第25話 超越変態の銀
俥が麓の目的地に着いたのは時計が天頂を過ぎた頃である。寝不足の私と酒酔いの彼は俥夫にさえ気遣われる青褪めた有様で、朝を待って宿を求めるや玩具も取り敢えず蒲団を被り泥のように寝入った。起きたら日が落ちていた。確と寝たねと彼が笑う。そうじゃないでしょうと答えた。笑みが解けて二人して真剣になる。両親はそのつもりでここを指定したのだと互いに承知していた。どちらともなし、うち連れて逍遥した。上弦の月は匂い滴るようにして、打ち寄せる白波の粟立つに立ち返りあはれとぞ思ふ。結ったばかりの夜会結に薄紫のりぼんを飾したるが、頬に縺て振りかかるを耳へ遣るのさえ真砂に落ちて写った。絹足袋。蜜柑緒の草履。僕はね、と傍らの肩の上から口火が切られる。僕はね、固を糾せばしづのをだまきだ。
「腕の抜けぬ猿だ。君の葬送した僕の如きに、定めし憎めよを憎めぬところがある。思うのだが、ねえ、よし根を絶えて来ぬとて、然らば囲う世婦や嬪や妻や妾の一つもないものか。人の秋だろうよ、とね」
知っていた。寄らぬ玉藻のふりを続けた。何ですと微笑んだ。
「僕は前世の僕より君を愛し抜くと誓います」
いはで心に思ひこそすれ、下に通ひて恋しきものを、深き心を知る人ぞなき、かつ見れど疎くもあるかなと。枯楊生華、老婦得其士夫、无咎无誉。それから。嗚呼。嗚呼、それから。例えようもない。頭脳の裂けんばかりに尻居に倒れた私を諸共砂に塗れた彼が掻き抱いて起こす。灰色の頬が月光に輝いて、差し伸べた指先がざらりと乾いた感触を覚える。どうして私の顔は浸っている。
「私は慾づくの婆だわ。内には七〇〇〇圓も財産があって食うに窮って身売りしたのでなし、極めた婿の栄耀に不足もなし、それが約定一つを頼みに赦されて、果ては本当に今世でまで貴方と契るは、あ、郎君は良くても私がいけません。私なぞ、膓の腐った女なぞいけません。家名を獲たら飼い殺すが道だわ。私が。私が全て悪いのだから。か、堪忍して下さい」
「それじゃ婿に不足があるのだね。長い夢だと言うのだね」
「タイさん、それは余りだわ。わ、私で、こんな姨さんで、いいの」
「君が著せる襲の襴に月立たなむよ。月が綺麗ですね」
茹った頬は蒸気を噴かんと思えた。が、知りよう理もない、平時通りの冷やかしだと思い至り、では私のこの態度はと見れば彼もまた朱い。ばばばばば破裂た。愈々消え入らんばかりだった。殴る。暑い。凄く暑い。
「へ、変態っ。弩変態っ。超越変態っ」
「痛いよルマりん」
「ルマりん言わないの」
何だその妙な渾名は。くつくつと彼が闇色の瞳を細めて笑う。で。で、とは。ルマさん、善く覚えてお置き。来年の今月今夜、再来年の今月今夜、一〇年後の今月今夜、一生を通して僕は君の隣でこの月を見るよ。君の笑貌の訳がもう一つ増えるなら振り出した雨だって必ず晴らして見せる。月が廻る限り君は僕の良い人だ。で、僕は君の何だい。お慕い致しております。謝、多謝、だがまだ遠慮があるね、一度極めた夫を振り捨てると言うくらゐなら相応の無遠慮を見せ給え。彼の手が私の顎に掛かる。ぐっと口を噤む。善なる彼の幸せのため、悪なる私は。それなのに。ならば。ぎゅっと目を瞑る。二年半ぶり、か。
『「遊ぼう」っていうと「遊ぼう」っていう。』
『「馬鹿」っていうと「馬鹿」っていう。』
『「もう遊ばない」っていうと「遊ばない」っていう。』
『そうして、あとでさみしくなって、』
『「ごめんね」っていうと「ごめんね」っていう。』
『こだまでしょうか、いいえ、誰でも。(〈金子みすゞ童謡全集〉より)』
やさしく話しかければ、やさしく相手も答えてくれる。
やさしく。
目を開いた。五寸屈められた鼻先の瞳に、落ちていく。愚だ。投了だ。私は、御免なさい、斯くも悪役令嬢であった。
「大好き」




