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第7話 2554:恋は、遠い日の花火ではない。

 休んだ日数とほぼ同日を過ごした。学院は十年一日で、六趣(ろくしゅ)四生(ししょう)を出でやらずのやらが弾けないの、水菓子の無花果(いちじく)が傷み易いのと、実に平和である。(さと)へ帰って家に入った一人分の月謝の三圓を逃して学院はさぞ口惜しいだろうと、噂するのが精々だ。斯く言う私も外れただけの勤勉ぶりを示さないことにはとこうして明け暮れの部屋と学舎の往復ばかり、向かい部屋のラブが鏡を借りに来る外であの部屋には久しく他の誰も立ち入る者がない。誰も、だ。現婚約者たる言名号はアタャ・ホライゾンも、来ない。(をか)しい。前世ではなかったことである。

 代わりに手紙が官製葉書で来る。学院に度々侵入されるよりは余程良識的なのは言うべくもないが、長じたあれの性格を知る身にこの筆まめさは却って気味悪いものである。隻魚(せきぎょ)難達(ほうちの)鳳池(なみにたっ)之波(しがたし)がどうこうと書いて寄越したから、私にお(とと)(ふた)つと要らぬ、とは何ぞ何でも書き差せもせで、私の右膝は銚子の水ほども濡れていませんと応えたら、雄島(おじま)海人(あま)の袂かな云々と返事があった。盡々()だ。兎毛(うのけ)(さき)の露ほども口の減らない野郎である。奇体なことに彼はどうも今のこの関係性を喜んでいるようでさえあった。荒涼にこそ濡れけれ、と(ひね)ってやった。きっと懲りずにまた返信があるだろうが。

「あの変態め」

 漏れ出た声に葉書を覗き込んでいた儕輩が怪訝な貌をした。この時代では意味がまだ通じないらしい。今から墨を磨ってまで鉛筆で取った帳面を教科書にする気分にはなれず、虫を払う手をして立ち上がり独り部屋に戻った。中型に魚油の臭いが沁みたようで空咳に噎せた。

 彼には私などに構わず真剣に勉学へ励んでほしいと心底思う。彼の現状での財力はウィンチェスター家の借り物だ。働いていないのだから稼得能力があろうとこの面で彼は無価値である。その稼得能力の示準たる学力をせめて高めてくれと願うのは妥当だろう。万が一にも私が婚約破棄に失敗して彼と結ばれたなら今度こそ餓死を免れるには彼に稼いでもらわねばならない。蒲団に鼻先を埋める。彼の価値とは情熱だ。眼差しがどれほど暗く澱んでいてもそこに疑義はない。ならばどれだけ強く言おうときっと彼は容れる。ぎゅっと目を瞑る。着膨れた唐桟丸首に仙台(ひら)。顔だけが若い。笑い貌だからこれは夢だ。大人なら笑わないものなのだ。瞼を上げた。真っ暗だった。

 返信は案の定次の安息日にやって来た。()るとはすれど逢はぬ君かなと利いた風なことが書かれている。どうして胸に秘めるがよかろうもん、花下曬褌(かかさいこん)なこと無涯岸(かぎりな)い。後で読もうと目を滑らせると嘉祥(かしょう)の日に連れ立って出掛けたいから訪ねるとあった。

 小暑も過ぎて空は早くも快晴、今日もよく照りそうである。目を落とす。文面は変わらない。頭を抱えた。私が学院に通えているのは偏にタイが焦らないからである。普通は婚約が極まった娘は家に入る。学院も彼が私のそれと知っているから要求が学院に知れればそれは右から左に通るだろう。三三に黒を打たれた形だ。一も二もなく舎監に三日後の外出を申請する。出入検査簿を受け取った。府内の保証人に一筆貰わないと正当な外出にならないという悪名高いあれだ。片隅にキギスの印影があるだけの白紙である。土間の脇に竈。帳面に鉛筆の鋭角。決意した。二手目天元としょう。

 水曜日になった。この頃は暑いので毎晩に湯槽(ゆぶね)が焚かれる。棟割りの配置で以て順に入るのだが、よくもこの頃の若い私達は堪えられただろうと思えるのだ。先ず水を()えない。次いでその水は常に糠や脂が浮いている。垢を擦った石鹸をそのままにざぶざぶと這入るためである。それから病持ちを隔てない。何となればこの水を飲めば薬効があるとまで言う。二七年後には考えられないことだ。手拭を水瓶に浸して肌を拭っていく。陽に(ぬる)む前の冷たさにぱりっとする。襦袢になって美容術をうろ覚えに施し、泥大島へ七糸(しっちん)の昼帯を文庫にして、呉絽(ごろ)の紺青の半纏を抜いて着る。紅白は薄くていいのだがこの時代では難しいので小指の背で練り白粉を削り、しかしどう掌で溶いてもまだ濃いので肌の上に置いて伸ばした。地肌が見えている理なのに牡丹は牡丹でも白牡丹(ふかみ)ない蝋色だ。我が顔ながら瑩徹(えいてつ)として書き割りのようで、けれど、この頃はこれが美人なのだから仕方ない。障子を背に穴戸蜜柑の鼻緒を揺らし、さてと縁側で膝を揃えて袋綴じに小刀を滑らせているとルマ・ウィンチェスターを訪う声がした。すいと鼻を逸らした。

(ちょい)と。お謝絶(ことわり)なら()いからそうお言いよ」

 タイは言った。呼ばれてから四半刻ばかりも私がうだうだと門前で勿体をつけたものだから焦れているのだ。殊の外効いている。

「だから何方(どちら)なりと郎君(あなた)のお宜しい方へと最前そう申しましたわ」

諷詆(つらあて)のつもりかい、それじゃ余りご挨拶じゃないか。ま、宜しい。そうなら僕の可然(よしな)に指す(かた)を極めるが(かま)わんね」

 彼が手を鳴らすと(ばん)の俥夫がのっそり現れて足元に台を据えた。本職のは久し振りだな。走過した考量(かんがえ)へ眉を顰める間に絵日傘のない空いた左手(ゆんで)を取られ、彼が左を占めた途端に発条(ばね)で腰が少しく撥ねた。煉瓦街まで。彼の言の葉で色が移ろう。俥が走り出した。

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