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第12話

 王宮の大掃除は、全使用人総出の一大行事。

 この日も朝早くから、敷地内のあちこちで、雑巾やモップ、はたまた魔道具を手にした人影が動き始めていた。


 「晴れててよかったなぁ」


 シシィは使い込まれた雑巾とバケツを手に、応接室前の廊下を歩いていた。

 窓から差し込む春の陽射しが、床の石目に淡く反射している。


 王宮の清掃では、原則として使用人はそれぞれの職場を担当する。

 それは特別使用人も例外ではない。

 だが、雑務係という立場のシシィには、明確な持ち場が与えられていない。

 使用人長からは、「人手の足りない場所を回って補助するように」という、なんとも曖昧な指示を受けていた。


 ――ま、いつも通りかも。

 シシィは、ひとまず応接室を目指して歩みを進める。

 客人が通される部屋。

 日ごろから綺麗に保たれてはいるが、細かな箇所の清掃をじっくりとできるのは、こういったタイミングならではだ。

 

 「おはようございます!」


 部屋の窓を磨いていた先輩使用人が、振り返って手を止める。

 その顔に安堵の色がにじんでいた。


 「おっ、助っ人が来た。いや〜、ここ、広さの割に人手が足りなくてね」


 彼女の目線の先には、重厚なローテーブルとソファセット。

 来客用の応接室だけあり、装飾は控えめながらも格式高く、ひとつひとつの家具が堂々とした存在感を放っている。


 「床のモップ掛けをしたいんだけど、まず調度品をどかさないといけなくて……」

 「確かに……これは、一人じゃ厳しいかもですね」


 シシィが目を丸くすると、先輩は苦笑しながら頷いた。


 「あ、でもね。このあと、騎士団の人たちがこっちの応接室も手伝いに来るって連絡があって。ちょっと待ってみようか」

 

 その瞬間――「ギシ」と軽い音を立てて、革靴が廊下の床を踏んだ。

 制服姿ではあるものの、いつもより動きやすそうな軽装。

 応接室の入口に現れたのは、見慣れた黒髪の青年だった。

 

 「お疲れ様です。話は聞こえました。俺たちで動かしますよ」


 シシィは、ぱちりと瞬きをしたあと――驚き混じりに声を上げた。


 「えっ、テオスカー!?」

 「シシィ?お前もここだったのか」


 窓から、ふわりと風が入ってテオスカーの黒髪を揺らす。

 その後ろには、若い団員がもう一人ついていた。清掃用の手袋と作業靴を履いている。


 顔を見合わせたシシィとテオスカーは、ふっと表情を綻ばせる。

 

 「騎士団員が二名いますので、高所の清掃や備品の移動は任せてください」

 「男手助かるわ~。それに二人は知り合い?なら作業もスムーズに進みそうね」


 そう言って先輩使用人が笑うと、テオスカーは小さく頷いた。


 「故郷が一緒なんです。……やれるよな、シシィ」

 「うん!」


 自然と並び立つふたりの姿に、先輩使用人は安心した様子で窓辺へ戻っていく。

 春の光の中、応接室には少しだけ柔らかい風が流れ込んでいた。

 

