0-11 天恵
クロガネが目覚めてから十六日目の朝は、ヤタガラスの悲鳴から始まった。
「ええ……」
切迫感のある悲鳴だったのならクロガネも布団から飛び出たのだろうが、今回の悲鳴は随分と艶っぽい。
さらに言えばその声は二人分あり、クロガネ以外と言えばヤタガラスとアマテラスしかいない。
これまでを見る限り、ヤタガラスがアマテラスに翻弄されてでもいるのだろう。
少なくとも、クロガネが顔を出すべき事案ではないはずだ。
クロガネは布団から出ず、二度寝を──。
「わああああ!! やべ! ヤタガラスのおっぱい取れた!?」
「取れるわけないでしょ!? 変なこと叫ばないでよ!」
「えっ、じゃあ、なにこれ」
「…………え、ホントにこれ、なに? う、うわ……! すごく、柔らかい……」
あ〰〰。何それ〰〰。めちゃめちゃ気になるぅ〰〰〰〰〰〰。
思わずクロガネは布団の中で頭を抱えた。
仮に「なにそれ」とクロガネが声を掛けたとして、まず相手としては間違いなく、クロガネが二人の会話を聞いてしまったのか、という事実を確認するはずだ。
当然、そんなに広くないこの小屋だ。声は聞こえたが、会話の内容までは分からなかった、という言い訳はそう上手くはいかないだろう。
つまり詰みだ。
クロガネはその、とても触ってみたくなる何かを知らずに生きていかねばならない。
生殺しだ。
くそ。
クロガネは普段口には出さないような悪態を思わずつきそうになった。
その時だ。
ああ、いつもそうだ。
場を掻き乱すのは、いつだって。
勢いよくクロガネの部屋の扉は開け放たれ、そこにはアマテラスが仁王立ちしていた。
「見て!! クロガネくん!!」
クロガネは、アマテラスの背後に初めて後光が見えた。
それはまさしく、日本神話の太陽神、その名に恥じないほどの神々しさだった。
「これの触り心地、結構おっぱ────」
刹那、耳を劈く轟音が響き渡った。
すぐにそれは、クロガネも一度は放った“雷閃”と同一のものだということは分かった。
だが、威力を始め、何もかもが桁違いだ。証拠に、小屋の半分以上が一瞬で消し飛んでいる。だが、それほどの破壊力にもかかわらず、クロガネに被害はない。精々、粉塵を被った程度だ。
クロガネは素直に感心した。
つまり今の一撃は、周囲に拡散するはずだった衝撃波さえも制御したということなのだろう。
ヤタガラスから渡された知識があるからこそ、その異常性がクロガネには明確に感じられてしまった。
と、感心するのはいいのだが、果たしてその一撃が直撃したアマテラスは無事なのだろうか。そしてアマテラスの手にあったはずの、それは──。
「クロガネ」ヤタガラスが壁の向こうから顔を出した。髪の毛がボサボサだ。アマテラスに随分とやられたのが伺えた。「話、聞こえてた?」
「……」
どう、答えるのが正解なのだろうか。
少しだけそう考えて、いや、とクロガネは首を振った。つまらない嘘はつくべきではない。
「うん。おっぱ──」
──轟音。
目で捉えることすら不可能な一撃が、クロガネの真横を通り過ぎた。
「話、聞こえてた?」
「あ、その」
──轟音。
「……話、聞こえてた?」
「ぜんっぜん、聞こえなかったですね、ははは。目が覚めたばっかりなもんで」
「ははは」
「ははは……」
なんて酷い朝だ。
◇
「あっははは」
その後、何事も無かったかのようにアマテラスは戻ってきて、これまた図々しく朝食を食べていた。
更にいえばアマテラスは破壊された小屋を完璧に直してもおり、それはご丁寧にヤタガラスの神経を逆撫でする為だけとしか思えなかった。
「いや〜、こんな美味しい朝食を頂けるなんて、クロガネくんは羨ましいなぁ。うんうん。これはあれだね、愛情が込められてる」
「はは……」
クロガネは乾いた笑みしか出せない。ヤタガラスの顔に見たこともないほどの冷たい笑顔が張り付いているというのに、これほどの余裕があるのは一体何なのか。
とてつもない胆力だ。
つまり、これはヤタガラスよりも遥かにアマテラスの方が勝っているということなのだろうか。
「アマテラス」
ヤタガラスの声がとてつもなく低い。クロガネはつい萎縮してしまいそうになるが、対してアマテラスはと言えば、「あいよぉ?」などと軽い返事だ。
「勿体ぶってないで、話すべき内容があるでしょう?」
「んー?」朝食をごくんと飲み込んで、アマテラスは視線を上げた。「奇跡の話?」
「そうです。一体奇跡を使って何をするつもりなんですか」
クロガネは話に混ざることができない。ならばせめてと、空気になりきることにした。
「だからそれはぁ、クロガネくんのモチベ向上ですよぅ」
「……。私に対して何かするつもりならやめた方がいいことは、貴女だって分かっているのでは?」
「まぁね」
