第3話 転生Ⅲ:会うのが、いちばん。
今はあれから二八年前の水無月、学院は卯月始まりだから今の私は、確か、この当時の学制だと尋常中学校一年生に相当する。惜しいことにこの男、タイが私の許嫁と極まったのは数ヶ月前である。手遅れだ。だが、極まりではない。私さえ心を極めればまだどこへなりと選べるのだ。卒業までが残り三二ヶ月。前世で悔いた縁談は今から三ヶ月後に一つと、続けざまに一つ、三年目の睦月にもう一つ。もう決してあの苦しい餓死はすまい。
人には必ず優れた一点がある。例えば地位。例えば富貴。例えば武芸。例えば、美貌。その一値は他全てを凌駕する。己がじしその一ところを以て立つのであって、自ずと立つからには即ちその者の価値もまたその長所に他ならない。演劇に役があるように。各々の役目、それが人格というものだ。
天秤は釣り合うべきだ。慎みある令嬢とは謙虚の役だ。世間にあって尊重する心は彼我の役の優劣を冷徹に分別する眼差しに始まり、己より価値のあるものは敬して遠ざけ、価値のないものは祀り遠ざけ、添う相手には価値の見合う相手を選ぶことで完成する。タイは、本名アタャ・ホライゾンは私の価値に見合わない。俗界は彼の学業優秀なのを讃える。前世では碌に家を顧みず事業を拡げて見事当てた手腕が轟いていた。違うのだ。この人の最も優れた点は、人を愛する情熱の程度である。行らない。全然行らない。
天秤は釣り合うべきだ。情熱に劣る商才など塵に等しい。情熱とは執着の雅称である。執着は価値を量る謙虚な姿勢と対立する。謙虚でなければ巷間をぞろ歩くのは悪徳だ。よってこの男の価値とは悪徳である。気付きながらみすみす妻わされたために死んだのだ。これのせいで。煙管の残り香。
流れていく景色でただ一人これの背中が眼前に留まって、彼のうなじに汗が伝う。乙種合格で服役待機を言い渡された時は迚も元士族の家柄とも思えないと詰ったものだが、あの肩、あの手、あの指、目を閉じる。毒だ。
二、三度御下屋敷へ寄り、倍加して雁首を寄せ、暮六つ。御関所行きの街道を枝に逸れて千萱を踏み、石高道を爪上がりに分けつつ、葛折りの唯有る角で藪へ突き込むと、ぱたりと起伏が均れて暗きの晴れるところがある。蛤で掻いたような小さな窪地の茶溜りに細く煙の立つあれこそ私の生家である。私の家に家政の婢女はまだ一人二人、隣町で道楽半分に地所や家作を営む父と、その隣町へ隔日で買い足しに出る母の二人きりが門前に立ち、手を挙げた彼に応えてこちらを手招いた。遠目に貌は溶けて見えやしない。
生壁の小紋縮緬に毛繻子の白い深張の洋傘を差した母は満面の笑みであった。我が親ながらこの肌の幽しき、美きはつくづくどうしたことだろう。学院で鶯糠を分けて戴いた時でもこう白くはならなかった。或いはそのための早い鬼籍であったか。やあと父が長い鬚を揉んで言う。ご苦労で済まないね、ま早く這入れ、さあ這入れ、お前胡瓜食うか。戴きますとタイがそこらから手頃な一本を手折る。元農商務省員の父の趣味は屋敷畑である。
「ルマ」
「はい」
「ふむ、見たところ息災だが、まあ養生するがいい。こう立派に良人が極まっているのだし、学費も、貪着せんでもないが、食窮めんでもないのだ」
「有難う存じます。何とも不慮のことで申し訳のない態を致しました。お父ッさんもおッ母さんもご機嫌よくいらっしゃりますか」
「なんもなんも。儂など嚔一つせぬ。これも血の道がどうとか始めるがの、ご酒を勧めればけろりだ。おいイリス、何をそう笑うのだ」
母はさっと貌を繕った。昔から感情がだだ漏りに出る人なのである。