1-11 事件
結局クロガネは一度も部屋から出ることはなく夜を迎えた。
日が沈んでからどれぐらい経ったころだろうか。部屋のドアが開いた音がした。
ベッドの位置からはドアを確認できなかったが、マナとミナが来たのだと思ってクロガネは特段気にはしなかった。
が、一向に声も聞こえなければ歩いてくる気配もない。
少しだけ嫌な予感がクロガネの脳裏をよぎる。
ベッドから降り、ドアを確認できる位置まで向かって——息が止まった。
「マナ!?」
「…………」
ドアにもたれかかる格好で力なく座り込んでいたマナは、その身体中が血塗れだった。
いくつか傷は確認できるが、すべてがマナの血液なのか、或いは返り血もあるのかが判別できない。
咄嗟に駆け寄ってマナの肩を揺するも、反応がない。
どうすればいいんだ。
途端にクロガネの視野が狭まる。
心臓が早鐘を打ち、何をすべきなのかが思い浮かばない。
と、その時だ。
「すみません! お客さん! 怪我人がいるとのことですが、大丈夫ですか!?」
それはこの宿の店主の声だった。
何故、と思ってだがその理由はすぐに思い至った。マナがこんなにも血塗れのまま歩いていればそれは人の目にも止まるだろうし、床には血痕を残してもいるだろう。
「大丈夫じゃなさそう、です」
「ドア開けますね!」
「あ、ちょっと、待って……!」
マナを抱きかかえて、ドアの前からずらす。
少しだけ触っただけにも関わらず、クロガネの手には夥しい量の血液が付着し、背筋が凍る。
その後店主がマナの応急手当をした。その間クロガネは何もすることができず、己の無力さを実感するほかなかった。
「……」
部屋のベッドは汚れても構わないから、と言って店主はベッドにマナを寝かせ、部屋を出て行った。
だがマナは一向に起きる気配もない。
部屋に漂う静寂がこんなにも苦しいと感じたのは初めてだった。
何かがあった、と考えるのが自然だろう。それも、今はここにいないミナにも関連して。
そしてクロガネには、そういったときに対処するだけの力はあるはずだ。
クロガネは身支度を整えて、部屋を後にした。
「クロガネ君?」
冒険者協会に入って真っ先に話しかけてきたのは、想定外に支部長であるエフレインだった。
「まだ呼んではいなかったと思うが」
「……何があったんですか」
冒険者協会の中には、夜だというのに日中かと思ってしまうほど冒険者で溢れ返っていた。その状況を見るだけでも何かがあったのだろうという考えに辿り着くのは容易だろう。
だがクロガネの表情はより深刻だ。
エフレインはそれを見逃すような人物ではない。
「その前に、こちらから一つだけ質問させてもらうが、君こそ何があった?」
「……マナが血塗れで宿に来ました」
「な」エフレインの目が見開かれる。「なんだと? 君の宿にか? ミナは?」
「マナ一人だけです」
「そうか。あの姉妹だ、勝手に宿を特定したんだろうが、まぁいい、人を向かわせたい。どこの宿だ」
「この協会から東に大通りを進んだ先にあるソラマメ亭の三十五番室」
「聞こえたな? 治療士を二人は連れていけ」
はい、とすぐ隣にいた協会職員は返事をし、すぐに冒険者たちの中に消えていった。
それから間もなく、恐らくは治療士なのであろう白衣の女性を二人連れて協会を出て行った。
「……一先ず、私が薦めた宿が気に食わなかったことについては目を瞑ろう」
「あ」結構気にしているのか、と思った。「すみません」
「いい。それで君の質問についてだが、簡単に言えば君が討伐したライカンスロープの集団が、このカルファレステ街の北から一斉に向かってきている」
ドキ、とクロガネの心臓が跳ねる。
「まさか、俺の……?」
「いや、君のせいではないよ。君が言ったのだろう。赤竜の影が空に見えたのだと。十中八九、赤竜に仲間を奪われたライカンスロープの報復だな」
「……その対処に、マナとミナも?」
「ああ、そうだ。ライカンスロープも決して弱いモンスターではないからな。君は知らないとは思うが、あの姉妹もああ見えて実力者、なんだがな」
「戻ってきていない人がほかにも?」
「その言い方は適切ではないな。マナ以外、誰も戻ってきてはいない」
「な……!?」
クロガネの想像を上回る事態だった。
心が揺らぐ。クロガネよりも遥かに経験も実力もあるはずの冒険者がこの状況なのだ。自分がそれに対して、何ができるのだろうか。