 ――テオスカーとその後輩団員が、重厚な応接セットをゆっくりと持ち上げる。


 「そっち、角持てるか?」

 「はい、大丈夫です!」


 二人が声を掛け合い、ソファとローテーブルを壁際へと慎重に移動させる。

 家具が床を離れた瞬間、シシィはすかさず箒を持ちだす。


 「ありがとう!箒掛けしちゃうね」

 「頼んだ」


 丁寧に床の砂埃を払うシシィの横で、テオスカーと団員は照明のかさや高い位置の棚に手を伸ばす。

 ふと、テオスカーが声をかけた。


 「そこの台、まだ置けるか?」

 「うん、あと花瓶ふたつくらいはいけそう」

 「じゃあ、これ頼む。……お前、だいぶ慣れてんな」

 「ふふっ、雑務係は何でも屋だからね。掃除も得意になってきたかも!」


 軽口を交わしながらも、作業の手は止まらない。

 一言二言声を掛け合えば、それだけで段取りが通じる――二人の間には、自然と心地よい空気が流れていた。


 箒が床を滑る音。窓や照明を拭きあげる、やわらかくも小気味よい音。

 そして時折交わされる言葉が、静かな応接室に穏やかに響いていく。

 ふと、様子を見ていた後輩団員がぽつりと呟いた。


 「……あの、もしかして、おふたりって……すごく仲が良いんですね?」


 顔を上げたシシィとテオスカーが、同時に「ん?」とそろって振り返る。


 「幼馴染だもんね」

 「……あー、うん。ま、そんなところだ」


 テオスカーの微妙な間と、ふと伏せられたまつげの奥にある感情に、後輩団員は思わず目をとめる。

 言葉では否定しなかった。でも、肯定しきったわけでもない。

 言葉にできない何かを噛みしめるような、張りつめた沈黙。


 普段は誰に対しても柔らかく、真面目で穏やかな先輩であるテオスカーが、ほんの一瞬だけ見せた表情。

 それは、いままでに見たことのないものだった。

 後輩団員は、なんとも言えない笑みを浮かべながら、そっと備品整理へと戻っていった。

 

 ――3つある応接室のうち、2部屋を清掃し終え、いよいよ最後の1部屋。

 立ったままのわずかな休憩を挟みつつ、急ぎながらも丁寧に清掃を進める四人。

 掃除ハイとでもいうべきか、どこか奇妙な連帯感が芽生え始めていた。

 

 「窓拭き、あとちょっとか……水、替えてくるね」

 「自分も、前の部屋の配置を確認してきます」

 「了解です!」


 先輩使用人は窓拭き用の水を換えに、後輩騎士は調度品の確認にと部屋を出ていく。

 テオスカーも、清掃用具を取りに行っており、席を外しているようだった。

 

 「……ここ、ちょっと届きにくいな……」

 

 重い家具の移動や高所の清掃は、主にテオスカーとその後輩が担っていた。

 だが、あと少しで応接室の掃除も終わり。

 少しくらい構わないか、と、シシィはそっと脚立に足をかけた。

 

 差し込む陽の光に照らされて、棚の上にうっすら積もるホコリが浮かび上がっている。

 バランスに気をつけながら、雑巾を持った手を伸ばし、ゆっくりと拭き取りはじめた。

 

 もう少し。あとほんの少しだけ――。

 そのとき、ぐらりと脚立が揺れた。


 「――わっ!?」


 落ちる!

 そう思った瞬間、ぐっと腰を引き寄せられる感覚。

 強く支えられた次の瞬間には、両足がしっかりと床に着いていた。

 

 「無理すんなって言ったろ」

 

 耳元に響く低い声。

 見上げれば、すぐ目の前に、テオスカーの顔があった。

 ほんの少しだけ乱れた黒髪、驚きながらも眉根を寄せて心配そうに覗き込んでくる赤い瞳。


 「……て、テオ……」


 距離、体温、声。

 どれも知っているはずのものなのに。

 田舎町で共に過ごしたあの頃よりも、すべてがずっと近くて、熱を帯びている気がした。

 シシィの胸はどくんと跳ねる。

 

 「……あっ、ご、ごめんっ!ごめんね!」


 言いながら、シシィは反射的に身をよじる。

 テオスカーの腕の中から慌てて抜け出そうとしたその拍子に、近くに立てかけてあったモップの柄に手が当たる。


 反動で、モップが倒れる。

 テオスカーの方へ、勢いよく。

 シシィが「まずい!」と思った次の瞬間、パシッと乾いた音が響いた。

 

 「っと、危ね」

 

 テオスカーが咄嗟に手を伸ばし、モップの柄をしっかりと片手で受け止めていた。

 その動作に、まるで迷いはなかった。


 がっしりとした腕、しなやかに動いた指先、全身で自然に支える動き。

 まるで重さなんて感じさせないほどに、モップを軽々と止めてしまう。


 「あ……」


 その一瞬を、シシィはぽかんと見つめていた。

 こんなにしっかりした体つきだったっけ。

 昔から運動神経はよかったけど――こんなふうに、大人の男の人みたいに頼もしかっただろうか?


 「……すごいね、テオスカー。やっぱ、鍛えてるんだね……」


 無意識にこぼれた言葉に、自分でも少しだけ驚く。

 あわてて口を引き結んで、ぎこちなく笑みを作った。


 「というか、いろいろごめんね!助けてくれてありがとっ。私、一旦道具戻してくるから……!」


 バツが悪いような、落ち着かないような声を残して、シシィは小走りにその場を離れた。

 背中まで、まだ心臓の音が伝わってくる。

 

 「……シシィ、ちょっと……照れてたよな」


 ぽつりと呟いたテオスカーの口元には、少し名残惜しそうな、それでいて少し嬉しそうな、かすかな笑みが浮かぶ。

 彼の視線は、シシィの背中に向けられたままだった。


 「……は、恥ずかしかった……!」


 廊下の隅を歩きながら、シシィは先ほどまでのことを思い出していた。

 王宮に来てから、あんなに近い距離で話したのは初めてで。

 地元の頃よりちょっと声が低くなったとか、体格が大きくなったとか――鍛えているからこその所作に、思わず胸がはねてしまった。

 

