第6話 カレラは生きワレラは眠る
学院の擂鉢状の敷地の縁に私の住む寄宿舎は溺れる蟻の如く建っている。数年前落成した親王殿下の豪壮なる宮殿が目と鼻の先にあるものだからいかにも惨めだ。加之ず宮殿落成の翌年に近在のお嬢様方らが宮殿の向こうへ学舎を移したので、風紀紊乱の海老茶気風さえ外観共々に一帯の長屋に森閑として潜めている。潜めているだけで中身は漢意だ。あちらが和魂洋才ならこちらは羊頭狗肉の体である。目が滑る。ちらりと見る。言葉を呑む。
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「私も使いたいですわ。ねえラブ・シャマール=スケイルさん」
無聊慰みの教科書を手繰る指を止め、ぱたりと閉じる。淡白した頸脚がびくりと震える。
「あら、羞づかしい」
「あらじゃないのよ。お鏡二枚と鼎坐したぎり文人盆栽、粧い浮かれるのは結構だけれど、ここぞ泊りとならそう仰ればよくて」
申し訳ないと透綾紋付が深々とお辞儀する。慌てて私も頭を下げた。彼方が螺鈿器据えの鬢鏡で此方が紫檀の洋椅子なのでこれでは虐めているようである。撫でつけの瑞々しく利いた真っ白な貌はしかし静かだ。まともだ、と思う。ウィンチェスター家の面々でまともなのは私だけなのかと改めて悲しくなった。あんなにも貌に我が出る人々を私は仄聞にすら知らない。
この学院の院生は総じて志が低い。他所での入学試験に篩い落とされた者。気儘に学びたいだけで師範なぞ真っ平な者。それこそすぐ近くにもっと良い学舎があるのだ。敢えて高い学費を払って此方へ通うのが難癖のある娘ばかりになるのは当然の帰結と言えた。日曜日を安息日として登校日は週三日、寄宿舎に隣接する学舎へ赴く日は各人が当日の朝極めればよく、学年が上がればその必要頻度さえ減る。手芸、図画、習字、裁縫の四学科を除く成績はいずれも帳面の提出如何で評定されるので顔だけ出して帳面を書き取ればあとは日がな一日歌を捻ろうと黙認された。御一新以前よりのお嬢様でもないから舎監にさえ予め断れば外出も容易く、その道行にお付きも強いられない。自由だ。婚約者と逢引しょうと。濡事師の仕舞物を騙ろうと。
かんかんと柝が近付く。彼女は引き目の端を赤くしてのっぺりと白いまま青褪めた。器用だ。貌を歪め、はあとこれ見よがしに溜息を吐くと信じられないものを見たと目貌に咎められた。駆ければ充分間に合うわ。支度が済んでいるのは更闌て着更え逸れたとでも言えば大事ないざます。
「あれ、とんでもないことを仰ります」
思わず舌打ちしかけた。体育振興に美容術が奨励されたのは富国強兵がためなのを失念していた。向かいの部屋へは三間もないだろうに。ぐるりを見回す。ここの間取りは畳がない外は普通の棟割だ。土間の両側に竈と水桶、水桶のある角に流し溝、その対角の障子脇に寝台と収納。床の間を背にしたここに唐風の丸机とこの洋椅子。私を挟んで寝台の向かいの壁際に置火燵と行燈、そして敷居の端に茶箪笥と泔坏と鬢鏡。つまり土間から敷居を上がってすぐの紙門のところに彼女は居る。せめて立てよ、愚図。
「ではラブさんは立って下さる」
「ルマさんはどう為さるの」
がばと立ち緋縮緬の兵児帯を掴んでずんずんと歩み寄る。一歩毎に彼女は貌色が悪くなっていく。どう為さるの。ねえ、どう為さるのですルマさん。無視。脇にむずと差し入れてむんと立ち上げる。前世で我が子を初めて抱いた時を思い出す。箸より重い物を碌に持った試しもないのに命の重みで腕が魂ごと抜ける思いであった。感慨に耽りつつもてきぱきと彼女の帯を解いていく。博多帯だ。幾圓するのかと尋ねたが土左衛門だった。私の帯をつけ始めた頃に柝の音が壁向こうで止まり、開け閉ての気配、板廊下から顔がぬうと出た。土間と廊下が直交しているのでその姿は土間に正対する壁を背にした横顔となる。私はいつかこの壁に顔の主、舎監のキギスの名を書いてみたいと思う。役者絵なら蛇喰いの異名もさぞ映えるだろう。残忍そうな眼差しが私達二人を舐める。胸高に締めたばかりのラブの男帯で目が留まった。
「瓦解からこちら異なものが流行ることだね」
「ええ滄桑に。ですからこうして結ぼれているのですわ」
舎監は去った。ラブは白粉臭くて邪魔だったので尻を叩いて追い出した。埃を払って今度こそ私自身が鬢鏡の前に坐る。博多帯が置き去りだった。




