0-10 落日-②
クロガネの視線は動かせない。
視線だけじゃない。そもそも身体の感覚がない。
そんなクロガネの動かない視界の中で、その女性は泣いていた。
この世のものとは思えない美貌。それもそのはず。女性の頭上には四重の光輪が浮かび、そして女性の涙は宝石のように煌めく。それら全てが、女性は人間ではないということを表している。
「ごめんなさい」とその女性は言った。
そんな女性に向かって、クロガネは言葉を返す。「……泣かないで、ください」
その後に女性は、「ありがとう」と続けた。
クロガネは精一杯笑った。
少しでも女性を安心させたいがために。
その女性は──いや。
“ヤタガラス”はひとつ、嘘を付いた。
クロガネがこの世界に来たことも、そしてヤタガラスに救われたことも、そしてクロガネの記憶を消したことも──真実だ。
だが実を言えば、過去の記憶を消しただけのクロガネが、五年間も目覚めないといったことなどない。
記憶を消したクロガネは、その日から僅か三日後に意識を取り戻している。
だがヤタガラスが予期していなかったのは、脳の記憶としてではなく、クロガネの身体や心に刻まれた苦痛の記憶が想像を超えていたことだ。
心臓を移植した人に、臓器提供者の記憶が宿ることがあるように、記憶というものは決して脳だけに刻まれるものではない。
結論から言えば、記憶喪失となって目覚めたクロガネは、身体や心に刻み込まれた恐怖の記憶が勢いよくフラッシュバックし、ヤタガラスがクロガネに駆け寄るよりも早く、自殺した。
……脳の記憶の内、自身に関わる記憶を消すことは間違いではない。だが、そうして剥き出しになった心ほど脆いものはなく、些細な恐怖でそれらは容易に崩れ去る。
真っ白なものほど、汚れが目立つのだ。
「……っ!? く、クロガネッ!?」
──森の奥、滅多に人が寄り付かないような場所に、ヤタガラスの家はあった。
かつてヤタガラスとクロガネが共に暮らした家だ。
そんな家の一室でクロガネは目覚めた。
ヤタガラスが駆け寄った時点で、既にクロガネの意識は途切れる寸前だった。
裂けた首元。真っ赤に染まった衣服。
クロガネの手にはナイフが握られている。──ヤタガラスが普段使っていたナイフだ。
「あ、ああ、ああああ……! そんな、う、あ……! やだ……!」
本来であれば引出しに仕舞っているというのに、この日に限って、それは机の上に出したままだった。
「やだ、やだやだやだ、待って──」
焦るヤタガラスを置き去りにするかの如く、クロガネは瞳を閉じていく。
時間が無いことだけは確かだった。
そんな中、ヤタガラスが咄嗟に発したのは、謝罪だった。
「ご……っ、ごめん、なさい……」
その言葉を発した途端、ヤタガラスは悟ってしまった。
このまま、ヤタガラスの過ちがクロガネを殺すのだと。
涙が溢れた。
自身に対する怒り。不甲斐なさ。
クロガネに対する、申し訳なさ。
それらが綯交ぜになった、ぐちゃぐちゃの意識の濁流。
荒れ狂う嵐の海のようなその最中で、光り輝く宝石がやけに際立って見えた。
「……泣かないで、ください」死の間際で、クロガネは優しく微笑みながらそう言った。
ああ、私はクロガネのことが好きだったのだと。
ヤタガラスは明確に理解し、そしてその瞬間、ヤタガラスもまた命を投げ出すだけの覚悟を決めた。
「……ありがとう、クロガネ」
ヤタガラスの頭上に浮かぶ光輪は、その数だけ奇跡を導くことが出来る。
だがそれは同時に、奇跡と同じ数だけの制約を必要とする。
「クロガネの生存」──頭上の光輪が一つだけ離れ、それはクロガネの胸元で止まった。「代わりに、私はこの奇跡の権限を捨て、人の身に堕ちます。そして……クロガネを送り出すことさえできるのなら、私は……」
────────────死んだっていい。