その時、アマテラスがクロガネに向けて随分と小さな光球を飛ばした。
デコピンの要領で飛ばされたそれは、普通にゴミと見紛うほどだ。思わず避けようとしたが、見事なホーミング機能でクロガネの額に吸い込まれた。
──アマテラス曰く。
ヤタガラスはクロガネの蘇生を行い、その代償に人間に堕ちることとなった。そして、クロガネを送り出すことが出来た時点で“死んでもいい”とも。
こうして奇跡によって起こされた事象、或いは制定された未来に対し、再度奇跡を扱うことはすなわち奇跡の重複。それまでよりも遥かに大きな代償を払わねばならない。
「……なので、そういったことは控えてください。アマテラス」
「えー。ヤタガラスがそれ言う〜?」
「確かに、私が言えたことではないのでしょう。ですが、私が選んだ道です。その為に更なる奇跡の乱用をさせたくはないということは寧ろ、私だからこそ言えることでもあります」
「あー言えばこう言う」
「アマテラス!」ヘラヘラと右から左へ受け流すようなアマテラスの態度に、流石の温厚なヤタガラスも怒りを露わにした。「私だって──クロガネと離れたくはない! でも、あの時はこの方法しかなかった、そしてその選択を私は後悔していない!」
ヤタガラスの、クロガネを想う気持ちには偽りがない。
それが痛いほどに分かるからこそ、クロガネは口を開くことが出来ず、静かに俯くほかなかった。
「そして!」ヤタガラスはぐい、とアマテラスに顔を寄せた。「私の愚行に、アマテラス、貴女まで巻き込みたくもない……! これは、私が背負うべき、罪と罰なのですから……」
静まり返る空間。
空気が重い。
クロガネは、自分に出来ることが何一つないことに関しては確信があった。
ヤタガラスと離れたくはない。だが、それを否定することも、止めることも、別の方法を提示することも、何も出来ないのだ。それを行うだけの力もなければ知識もない。
我知らず、強く握り締めていたクロガネの拳に、手が添えられた。
アマテラスの手だ。
思わず視線を上げれば、アマテラスは優しく笑っていた。
任せとけ、とでも言わんばかりに。
「どうどう。取り敢えずヤタガラスは深呼吸」
「……すみません」
「いーのいーの」アマテラスはあくまでこの軽い調子を崩さずに、だが、それまでとは明確に違った強い意志を伴って口を開いた。「そしたらまず誤解を解かないとね。私はここで今すぐ奇跡を使う気はないよ」
ヤタガラスの目が見開かれる。「……え!?」
「私だってこう見えて色々考えてるのよ〜。まず、私のプランを説明するにはこの奇跡の発動するプロセスを説明しないとだね」
そう言ってアマテラスは、ゆっくりとクロガネにも分かるようにそれを説明した。
曰く、奇跡には大きく分けて三つのプロセスに別れるという。
第一のプロセスは、奇跡の対象を選定すること。
続いて第二のプロセスは、奇跡の内容と、その代償の選定。
そして第三のプロセスとして、第二のプロセスの調和──すなわち均衡が取れていることを確認したのちに奇跡が発動するのだという。
「で。この奇跡というのは因果律にも作用するんだけど、さて問題。因果律に干渉するのはこの三つのプロセスのうち、どこから作用するでしょうか!」
「……、まさか」
そんなことは思いもよらなかったのだろう。ヤタガラスはあまりの驚きに、開いた口が塞がらないようだった。
「そ! 因果律への干渉は第一のプロセス時点からすでに作用するの! 逆説的に、第一のプロセスを経てさえいれば、ヤタガラスが死んだとしてもその事象の確定を保留できる」
「で、でも、第二のプロセス、第三のプロセスに至る期間が長すぎては……」
「そこは第二のプロセスで調整ですよ。ここはあくまでも条件付け。いくらでも言いようはあるんだよねぇ!」
アマテラスはピッと人差し指を伸ばす。
「願いはヤタガラスの復活、ただし奇跡の権限の再付与は行わず、クロガネくんと同等の寿命を残した人間として復活するとする」
更に、中指を伸ばす。
「代償は私自身に対する能力低下と、本題が次、クロガネくんに対して期間指定による素材の収集! 実行期間と収集する素材の入手難度で調整する感じ」
アマテラスは伸ばされた人差し指と中指、つまりピースのかたちをした手をクロガネとヤタガラスに向けて伸ばした。
「どう!? モチベ爆上がりでしょ!!」
「…………、確かに、それなら」
緊張の緩和からか、そう言ったヤタガラスの身体が勢いよく後方に流れ──勢いよく尻餅を付いた。
「は、はは……」そして、そのまま呆然とアマテラスを見つめ、「ぅ、あ、りがとぉ〰〰……怒って、ごめぇ、ん……」
ぼろぼろと大粒の涙を零した。
そんなヤタガラスを、アマテラスは優しく抱きしめ、よしよしと頭を撫でた。