 「はあ……なんか挙動不審になっちゃった……戻って残りの棚を拭かなきゃ」

 「……あら。そんなところで、のんびりしていて大丈夫かしら?」


 不意に背後からかけられた声。

 ふっと甘い香りが鼻をくすぐる。

 振り向くと、艶やかな紫色の髪を揺らしながら、ヴィオラがそこに立っていた。

 

 「決まった掃除場所がないからって、サボってるなんて思われたら大変よ?雑務係さん」


 にっこりとした笑顔。けれど、どこか爪を立てるような声音だった。

 シシィは一瞬だけ言葉に詰まるが、すぐに表情を戻し、小さく首を振る。


 「応接室の掃除が終わったので、道具を返しにきました」

 「応接室?それはまた……ずいぶんと大きなお仕事を任されてるのね」


 皮肉とも、賞賛とも取れる声音で言いながら、ヴィオラはシシィの横を通り過ぎると、わざとらしく用具棚を覗き込んだ。

 

 「……あら、やだ」


 ふいに、思い出したように軽く顎に指を添えて、首だけこちらへ向ける。


 「特別使用人なのだから、『魔力』を活かして、もっと手早くお仕事すべきじゃなくて?雑巾とモップなんて……まるで、魔法を扱う力がないみたいだわ」

 

 棘のある笑みとともに放たれたその一言に、シシィはほんの一瞬、息を呑んだ。

 

 「……あ、先輩!」


 シシィが何かを口にするよりも早く、ヴィオラは踵を返す。

 角から現れた女性使用人へと軽やかに駆け寄り、親しげに話し始めた。

 シシィからは、その会話の一部が微かに耳に届いた。

 

 「すみません、お待たせしてしまって……ええ、ちょっと同期の子がいたので、少しお話していたんです」

 「同期……ああ、はい。そうです。例の雑務係なんですよ……」


 ふっと笑いを含んだその声は、シシィの背中を確かに貫いた。

 

 小さく息を吐く。

 さっきまで胸に残っていた熱が、すっと冷えていくのが分かる。


 ……こんなことを、いちいち気にするわけにはいかない。

 心の中で小さく言い聞かせる。シシィは静かに道具をもとの位置に戻した。


 「お、戻ってきた。三部屋とも無事完了だよ!」

 「遅かったな。大丈夫か?」

 「あっ、ごめんなさい!大丈夫です。ありがとうございました!」


 戻れば、既に応接室内はキッチリと整えられていた。

 用途上、マメに手入れをされている部屋ではあるが、ここまで大がかりな清掃をする機会は少ない。

 四人で喜びを分かち合っていると、「いったん休憩にしませんか」とテオスカーが声をかけた。


 「第一庭園が休憩場所に指定されていたはず。このあたりでまとまった休憩を取りましょう」

 「賛成。腰が痛いわー」

 

 後輩騎士とシシィも頷く。四人は庭園を目指して歩き出した。

 途中で、シシィがふと思い出したように声をかける。

 

 「ねぇテオ。上の棚って……あのあと、拭いてくれた?」

 「もちろん。……シシィが乗ったら、また落ちるかもしれないし」

 「お、落ちないよ!?多分……大丈夫だもん……でも、ありがとう」

 

 少し拗ねたような照れ混じりの返事に、テオスカーがニッと笑う。

 その元気づけるような表情に、シシィもつられるように笑ってしまった。

 



 ――晴れた日の午後らしい、穏やかな空気が庭に広がっていた。

 第一庭園では、使用人や騎士団員たちが思い思いに腰を下ろし、束の間の休憩を楽しんでいる。

 大掃除のために設けられた共通の休憩所。冷たい飲み物や焼き菓子など、ちょっとした軽食も並んでいた。


 「シシィちゃ〜ん!テオスカーさ~ん!」


 ぴょこんと跳ねながら手を振るオレンジの影は、アンナベルタだ。

 その隣で、リリスも手をあげる。どこかツンとした仕草だが、口元は微かにほころんでいた。

 

 「遅かったじゃない。クッキー取っておいたわよ!」

 「リリちゃん!?さっきお兄ちゃんには『無い』って言った!シシィちゃんはともかく、なんでテオスカーにはあるのさ!?」

 「ちょっと!昼休みくらい静かにして!」


 リリスとその兄、ガイルハルトがさっそく大盛り上がりだ。

 隣でアンナベルタが笑いながら、シシィの手を引く。

 

