第5話 チョコっと、失礼します。
文月になった。父は元奏任官、母は豪商アキュラシー家の血筋、彼はこの長月に主席合格で高等中学校一年生になる秀才と揃って埒外であるから忘れがちだが、世間的には今はまだ皐月で、私は一応未婚で、ウィンチェスター家は換金用の金属銀だけで八〇〇〇圓相当分を貯め込んだ資産家である。
糸瓜水を頬で伸ばす。爪が伸びてきたな、と思う。
何よりこの顔は目立つ。玄人と勘違いした男に隣町で手を引かれ、偶々同道していた彼が男を追い払うこともあった。醜業婦。姦婦。悪口雑言と彼は立腹したようであったが、嬉しいのよと私は袖を引きそれを止めた。この年歯の私の価値は、私に信じたように矢張り高い。ほうと息を吐く。前世で最初の良縁があったのは二月後、学院内でのことである。婚約破棄のため一刻も早く学院へ戻り価値に見合う名流を見初めねばなるまい。参じた学院の使者にはすぐに戻る旨を伝えた。欠席は倒れた翌朝の木曜日から今日で一一日目、まだお咎めなしの範疇である。
入学までのあと二月が暇なのか、彼は日々べたべたと寄ってくる。宿執は弃損し難いのか下手な芝居を打って媚びてくることさえある。家長を担う男子の威厳も何もあったものではない。それでいて追い返すと項垂れてぎゅっと目を閉じ、笑う。何か言いたげに。私は何か尋ねなければいけないような気になる。そうして、けれど何も思いつかなくて、
『チョコっと、失礼します。マッチングしてみませんか? t●pple !』
こうなる。
『チョコっと、失礼します。マッチングしてみませんか? t●pple ! チョコっと、失礼します。マッチングしてみませんか? t●pple ! チョコっと、失礼します。マッチングしてみませんか? t●pple !』
うるせえ! スキップだスキップ!
この数日で、前世で過ごした人生と変わりないことを探りつつ、この奇妙な体質についても確かめた。第一に、この体質は言いたいことを言わずに済ませると何か、たぶん広告、が出るものである。広告は未来の、推定一〇〇年後のもので、写真像ならぬ図画でも動く仕掛けだ。きっと精巧に描いた正月用引札を何枚も重ねているのだろう。ではどう映しているのか、何故誰も気にしないのか、云々、いずれ掌中ならばそんな考えは徒労である。
第二に、逡巡の間で広告は現れない。言わぬと心に極めるや否や現れる。例えば、言おう言おうと思う間に話題が逸れた時、これは現れない。言わないのでなく、言えなくなったためだ。だがどだい伝えるつもりのないこと、例えば私がうっかり鼠の死骸を見つけて、素手で抓もうとした彼に微生物の障りを説いてしまった時、これは微生物とは何かと尋ねられた途端に広告が現れた。尋ねられる毎に何度でも広告が現れたので随分と閉口させられた。お蔭で咄嗟の妄が上手くなったと思う。
第三に、広告が現れている間、世間は一切の時が流れない。だが大音声であったり、ちかちかと目に喧しかったり、妙に私の神経がささくれ立ったりするので、どうしても便利に使うことは出来ない。思考へ直接に流し込まれるので碌々思い巡らせることも不可能である。一定量の広告を視聴するとどこかに表示されるスキップの四字を押すと脱け出すことが出来るが、僅かな時間しか現れないので押し損ねるともう一度初めから広告が流れ出す。広告の長さとスキップの現れる時間や間隔は比例しないから目を皿にしないと何度でも見逃す。一度など脱け出た時には話の流れを忘れてしまっていた。
冷静にこう羅列してみると非道い体質である。宿世の因業でここまでされるような悪事を果たして働いただろうか。働いたな。良人が。餓鬼道よりはまだ有情、と言っていいのかこれは。眉間を揉む。鏡越しの彼の貌が曇る。
「ひゅ。よ、呼んだ覚えはなくてよ」
「先刻追い返されてからずっとここで君を見ていたのだよ」
「追い返されてないじゃん」
からからと彼が笑う。むむう。しかし今日も彼に手俥を引かせるつもりであるから待たせているのは私である。単の衿の中へ堪忍してと呟く私をさもさも面白そうにうち笑んで、肩を震わし彼は小座敷を出た。宿霧忽然と散じて今日も快晴、みんみんと蝉時雨が降り注ぐ。