その動揺は当然ながらエフレインにも伝わる。
「マナのことを伝えてくれたことには感謝するが、だからと言って君に出来ることはないだろう。宿に戻って——」
「……いえ。私にも出来ることがあるはずです。向かうんですよね、ライカンスロープの討伐に」
「それはそうだが、死ぬぞ。今の君では」
エフレインの目を見れば、一切取り繕っていないことは分かる。
素人であるクロガネ自身でさえそれは感じているのだから当然だろう。
だが、だからと言って引き下がっていいということではないはずだ。
この街に来てから、クロガネが最も話しているのがマナとミナだ。
そして、怪我をしながらもマナが真っ先に向かってきたのがクロガネの宿。
そこには、冒険者協会へ向かう道の途中だったとか色々な理由はあるのだろうが、だとしてもクロガネの宿を選んでくれた——クロガネを信頼してくれたということには報いたい。
「赤竜、倒したいんでしょ」
「……」
「俺だって赤竜は叩きのめしたいですからね。狼程度に足踏みしてられないですよ」
クロガネの目に、恐怖が無いわけではない。だが、それと同等の強い感情が浮かび上がっていることは明らかだった。
エフレインは、気付かれない程度に少しだけ口角を上げた。
「はっ。それだけ言えるなら覚悟は決まっているんだな?」
「ああ」
「分かった。君の意見を尊重しよう」くい、とエフレインは顎で示す。「今ここに集まってる奴らがそのまま、ライカンスロープ討伐隊の第二陣だ。間もなく出発となる。後悔が無いように準備をしておけ」
「ありがとうございます」
そう言い放つと、エフレインはクロガネの肩を何度か叩いたのち、協会職員とともに受付のほうへと歩いて行った。
エフレインの姿が見えなくなってようやく、クロガネは途中から呼吸を忘れていたことに気が付いた。
ぶあ、と息を吐くと、そのまま何度も深呼吸した。
だが、気を抜くべき時ではない。
緊張感はそのままに、呼吸を整え、出発の時を待つ。
クロガネは一応剣も腰に差してはいるが、実戦では一度も使用していない。正直なところ、準備と呼べる準備はないのだ。
事実、赤竜といいライカンスロープといい、準備する間もなく襲われてばかりだ。
「はぁ……」
クロガネは運に見放されているのかもしれない。
そんなことを考えていると、冒険者の面々の中に知っている顔があった。
「あれ、君も来ていたのか」
「あー、と。ライカンスロープの時の人」
「自己紹介してなかったね。僕はシユウ。よろしく、クロガネ君」
「よろしく」
それは、クロガネが街中に現れたライカンスロープを倒した際に話しかけてきた青年だった。
当然、青年——もといシユウがいるということはパーティメンバーも近くにいる、と思ったのだが。
「あれ、他の面々は?」
「急な出来事だったからね。使えそうな道具を集めてもらっているところだよ」
「どこかで合流する感じか」
「そ。君は簡単そうにライカンスロープを倒したようだけど、群れになるとそうはいかないだろうからね」
聞けば、冒険者にはそれに適した道具を扱う店というのがあるらしく、単なる武器以外にも魔法道具などがあるという。
そういうことはもっと早く知りたかった、というのは今考えるべき内容ではないのだろう。
「君、パーティは組んでいるのかい?」
「いや、孤独の身ですが何か」
「別に、嫌がらせで聞いたわけじゃないからそんなに警戒しないでくれよ」
正直、第一印象で警戒しすぎたせいかやや無意識に言葉に棘が出てしまうようだ。
これは直したほうがいいのだろう。
「そしたら、一緒に動かないかい?」
「……いいのか、というか、問題ないのか?」
「まぁ、僕らはパーティランクで言えばC級だし、基本は後方支援になると思う。腰に剣は差してるようだけど、基本はショットで戦うんでしょ?」
「そう……だね」
「多分厳しい戦いになると思う。君には警戒されてるから本音を言っておくと、仮に君が本当に実力あるなら、僕のパーティの生存率を上げられるのも理由だよ」
それは決して悪いことではないし、裏を返せばクロガネにも同様のメリットがある。今のクロガネに、それを拒絶する理由はなかった。
「分かった。頑張るよ」
それに、シユウはパーティメンバーのことを第一に考えている。
そんなに警戒せずとも、信用していい気がしていた。
「ありがとう、そしたら、色々情報共有でもしておこうか」