 「飲み物、いろいろあったよ~!取りに行こ!」

 「いいね!……ねえ、テオスカーは何がいい?さっきのお礼ってことで、私が取ってくるよ」

 「じゃあ、お言葉に甘えて。冷えた水で」

 「はーい!まかせてっ」

 「兄さん離して!あたしも行くんだから!飲み物っ!」


 ガイルハルトが騒ぎながらリリスに追いすがり、リリスは足で応戦する。

 相変わらずのにぎやかと入り乱れる会話に、テオスカーとシシィは思わず顔を見合わせて笑った。

 

 アンナベルタと二人で飲み物を取りに向かい、冷たい水と果汁飲料をトレイにのせて戻ってくると、新たにもう一人の姿が加わっていた。


 「あれ……ルーデリヒさん?お疲れさまです!」


 アンナベルタの兄、ルーデリヒ。

 背筋の伸びた姿勢と落ち着いた雰囲気は、賑やかな面々の中でもどこか涼やかだった。

 

 「お兄ちゃん!」


 アンナベルタがぱたぱたと駆け寄り、ルーデリヒの腕に軽く抱きつく。

 ふわりと微笑んだ彼は、周囲へ視線を向けて、落ち着いた声で挨拶を送った。

 

 「リリスさんにシシィさん、アンナベルタもお疲れ。……なんだ、お前たちも居たのか」


 ルーデリヒの言葉に、それぞれ笑顔や会釈で応える面々。

 ただ一人、ガイルハルトだけは、挨拶もそこそこにアンナベルタを凝視していた。

 「俺も妹のリリちゃんに抱き着かれたいんだが!?」……そう思っていることがありありと分かる表情に、周囲は苦笑いを零す。

 当然ながら、当のリリスは――。


 「…………」


 硬い表情のまま、クッキーの小袋を静かに開いている。

 大きなクッキーを1枚取り出し、器用に三等分に割った。


 「アンナ、シシィ、食べましょ」

 「リリスちゃんの手作り?ありがとう!」

 「この間のビスケットもすっごく美味しかったよね~!」


 三人が肩を寄せ合って、おやつを囲む様子は、まるで本当の姉妹のようだった。

 

 「三人組、今日も仲良しだな」

 「姉妹みたいだな。いいことだ」


 テオスカーとルーデリヒが、穏やかな眼差しでその様子を見守る。

 ふと、リリスが立ち上がる。

 ピクリと反応するガイルハルトを華麗にスルーして、リリスはテオスカーとルーデリヒの前にしゃがみ込んだ。

 

 「お二人もどうぞ」

 「ああ。ありがとう」


 ルーデリヒはひょいと摘み上げ、すぐに口へ運んだ。

 テオスカーはちらりとガイルハルトに視線を送りつつ、つぶやいた。


 「ありがとう。……ガイルハルトさんの前だと、ちょっと食べづらいんだが」

 「気を付けてください。クッキーを手にした瞬間、腕ごと持っていかれるかもしれないので」

 「さすがにしないぞ!?…………多分!」


 賑やかに過ぎていく、穏やかな昼下がり。

 不意に、庭園の入り口で整った足音が響いた。

 一斉に視線がそちらへ向く。


 「殿下だ……!」


 誰かがそう囁いた。

 現れたのは、ニコラスだった。

 いつものように余裕をまとった微笑を浮かべているが、今日はそれ以上に、どこか柔らかい雰囲気を携えている。


 「皆、ご苦労だったね。今日の清掃、大変だっただろう。でも、王宮のあちこちが見違えるように綺麗になったと、執務室からも話が上がっていたよ」


 その声に、空気がふわりと和む。

 まっすぐに皆を見渡しながら、ニコラスは続けた。


 「引き続き、互いを思いやりながら務めていこう。……本当に、お疲れ様」


 静かな拍手が起こり、それが広がっていく。

 その中心にいるニコラスの姿は、まさしく次代の王としての風格に満ちていた。

 

 今日は星の日。定期報告の日だ。

 ……殿下に、話したいことがたくさんある。

 これまでの出来事が、少しずつ繋がりはじめている。


 庭園に吹いた春風が、シシィの髪をふわりと揺らす。

 心に灯った小さな決意が、ほんのりと温かさを持って、胸の奥で脈を打っていた。

 

