第9話 G.R.C.T.の驚異!
「五文。ご覧になって。牛乳まで新造だわ」
「奇妙。陽に当てて蜂蜜を作っているのだろう」
「それは雄牛ざます。藤八」
「そんなら腐っているのだね、この、よぅると、とは。五文。ぶるぶるして胎盤のようだ」
「あら、飛んでもないわ。硝子瓶に木栓とは手間隙凝っていてよ」
「容れ物がどうあれ僕は一向好かないね。君は一つ上がっていくのかい」
「ああ可厭だ。楫を曝いてまで雄牛と喝食しますの。奇妙」
「そうげに妬いなら負ぶさるがいい。西国まで拐おうとも」
「白露の染むるばかりで白粉が薄くてよ狼さん。私は船の道で倦み渡るわ」
万事がこの通りであった。きっとご随意にしたが可いと流眄に挂けるもタイは頬笑んで有耶無耶にする。然してあのさんざ見た忍従の貌には当たらず、寧ろずっと楽しそうににこにこと、斜め後ろを尾けて黙すのみ。毫も前世の古様を帯びない。四丁を経て賑わいがはたと止み、文選箱が右に左に行き交うのを流盻に眺めていると辺りの目の色が移ろった。突端の停車場へ走る俥がぐんと倍加して、偶に通る幌馬車、あれはどこのお嬢様だろう。いずれ誰も仕事している。歩廊を漫ろ歩くは二人ばかりだ。いやに足音がする。唾が溜まる。もしも。真っ白。
「もしも、何だね」
「も、もしも」
文目も分かでどろどろとする。白。白。仰山だ。呑み下す。もしも。
「そう、もしも、ここが燃えたなら。火事になったなら、どうします」
「どうだ、って連れて逃ぐるか、そこの橋で心中の真似事でもしょうか。常談甲斐のないことだがね」
「兒戯とは何故」
「どうしたい、見給えよ。漆喰木造入り交じりでも政府肝煎りの赤煉瓦がこう遠近でどう燃やす。君は確か戊寅だろう」
斯く言う彼は壬申である。私とは土剋水の対冲だ。
「盛者必衰と言います」
真・善・美とは価値ある世界観・倫理観・価値観であるから、哲人政治社会の選挙権とは美人参政権である。丗年足らずの未来を知る我が身さえこれまで価値観の違和を感得してきた。価値観は廃れ、移ろうものだ。美は亡びる。母は逝く。私は老いる。父が燃える。家が焼ける。帰れない。
「功績は時の風化に耐えますか」
舗道が絶えると途端に泥濘んだ。肩に頭を寄せる。紫煙の香り。彼は私の手からそっと絵日傘を取った。帝大予科からお声があって、籍は今度の高等中学校から移せないまでも、僕を研究に加えて下さると言うのだ。
「僕ほどの年歯で脳髄を怠らせるのはお国の凌遅と言うのだね。勿体ないお言葉だったが今の今まで留保していた」
「左様ですか」
「砂を篩って融かすのが何の役に立つのか、ルマさんに逢えぬならと断っていたが、女に問われて答えを持たぬのは作しいものだ。僕にはあれがどれほど耐えるか未だ知れない」
功績と鉱石を勘違いしているのだろう。彼に割く心はないので言わない。
『全ってのハイブランドを九〇%オフで買う方法ぉ知ってますか?(ドヤァァ』
しまっ、う、うおおおお言わない言わない言わないんだあああああああ!
『例えばぁ(ネットリ このポールスミスのスーツはぁ、定価が二五万なんですけどっ、にィじゅ~さぁん円で買えますしィ(ドッヤアアアアアアア』
くっっっそぉぉどおして飛ばせない時に限ってあああああああこのドヤ顔摺り下ろしてええええええええええええ早くスキップ出ろよおおおおおおおおおおおおお!
『(ドヤッ このアルマーニのジャケットはァ、定価一〇~ゥ万なンぃ一円で買えまひたすゥいィ~! このバーバリーのコートなんてェ~! 定価三〇万以上するのにぃいてぃ円で買えひゃいました(スンッ 。世の中の人達ってェ~普通にハアアイブランドとかの商品を定価で買ってるんですくぇど(チリーン それってェめちゃッく(クチャ ちゃ勿体ないことすィてるんですよ(ドッヤアアアアアア』
んで長え! あっスキップがうわっなんかヌルッてああ消えた! なんだよもおおおおお手ェ濡れてても反応しろよおおおおお手汗拭くものあったっけってああっ! また一瞬出て消えたちくしょおおおおおおこっちが手ェ離せない時に出てくんなよおおおおおおおおおおおお!
『さっき僕が話したようにィ、安く買う方法を知っておくだけでェ、人生何ン倍(カカンッ (ドヤ もぉトクに生きることが出来ますからぇ(ドヤアアア んほおおおおんとぉにいィ、知ってるか知らないかダケ。でももォォしかしたらヴぁなたはあァ、(シャラーン こう思ったんじゃないですか(キリッ。ボロボロだったりイィィィ! 偽物なァんじゃない!? って(アホヅラ 。……ただあ~全くそんなことわなくてぇ、すぃん品同様のお、綺いいィ麗な正規品を手に入れることら出来てゃうんでふ(キリッ』
ふ、ふへへへへ。それはそうと一着で二五萬圓とは随分に値が張るなあ。
「しかもぉ~」
まだ続くの!?
『(長過ぎるので中略)あっ、(ボウヨミ でも無料で受け取れるのはぁ、この広告が流れている間だけでふ(キリッ あと一〇秒しかないのでえ、急いで! 下の青いボタンから受け取っておいて下さいね!』
ぜー……ぜー……ぐ、む。……おい。おい! 一〇秒経ったぞ! おい! この真っ暗なの何だよ! スキップさせろよおおおおぉぉぉもおおおおッ!
「然而、だ。源平藤橘は日に以て疎く、浜の真砂は日に以て親し。田も薪もいずれ塵に還るからと拗ねることはない。滝の音は絶えて久しくなりぬれど、だね。あの煉瓦街が仮令烏有に帰すとしても、風化以前の今まさにその耐火性を謳うのは風説にならぬだろうよ」
なんて、どうも不勉強で済まない、と彼が頬を掻く。ああ、だかうう、だかと呻いて先を急いだ。実のところ感傷的になって口走っただけのことで、訂正してまで話を続けたくなかった。放っておいてほしい。