第8話 白亜のストリート =sum($[advertisement])
鉄砲坂を駈足に詰めて宮殿外縁を北に滑り、英爵家の姫御前を摂理が鞭打つと聞くかの学舎を過ぎて、霞ヶ丘の境を踏みそのまま抜ける。彼に促されるまま、新たに赴任した提琴の先生の評判を、はしたなくもつらつら回していた舌を少し噛む。停まった。
耶蘇の神は第七の日に天地万物の創造の仕事を離れ、以て神は第七の日を祝福し、聖別した。それが安息日だ。ここを今の景色に再開発する計画が布告されたのは、ここら一帯が火事で丸焼けになってから僅か六日目のことだったそうである。道の拡幅工事は二日目に極まったと聞くからいとはかなくあさましといった具合だ。タイが俥夫に支払いをして、巻煙草と黄燐寸を手に二言三言そんな話を交わすのを聞く。それで初めて声を聞いた。客と話さない俥夫は客と話さない髪結いより珍しい。不愛想な男なのだろうと思っていたから、タイと普通に話せているのは意外だった。或いは。頬が熱い。
見遣れば一帯は紅塵万丈として山の手言葉に満ちている。見ている傍から大八車が三台横並びに駆けていったあれは早さを競っているのか、それでも悠に往来の凝ることはないのだから圧巻だ。乙に極まった姿も一割がたに余り、絨毯鞄や背嚢なぞ一つでも生涯見ることはない者もあろうに、既に四つと過ぎて、ややもすればここがただ一本の道なのを失念しそうである。しかし遠目には向かいの通りに按排された楼閣が張り出しの二階を列柱に凭せ、砌の歩廊に湿った影を塩梅している。振り向くと多少の異同こそあれ真っ直ぐな闇は変わらず南北を貫いていて、宮守や呉公にはさぞ住みよい街であることだろう、私には些か、恐い。
何か見初めたかねとタイが言う。小倉の縦縞がそよと裾を嬲る。更紗の肩に渋々取り付いて何もと唇を尖らせる。どうぞ不調法に、憚りさまですけれど。くつくつと彼は笑った。屹と睨む。不案内で当然です、学生の本分は学業ですもの。おや君が学びたくて進学したとは知らなんだ、人生に三つの坂があると言うが本当だね。
「そんなら私は洋風に二つの環を贈ります」
「婚約指環と結婚指環とは気が早い」
「手錠よ」
「措きゃアがれ」
先導する彼の足取りは何故かすいすいと迷いがない。勸工場と万国屋に取り付く子らを避け、切妻屋根に蒲鉾を乗せたような異材始末に漆喰塗りを施された家々を過ぎる。世に名高い瓦斯灯はまだ昼日中で火がなく、寧ろ等間隔で植えられた櫻桃松柳とそれを囲う鳥居型の柵、それとその半分ほどの数もある電柱の方が余程目に新しい。何しろどの建物より背の高い柱が剣山も斯くやとばかり林立している。通りの突き当たりで角を折れる直前、出るよと彼が囁いた。何がと言う間もなくいきなり拓けた。
約廿年前のお膝元大火で二八八〇〇〇坪が焼けてから六日の後には都市計画が布告されていた。それから五年後には計画上の完成もした。だが、今から約丗年後たる前世に評を求めればここは失策の問屋であった。無理筋な欧化政策を庶民に押し付けるには時期尚早だったのだ。端的に言えば、高価が過ぎた。だから納金滞納が黙認され、政府のかけた一〇〇萬圓からの元金回収の目途を踏み倒されて計画が頓挫した。貨幣価値の混乱も拍車をかけていた。道路の掘削と拡幅だけは意地で済ませたものの、その拡幅さえ元の三倍にしょうというところを赤字の批難に日和見して元の二倍に留め、あまつさえ目立つ大通り一本ばかり拡げてお茶を濁すに終えたのだから外聞が悪いったらない。幼い頃の、つまり現世での今の父に曰く、府内の地価は底値が一反九圓七二銭、山の手さえ一坪六〇圓が相場である。一〇年前ならば全域を買い叩くのにさえ一〇〇萬圓足らずで済んだだろう。それほど見捨てられた死産の土地だったのだ。それが今やたった一坪で二〇〇圓、数年すれば役後好況で分居傾向と出征者の帰国から更に高騰すると私は知っている。
「ずるい」
もどかしさに口の端の涎を押さえ、漏れる。
熱沓場裏はさながら斑錦を展るが如し。想像花陽洞、鉄道馬車の軌道を挟む白亜の層廊に螺鈿が丸く光る。この葛藤なら舌を切るだけ丸儲けだ。玉虫色に手を伸ばし、指先がこつりと叩く。透き通る彼方に茶筒。硝子だ。この大きさ、この透明度、この丸窓全てが硝子なのだ。壁伝いに歩く。電話機付きの新聞社。薬種店に釦屋。なまじ見えるだけ目が欲しがる。頭の片隅で冷静な私が成程と得心する。この街は粗悪な焼成煉瓦と杜撰な都市計画のために住環境が悪く、屋内で商品を管理していると湿気で駄目になり易いので買い手がつかなかった。それは確かにその通りだったのだろう。だがその故に、一流ではないが三流でもない優れた商人がここに集まり、屋内に招くことなく屋内の商品を売る工夫を施した。冷やかしさえ繁華の礎とするまさに文明開化の発想であった。ずるい。前世で私は彼以外の男を知らなかった。彼以外の世間を知らなかった。こんな景色は終ぞ見なかった。
「ずるいっ」
「そろそろ落ち着き給えよ」
失笑の声にはっと背筋が凍った。既に通りも半ば、二丁ばかりも歩いていた。独りで。はくはくと赫かせて茹り、噤んだ。私が悪い。