別使用人に投与するため、備蓄している可能性が高い」
シシィの表情が曇る。
ニコラスが語った“制度の裏”と照らし合わせれば、それは、何かを犠牲にする前提の準備にすら見えてしまう。
もはやただの仮説ではなくなりつつあった。
「それに、あの温度調節石に似せたもの。通過した人物の魔力量を記録していると考える方が自然だ」
「……はい。確かにそうかもしれません」
「しばらくは、あの辺りに近づかない方がいい。何が起きるかわからないからね」
ニコラスの忠告に、シシィは小さく頷いた。
うつむき、視線を床へと落とす。
「すみません……迂闊でした」
自分が不用意に動いてしまったことで、情報が何者かに――恐らくは王側に伝わった可能性がある。
その思いが、胸に重くのしかかっていた。
そんなシシィに、ニコラスは静かに息をついて、やわらかく語りかける。
「……ちなみに、あの場での寒さ。どのくらいに感じた?」
「私は……耐えられないほどではありませんでした。『涼しい』と感じた子よりは寒くて、『寒い』って震えていた子よりは、まだ軽いというか……中間くらい、だったと思います」
ニコラスは「ふむ」と短く唸り、ゆるやかに彼女の首元へ視線を向ける。
そして、苦笑いのような表情を浮かべた。
「そのネックレスに溜まっている魔力量、正直言って……俺が今までに見た何よりも、群を抜いて多いんだけどね」
「えっ……?」
シシィは驚いて、服の内側からネックレスを取り出す。
無意識のうちに、両手でそっと包み込むようにしていた。
確かに、母の形見で、魔力が込められているとは思っていたが、「群を抜いて多い」なんて――それはあまりに想定外だった。
「自覚なかった?」
「ありませんでした。母が最後に残してくれた、大切なものとしか……」
シシィの声に、どこか困惑と戸惑いが混ざる。
「でも」と言葉を続けた。
「そういえば……入手方法はちょっと特殊かもしれません。少しだけ、この形見を手に入れたときの話をしてもいいですか?」