1-32 これが夢だったならば ■
街の外周警備を終えてクロガネとマナが宿に戻ると、ぶすくれた表情のミナが二人を迎えた。
「……お楽しみでしたね!! 私を除け者にした今日一日は楽しかったですか!?」
「うん。超楽しかった。これから毎日寝坊してね。ミナ」
「むきー!!」
そんな普段通りの雰囲気の中、ふとクロガネは腰に差した赫灼剣に手を添えた。
いつの間にか剣は動かなくなっており、あんなにも微動だにしなかったのが嘘であったかのように何事もなく引き抜くことが出来た。
クロガネはそれに首を傾げながらも、特段深く考えず、ベッドの横に立て掛けた。
それから夕飯を食べ、身体を流し、布団に入る。
何ということはないルーティン。
いつも通り、一日が終わる。
はずが。
「……ん?」
気が付けば、クロガネは街中に居た。目の前には見知らぬ宿。
宿の名前は──陽風の宿屋?
この建物を見た記憶は無いが、建物の外見を見る限りそれがカルファレステ街のどこかにあるのは間違いなさそうだ。
そして不思議なのが、クロガネにはこれが夢だという実感があった。明晰夢というやつだ。
だが、それにしてもこの景色は夢というにはやけに鮮明で、現実的すぎるような気がする。そもそも夢だというのに、目の前の建物に一切の破綻が無いのはある意味、夢らしくはない。
辺りを見渡せどそこに人はいない。空には暗闇と星空。
深夜なのだろうか。
その時、後ろから背中を押されるような感覚。
クロガネは振り返る間もなく、陽風の宿屋に吸い込まれていった。
「うわ!?」思わず恐怖で身体を縮こませるには十分な速度でクロガネは扉に引き寄せられる。「わああああ!?」
扉にぶつかる──! ……かと思わせて、クロガネの身体は扉を透り抜けた。
突然の出来事で目をまん丸にしていると、そのまま慣性でクロガネは建物の中を進んでいく。
慌てて身体を動かすが、クロガネの足が床に付いていない。完全に浮かんでいる。幽霊はこんな気分なのだろうか。空中で両手両足をばたつかせる幽霊が見えた人には、さぞかし滑稽に映っていることだろう。
そうして浮かんだまま部屋を突き抜けて進んでいく。
これは本当に夢なのだろうか。
やはり、信じがたい。
それぞれの部屋には顔も名前も知らない人が寝ていたり、酒を飲んでいたり、武器の手入れをしていたり。あまりにもそれらは人間臭く、クロガネの想像力の範疇を明らかに超えていた。
そうして進んでいくクロガネは、ある部屋で動きを止める。
「あ」と思わず声が出た。「セスタさんと、ククリさん……」
同じベッドで寝ている二人を見て、何かいけないものを見てしまった気がしたクロガネは、思わず視線を逸らした。
どうしてこんな状況なのだろうか。どこか気まずさを感じながらも、逆らえない男という生物の欲求。
クロガネはバレないならばとこっそりと視線を向けて、息が止まった。
「は? だ、誰?」
少し目を離した隙に、二人の寝ているベッドのすぐ隣に見覚えのない男が立っている。
いや、男というより、老爺。かなり年を取っていて、真っ白な髪、皺だらけの顔や手。
だがその視線だけはあまりに鋭利で、ぞっとするほどに冷たく。
女子の部屋に侵入する変態だとかそういうものとは明らかに違った、もっと暗く、重く、黒く、濁ったものだ。
二人が殺される。直感でそう分かった。
だが、クロガネはどれだけもがき前に進もうとしても、それは叶わない。
なんて無力なんだろうか。
「————————!!」
叫ぼうとして、だがそれは発声されることすらなく。
だからこそ、その声は静寂の中でやけに大きく響いた。
「そんなに興奮するな。クロガネとやら」
見てる。
見られている。
その老爺は真っ直ぐにクロガネを見ている。
途端に、身体を突き抜ける異様なほどの恐怖。
赤竜のそれとは明確に違ったベクトルの恐怖は、クロガネの心を無理矢理に押し広げ、聞こえないとは言わせないとばかりに耳元で語りかける。
今から二人を殺す。
そこでおとなしく見ていろ。
──と。
クロガネは何も言えなかったし、何も出来なかった。
仮に何かしたところでどうにかなったのだろうか。
