第21話 音が進化した。人はどうですか。
今から四年前、鉄砲坂のこの擂鉢から北東の方角に、雲を凌ぐと号された塔が建った。一七三尺もあって一〇階までは八角形の総煉瓦造り、八階までを昇降機で上がったら一二階の展望台までは階段で上がるという中々に気息を乱す代物である。或る少女は開業二年目の、その昇降機が警察の通達で廃止される間際に家族と見物に行った。元服祝いを兼ねてのことであった。少女の母は頻りと嬉しそうな貌をしては取り繕っていた。少女の父は痛ましいくらい沈んでいた。年歯の離れた兄同然の男も家族と同行した。この観光の目的はもう一つ、笑等の尤物と極まった一人娘の写真を見に行こうということであった。海の向こうの然る新聞社が天下に檄した、かの懸賞美人騒動の頃である。
女は慎み深く、自己主張せず、良人に従順であることが求められた時世のことだ。過日、側室を飼えた大名華族や維新成金の士族らは美人を買っていた。それで、白い膚は労せぬ証となった。だが時世に唾して美貌を売り物にするのは花柳界の張見世である。従って芸妓や娼妓の玄人は派手で、粋で、美しいと諒解された。素人が玄人を真似るのは忌諱に触れる行いであった。畢竟、金力のない美人とは卑業である。淑女に非ざるは妾に非ざるなしと。閑話休題、その折に果たして辻で撮影された素人の、不美人でない一葉が、張見世よろしく序列をつけられたなら世人は何と見る。
だから今年になって、許婚出来るのに敢えて、少女は進学を望んだのだ。
世間は賢母良妻を求めた。お断りだ。子を孕むのは娼妓である。学院は深窓の令嬢たれと望んだ。手に職の一つもないのは可厭だった。それでは芸事に励む玄人と同じだ。生家は淑女であれば可いと言った。結婚さえすれば可い、美人であれと。現に少女の美貌は男を惹き寄せた。少女は役立ちたかった。そして考えた。この美貌をより高く売り抜けばお家のためである。世間に身を置けばより金のある男と出会えるに違いない。しかし少女は若く、惜しいところで目が曇った。情に絆されて言名号と添うことを極めたのだ。良人は人徳があった。美貌の妻を羨む仲間を大勢持っていた。良人には肉親がなかった。少女の母も早逝してしまった。きっと彼は母を求めるだろうと思えた。だから。少女は彼との子を何人も作り、職業婦人の夢を圧し殺して、彼を日々叱咤する美しい母となった。彼は非道の職に手を染めて日に日に磨り減っていった。けれど帰る時間は、日付は、年を追う毎に間隔が開いて、何をしても彼の笑貌を買い戻すこと能わず、子供達は一人また一人と家を去り、盆と正月にも寄り付かぬ有様。良人が過労死し、生家は狂った実父に燃やされ、嘗て少女だった老女は考えた。私は幸せになれた理だったのに。
結婚した時はあんなに幸せだったのに。
「僕は余り悔しいのだよ」
え。
「もう神無月だ。一向返事がなければ愛想も盡きたかと思うじゃないか、よう。この頃僕は黒鉱から金属成分を抽出しているのだよ。混凝土を知っているかい。知らないだろうね、届かぬのでは。ええ鬱陶しい、鴨居が蜘蛛の巣だらけだから酷い目に遭ったじゃないか。掃除はしているのかね」
月を負った上背の高い痩躯。深い囁き声。夜闇より昏い眼色。
「どうして」
「考査明けの半休でね。杉群なれば、繁けれど思ひ入るには障らざりけり。いや、曾不容刀かな。君を泣かせた男を殴れない、それが僕は悔しい」
数瞬置いて理解が及ぶ。息を吸う私の機先を制し、書き直してまた贈ろうかと彼が私の手元を指す。目を落とす。揉まれた手紙が無惨にも崩れていた。い、一体いつから見られていた。ずっとここで君を見ていたのだよ。呼んだ覚えはなくてよ。旧暦一三夜に宜々しき理由が入用かね。じゃなくて。
「どなたかに許可は得ましたのっ」
「今日は一一日だよ。一・六の日は監視も緩いのだ」
今度こそ大口を開けた私の顔をぱっと掌が覆った。片手一本で顔を握られてしまっている。負ぶさるがいい。西国まで拐おう。学院のことは後で僕がどうとでもする。耳元の密められた声に知らず首肯して、腕が彼の首に回り、両足が畳を離れた。意外と背中が広い。月の明るい壺を真っ直ぐに駆け、垣に爪先を蹴込んでひらりと越えると手俥に乗せられる。事の重大さに気付いた頃には学院の敷地はもうどこにも見えなくなっていた。