『承諾しました』
……──。
…………────。
クロガネがハッと目を開くと、それまでの激痛が嘘だったかのように過ぎ去った。
そして、クロガネの視界には悲しそうな表情のヤタガラスがいる。
「……ちゃんと、見れた?」
ヤタガラスのその一言で、これまでクロガネが見ていたあの出来事は、意図的に見せたのだとはっきり分かった。
そして同時に、これまでのことが繋がった。
アマテラスと、その三重の光輪の意味。
何故クロガネが、森の中で目覚めたのか、空間魔法で──悪い言い方をするのであれば──隔離されていたのか。
だが、これはクロガネに対して明かさなくとも問題はなかった内容だろう。
クロガネからしてみればまさに騙されたという内容ではあるが、同時に、今この時まで一切それを察知することはなかった。
要は、ヤタガラスが心の内に秘めていれば、それで済んだとも取れる。
それでもヤタガラスが明かしたということは、つまりそれだけの理由があるのだろうと考えるのは至極当然の流れだ。
「……どうして、これを?」
クロガネの言葉に、ヤタガラスは小さく肩を震わせた。
そして少しだけ言葉を詰まらせながらも、口を開く。
「……大切だから」ヤタガラスはクロガネを真っ直ぐ見た。「クロガネのことが、大切だから。隠し事はやっぱり、したくなくて……」
「…………そっかぁ」
クロガネはふぅ、と息を吐いた。
ヤタガラスから見たクロガネは、怒り心頭にでも見えているのだろうか。
そう考えてしまうほどにヤタガラスは肩を縮こまらせており、普段よりもずっと小さく見えた。
クロガネは、正直なところ全く怒ってなどおらず、寧ろ。
「ありがとね、自分なんかのために」
「え……?」
「あ〰〰もう、ほんっとに……」クロガネは勢いよくヤタガラスの手を握った。「ヤタガラスさんと離れたくねぇなぁ……」
一人で生きる。
その為にこうして特訓しているというのに──だ。
「えっ、あっ」
ほんのりと頬を染めるヤタガラスに、クロガネは様々な感情の入り混じった笑顔を向けた。
そしてヤタガラスの手を離すのと同時に、クロガネは身体を捻り、十数メートル先の木に照準を定め──
「ライトニング・ショット」クロガネの言葉がトリガーとなって、一筋の雷が大気を切り裂いて猛進する。
轟音。
コンマ数秒たらずの雷は的確に木を穿った。
着弾点には直径十センチ近い風穴が空き、その周囲も黒く焦げている。
当初の予定通り、属性魔法を使えるようになった……にもかかわらず、クロガネの表情は芳しくはない。
そんな雰囲気で、ヤタガラスも口を噤む。
場を沈黙が支配しかけた、その時だ。
「マンネリ解消ならお任せあれ」
「うっっわ!? え!?」──背後から、衝撃。
クロガネの背後に、音もなく現れたのはアマテラスだ。
現れるだけならまだしも、いきなり抱き着かれてクロガネは声を上げた。
この前もそうだが、神出鬼没にもほどがある。
いや、確かに“神”という点は間違っていないのだろうが。
「あ、アマテラス、さん……」
「さぁさ、クロガネくん。私になにかお願いしたいこととか、聞きたいことはないかい?」
「……マンネリ解消? と、いうか、その、モチベーションアップしたいです」
「え? この流れで揚げ足取るの?」
「……あ、あま」一人置いて行かれたヤタガラスはわなわなと震え、「アマテラス〰〰〰〰!!」と叫びながらクロガネから無理矢理引き剥がした。
「きっ、きゅ、急に、なに!?」
「ヤタガラスちゃ~ん。これは君にとっても有益なことだよ?」
「えぇ?」
「二人してにぶちんだなぁ」
アマテラスは両手を腰に、胸を張って言い放った。
「だからぁ、奇跡の権限使ってあげます、という話ですよ」
応答するようにピカッと。
三重の光輪は煌めいた。