ただ確実に分かったのは、あの老爺はクロガネの想像もつかないほどの実力を持ち合わせているということだけだ。
生物的な直感が、アレには勝てない、戦うべきではないと警鐘を鳴らしている。
クロガネの視線の先で、老爺がセスタの口を手で覆った。
何か布のようなものを押し当てている。それによって、セスタは目覚めるどころか、より深い眠りに落ちていく。
そんなセスタの口元から手を離すと、もう片手で腰に身に付けていたナイフを手に取り、音もなく首元に振り下ろした。
ぐちゅ。ごり。
生々しい音と、動脈から噴き出す鮮血。
あっという間に布団は赤く染まり、セスタはついに声を上げることもなく死んだ。
これは夢だ。
これは夢だ。
これが現実であるはずがない。
生暖かい血を浴びて、ククリは目を覚ます。即座に老爺の気配と周囲の違和感に声を荒らげようとするが、それよりも早く老爺は指をククリの口に突っ込んだ。
「う、お゛ぇ」ククリの嗚咽。
それを見ながら、老爺はククリに顔を近付けて笑った。
より深くまで老爺の指が入り込み、ククリは何度かえずいたあと、堪えきれずに嘔吐した。
だがそれでも老爺は頑なに指を引き抜かない。
弄んでいる。嬲っている。
これは夢だ。
これが現実であるはずがない。
これは夢だ。
これが現実であるはずがない。
こんなのが、現実であっていいはずがない。
ククリは涙を流し、喋れないながらもその瞳で何かを懇願している。
だがいくら待てども老爺は決してその指を引き抜こうとはしていない。
懇願していた目が次第に怒りに染め上げられ、ククリは老爺の腕を何度も殴打した。
何度も、何度も、何度も、何度も。
だがそれでも、老爺は指を引き抜かなかった。それどころか薄気味悪く顔を歪めて嗤う。
ククリの心から、余裕と僅かな希望を刈り取るのには、それで必要十分だった。
どうか夢であってくれ。
どうか夢であってくれ。
どうか夢であってくれ。
どうか夢であってくれ。
呼吸もままならず、ククリは次第におとなしくなっていった。そのまま白目を剥いて気絶し、失禁したのを見てようやくその指を引き抜く。
その後、なんの感情も抱いていないような表情で、再度ナイフを振り下ろした。
お願いします。
夢ならば、早く覚めてください。
お願いします。
老爺は二人が完全に動かなくなったのを確認すると、まずククリの髪を強く引っ張りながら首にナイフを刺し、一分ほどかけて切り落とした。
セスタも同じだった。
そしてその切り落とした頭部を持って、クロガネの目の前までやってくる。
「じゃーん。生首ぃ」
子供みたいな笑顔で、まるで親に向かって自慢するように、クロガネの眼前に二人の頭部を差し出した。
あまりに安らかで、眠っているようにしか見えないセスタと、たいして苦悶の表情のククリ。
「くろがねぇ。これは、俺からの警告だ」
「…………」
「大人しくこの街から出ていけ。ここは、俺の遊び場だぁ」
これは夢じゃない。
そんなこと、ずっと前から分かっている。
クロガネの表情が歪み、今にも心が壊れそうになった、——その時だった。
まるでガラスのような何かが割れる音と共に、クロガネと老爺の間に赫灼剣が出現した。
そしてそれは、魔力を流したわけでもないというのに、ましてや鞘から引き抜いてもいないというのに、燃え上がる。
咄嗟に老爺は血相を変えて飛び下がった。
「貴様も邪魔するつもりか、赤竜風情が……!」
クロガネにはもう何が何だか分からなかった。
それ故、老爺の言葉の意味を理解するよりも前に、一際強く輝いた赫灼剣の光に包まれながら────
────クロガネは目を覚ました。
ベッドから飛び上がるように身体を起こす。
身体は脂汗で冷たい。クロガネは自分の手を見る。今までにないぐらい震えていた。
いや、手だけではない。身体中が震えているのだ。
まだ、深夜だ。
だが、それにしては街が騒がしい。
ベッドから降り、部屋の窓を開けて外を眺める。
ソラマメ亭のベッドで目が覚めたというのに、クロガネにはある確信があった。
やはり、あれは夢ではないのだと。
がたっ、と音を立てて赫灼剣が倒れる。
それまで赫灼剣が立てかけられていた場所は真っ黒に炭化していた。