 「シシィ」


 休憩が一段落し、人の波がそれぞれの持ち場へ戻りはじめた頃。

 そっと声をかけてきたのは、テオスカーだった。


 「この前、気にしてたよな。帳簿のこと。今なら大掃除で動きが緩んでるから……上級ポーションの倉庫も見られると思う」

 「……本当!?行ってもいいの?」

 「もちろん。俺が案内する」


 先導するテオスカーのあとを追い、二人は騎士団専用の倉庫へ向かう。

 いつもなら無機質に思える石造りの通路も、今日はどこか心地よい。

 

 倉庫に着くと、テオスカーは棚の一角からいくつかの綴じファイルを取り出した。

 古いものから新しいものまで――納品書は、前見たときとは打って変わって、しっかりと種類ごとにまとめられている。

 テオスカーは、慣れた手つきで書類をめくった。

 

 「上級ポーションの納品書は、これ。現物はあの棚の中にあるんだけど……普段は上官の鍵がないと開けられない」

 「そっか……まあ、仕方ないよね」


 そう言いながら、シシィも棚へ目を向ける。


 「けど、今日は特別」


 テオスカーがポケットから取り出したのは、小ぶりな鍵束だった。

 そのうちの一本をつまみながら、いたずらっぽく口元を緩める。


 「大掃除だから、棚の中まですみずみ丁寧に掃除したいって言ってみたんだ。そしたら、褒められて鍵を預けてもらえた。……まあ、信用されてるからだな」

 「信用は納得だけど……まさかテオから掃除って言葉が出てくるとは思わなかったな?テオスカーの実家のお部屋、私は忘れてないよ」

 「言ったな。貸さないぞ」

 

 テオスカーは、鍵を器用に指先でくるりと回しながら、口元にいたずらな笑みを浮かべる。

 それに乗るように、シシィもひょいっと身を乗り出してみせた。

 

 「もう〜、ごめんってば!テオ、貸してよ~」

 「ここでシシィに取られるくらいなら、上官に返したほうがマシかもな」

 「なんでよ~!」


 冗談めかした言葉とともに、テオスカーはひょい、と鍵が掴めそうで掴めない距離へと躱す。

 シシィは腕を伸ばして、もう一歩踏み出そうとした、その瞬間。

 ふと、昼間の出来事が、鮮やかに脳裏をよぎった。

 

 脚立から落ちかけたところを、ぐっと抱きとめられて。

 至近距離で、赤い瞳を見上げてしまって。

 しかもその直後、モップの柄を倒してしまって――。

 

 ぶわっと熱がこみあげてきて、シシィは勢いよく手を引っ込めた。


 「……あ、あの、やっぱいいや!時間もないし開けよう!」

 

 唐突すぎる拒否に、テオスカーがきょとんと目を丸くする。

 

 「もしかして、昼のこと……まだ気にしてる?」

 「ち、違うよ!あれはちょっと、びっくりしただけで……っ!」

 

 テオスカーの目は、やわらかい笑みを含みながらも、優しさが滲んでいた。

 その目を正面から見るのがくすぐったくて、シシィはさらに耳まで赤くなる。

 

 「……ま、掃除の名目で借りてるしな。開けようか」


 テオスカーはそれ以上何も言わず、軽やかな手つきで鍵を回す。

 軋んだ音と共に、棚の扉が開いた。


 「これが上級ポーション。……まあ、勝手に持ち出した奴がいたからな。今は数もしっかり合ってるはずだ」


 テオスカーの手の中でめくられる帳簿に、シシィはそっと目を落とす。


 「……やっぱり、納品書に書いてある名前は『上級ポーション』だよね……」

 「ああ。ざっと見た限り、他の表記はなさそうだな」


 やはり、ギルドの分だけが「ポーション(青)」になっている。

 明確な違和感が、少しずつ、形を持ちはじめている。


 「ありがとう!少し話しただけなのに覚えていてくれて……。これが分かっただけでも、大きな進歩かも」

 「ん。なら、案内した甲斐があったな」


 「騎士団員寮の清掃を手伝う」というテオスカーと別れ、シシィは倉庫を後にする。

 その道すがら、ふと窓の外に目をやる。

 敷地内のあちこちで、使用人たちが黙々と掃除に取り組んでいた。

 それぞれの制服が、風にゆれている。

 

 シシィは、足を止める。まぶしい陽の光をひとつ吸い込むように、そっと目を閉じた。

 

 「……行こう」


 目を開けると同時に、ニコラスの私室へ向かって、迷うことなく歩みを進める。


 今日は、いつもよりも深く。

 あの人は何を見て、何を隠しているのか――。

 王宮に渦巻く謎の、その奥へと踏み込む時だ。


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